紅子と桜子
夜中のドライブ中に喧嘩して、彼氏に、山の頂上の展望台駐車場に置いていかれた。
バッグは車の中で、文字通り身一つ。
歩いて山を降りるか。
朝まで待って人が来るのを待つか。
ヒール履いてたし、ここならトイレと手洗い場の水道あるし、ちょっと寒いけど凍死はしないだろう。
変な輩のたまり場とかだったらどこかに隠れようと決めて、一夜、ここで過ごすことにした。
多分、朝にはトイレ掃除の人が来てくれるんじゃないかって思って。
しばらくベンチに座ってたけど、それも疲れて、展望台の柵の前に、もうべたりと膝を抱えて座ってた。
色んな事を考えていたけど、結局は、
「私って馬鹿だなぁ」
って結果になって、溜め息吐いてた。
展望台の時計は1時を示してて、先は長いなぁと思ってたら、不意に、本当にふわっと、女の人が歩いてきた。
小柄で細身のお姉さん。
お姉さんも座り込んだ私に気づくと、
「どうしたの?」
って声を掛けてくれた。
私は、
(あーこれ、多分生きてる人じゃないんだろうなぁ)
って思ったけど、その優しい問いかけは、先刻まで私のことを罵倒していた彼氏とは真逆で。
彼氏に置いていかれたことを話したら、女の人は私の隣に座って、
「あ、一緒だ」
って笑った。
「私はね、あまりにショックで、ここから飛び降りちゃったの」
多分、ここに現れたこの時間に、なのだろう。
「後悔してない?」
「どうだろう、あのまま生きてても、あの時は、もうなんの未来も見えなかったから」
「……」
「でもずっとここにいて、ずっと成仏も出来ないから、未練があるのかな」
「ここにずっといるの?」
気付かなかった。
「ううん、この時間までは意識なくて、この時間になると、気付いたらここに向かって歩いて来て立ってる感じ」
「朝まで?」
「ううん、無意識に飛び降りちゃうから、それで気付いたらまたここに向かって歩いてるの」
「そっか……」
なら、お姉さんもすぐにここから消えてしまうらしい。
「あ、でも今日は少し頑張ってみるから」
落ちないようにするよ、と健気な申し出に、
「あはは、ありがとう」
きっと生前も優しい人だったのだろう。
どうやらほんの少しばかり前の時代の人らしく、話をしていてもお互いに、
「?」
「?」
となり笑ってしまう。
そういえば着ているワンピースも、こう、少し野暮ったいと言ったら失礼か、レトロだ、レトロ。
そんな感じ。
「スマホは知ってるの、たまに夜にここに来る人たちが持ってる、あの明るくて四角い板」
「そうそう、同じようなものはなかった?」
「テレホンカードで、公衆電話から掛けてた」
公衆電話は分かるけれど、テレホンカードとはなんだろう。
お姉さんが教えてくれる。
多分、年齢、享年は同じくらいなんだろうけど、中身がとても大人に感じる。
昔の人の方が大人なのだろうか。
「そんなことないよ。みんなが大人なら、あの時代でも、もっと生きやすかったはず」
困ったように笑われ、
「……そっか」
しばらく、それぞれ物思いに更けながらも、ふと上を見ると、
「あ、星が綺麗……」
凄くよく見えてびっくりした。
山の中はこんなによく見えるのか。
「わ、本当だ、……初めて気付いた」
お姉さんは長い睫を瞬かせて、
「……私ね、星を勉強する人になりたかったんだ」
ぽつりと呟いた。
「そうなの?」
「うん。こんなに綺麗な星を、ずうっと見られていたはずなのに」
……全然気付かなかったなぁ、と。
そんな切ない声に、横顔に、胸がぎゅっとする。
けど。
「……あっ」
「なぁに?流れ星」
「ううん、狸」
もたもたと、のんびり車道を横切る狸がいた。
こちらに気付き立ち止まり、じっと私たち見てから、こちらが動かない事で、またもたもたと歩き出す。
緊張感の欠片もなく、あまりにも呑気なその姿に笑ってしまうと、お姉さんも笑っている。
「ふふ、可愛い」
私は、
「ねぇ」
気になっていることを口にしてみる。
「ん?」
「無理してない?」
と。
「何を?」
「その、飛び降りたい願望とか」
いつもならとうに飛び降りてる時間だろうし。
「そうね、平気みたい。どうしてかな、今が楽しいからかも」
気のせいでしかないのだけれど、隣のお姉さんの体温すら感じる気がする。
「え?あぁ、待って待って、それ良くないかも」
お姉さんがううんと眉を寄せて、自分の身体を擦る。
「何が?」
「一緒にいることで、私の心?に無意識に引き摺られて、あなたも飛び降りたくなっちゃうかもしれない」
お姉さんは心配そうな顔をするけれど。
それは。
「私も楽しいから、多分大丈夫だと思う」
そんな私の返事に、お姉さんは目を見開いてから、ホッとしたように笑う。
しばらくは、知っている知らないの一問一答で、お互いに半分以上は分からなかった。
「えーと、脱脂粉乳は?」
「それ私のお祖母ちゃん時代!!」
ぷんぷんと口にしながら腕を振るお姉さんは、怒り方も少し昔っぽくて可愛い。
「ごめんごめんっ」
「でも、脱脂粉乳なんてよく知ってるね?」
「ネット。えーと、インターネットで昔のことも結構共有できるよ、だから歌とかも知ってる」
「えー歌好き」
お姉さんが、小さく歌を唄う。
可愛らしい声。
「知ってる?」
「それは知らないけど、もっと聞きたい」
お姉さんは小さくはにかむと、目を閉じて、歌を唄ってくれる。
(あぁ……これは)
少し、良くないかもしれない。
「何か」
に、心が引っ張られている。
そう。
あまり良くないものに。
(あぁ……)
お姉さんと。
このまま、2人、手を繋いで。
柵を乗り越えて、落ちてしまいたい。
空を飛ぶように。
「……」
このまま、このままの楽しい気持ちのまま。
「……待って待って!!」
不意に、悲鳴のような甲高い切羽詰まった声に。
「……え?」
ハッと意識が飛んでいた私は、気付けば柵をしっかり持ち、そこから身体を乗り出しかけていた。
(あれ?)
「あーびっくりした、気持ちよく歌い終わったら一人で飛び降りようとしてるんだもんっ!」
お姉さんも立ち上がって何とか私を止めるポーズをしていたけれど、お姉さんは私に触れられない。
「ごめん。……お姉さんの歌、セイレーンみたい」
海でなくとも、死者の歌声は死を誘うのか。
私は冷たいを超えて痛さすら感じる、その冷たい柵から掴んだ手を離して、二、三度、強張った手を握ったり開いて緊張をほぐしてから座り直すと、お姉さんも、ふっと大きく息を吐いて隣に座る。
「誰も来ないね」
「平日だしね」
お姉さんが曜日を把握しているわけではなく、人の多さで判断している様子。
誰もいない。
誰もいないはずなのに。
山の奥の方から、けたたましい、
「キァァァァ……ッ!」
と女の人?のようなヒステリックな叫び声の様なものが聞こえ、
「ひぇっ!何!?」
座ったまま飛び上がると。
「鹿だよ」
「よく知ってるね」
「うん、動物の鳴き声は、今も昔も変わらないから」
確かにそうだ。
でも、1人であの鳴き声を聞いたら、パニックになっていたかもしれない。
お姉さんがいてくれて本当によかった。
私は、地面に倒れ込むのは分かっていたのに、つい隣のお姉さんの肩にもたれかかると、
「あれ……?」
少し感覚がある。
「ほら、あなたがあまりに私と同調してくれるから、半分くらいこっちに魂とか肉体が来ちゃってるの」
お姉さんの眉が寄る。
何だかその怒ったような困ったような顔は、どうしてか、少し魅力的に感じる。
じゃなくて。
「え?私の中身が?」
「そう。ぼんやりしてるでしょ」
言われてみれば。
かなり。
自分の存在が、危うい。
心も、記憶も、身体も、このまま強い風が吹けば、飛ばされそうな心もとさ。
でも。
それは、痛みも辛さもなくて。
「ダメよ、しっかりして」
お姉さんの、さっきよりも切羽詰まった声にも。
「もう、このままでいいよ」
このままで。
「どうして……?」
お姉さんの戸惑った声。
だって。
心地いい。
そう、眠い。
凄く眠い。
どうやら、体温もかなり持っていかれている。
夜が深まり更に気温が落ちて来た山の寒さで、わざわざ飛び降りる間もなく。
今なら、眠るように逝ける気がする。
そう、今の山の気温と私の体温が近付き、寒さすら感じにくくなっているから。
「ちょっとちょっと、あなたが自分の意識に戻って来いって言い聞かせないと、私からはあなたに戻せないのよっ」
不思議な原理。
こちらからは、与えることだけは出来るのか。
でも。
「いいよ……もう……」
もう。
眠いし、本当に気持ちいい。
「ダメよ、あぁもうっ待って!」
お姉さんは幽霊なのに、喜怒哀楽と焦りもあって可愛いし楽しい。
最後にあの糞野郎でなくて、優しいお姉さんと居られて本当に良かった。
(本当に……)
あぁ私はこのまま死ぬんだなと意識が飛び掛けた瞬間。
ブロロロロロ……
と山道を上がってくるエンジン音。
「……っ」
私がまず思ったのは、助けより何より、彼女を山に放置するような糞男が戻ってきたかもしれないと言う現実。
ハッと目が覚めて、まだ意識は半分持ってかれてる感覚はあるけれど、それより。
「逃げて」
「えっ?」
お姉さんはあいつなんかに見付かって欲しくない。
別に暴力などは振るわれているわけじゃないけど、あんな糞に、この素敵なお姉さんの存在すら、知って欲しくなかった。
立ち上がってふらふらしながらも、お姉さんの前に立って仁王立ちしていると、でも、山道でも軽快に上がってきたのは、
「……?」
小型のバンだった。
開いた助手席の窓から、
「ワンッ」
と一鳴きしたのは柴犬。
バンは、車道と広場の車停めのギリギリに停まると、
「どうしたあんたら、仲間にでも置いていかれたんか?」
小柄で、農作業用の長靴を履いたお爺さんが運転席から降りてきて、声を掛けてきた。
「いやぁ、いつもは無駄吠えなんかせんのに、わんころが珍しく山に向かって吠えるから、何かあったんかと思って来てみたら……」
あぁびっくりした、とお爺さん。
私は、私が思ったのは。
「大丈夫かね、こんな所で……」
とやってくるお爺さんにも、お姉さんのことも、はっきり見えているんだなって事実。
お爺さんは、確かに、
「あんたら」
と言った。
「……」
私は口を開こうとしたけれど、途端に酷い眩暈がして、
(あ、まずいかも……)
その場にしゃがみこんだ。
「あぁ、あぁ、大丈夫かね。とりあえず、車に乗りなさい」
駆け寄ってきたお爺さんは、
「立てるかね、顔色もだいぶ悪いな」
それでも私に不用意に触れようとせず、だいぶ気を遣わせてしまっている。
「すみません……」
何とか顔だけ上げると、不意に隣に立ったお姉さんが、私に手を差し伸べてくれた。
細い真っ白な手。
触れると、ひんやりを越えて氷のよう。
でも、それは、お互い様。
手を取って立ち上がると、私とお姉さんは、少しの間見つめ合ってから。
「……」
先に私の手を引いて歩きだしたのは、お姉さんだった。
お爺さんはあからさまに安堵した息を吐くと、先に車へ向かい。
助手席にいる柴犬は、一鳴きした後は、黙ってじっとこちらを眺めている。
私たちが車に近づくと小首を傾げるものの、吠えはしない。
(ごめんね、少しお邪魔させてね……)
エンジンの掛けられたままの車内は暖かそうだ。
お爺さんにスライドドアを開けてもらい、私が車に乗り込むと、お姉さんは、その場から一歩引いた。
けれど。
「ほれ、お嬢さんも早く乗りなさい」
「えっ……?」
お爺さんに促され、お姉さんはおろおろと、私と、いつものお姉さんの定位置の広場に視線を行ったり来たり。
そうだよね。
そもそも、車に乗れるのかな。
自分の具合の悪さが、予想していたより遥かに気温が下がる山の寒さのせいか、お姉さんに相変わらず半分ほど意識と魂を預けているせいか、私には、もう分からなくなっていた。
とりあえず更に奥にずれてお姉さんを見ると、
「飲み物買ってくるから、ドア閉めて待ってな」
お爺さんは自販機に駆けて行き、お姉さんは、恐る恐るドアに手を掛けると、助手席のシート脇から顔を覗かせてくる柴犬にびくっとしながも、車に乗り込んできた。
「あ、乗れる……」
「乗れるね」
お姉さんは、何の抵抗もなく車に乗れた。
「ドア閉められる?力ある?」
「多分……。ふーんっ……!」
とお姉さんは力を入れかけたけれど、
「待って待って、それ自動だ」
「え?」
ドアがゆっくりと閉まっていく。
車のエンジンの振動、流れ込んできた排ガスの臭い、柴犬のハッハッと早い呼吸音、乾燥した暖房の風。
お姉さんは、キョロキョロと車内を見回し、 またこちらを覗き込む柴犬と目が合うと、今度は少しはにかんでいる。
「適当に買ってきたから、飲めるもの飲みなさい」
再びドアが開き、ほいほいと渡されるのは暖かいココア、コーンポタージュ、おしるこ、ミルクティ、緑茶。
「わぁ……っ」
選び放題だ。
「温かーい」
「ホント、温かい」
礼を伝えるよりも先に手を当てて暖を取ってしまう。
お姉さんはそわそわしながら、2人の間に置かれた温かい缶に目をキラキラさせている。
散々迷った末に、お姉さんは可愛らしいミルクティーの缶を手に取ったため、私はココアにした。
互いに力がなく、更にお姉さんはプルトップが昔と違うと、お互いに開けるのに少し難儀してから、それでも湯気の立ち上がる飲み口に口を付ければ。
「……んんんっ!美味しいぃっ!!」
お姉さんの感窮まった声に、
「そうかそうか」
運転席に乗り込んだお爺さんはよかよかと笑い、私も礼を言ってからココアに口を付ければ。
「はー……」
(生きてる……)
大袈裟でなく、そう感じた。
飲むと言う行為に、五感が強く反応している。
涙が滲みそうになると、横からお姉さんの視線を感じる。
でも、視線は私ではなく私の持つココアの缶。
好奇心か、久しぶりの味覚が半分でも新鮮なのだろう、ココアも飲みたいらしい。
「飲む?」
差し出せば、大きく頷くお姉さんは、少し幼くて可愛い。
「凄く、凄く美味しい……っ」
普段なら薄く感じるのだろうけど、気温も体温も落ち、味覚も半分も落ちているであろうわたしには、とてもおいしく感じていたし、何十年ぶりの味覚を感じるお姉さんにも、ミルクティーもココアも美味しいらしい。
「うちの母ちゃんが心配してっから、お嬢さんたち、家に送る前にちょっと寄り道させてくれな」
「あ、はい」
「……」
そうだ、どうしよう。
部屋の鍵は鞄の中、実家は新幹線の距離。
とりあえず、お爺さんにお金を少しだけ貸してもらおうか。
身分を証明できるものはないけれど、電話を貸してもらって、親の連絡先を伝えて、身分を証明してもらって。
桜は、おろおろと展望広場を振り返っているけれど、車は御構いなしにUターンを始めた。
「……悪い仲間にでも置いていかれたんか?」
峠道を下りながらバックミラー越しに目が合い、お爺さんに聞かれた。
「その、彼氏に……」
さすがにばつが悪く溜め息が漏れてしまうと、お爺さんは、ただ気の毒そうに、そうかと目を伏せてくれてから、
「隣のお姉ちゃんは、お友達かい?」
お姉さんに視線をちらと向ける。
「あ、はい。私は、その、えっと、喧嘩の、仲裁役で来たんですけど……」
お姉さんにも理由を話していたから、お姉さんはつっかえながらも、話を合わせてくれた。
お爺さんの家は、山へ向かう途中にあった、峠道へ向かう道を外れて、急勾配の坂をぐっと上がった敷地の、広い大きな平屋だった。
峠道の外灯が近くにあり、夜でも煌々としている。
お爺さんは運転席から降りると助手席に回りドアを開けると、柴犬は車から飛び降り、昔ながらの引戸の玄関へ駆け出し。
それでも吠えずに、ぐるぐるそをその場で回っている。
すぐに中からドアが開き、お爺さんの奥さんと思われる年配の女性が、寝巻き姿に半纏を羽織って出てきた。
お爺さんが、お婆さんに、何かを話している。
お婆さんは頷きながらしゃがみこむと、持っていた濡れタオルかなにかで柴犬の足を拭いては膝に乗せさせ、半分抱き抱えるように持ち上げて足を拭き上げると。
よいしょと言わんばかりに柴犬を抱いて立ち上がると、やっと車にいる私たちを見てきた。
迷惑そうな顔はしておらず、ただ片手で、おいでおいでしてくれている。
「行ってみようか」
と言うか、いつまでここに居るわけにも行かない。
「うん……」
車から降りると、お姉さんはまた、はー……とまだ真夜中で何も見えない周りの景色を眺め、目を瞬かせている。
「寒いからね、早くおいで」
お爺さんとお婆さんに、家に招かれた。
外見の古民家のイメージと違い、中はリフォームされており、
「わぁ、凄くお洒落、床があったかい?」
高い天井に、張り直されたピカピカの床暖房。
ダウンフローリングにはソファが鎮座している。
でも壁には観光地のタペストリーや棚には熊の木彫り、小さなフクロウなどが並び、田舎の祖母の家を思い出す。
「スマホも持ってないって聞いたよ、大変だったねぇ」
「すみません……」
こんなご時世に、女とは言え見知らぬ人間を深夜に、2人も家に招き入れてくれた2人には感謝しかない。
頭を下げると、お姉さんもつられて頭を下げる。
2人は、
「いいの、いいの、気にしない」
「何もなくて良かったよ」
と、温かいお茶と、北海道の有名なクッキーサンドを出してくれた。
「あ、これ、懐かしい」
お姉さんの表情が綻び、
「食べてもいいですか?」
端から見れば、山の中に置いていかれた挙げ句半分死にかけていたと言うに、悲壮感もなく、両手を胸の前で合わせるお姉さんに。
「ふふ、どうぞ」
「お姉ちゃんは元気だな」
2人はおかしそうに肩を揺らして笑ってくれる。
一気に半分くらいかじったお姉さんは、
「お、美味し……っ」
目を閉じて感極まった様に、グルメレポーターの様な反応をしている。
「どこかに連絡しなくて大丈夫かい?」
お爺さんは、クッキーサンドに感極まっているお姉さんではなく、私を見つめてきた。
「あ……」
そうだ。
どうしよう。
電話を借りて、実家に電話をして、それで、それで。
途端に嫌な動悸に呼吸が浅くなると、
「とりあえずは朝まで待てばいいじゃない、こんな真夜中だと相手も困るわよ」
「あぁ、それもそうか」
お爺さんが、こちらはレトロなままの大きな置時計に視線を向け、つられて見ると、針は、3時過ぎを示していた。
「お風呂は入る?」
「あ、あの、お願いします……」
この際もう遠慮はやめて、図々しく甘えさせてもらおう。
お姉さんは3枚目のクッキーを食べている。
味もそうだけれど、その食感が久しぶり過ぎて、新鮮で楽しいらしい。
3人からの視線に、
「あ、やだ、ごめんなさい」
恥ずかしそうに俯き、耳を赤くして可愛い。
案内されたお風呂は、
「檜風呂っ?」
「すごーい、広いっ」
2人なら余裕の広さ。
「手入れが面倒なんだけどねぇ。リフォームの時にお爺ちゃんが譲らなくて仕方なくよ」
男のロマンなのだろうか。
シャワーのお湯の熱さも、肌に当たる水滴の感覚も鈍いけれど、ちゃんと、ある。
「はぁぁ……っ」
「気持ちいい……っ」
生き返る、とはまさにこの事か。
「またお風呂に浸かれるなんて……」
お姉さんも手の平で湯を掬っては、湯気に目を細めている。
「肌、大丈夫?」
失礼ながら溶けたり……。
「今のところ、平気。ごめんね、なんか……」
お姉さんは、自分に半分くらい私と言う魂が入っていることを申し訳なく思っている。
「いいよいいよ」
お風呂から上がると、お婆さんのものではなく、娘さんのものだろうか、脱衣所にはそう古くもない、寝巻きが2着用意されていた。
廊下には柴犬のコロ助が、尻尾を振って待っていてくれた。
このコロ助が、私たちの話し声に反応して、お爺さんに教えてくれたのだ。
お姉さんの声は聞こえなくても、私の声が聞こえていた。
1人だったら、話し声も当然ない。
そして私は、1人だったならば、思ったよりも早くに、低体温症で死んでいたかもしれない。
「ありがとう」
しゃがんで礼を伝えると、コロ助は、ハッハッとその場でくるくる回ってくれる。
玄関から近い和室の客間に呼ばれ向かえば、布団が2組並んで敷かれていた。
「とにかく今は、ゆっくり休みなさいな」
私たちの消耗具合は、お婆さんから見ても相当らしい。
話は明日にしましょうと、そっと扉を閉めてくれた。
「お布団なんて久しぶり」
私は枕に顔を埋めて転がるお姉さんに呆れつつも笑ってから、
「明かり消すよ」
枕元のリモコンで消すと、
「えー、すごい」
驚かれた。
「家では、長い紐つけて、手を伸ばして消してたのに」
「あ、知ってる、お祖母ちゃん家がそうだった」
もう誰も住んでいない空き家だけれど。
「……」
お姉さんは、どんな家に住んでいたのだろう。
暗くなった部屋で、私たちはそっと布団から手を出して伸ばして、手を繋いだ。
何となく、朝起きたら、お姉さんはもういない気がした。
それは、お姉さん自身も、それを知っている。
お姉さんの手の平は相変わらずひんやりしているけれど、それは私も同じ。
あぁ。
(もっと……)
もっとお姉さんに「今」を色々見せてあげて、色々食べさせてあげたかったな。
「あらあら、仲良しね」
「すみません、こんなに寝てしまうなんて……」
「ごめんなさい」
「いいのよ。まずご飯食べて、話はそれからね」
お爺さんが朝から車でパン屋まで行き買って来てくれたからと、色々なパンがキッチンのテーブルに並ぶ。
朝起きて、私がまず感じたのは、繋いだままの手の感覚。
(あ……)
お互いに向き合う様に、身体を横に向けていた。
こちらの身じろぎの感覚で、お姉さんもうっすら目を開き、
「……?」
不思議そうにゆっくりと瞬きしたあと、パチリと目を覚まし、私をじっと見つめてきた。
そして、記憶を探るように、しばらくじっと私を見つめたままだったけれど。
「私、まだ……」
手を握ったまま身体を起こせば、布団が剥がれ。
「うん」
まだ、いる。
お姉さんもつられた様に身体を起こし、
「おはよう、お姉さん」
「……お、おはよう」
額をこつんと当てて、小さく笑い合う。
雨戸がしっかり閉まっていて分からなかったけど、
「14時!?」
人様の家で随分な寝坊をしてしまい、とりあえずお姉さんと手を繋いだまま、客間を出てリビングへ向かうと、キッチンにいたお婆さんことサチコさんが、あらとこちらに気づいて、手を繋いだままの私たちを見て、仲良しねと笑い。
「コーヒーでいい?」
「はい。あの、お爺様は?」
「散歩へ行ってるわよ」
お姉さんは、もうテーブルに置かれたパンに夢中だ。
パジャマのまま美味しいパンを頂き、お砂糖を落としたコーヒーをもらう。
お姉さんは更に牛乳を追加。
リビングの外の庭には、お姉さんのワンピースがはためいていた。
よく見たら、どういう原理なのかは分からないけれど、土埃でかなり汚れていたらしい。
私は、まだパンを食べているお姉さんをリビングに残し、サチコさんに家の固定電話を借りて、実家に電話を掛けた。
誰かしらいるだろうと思ったら電話は1コールで取られ、
「紅子!?」
叫ぶような母親の声で私の名を呼ばれた。
「お、お母さん?」
答えると、
『良かった、紅子なのね?』
「紅子だよ、どうしたの?」
『待って、今、紅子から電話来たってお父さんと緑子にもメールしておくから』
緑子は大学生の妹。
電話の向こうから、ニャーン、と少し久しぶりに聞いた飼い猫のミーの鳴き声。
母親曰く、夜に、何だかとても嫌な感じがしたのだそう。
第六感か、母親の勘なのか。
なぜか分からないけれど、今は上京してここにはいない長女のことがとても気になって、寝る前にメールをしてみたけれど、返事はなく。
もう寝ているのだろうと思ったけれど、何もなければ謝ればいいだけだと電話をしてみたけれど、娘は出ない。
自室にいる妹の緑子にも掛けて貰ったけれど、同様に着信音が続いた後に留守電になるだけ。
緑子には、
「もう寝てるんじゃないの?」
と宥められ、それでも気になり、うとうとしたまま、朝の6時に掛けてみたけれど、留守電になってしまう。
父親は、
「仕事終わり次第、紅子が住んでる部屋まで行ってみるから」
と硬い顔で仕事へ向かったと。
『今、どこにいるの?』
私は迷ったけれど、半分だけ正直に話した。
付き合っていた彼氏に、友人と共に身一つで山の中に置いていかれたこと、山の麓に住む家の方に助けられたこと。
そして今は、その家の電話を借りて連絡していること。
『何てこと……』
電話越しに絶句された。
「……ごめんなさい」
『あなたの男の見る目のなさは、また今度しっかり、お母さんと話し合いましょうね。でも本当に何もなくて良かった。一緒にいる子は大丈夫なの?』
本当は全然、意味で色々大丈夫じゃないけれど。
「うん、大丈夫」
母親が、お家の方に電話をかわって欲しいと伝えてきたため、サチコさんを呼んで受話器を渡すと、2人は、思ったより長く話をしていた。
お姉さんは、キッチンのテーブルで心許なさそうにマグカップを両手に持っていた。
私に気付くと、
「色々なもののデザインが繊細で、こう、洗練されているのね」
それでも健気に笑ってくれ、私はお姉さんの隣の椅子に座ると。
マグカップをテーブルに置いたお姉さんに向き合い。
「ね、一緒に帰ろうね」
そう伝えた。
「……かえ、る?」
お姉さんは、目をパチパチさせながら、初めて聞く単語のように反復された。
「私の住んでる部屋だよ。少し狭いけど」
私の言葉に、
「え……えっ?」
お姉さんはビクッと肩を揺らし、
「何、言ってるの、む、無理よ……そんなの……」
と、俯いてしまい。
「どうして?」
「だ、だって、わ、私の帰る場所は、あそこなの。あの山の上の、山の中で……」
「……」
「私は、あなたにも、残りの魂を、肉体を、か、返さなきゃ……いけない……」
その震える唇から漏れる言葉もか細く震え、お姉さんが膝の上で重ねた手の甲に、水滴が弾ける。
そう。
お姉さんは、もう涙まで流せる。
水滴が弾けたその手、伸ばした手を重ねると、同じ温度。
そう、少しだけ低いけれど、ちゃんと、血が流れている。
魂も血も肉体も、2人で1つ。
確かに体力も半分。
あれだけ寝てしまったのも、きっと疲れのせいだけじゃない。
お婆さんが驚くほど、私たちは食べた。
お姉さんは話せるし触れるし歩けるし食べられるし眠ることも出来る。
排泄も(自動洗浄機能には驚いて声を上げたらしいけれど)出来る。
もし。
お姉さんがまた山から飛び降りたらどうなる。
私に魂が戻る?
とは、どうしても思えず。
ただただ、肉体を持ったお姉さんが、もう一度死ぬだけな気がした。
「ね、帰ろ?」
「む、無理よ」
「どうして?」
「こ、戸籍もない、何もない、何も知らなくて、何もできなくて」
あぁ、そうか。
お姉さんが生きていた時代は、そうかもしれないけれど。
「大丈夫、令和の今なら全然、なんとかなる」
戸籍なんかは、もし私に何かあった時のために、考えなければならないけれど。
「……そう、なの?」
きょとんとした表情のお姉さんは少しかわいい。
「なるなる、昔とはだいぶ違うよ、今は」
今は私がどんな嘘を吐いても、お姉さんは信じるしかできない。
「でも……」
当然、躊躇する気持ちも解るけれど。
「ね、大したことできないけど、私に恩返しさせて」
あなたがいなければ、私はあの場所で、死んでいた。
「……」
あそこで死んだ私は、お姉さんが飛び降りる姿を、あの場で毎夜見送る羽目になっていたかもしれない。
母親とヨシエさんの電話が終わる気配に手を離すと、
「ただいま」
お爺さん、タイゾウさんとコロ助も帰ってきた。
とりあえず私は、部屋の鍵は大家さんに連絡して開けて貰うことにして、私とお姉さんはタイゾウさんに、一応部屋まで送って貰うことにした。
暖かい車内と振動で、私たちはタイゾウさんの、
「お嬢さん方、起きられるかい?」
の声でやっと目が覚め。
「あっ……」
車を降りれば見慣れた景色、今時オートロックもないマンションの自室のドアノブには、私の鞄が引っ掛けられていた。
しかし、スマホも財布も入った鞄をむき出しのまま掛けておくなんて、盗まれる可能性もあるのにと腹の奥から怒りが湧いたけれど、全ては、私の男の見る目のなさが原因。
同じマンションの同じ階の住人は至極まともな方々だった様で、鞄の中スマホも財布も免許も、そのままだった。
お姉さんは、今のこの時代をすごく驚いた顔で、この「今」の世界をキョロキョロと眺めている。
母親にスマホから連絡をして、タイゾウさんは、私の鞄しかないことを少しは不審に思っただろうけど、何も言わなかった。
部屋でお茶を出そうと誘ったけれど、紳士なタイゾウさんは、若い女性の部屋に入ることを、とても躊躇してたから、近所のカフェで、せめてお茶を奢らせてもらった。
そして改めてお礼を申し出たけれど、
「紅子ちゃんの実家から、地元の名産品を送ってくれるって言うから、ほら、それでチャラだ」
と笑い。
「気にするなら、またうちに顔を見せに来てくれればいいよ」
と、優しい祖父のようだ。
お茶の後、私はお姉さんと2人で頭を下げてタイゾウさんの車を見送ると、私はお姉さんと部屋へ帰った。
「疲れた?」
「少し」
部屋のベッドは奮発したセミダブルで、そのせいで部屋は狭いんだけど、お姉さんは、私よりだけ背が低くて私より細い。
だから、女2人なら余裕で眠れる。
仕事、休みで良かった。
私とお姉さんは、また何かを取り戻すように眠った。
正直な所、お世話になったタイゾウさんには、本当のことを話すかは、とても迷った。
タイゾウさんが信じる信じないよりも。
ただ、話したことによって、よりタイゾウさんに余計な心配をさせてしまう事を考えると、あの場で、安易に話すことは出来なかった。
目が覚めると、外は勿論、部屋も真っ暗。
そして隣にお姉さんはいなくて、私は慌てて起き上がると、開いた窓からカーテンがはためき、お姉さんは、ベランダにいた。
「お姉さん!?」
飛び降りるのではと思ったけど、お姉さんは、
「前より明るい気がする」
都会だからかな?
と、のんびり振り返った。
「ここはそんなに都会でもないよ」
「そうなのっ?」
お姉さんはびっくりしている。
しばらく2人で、街を眺めてたけれど。
「……ね」
「ん?」
「本当に良かったの?」
お姉さんがじっと私を見つめてきた。
少し茶色がかった私の瞳よりも、黒い瞳で。
「何が?」
「私を……連れてきたこと」
あぁ。
そうか。
そうだ。
お姉さんは、きっと今も、不安でいっぱいなのだ。
この世界で、いきなり身一つで、半分程度とはいえ、肉体を取り戻してしまった。
だから。
私が出来ることは。
「ね。これから一緒に、色んなところへ行こうね」
「紅子ちゃ……」
「美味しいもの食べよ、昔とは比べ物にならないくらいたくさんあるよ」
「そ、そこまで昔じゃないもんっ!」
そうらしい。
でも。
今は。
「服も髪型もなんでもありだよ」
「なんでも?」
「うん、仕事も、在宅だってなんでもできる」
お姉さんの目が見開かれる。
「本当?」
「ホント、ホント」
でも、そんなことより。
今は。
「だから、一緒にいよ」
私たちは片割れみたいものなのだ。
一蓮托生。
だから。
「一緒にいて」
それだけでいい。
「お願い」
お姉さんの黒髪が、風にさらされる。
「……」
小さな、頷き。
「ね」
「ん?」
「桜子って呼んで」
「桜子さん」
「呼び捨てでいいよ」
「桜子。凄く綺麗な名前」
儚くて華奢なお姉さんに、よく似合っている。
桜子にはとりあえずTシャツと、痩せたら履こうと思っていたデニムを渡して(桜子にぴったりだった)まだ営業している回転寿司へ行く。
「回転寿司はもうあった?」
「あったかな、でもこんな時間まではやってなかったよ」
コンビニがやっと広まり始めた辺りらしい。
「お肉のお寿司?」
「美味しいよ」
「ラーメン!?たこ焼き?嘘でしょ?」
驚いてからなぜか大笑いする桜に、私もつられて笑う。
桜は、桜のいた時代はそうだったのか、桜が元々そういうタイプなのか、動きや仕草がとても丁寧で上品だった。
もしかして、いいところのお嬢様だったのだろうか。
「レストランなのに、禁煙なのね?」
「今は分煙でもなくなって、禁煙の所多いよ」
「へぇぇ、でも服に臭い付かなくていいね」
街中は、昔よりも化学的な匂いがすると言う。
そういうものか。
「いつか、お金返さなきゃ」
お腹いっぱい食べて店を出ると、桜が申し訳なさそうにため息を吐くけれど。
「桜の時代はまだ専業主婦が普通だったんでしょ?家事してもらうから大丈夫、あ、お小遣いは同額ね」
「え?え?」
「レシピもネットにいくらでもあるよ。使ってないタブレットあるから、帰ったら充電しよ」
「ま、待って」
「何?」
「そんなの……」
悪いよ……と足を止める桜子。
分かってはいたけれど、桜子は控え目な性格をしている。
「なら、慣れるまでの間まで。まずは今の現代に順応しなきゃでしょ」
「そうなんだけど……」
胸に握った手を当てる桜子の手を掴み。
「一緒にいて、って言ったでしょ」
ほら見て、これ公園と指差すと、
「……え?」
は?
と言わんばかりに呆気に取られる桜。
桜の想像する、桜が知っている遊具のある公園とはあまりに違う、なにもない、ただベンチがあるだけのだだっ広い空間に、桜は絶句している。
「ほら、回転寿司もそうだし、公園だってこんなに違うんだかららさ。まずは、今の世界に慣れよ?」
桜子は、大きく息を吐くと、
「……そうする」
諦めた様に、それでも笑みを浮かべてくれた。
翌日。
桜子には、外に出るなとは言わないけれど、万が一何かあった時、保険証も身分証もないもない人間でもある。
私だけでは守りきれないから、充分に気を付けてと念押してから仕事へ向かった。
昼休みにあのクソ野郎から着信があったけれど無視する。
少しでもなく疲れやすいし、
「今日はよく食べるね」
社員食堂で同僚に驚かれた。
午後は、
「いらっしゃいませ」
と言うところを、うっかり、
「へいらっしゃい」
と言ってしまい、上司に少し叱られた。
それくらいで済み、平和な昼勤。
急いで帰ると、
「あ、お帰りなさぁい、お仕事もお疲れ様でした」
「カレーだ!」
ただいまよりまず匂いに反応してしまった。
買い物もしていなかったけれど、桜子が冷蔵庫にあるもので作ってくれていた。
「料理方法はあんまり変わってないんだねぇ」
お陰で助かったけど、桜子。
便利なものはあるにはあるけど、高くて手が出ないし置き場もない。
しかし。
帰ってすぐ手作りのご飯にありつけるなんて。
これって。
「ママ?」
じゃない?
「お姉さんですぅー」
むー、とむくれた顔が可愛い。
桜は、充電していあタブレットで「今」を知っていたと教えてくれた。
「カセットテープも『レトロ』なのね」
ご飯炊けるまでもう少し待ってとベッドを背凭れにし、膝を曲げてタブレットを乗せている姿は、普通に現代の女子にしか見えない。
あ、そうだ。
「メイクも買わないとね」
「メイクグッズは欲しいっ」
おぉ、初めてぐいぐい来てくれた。
ご飯が炊けるのを待ってカレー食べた。
「おいしいっ」
本当に。
「おいしいね」
桜がいた時からあるカレールーらしく、味は同じかと訊ねてみたけど、
「んーどうだろ?私の味覚自体が少し違う気がする」
そうか、桜の身体は、私そのものが干渉しているのだ。
夜にまたクソから着信が来たため、メッセージで、
「あれは警察案件だった。もし次に顔でも見せたらその場で通報する」
とメッセージを送ると、ブロックした。
「……大丈夫?」
桜子におずおずと聞かれ、どうやら酷く眉が寄っていたらしい。
「平気、平気。ね、今度、タイゾウさんたちの所にお礼がてら遊びに行こうね」
タイゾウさんとサチコさんには娘さんが2人でいて、2人とも、もう嫁いでしまっており、一人は長期休みには帰ってくるけれど、一人は夫の海外赴任でしばらく帰ってこられないらしい。
「だからね、久々に娘が来てくれたみたいで楽しかったのよ。また遠慮なく遊びに来てね」
と、有り難い言葉を頂けた。
コロ助にも、おやつを持って会いに行こう。
桜子との生活は思った以上に平穏で、穏やかで。
桜子は表には出して来ないけれど、戸惑うことや思うことは想像以上にあると思う。
それでも、
「ネット楽しい」
「テレビはあんまり」
車は丸い形が多くて可愛いと言う。
「最近また四角が流行ってきてるよ」
「ええー?やだな」
だよね。
仕事は、多少疲れやすくはあったけれど、食べて何とかなるから問題はない。
桜も、ネット見てると疲れてすぐに寝ちゃうと。
「どこか、行ってみたいところある?」
「ここ」
真っ先に、都内の、多分桜が生きていた頃からある、パーラーのサイトを見せられた。
「道とか、店内もだいぶ変わっちゃってると思うけど……」
面影は、ほとんどないかもしれない。
「あ、いいの、いいの。ここね、行ったことなくて、いつか行ってみたかった場所なの」
憧れの場所だと。
私たちの住んでいる場所からだと、電車の方がアクセスしやすいのは確実なのだけれど。
今の、2人で身体と心か気力のようなものを、半分ずつ分けあっている状態で、電車は、少しばかり鬼門な気がした。
都内のカフェで浮かない程度の桜子の服を買い、平日休み、車で都内までドライブ。
桜は飽きることなく流れる景色を眺めている。
「疲れない?」
「平気。運転ありがとう」
「どういたしまして」
桜が生きていた時の話はしたけれど、桜自身のことは訊ねなかった。
桜子も自分からは話そうとせず、夜も、他愛のない話をしているうちに、お互いにすぐに眠ってしまう。
都内のお目当てのパーラーの近辺は。
「昔と全然違う?」
「んー、あんまり来たことなかったからわかんない」
そうなのか。
駐車場を見付けて車を停めて、平日でも人の多い横断歩道を抜けると。
「……」
明らかに、もう生きていない人が、生きている人に混じって通りすぎて行く。
仕事中は気付かなかったけれど、桜といるからだろうか。
ならば、たまにでもなくいるらしい、
「視える人」
たちには、私たちは、一体どう視えているのだろう。
桜子も、生きていない人たちの存在に気づいたらしく、私たちは、お互いのは手を握りしめて、気づかないふり、見ないふりをして、横断歩道を通り抜けた。
お目当ての店は、予約をしていたせいか、窓際の席に通されると、
「わぁぁ、夢みたいっ!」
先刻の緊張も忘れて桜がはしゃぎ、つられてキャッキャッとはしゃいでしまう。
けれど。
「えっ!?」
メニューを開いた桜子が目に見えて固まり、
「どうしたの?」
顔を近づけると、
「た、高くない?」
こそりと一言。
(あぁ……)
そうか。
回転寿司は平日90円のリーズナブルな所へ行ったから。
「今はこんなものだよ」
「嘘ぉ……」
桜子が「今」を勉強しているように、私も、桜子の生きていた時代のことを、もう少しちゃんと色々知るべきかもしれない。
しかし、そんなにも違うのか。
「今は普通だから」
と食べたいパフェと頼み、それでもそわそわしていた桜子は、けれど目の前におかれた繊細かつ豪華なパフェを前に目が輝き、
「……んっふ♪」
「すっごい美味しいね」
私たちの味覚すら半分になった舌ですら、美味しい。
「美味しかったぁ」
「また来ようよ、もうすぐ新しいメニューになるって」
「うんっ」
ガラス張りの窓から見える大きな横断歩道。
ここからでも、生きている人とそうでない人が判別できる。
「少し歩く?」
「ううん、駐車場代気になるから平気」
桜子は肩を竦めてかぶりを振る。
まぁそこは確かに。
代わりに、郊外に抜けてどこも変わらない国道を進む。
これもわざわざ口にはしないけれど、大勢の人がいるだけで、何やら吸われていく感覚は、どうやら桜子も感じていたらしい。
「お店ではそうでもないんだけど」
「エネルギー摂ってるからじゃない?」
「あっそれだ」
コンビニで静かにはしゃぐ桜子とコンビニ珈琲を買うと、先に高速道路へ誘導する看板を見掛けた。
ウインカーを出すと、
「どこ行くの?」
「少し走ろうかなって、途中で適当に降りてさ」
「乗りたい」
高速に乗るとしばらくはビルや住宅街がチラチラ隙間から見えていたけれど、だんだんと畑や田んぼが現れ、山が近くなる。
「少し、懐かしい感じかする」
「昔と変わらない?」
「ん……」
頷きと共に漏れた吐息に、小さな震えが混じった。
私は、桜子が次に何か言葉を発するまで、そのまま高速を走ることにした。
「……海っ!?」
「だって桜寝ちゃうから」
いつ起きるか不安になったため、途中で高速を降りて、そのままナビを頼りに海まで走ると、
「ん……?」
むずがるように起きた桜子は、窓から一面に広がる海に、シートの上で助手席で跳ねた。
「びっくりした?」
「したした、凄い、凄いっ!!」
「桜子は海は行ったの?」
「行ったよ、大昔は家族で。大学の友達みんなとも行った」
先に見えたオフシーズンの今は無料の駐車場に停めて、砂浜に降りてみる。
午後も夕方に近いせいか、サーファーもいない。
「ね、夏になったら、もっと青い海を見に行こ」
「日本にあるの?」
「あるある、うちからだと車で行きやすいのは伊豆かな」
「伊豆?行ったことない」
「桜子はどこ行ったの?」
「新潟とか、茨木とか」
ここいら辺の土地勘的なものは、上京組の私よりありそうだ。
「寒くない?」
「少し、でもまだもう少しいたい」
「ん」
潮風が、桜の長い髪を押し上げている。
「……また海が見られる日が来るなんて、思わなかったなぁ」
桜子の小さな呟きに。
「私も、桜がいなければ海まで飛ばそうなんて思わなかったよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
顔を見合わせて笑う。
靴を脱いで、寄せてくる波に足を浸けてみたけれど。
「つっ冷た!?」
「ひゃー!!」
思ったより遥かに水温は低かった。
2人で逃げるように車に戻る。
暖房をつけると、互いに震えながら、それでも、
「楽しい」
「楽しいね」
桜がまた笑い、私も笑う。
帰り道は。
「はっ?お酒を?え?運転しながら飲む!?」
「テレビでもやってたよ」
「嘘ぉ……」
信じられない。
「今は厳しいんだねぇ」
それぞれ別の意味で驚いたり。
「これもびっくり」
ナビを指差す。
「すっごいお金持ちの車に付いてるイメージしかなかった」
他愛ない会話をしながら。
「明日も仕事なのにごめんね」
夕方の渋滞に巻き込まれ、少し遅くなったけれど、
「明日は遅番だから大丈夫」
「じゃあ、夕飯は?」
「帰ったら食べたい、明日は桜子は先に食べてていいからね」
そう言えば、今もお腹が空いた。
炭火焼きが売りのチェーン店のファーストフードに入り、ハンバーガーに2人でかぶり付く。
「身体が少し潮風でべたつくね」
「帰ったらすぐにお風呂だね」
そう言えば、
「ね、海にもたくさん幽霊いるって聞くけど視えた?」
「全然見えなかったな、紅子は?」
「私も見えなかった」
街中だとあんなに視えたのに。
何かあるのだろうか。
「海はお盆しか出てこないとか?」
「なのかなぁ?」
でも桜子は、聞く限りはほぼ毎日飛び降りていたらしいけど、滅多に視える人には出会わなかったらしい。
それこそ、それ目当てで来ている人間にすら。
桜子は、存在感が少なかったのか。
幽霊も、それぞれなのか。
「いいよ、紅子は休んでて」
「落ち着かないよ」
遅番だから、桜のしてくれる家事を手伝いつつ、そんなやりとをしながら、一緒に洗濯物を干す。
「そうだ、玄関のドアの方から見える、あのすごーく遠くて高い棒なぁに?」
「スカイツリーだよ、東京タワーと同じ電波塔」
ベランダからは民家の屋根とマンションや低層ビル、遠くに今は霞んだ山々がうっすら見える。
「へー!?」
「私も、一度くらい行ってみたいんだよね」
そのうち桜子と行ってみようか。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「うん」
見送られるのもいいものだ。
母親からメッセージが来ていた。
年末年始、いつ帰るかと。
いつもより早いなと思ったけれど、多分、心配してくれているのだ。
休憩中に電話をかける。
「いつも通り。……ね、今年は友達も一緒に帰っていい?」
『あら、いいわよ。お友達はお家へ帰らないの?』
「うん。帰る実家も、今は、もうない子なの」
『あら、あら。……もしかして、あなたと一緒にいてくれた子?』
「うん」
『まぁまぁ、じゃあ目一杯おもてなししなくちゃね』
電話口でも歓迎する空気が伝わり、安堵するし感謝もする。
「ありがとう」
他愛のない近況報告をし、仕事場へ戻るも。
客がいないせいか、
「あのぅ。……先輩、妙に余裕ある感じしますけど、何かありました?」
シフトが被った後輩が、待ってましたと言わんばかりに、にじり寄ってきた。
余裕。
(余裕?)
桜子のことで色々考えなくてはならないことはあるし、多少の出費も当然増えており、金銭的な余裕も別にあるわけではない。
でも。
(ううん)
どうだろう。
仕事が終わってから、あれやってこれやって、が格段に減った。
食事は勿論、掃除や洗濯に細々とした部屋のことは桜子がやってくれる。
そのお陰だろうか。
半分くらいはそれもあるけれど。
自問してから、内心でかぶりを振る。
多分、桜子がいるとこで、私は精神的に安定している。
もしくは、理由として一番説得力がありそうなのは、魂的なものの半分を桜子に渡したお陰で、よくも悪くも、周りへ、他者へ、この世界に対しての感覚が、極度に鈍くなっているのだと思う。
喜怒哀楽がごっそり削られ、余裕があるように見えるのではないか。
でも、その割りに桜子は、喜怒哀楽が私より大きい気がする。
生前はさぞかし、感情表現が大きい娘さんだったのかもしれない。
勢いと衝動で、あそこから飛び降りるくらいには。
私はデリカシーというものを持ち合わせいないので、帰宅後に聞いてみると、
「多分、そうだと思う」
桜子は怒ることもなく、あっさり頷いた。
「でも、死んじゃってからは、そういう感情も、全部すっぽり抜け落ちて、ただただ、ずっとあの日を、繰り返してた」
何日も、何ヵ月も、何年も、何十年も。
「今日はシチューだよ」
ホワイトシチューのルーはなかったはずだけど、ホワイトソースから作ってくれていた。
料理は私より遥かに出来る様子。
「凄い美味しそう、食材足りてる?」
「ちょっとそろそろ減ってきた」
「だよね。明日も遅番だから午前中にスーパー行こう」
「行く行く、お菓子とか、だいぶ変わってるのかな?」
「駄菓子は変わってないのも多いと思うよ」
多分。
「ね、カステラ1番電話は2番、3時のおやつは文○堂~♪の文○堂はまだある?」
「あるある」
そのCM自体は、ネットで観たものだけれど。
「ね、身体に不調はない?」
冷凍してある食パンをトースターで焼いたものを運びながら桜子を振り返る。
ただ半分中身を持ってかれた私と違い、ほぼ空っぽの身体に半分他人を押し込んでいる桜の方が、負担は桁違いに大きいはずだ。
「平気、気づいたら寝てること多いけど」
さらっと怖いことを言う。
意識を失っているってことではないか。
昨日のドライブも、寝ているのではなく気絶していたらしい。
「休みの日は私も家事やるからねっ」
そう意気込んでも。
「大丈夫だよぅ」
クスクス笑う桜子は、向こう側が透けてもいないし、シチューもペロリと食べている。
「何かね、身体のね、血肉そのものを感じるの」
夜にベッドに潜り込んでから、桜子が小さく口を開いた。
「ちにく?」
「うん。血が、肉が、骨もね、どんどん作られてどんどん形成されている感覚が解るの」
私が黙って頷くと、
「多分寝てる時は、そっちに全部回してるからだと思う」
「そっか」
心のどこかで、桜子は、そのうちふっと消えてしまう日もあるのかもしれないと言う思いは、常にあった。
でも、桜子の言うことが、感じていることが本当ならば、桜子はまた生まれ変わっている途中。
「今は蛹なのかな?」
「もう蝶々だよ」
ほら、と手の平を見せられ、手を重ねると、
「ね、前より温かいでしょ」
「ホントだ……」
指を絡めて、互いの鼓動を合わせる。
あぁ。
(生きてる……)
今を生きて存在している。
私も、桜子も。
早々と新幹線のチケットを取り、朝から桜子とスーパーへ向かう。
「なんかお洒落な野菜増えてるー」
「そうなの?」
「うん、ね、お菓子、お菓子」
売り場へ……と行こうとする桜子を引き留め、まずは食材。
桜は、どうやらお菓子が好きらしい。
「そうみたい。でも、紅子が食べなさ過ぎじゃない?」
「そうかなぁ」
話ながらカゴに野菜を入れる。
「ね、これなぁに?ぱ、ぱくちー?」
「ちょっと癖の強い香草、かな」
「へー」
諸々を買い足し、桜子が念願のお菓子売り場に行く前に足を止めたのは、小さな製菓コーナーの前。
「お菓子作るの?」
「作ってた。結構周りにもいたよ」
「へー?」
まだ今より娯楽が少なかったのか、類は友を呼ぶだったのか。
私の周りでお菓子作りをしている友達はいなかった。
桜子が悩み始めたため、
「うちオーブンないよ」
電子レンジと、トースターのみ。
「えっ?あぁ!?そっかぁ……」
肩を落とした桜だけれど、すぐに、
「オーブン使わないお菓子もたくさんあるっ!」
また立ち直る。
それなら。
「次のお休みに、もう少し大きなところへ見に行こうよ」
「わーい」
お菓子は3つまでと釘を刺し、レジャー施設に来たように目を輝かせる桜子は、今を生きる人でしかない。
「ね、甘いのしょっぱいのそれぞれ3つだよね!?」
「全部で3つだよ」
「むー」
何だか母親の気分になる。
あぁ、そうだ。
「桜、ごめん、お小遣い渡してない」
ケチ臭いけど、とりあえずお給料日まで日割りで五千円をこの場で渡す。
「わー、ホントにいいの?嬉しいっ」
天井の明かりに透けさせ、
「今はこの人なんだねぇ」
ふーん、と感慨深そうな横顔。
「お菓子でみんな使わないようにね」
「3つまでは食費でしょ?」
案外ちゃっかりしてる。
仕事行く時間迫ってると急かして会計をしていると、
「……ねぇねぇ、スーパーの袋、有料なの?」
ひそひそと話しかけてくる。
「無料の所もあるけどね」
有料化は割りと最近だよと話すと、こそりと、
「へぇー、なんかセコいね」
ごもっとも。
部屋に帰るとそのまま、また車に乗って出勤しなければならない時間だった。
「買ったものは片付けておくから」
「ありがと、助かる。いっています」
「いってらっしゃい」
仕事場へ行くと、
「せんぱぁい、やっぱり彼氏でも出来ましたよねぇ?」
ロッカーで顔を覗き込まれる様に後輩に聞かれた。
「あ?別れたてですけども?」
とは言え、あんな男元彼とも呼びたくない、他人だ、他人。
「えー!?いたんですか!?」
そっちかよ。
「え?喧嘩売ってる?」
売ってるよね?
「違いますよっ、そうじゃなくてっ!」
なんか機嫌よさそうで楽しそうだと。
(う……)
まあ。
そう隠すことでもない。
「友人とルームシェア始めたからかも」
白状すれば。
「え、彼氏と別れて友人とルームシェアですか」
忙しいですね、と聞いてたくせに若干引いている。
「成り行きでね。新鮮で楽しいのかも」
「ふーん?」
不可解そうな顔をされた。
それもそうか。
楽しいのは、半分は「自分」だからなのもあるのだと思う。
空っぽの桜に、私が流れ込んだのだから。
でも。
それでいい。
むしろ、最高なのではないか。
半分は笑うツボも同じ、半分は味覚も同じ、嗜好も同じ。
私たちは、日々を過ごす。
穏やかに、静かに、この世界に、人々に紛れて。
「ペット飼いたい」
タイゾウさんの家へ遊びに行った日は桜子は必ずそう訴えて来る。
「ここペット禁止」
「ケチ」
「じゃあ、引っ越す?」
「……紅子は私に甘過ぎると思う」
「そう?」
その度に、同じやりとり。
クスッと笑い合うのも、同じ。
2人だけの、2人だけで分かる、2人だけで笑える“お約束”が増えた。
年末に帰省した時。
実家では、両親が、桜子に頭を下げていた。
「うちの娘と一緒にいてくれて本当に有り難う」
と。
その自分に対して深く頭を下げる私の両親の姿に、桜子が大泣きした理由を、私は知らない。
「私と私の両親のお墓?」
「えっと、その、探してみる?」
デリケートな話題だし、言い出すのには結局1ヶ月も掛かったけれど。
「ううん」
返事はあっさり。
「いいの?」
「うん」
けろりとしている。
「親不孝は今更だから」
「……そっか」
半分は自分でも、奥底の大事な部分は桜子自身。
私が与えたのは肉体となる「側」だけなのだと痛感させられる。
私は、桜子自身への理解は、到底及ばない。
それでも。
「あ、この漫画完結してたんだ」
途中まで単行本買ってたの、とベッド脇に寄りかかってタブレットを弄る桜子。
「どれ?」
私は寝転んだベッドから覗き込めば、少し古い絵柄の漫画。
「それ、今だけ全話無料だって」
「本当に無料なのっ?令和って凄いね!」
「令和は凄いよ」
そう。
凄い。
だから。
桜子を、この今の時代に、
「どう存在させることが、桜子に取って一番いい結果になるのか」
を、私は日々考える。
桜子には、タブレットを渡した時に、すでに1つ嘘を吐いている。
安易に戸籍やら身元などで検索すると、ネットの向こう側にいる誰かが、こちらを探ってきたりするから、検索しないようにと。
桜子は分かったと真剣な顔で約束してくれた。
いずれ、嘘もバレるだろうけれど、時間稼ぎにはなる。
「ね、夜はラーメン行こ」
「ラーメン?くるま○ラーメン?」
「ううん、家系」
「い、いえけい?」
私は。
今までは、自他共に認める心配性な性格だったはずなのに。
「食べれば分かるよ」
「じゃあ、帰りにスーパー寄りたい」
「うん、行こ」
私はベッドにうつ伏せになり、少し古い絵柄の漫画に夢中になる桜子の後ろ姿を眺めながら。
(まぁ何とかなるでしょ)
と、ほんの短期間で、随分と楽観的な性格と考え方をするようになったと思う。
実際。
一度死んだ桜子と、半分死にかけた私なら。
なんの根拠もないけど。
大丈夫。
そう思える。
「……なぁに?」
私の視線に気づいたのか、振り返った桜子の瞳の中に、私が映る。
「何でもなーい」
寝そべりながらも肩を竦めたのは。
その桜子の瞳の中に映る私が、口許を弛めて笑っている事に気付いたからで。
「……ね、桜子」
「なぁに?」
「一緒に、生きて行こうね」
これから先もずっと一緒に。
思わず溢れ出た言葉に、
「……」
途端に、桜子の中の私が潤み歪む。
「……桜子、案外、泣き虫だよね」
予想はしていたけれど。
「紅子がドライすぎるのっ」
「そうかな」
ベッド脇のティッシュを渡してやれば。
「そうだよぅ」
涙を拭いながら、唇を尖らせる。
(あ……)
近くにいると、今までは気付かないのではなく、“なかった“桜子の、桜自身の、仄かに甘い花のような香りに気づいた。
あぁ。
もう。
こんなの、もう。
もう、どこからどう見ても、桜子は、この令和に生きる人でしかない。
今の私と桜子が、街中の人混みに紛れた時。
私たちは、生きている人間に見えるのか、そうではないのか。
それは、まだ分からないけれど。
でも、大丈夫。
そう思える。
私と桜子なら、大丈夫。