第1話 修学旅行
当日、雨が降った。
いや、雨が降っていたのは学校を出た時で、新幹線に乗車してしばらく経った時点で空は少し明るくなり、雲の切れ目から薄日が差していた。
今は車窓を流れてゆく景色の向こうに、薄っすらと雪化粧をした富士山が見えている。
十一月に入ってすぐの木曜日。盛況だった学園祭が一段落し、そのほとぼりも冷めやらぬ頃に、二年生の秋に訪れる高校生活最大のイベントが少年少女たちに訪れた。
イベントの名は修学旅行。
その言葉には何だか特別な響きがある。きっとここにいる浮き足立った生徒たちは、皆そう感じているのではないだろうか。
これから体験する三泊四日の旅に興奮気味のクラスメートたちは、終始賑やかに新幹線の車内で盛り上がりを見せる。
そんな浮かれる学生たちの中で、窓側の席に着いて頬杖をついたまま、車窓から流れる景色に静かな眼差しを向けている少年がいる。
その少年の名前は高木誠司。
一見落ち着いて見えるその雰囲気は、実際のところ昨晩あまり眠れなかったためで、その証拠に席についてから、彼はもう何度も欠伸をしていた。
一年生の時に全国高校生美術コンクールにおいて大賞を獲った実力を持つ、時折高校せいらしからぬ特別な集中力を発揮するこの少年も、こういった集団行動が苦手で、皆が楽しみにしていたであろうこのイベントも、どちらかといえば不安の方が勝っていた。
陽気にはしゃいでいるクラスメートの中に入っていけたら、少しは眠気もましになるのだろうが、誠司はその辺りも不器用で、既に出来ている輪の中に入って行くのに消極的だった。
「なに眠たそうな顔してんだよ」
またウトウトしかけていた誠司の眼を覚まさせたのは新勇磨。
誠司とは中学時代からの付き合いだ。
隣に座っていたクラスメートを「代わってくれ」のひと言でどかせて、勇磨はドンと尻を座席に下ろした。
誠司は席を譲ってくれたクラスメートに「すまない」と手を合わせて、やや不愛想にいつもの坊主頭に向き直る。
「何しに来た?」
「何しに来たはないだろ。わざわざ来てやったんだぞ」
クラスごとに座席は決められているが、男子と女子の車両が分けられているせいで、隣のクラスの勇磨とこうして同じ車両に収まっていた。
そのせいで、こうして能天気な坊主頭がちょっかい出しに来るわけなのだ。
「わざわざ来なくてもいいんだって。お前くらいだぞ。こっちのクラスまで遠征しに来てるのは」
「なあ誠ちゃん、お菓子食おーぜ。ゴマ煎餅持って来たんだ」
「おまえ俺の話、聞いてるか? まあいいけど、流石に今はマズいだろ。先生に怒られるぞ」
誠司は首を伸ばして担任教師のいるであろう座席に目を向ける。ここからはあまりよく見えないが、注意されずにここまで来たとなると、今どうゆう状態なのかは容易に想像できた。
「うちのクラス担任は隣の女子の車両だよ。そんで誠ちゃんのとこの担任は、そこでいびきをかいて寝てるよ」
「そうか。やっぱりか」
周りを見回すと、飲み食いしている連中がけっこういた。
担任の島田の目がなければ、当然このくらい破目を外すだろう。
「とゆうわけだから遠慮するなって。ゴマ煎餅、誠ちゃんも好きだろ」
「まあ、嫌いではないけど……」
バリバリと音を立てて煎餅を齧り始めた勇磨につられて、じゃあ一枚だけと誠司も手を伸ばす。
昼食前に手を付けてしまったゴマ煎餅の味は、塩味が程よく効いていて、ベストチョイスと認めざるを得ない美味さだった。
「おまえらも食うか?」
大入りのゴマ煎餅を、勇磨は気前よく周りの席にいた連中にも振る舞い始めた。
勇磨は一見すると目つきも鋭く、いわゆる悪人顔の上に不愛想だった。
しかし、話してみると意外と気さくな奴なので、多少怖がられてはいるものの、男子生徒の間ではそれなりに受け入れられていた。
一方で、あまり話をする機会のない女子からはかなり警戒されていて、いつも不機嫌なちょっと怖い人で通っていた。
「悪いな新。一枚もらうよ」
煎餅につられ、別に意図することなく思いがけず人が集まって来ると、自然と話の輪が出来てしまった。
誠司もその中で煎餅を齧りながら、こういった場面にありがちな話に耳を傾ける。
「ここだけの話だけど、藤沢のやつ、修学旅行の間に古田にコクるって言ってた」
「ホントか? マジか?」
「あいつ本命いただろ。諦めたってことか?」
女子のいない車両だから堂々とこういった話ができる。
ややこしい恋の相関関係を語りだしたクラスメートに、分かり易く勇磨はつまらなさそうな顔を見せた。
「くだらねえ。女がするような話するんじゃねえ」
「なんだよ。新だって好きな子ぐらいいるだろ」
「そんなもんいねえよ。いたとしても軽々しく他人に話すかっての」
誠司のクラスで特にこういった話題に精通している久保は、自分のことは頑なに話さないが、他人の恋愛事情を仕入れては広めている迷惑な奴だった。
しかしながら、その手の話題は多くの男子生徒が関心を持っており、大いに需要があるものなのだ。
ちょっと迷惑な久保も、大勢のクラスメートの支持を得て、その期待に応えているという意味では、クラスに貢献しているのだと認めるべきだろう。
「じゃあ、新は聞き流してたらいいだろ。それでさっきの話なんだけどさ……」
「ああ、藤沢の本命の話だったよな」
一度水を差された話を久保がまた再開すると、関心を持っている男子数人が真剣な顔で参戦してきた。
誠司と勇磨は煎餅を齧りながら、たいして興味も無さそうな顔で聞き流す。
「藤沢はさ、丁度この前の学祭の打ち上げの時に本命に告ったらしいんだ」
「マジか? クラスの女子だよな。いったい誰に?」
「わかるだろ。お前らだって絶対気になってるあの美少女だよ」
「やっぱり時任か?」
その名前を耳にして、煎餅を齧っていた誠司の手が止まった。
少し眠たげだった瞼が大きく開かれて、隣に座る勇磨越しに、雑談中のクラスメートに目を向ける。先ほどまでの眠気は完全に吹き飛んだようだ。
あの学園祭の打ち上げのあと、時任ひかりはちょっとチャラい藤沢に告られていた。
それは時任ひかりに対する想いを隠し持つ誠司にとって、冷静さを失わせるにたる大事件だった。
聞き耳を立てる誠司に特に誰も気付くことなく、少年たちの話は佳境に入って行く。
「それで、それで時任は何て?」
「だからフラれたんだって。最初に古田に告るみたいだって話しただろ」
「ああ、そうだったよな。藤田のやつも気の毒に」
玉砕した藤田には悪いが、誠司はひっそりと胸を撫で下ろしていた。そして同時に、学園一の美少女に告白した藤田の勇気と無謀さに少なからず感心していた。
あの可憐な時任さんに藤田は絶対つりあわない。いや、つりあう奴なんているわけがない。
ホッとして、誠司はまた煎餅の袋に手を伸ばす。
二枚目の煎餅を齧ろうとしたときに、勇磨が意外な質問を投げかけてきた。
「なあ誠ちゃん、その時任ってどんな奴なんだ?」
聞かれた誠司も吃驚したが、そこにひと塊りになっていた男子全員が、信じられないといった顔を勇磨に向けた。
「新、お前なに冗談言ってるんだ?」
耳を疑ったのだろう。情報通の久保が気を取り直して勇磨に聞いた。
「冗談なんか言ってねえ。知らねえから聞いてるだけだ」
「嘘だろ。時任ひかりを知らない奴がいたなんて……」
久保は全く何も考えていなさそうな坊主頭をじっと見つめて首を傾げている。そしてぼそぼそと何やら呟く。
「信じられん。女に興味がないのか……そう言えばやたらとクラスが違うのに高木のとこに来てるし、今もこうしてべったりだということは……」
どうやら自分なりの答に行きついたようで、久保は誠司と勇磨から少し距離を取った。
「ま、色々あるよな」
そう呟いて久保が席に戻ると、ひと塊になっていた男子たちもスーッと散っていった。