マッチ売りの少女(ヤンデレ)
それは年の瀬も迫った大晦日のこと。凍てつくように寒く雪が降りしきる夜でした。街はクリスマスと新年の飾りで華やいでいましたが、その寒さは貧しい少女の薄い衣服を容赦なく通り抜けていきます。
その幼い少女は一人、裸足のまま、頭にも何もかぶらず、雪の降る街角に立っていました。
家を出るときにはぶかぶかの大きな古い靴を履いていたのですが、通りを横切る時に馬車を避けようとして転倒し、脱げてしまった所を、見知らぬ男の子に持ち逃げされてしまったのです。
少女の小さな赤い足は、寒さで紫色になり、ところどころ凍傷を起こしかけていました。
少女の古いエプロンのポケットには、たくさんのマッチの束が入っています。今日一日、少女は誰にも声をかけてもらえず、たった一つもマッチを売ることができませんでした。お腹はぺこぺこで、体は芯から冷え切っています。
雪の結晶が、少女の長く美しい金髪の上に舞い落ちますが、彼女はその美しさに気づく余裕もありません。
街の家々の窓からは暖かい光が漏れ、美味しそうなガチョウの丸焼きの匂いが漂ってきます。今日は大晦日なのです。家の中ではきっと暖炉の火が赤々と燃え、家族が集まってご馳走を囲み、楽しそうな笑い声や歌声が響いていることでしょう。
窓の向こうに見える、明るく飾り付けられた部屋、食卓を囲む人々の幸せそうな影……それらは、少女の孤独と寒さを一層際立たせるだけでした。
人々は暖かい外套に身を包み、足早に家路を急いだり、プレゼントを抱えて楽しげに語らったりしながら通り過ぎていきます。寒さに震える小さな少女に目を留める人はいません。
家に帰っても屋根裏部屋は隙間風で凍えるほど寒く、それにマッチが一つも売れなかったのですから、お父さんにきっとぶたれてしまうでしょう。
弱り切った少女が、せめて建物の隙間に入ってこの酷く冷たい風だけでも避けようと思ったその時です。聞き覚えのある、優しい声がしました。
「やあ、こんな遅くまで大変だね」
顔を上げると、そこには見覚えのある紳士が立っていました。それは年は三十代半ばほど、髪も髭も上品に整えられ、仕立ての良いコートに身を包んだ、美しい細身の中年男性でした。
以前にも何度か、この紳士は少女からマッチを買ってくれたことがありました。その穏やかな物腰と優しい眼差しに、少女は密かな憧れを抱いていたのです。
少女は慌てて立ち上がろうとしましたが、裸足であることを見られたくなくて、凍える足をもじもじと隠すようにしながら、スカートの裾で覆いました。寒さで震える体を無理にしゃんとさせ、できるだけ平気なふりをしました。
「こんばんは、おじさま」
か細い声で挨拶をすると、紳士はにっこりと微笑みました。
「今夜もマッチを売っているのかい。ちょうど切らしていたところだ。二束ほど、もらおうかな」
紳士は懐から財布を取り出しながら言いました。少女はポケットからマッチの束を二つ取り出し、かじかむ手で差し出しました。
「ありがとう。しかし本当に冷える夜だ。君、ご家族はどうしているんだい? こんな時間まで一人で」
紳士は少し心配そうな顔で尋ねました。
その言葉に少女の小さな胸はドキドキと高鳴りました。もしかしたらこの優しいおじさまが、暖かい寝室に連れて行ってくれるかもしれない……そんな期待が胸をよぎります。
「お、お父様もお母様も、今夜は他所のお屋敷のパーティにお出かけですの」
少女は嘘をついてしまいました。ほんの少しでも自分をみすぼらしくないように見せたかったのです。
それを聞いた紳士が何か言いかけた、その時でした。
「お待たせしてごめんなさい!」
鈴を転がすような、明るく美しい声が響きました。
見ると、そこには息をのむほど美しい若い女性が立っていました。年は二十代前半くらいでしょうか、暖かそうな毛皮の縁取りのあるコートを着て、幸せそうに輝いています。女性はためらうことなく紳士の腕に自分の腕を優しく絡ませました。
「角のケーキ屋さん、今日はとても長い行列が出来ていて……くしゅん!」
「わざわざ並んで買ってくれたのか、それでは身体が冷えて当たり前だ」
紳士は自分がつけていたマフラーを取り、女性の襟元にそっと巻きました。二人は寄り添い、互いを見る目は愛情に満ちていて、その親密な様子は、寒い街角には不似合いなほど暖かく輝いて見えました。
「だけど、これでは貴方が寒いわ」
「私の用事は済んだから。今、マッチも買ったからね」
「まあ、可愛い売り子さん……でも、こんな夜遅くまで一人で大丈夫?」
少女に気づいた、紳士の恋人か婚約者らしい女性は膝を屈め、心配そうにそう言いました。
「そうだね、風邪をひかないように、早くお帰りなさい」
紳士も優しく声をかけました。
二人の心配そうな、しかしどこか遠い世界からのような言葉に、少女の胸の奥がきゅっと痛みました。先ほどの淡い期待は、粉々に砕け散ってしまいました。少女は、引きつりそうな口元で無理に笑顔を作りました。
「ええ、ありがとうございます。でも、まだお仕事が残っていますから」
少女はどうにかそれだけ言ってくるりと踵を返し、逃げるように凍った道を駆け去りました。振り返ることはしませんでした。優しい紳士とその美しい婚約者の、幸せそうな姿を見たくなかったのです。
先ほどの暖かな光景と、自分の惨めさとの落差に、少女の心はますます冷え込んでいきました。家々の窓の明かりが、今はただ、遠い世界の出来事のように感じられるのでした。
少女は、これ以上歩く元気もなく、二つの建物の間の、少し風を避けられる狭間にうずくまりました。冷たい石の壁は、わずかな慰めにもなりません。かじかむ指先も、もう感覚を失いかけています。
そうだ、マッチを一本擦ってみたら、少しは暖まるかもしれない。
そう思いついた少女は、ためらいながらも一本のマッチを取り出し、壁でそっと擦りました。
―― シュッ……
マッチは明るい炎を上げ、小さな蝋燭のように暖かく輝きました。少女がその炎に手をかざすと、不思議なことが起こりました。
目の前に現れたのは暖かなストーブではありません、ひんやりとした石壁に囲まれた、窓のない地下室……の、幻影でした。
薄暗い部屋の中央には、あの優しいおじさまが居ます……しかし、その両手両足は、壁に埋め込まれた冷たい鉄の鎖で繋がれています。おじさまは驚きと不安に満ちた目で、突然現れた少女を見つめました。
「君……! どうしてここに!? 君、この鎖を外してくれないか!?」
少女はこっくりと頷き、おじさまの手首の枷に小さな手を伸ばします。しかし、かちゃかちゃと音を立てるだけで、錠はびくともしません。
「この鎖、外れない……」
少女は困ったように首を傾げます。
「た、頼む、外に出て助けを呼んできてくれないか、御願いだ」
おじさまは必死に訴えます。
その言葉を聞きながら、少女は暗がりで密かにほくそえみました。おじさまには知る由もありません。この地下室に彼を閉じ込め、鎖の鍵を持っているのが、目の前の小さな少女だということを。
……しかしその時、マッチの火はふっと消えました。後には現実の冷たい壁だけが残っています。
少女の手には、燃え尽きたマッチの軸が握られていました……あの支配の感覚が忘れられません。
少女は震える手で、もう一本、マッチを壁で擦りました。
―― シュッ!
炎が再び灯り、先ほどの地下室の幻が目の前に広がります。おじさまは依然として鎖に繋がれたまま、憔悴した様子で壁にもたれています。
少女はどこからか持ってきた、温かいパンとシチューの入った器を手に、おじさまに近づきました。
「おじさま、お腹がすいたでしょう? 私が食べさせてあげますからね。さあ、あーん、して」
少女は匙でシチューをすくい、おじさまの口元へ運ぼうとします。しかし、おじさまは差し出された匙を、ただ茫然と見つめるだけでした。そして、ゆっくりと少女の顔に視線を移しました。
その小さな瞳の奥に宿る、年齢不相応な、ねっとりとした独占欲と、狂気じみた妖しい光。おじさまは、自分に何が起きているのか、目の前の少女が何者なのか、その事に気づきました。
「……まさか……君が!?」
恐怖と絶望に彩られたおじさまの表情を見て、少女はうふふ、と楽しそうに笑いました。
「おじさま、外の世界は危険なことばかりです……これからは私がずっとおじさまを守ってあげます。誰にも渡しません、ずっと、ずうっと、ここで二人きり」
少女は恍惚とした笑みを浮かべ、その目は妖しく光っていました。
……パチパチと音を立てていた炎が消え、再び少女は凍える路上に一人取り残されました。それでも、心の中には、おじさまを独り占めにする甘美な喜びが残っていました。
しかしマッチの炎が消えた少女の前にはただ、冷たく硬い現実の壁があるだけでした。
けれども少女の心は、次なる幻影への期待で燃えていました。もはや、寒さも空腹も感じていません。少女は次のマッチを、酷く震える手で、しかし確かな意思を持って壁に擦り付けました。
―― シュッ!(迫真)
ひときわ強い光が放たれ、茫々と燃えるマッチの炎の中から、再びあの地下室の幻影が現れました。
「頼む……お願いだ、ここから出してくれ……」
おじさまの声はもはやかすれ、鎖に繋がれた手首は擦れて血が滲んでいます。
「もうやめてくれ……」
そこへ、サイズの合わない、しかし美しいドレスを着た少女が、ゆっくりと歩み寄ってきます。少女はただ、じっとおじさまを見つめています。
おじさまは恐怖に引きつりながらも、そのドレスの細部に改めて目を凝らしました。繊細なレースの縁取り、胸元にあしらわれた真珠の飾り、シルクの光沢。それは間違いなく、彼が愛する婚約者のために作らせた、来るべき結婚式の日に彼女が着るはずだった、特別なウェディングドレスでした。
それがなぜここに? なぜこの少女がそれを着ている? 最悪の予感が、冷たい刃のようにおじさまの心を貫きました。
「そのドレスは……まさか!」
拘束されたおじさまは体の自由がきかないながらも、ありったけの力で少女に問いかけます。
「彼女は、私の婚約者はどうしたんだ! なぜ君がそのドレスを!?」
少女は、おじさまの激しい動揺を、まるで凪いだ水面のように静かな表情で見つめ返しました。そして唇の端にほんのわずかな笑みを浮かべ、子供が秘密を打ち明けるような、それでいて絶対的な確信に満ちた冷静さで、はっきりと告げました。
「あのアバズレは死にました」
一瞬の静寂。そして、少女は続けます。
「だけどあんな女、おじさまにはふさわしくないでしょう? おじさまが本当に幸せになるには、私だけがいればいいんです。あの女はおじさまと私の未来に入り込んだ虫けらでしたから」
少女の声には、何の感情の揺らぎもありませんでした。
「ああああああああああああ!!」
おじさまの口から迸ったのは、言葉にならない絶叫でした。怒りと、悲しみと、絶望と、裏切られた想い。全ての感情がごちゃ混ぜになった、魂からの叫び。彼は全身を激しく震わせ、繋がれた鎖を力任せに引きちぎろうと暴れますが、冷たい鉄はびくともしません。
愛する人を奪われ、その犯人が目の前の少女であり、その理由が狂気に満ちた独占欲であるという事実に、彼の心は完全に打ち砕かれたのです。
「大丈夫よおじさま、私を愛してくれれば全てが解決するの、さあ、私を受け入れて、私だけを愛して、私を、私だけを! さあ……」
……マッチの炎が、最後の輝きを放って消えました。
叫び続けるおじさまの残響だけが、冷たい地面に崩れ落ちた少女の耳の奥でこだましていました。少女の心は不思議な達成感で満たされていました。
―― これでおじさまは……永遠に……私のもの……
†
新しい年の朝、冷たい夜明けの光の中で、少女は蹲っていました。頬は赤く、しかしその体は凍え、硬くなっていました。燃え尽きたマッチの束を、まるで大切な宝物のように抱きしめて。そしてその口元には、まるで望みが全て叶い、この世の何よりも大切なものを手に入れたかのような、奇妙なほど深く、満足そうな微笑みが浮かんでいました。
「かわいそうに、暖まろうとしたんだね」
通りかかった人々は囁き合いました。昨夜、なぜ誰もこの子に手を差し伸べなかったのか。凍死した少女のあまりにも安らかで満ち足りた死に顔を見て、人々は自分たちの無関心をひどく後悔し、罪悪感に胸を痛めました。
そこへ、昨夜少女からマッチを買った、あの身なりの良い紳士も通りかかりました。彼は馬車を降り、人だかりの中心で横たわる少女の姿を認めると、言葉を失いました。少女の凍てついた姿と、その奇妙なまでに満足げな微笑み……
「ああ、なんてことだ……!」
彼は昨夜の少女の言葉を思い出していました。
―― お父様もお母様もパーティに……
あんな健気な嘘を信じ、あの子を一人、あの寒い夜に置き去りにしてしまった。婚約者との約束があったとはいえ、無理にでも自分の家に連れて帰っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない!
深い後悔と自責の念が、紳士の心を締め付けました。彼はただただ小さな亡骸を前に、善良な市民としてすべきだったことへの後悔を感じていました。
もちろん彼は、このいたいけな少女が内心何を考えていたのかなど、全く知る由もありませんでした。
†
この出来事に心を深く動かされた紳士は、すぐに行動を起こしました。彼は発起人となり、街の人々に広く呼びかけました。
「この街で、二度とこのような悲劇を繰り返してはならない!」
彼の熱意と街の人々が感じていた罪悪感、そして芽生えた善意は大きな力となり、多くの寄付金が集まりました。
そして設立された基金はいつしか「マッチ売りの少女基金」と呼ばれるようになりました。基金はその後未来永劫にわたり数えきれないほどの貧しい境遇にある少年少女たちに、暖かい寝床と食事、教育の機会を与え続け、彼らの人生を救い続けたのです。
そして、かのマッチ売りの少女は……その短い生涯で見た、仄暗く歪んだ執着に満ちた恐ろしい幻視のことも、それが現実世界にもたらしたかもしれない悲劇のことも誰にも知られるのないまま、その死によって人々の良心を呼び覚まし、多くの恵まれない子供たちを救うきっかけを作った「小さな天使」として、いつまでも、いつまでも、街の伝説として語り継がれて行ったという事です。