第一話 第二王子の婚約破棄宣言・後
フラヴィアの知るクラウスはいつも静かに微笑んでいて、彼女がいくら困らせたり癇癪を起こしてもそれを宥めようと必死になるような気弱な人間だった。そう、この国の第二王子は争いを好まない平和主義者なのだと評判であるのに、目の前にいるこの男は何なのだとフラヴィアは混乱した。
そしてクラウスは、そんなフラヴィアには構わずに後ろを振り返った。
「パトリシア嬢、彼女に代わり私が謝罪をしよう。我が国の、いや私の起こした騒動に巻き込んでしまってすまない」
「……とんでもないことですわ。何より他国の人間であるわたくしが、殿下の謝罪をいただく訳には参りません。どうぞ、そのようなことはなさらないでください」
「いや、それこそ道理が通らない。君は謝罪を受けなければならないんだ。……本当に申し訳ない」
「殿下……」
二人の会話を眺めている周囲の反応も、徐々に変わりつつあった。そもそもフラヴィアの癇癪もその傲慢さも学院内ではかなり有名だったのだ。そしてクラウスがどのような人物であったのかもよく知られている。遠巻きの人々はこそこそと話し合い、ことの行く末を予想し始めていた。
クラウスは一拍置いて、父である国王に向き直った。
「陛下、申し上げた通り、私は不貞行為もそれに準ずる行為も誓ってしておりません。そのことは陛下ご自身が一番にご存じでしょう。何故、パトリシア嬢を呼ばれたのですか」
「……確かに透明な側衛たちからは、不貞行為の報告は受けてはいない。けれどお前が懇意にしている女子生徒ととして、その娘の名が挙がったのは事実だ」
国王も、顔には出さずに密かに動揺をしていた。二人目の息子が、ここまで意見の主張をしているところを見たことがなかったのだ。元々国王は慣例に則って、二人の息子の育児や教育にそこまで関りはしていない。父親としての彼の役目は、要所要所で必要な助言や苦言をすることだけだった。
何故こんなことになっているのか理解できない父の苦悩を知らずか、クラウスは国王の目をまっすぐに見た。
「懇意とは具体的にどういうことでしょう。私は彼女と生徒会の業務や勉強会で意見交換などは行いましたが、それはほかの友人たちとも同様だった筈です。またご存知でしょうが、二人きりになったことなどございません。生徒会業務も勉強会も、その場には透明な側衛たちのほかに複数の友人たちがおりました。何かの拍子に部屋に二人になったことはあっても、それはたった数分から十数分の間だけです」
「フラヴィア嬢から、よく庇っていたと。また明らかにほかの女子生徒よりも傍に置く時間が長かったとも聞いている」
「フラヴィア嬢からよく庇ったというのは、つまり、彼女がそれだけ執拗にパトリシア嬢を追い回していたからです」
「そ、そのようなことしておりませんわ!」
たまらずにフラヴィアが叫んだが、クラウスはそれを静かに睨みつけた。
「今、私は君とは話していない。陛下との会話に介入するなど、一体君はどのような身分を持っているんだ」
「――っ」
その分かりやすい怒りに、さすがのフラヴィアも口を閉ざした。第二王子であるクラウスと国王の会話を止められる者など、必要事項や緊急事態以外はそれこそ第一王子くらいのものだ。最初の許可のない発言もそうだったが、あれは後に許可を得られた。しかしもう先程までの空気感はない。フラヴィアはそれを理解し、小さく謝罪をして半歩下がった。
フラヴィアが下がったのを確認して、クラウスはまた国王に視線を戻す。空気は完全に変わっていた。
「パトリシア嬢は一年前、交換留学制度で学院にやってきました。そして隣国との情報交換を活発化させる為に、特例で生徒会活動に参加してもらったのも事実です。しかしフラヴィア嬢は何故か最初から彼女が気に入らなかったようで、何度もパトリシア嬢に嫌がらせ行為を行いました」
フラヴィアは、生徒会にぽっと出の留学生が入るのが気に食わなかったのだ。自身よりも確実に格下で大きな分厚い眼鏡をかけた野暮ったいパトリシアであっても、クラウスが穏やかな彼女に笑いかけるのが腹立たしかった。フラヴィア自身も生徒会役員になるだけの条件を満たしていたが、王子妃の為の教育が忙しいからと自分で拒否した彼女は年度途中からの介入もできず、その怒りは弱い立場のパトリシアにばかり向いた。まあ、嫌がらせはパトリシアが生徒会を手伝う前からの話なのであるから、隣国の子爵令嬢であれば何もやり返してこないだろうと初めから高を括っていたのだろう。
フラヴィアの嫌がらせの内容は、私物の破損や教職員への虚偽と印象操作、パトリシアを呼び出して友人を引きつれ複数で聞くに堪えない罵詈雑言を笑いながら吐くといったものだった。フラヴィアのその悪辣な行為を知る者は多かったが、けれど止められる者などおらず皆が見て見ぬふりをした。ただ幸いなことにパトリシアはフラヴィアの嫌がらせの躱し方をすぐに覚え、気にしていないように振る舞っていた。それでもフラヴィアの婚約者であり生徒会長だったクラウスには責任がある。パトリシアを守る為、必然的に近くにいるようにしてもいた。
「嫌がらせ行為を止めさせることを庇うというのなら、フラヴィア嬢がパトリシア嬢に付きまとった回数はしたでしょう。私がせずに誰ができるのです。……それも、透明な側衛たちから報告が上がっていたのではないのですか」
「そうだ、お前の行動は全て報告されている。お前の立ち回りが下手であったことも含めてな」
国王は、眉間に皺を寄せながらそう言った。国王とて、息子に無関心であった訳ではない。報告を聞き周囲に指示を出し、気弱な次男を管理していたつもりだった。しかし彼の次男は長男と違い要領が悪く、立ち回りも下手だ。その婚約者であるフラヴィアは多少傲慢なきらいはあるが、それでもそれは高位貴族にとっては許容される範囲のことで、そして彼女は立ち回りが上手かった。二人が夫婦になればどうとでもなると高を括っていた自分自身の甘さを、国王は苦々しく思った。
「フラヴィア嬢の問題行動を止めさせたいのであれば、逆にパトリシア嬢を遠ざけるべきだった。お前がパトリシア嬢に構い続けた結果、フラヴィア嬢も彼女に執着したのだろう」
「いいえ、フラヴィア嬢はパトリシア嬢に向かって『この国にい続ける限り貴女に安寧はない』と言い切っておりました。私との直接的な関わりがなくなっても、フラヴィア嬢はパトリシア嬢に嫌がらせを続けたでしょう」
「だとしてもだ、それはお前が前に出て解決せねばならないことではなかった。聞けば、パトリシア嬢は上手く躱せていたようではないか。お前が問題を複雑化させたのだ」
「いいえ、違います。フラヴィア嬢はただ自身の加虐欲求が満たされればそれでよかったのです。もしかすれば対象がパトリシア嬢から移った可能性はありましたが、それはただのいたちごっこで何も変わりはありません」
想像以上に返してくるクラウスに、違和感を覚えつつも国王は話を続けた。
「では何故、大元を叩かなかった。フラヴィア嬢が言ってきかないのなら、ゲミュート公爵に彼女の再教育を指示すればいい。教職員の一人ひとりにパトリシア嬢のことを頼むよりも学校内で差別やいじめについての講演をするよりも、先にやるべきことがあっただろうに」
「ええ、その通りです。もちろん、いたしました。フラヴィア嬢に直接注意しゲミュート公爵にご息女の生活態度の改善を求め、学院長には差別的な言動への罰則を求めました。ほかにもフラヴィア嬢が懇意にしている令嬢を持つ侯爵家や伯爵家にも彼女を助長させないようにと抗議しました。……そして結果、どうにもなりませんでした」
「だからそのやり方が――」
「その通りです! 貴方の息子は立ち回りが下手で、だからこそ誰も私の言うことなど聞かない!」
ここで初めて、クラウスの感情が弾けた。ずっと淡々と話していた彼は、父親を睨みつけながらそれでも呼吸を整えようと息を吸う。その背中をそっとパトリシアが撫で、クラウスはそれに笑顔で答えた。
一方、国王は絶句していた。彼の次男は、決して父親に対して怒鳴るような気性の持ち主ではなかったのだ。何が起きているのか、国王は理解できなかった。
「……失礼いたしました、陛下。ですが、貴方はご存じではないのでしょう。公妾の子として何の価値もないと言われながらも、王族として振る舞わなければならない苦痛を。王族として生きなければならないのに、周囲の者に命令を無視されそのことすら隠さなければいけない羞恥を」
「何を……」
「子どもの頃からずっと隠しておりました。いえ、何度も相談をしたいとは思っていましたが、何度申し出たとしても貴方は私に時間を作ってくださったことはなかった。やっと会えても、透明な側衛たちから私の現状を聞いている筈の貴方は『もっと上手く動け』としか言ってくださらなかった。……初めから国王となるべく生き、行動さえ示せば周りが付き従った貴方と私とでは根本が違うのだと理解しました」
クラウスは乱れた呼吸を整えようと、もう一度ゆっくり深呼吸をした。国王は口の渇きを自覚しながらも、何もできない。認めることはできなかったが、国王は確かに息子の告白に衝撃を受けていたのだ。
「その代わり国王とならねばならないプレッシャーを、私は知りません。陛下や兄上がどのような努力をされていたのか、想像しかできません。私自身の能力が低いことも努力が足りなかったことも否定はしません。……けれど私はもう、貴方の息子として上辺だけの王子の役割だけを演じ、そんな私を心から馬鹿にしているフラヴィア嬢を妻として、へらへらと笑いながらこの国で生きていくことに限界を感じたのです」
ずっと隠していた胸の内のほとんどを、クラウスはここで話しきった。この話はこの場でなければならなかったのだ。卒業と定められた結婚までの間で、忙しい国王に確実に会えるのはもうこの卒業パーティー以外ない。本当は何度も躊躇し思い悩みはしたが、その分とっくに覚悟はできていた。母の教えを愚直に守り、人と対立せず穏やかに生きてきた彼は、フラヴィアが言う通りに確かに学院での生活で変わってしまったのだ。しかしそれをクラウスは後悔していない。今の自分の方が、よほど自分らしいのだと胸を張れたから。
やっとのことでその意図を少しだけ理解した国王は、息子の成長を肌で感じてゆっくりと頷いた。しかし彼は父親であっても、王だった。息子であろうと、王命であった契約を手順も踏まず破棄しようとした罪は裁かなければならなかった。
「……王命に背く覚悟はできていると言ったな、それに嘘偽りは?」
「ありません。が、この件にパトリシア嬢は関係がありません。ほかの交換留学生と同じく、丁重に扱っていただきたい」
「約束しよう。お前は自身の処遇が決まるまで自室で待て」
クラウスは返事の代わりに頭を下げた。会場の人々はことの終息を感じ、小さく話をし始める。その会話は、もう止められるような規模ではなかった。
「つまり公爵令嬢様があの隣国の留学生さんを虐めて、それを王子殿下が庇っていたということ? お姉様、それで何で殿下がお叱りを受けるの?」
「やり方が駄目だったというか……。それが規則や法律というものよ。貴女も来年から学院に通うのだから、きちんと学びなさいね」
「でもちょっといい気味かも。ゲミュート公爵令嬢には何度か酷い言葉をかけられたんだ。あっちは平民の顔なんて覚えてもいないだろうけどな」
「しっ、あのご令嬢様は意地悪で執念深くて有名だぞ。目を付けられたらどうする」
これらはおそらく、学院に通っていた卒業生たちの声。
「ゲミュート公爵はご息女の教育をされないどころか、王子殿下の言葉を軽んじていたというのか……」
「そもそも王子妃としてゲミュート公爵令嬢は相応しかったのか? 優秀だと聞いていたが、それでも性格に難がありすぎるだろう。高貴な人々は家柄しか見ていなかったのか?」
これらはおそらく、生徒の父兄である下位貴族たちの声。
「さすがのゲミュート公爵家でも、隣国の留学生に嫌がらせを繰り返していたことがこんなに知れ渡ったんじゃあ不味いんじゃないのか? ここまでの騒ぎになれば、被害者が子爵令嬢とはいえ隣国も黙っていられないだろうし」
「確かに不味いだろう。ゲミュート公爵主導の公共事業に出資しようと思っていたが、考え直した方がいいようだ」
「泥船には乗らないのが吉ですからな。我々も系列事業に人を出す予定でしたが、取りやめも視野に入れねば。……いや、ゲミュート公爵はこの国の次席と言っても過言ではない。王族が貴族をコントロールできていないのなら、この王国から撤退する算段を考えてもいい頃合いではあるかもしれません」
そしてこれらはおそらく、招待された商人や資産家たちの声。
高位貴族たちはさすがに言葉を慎んでいたようだが、青ざめている者や難しい顔をしている者、素早く家に使いを出した者など動揺は大きい。しかし国王は胸を張り、口を開いた。
「皆の者、せっかくの目出度い席に水をさしたな。遅くなったが、皆の卒業を祝おう。最近開発されたばかりの林檎酒を出すので、楽しんでほしい」
人の口には戸が立てられないことを、国王はよく知っていた。だからこそ、あえて口外をするなという無茶な命令は下さない。しかし貴族たちは国王の言葉の意味を読み取り、静かに首を垂れた。つまらない噂を流せば、自分たちの命取りになるのだと正しく理解していたのだ。作法がままならない平民やその父兄たちも、貴族たちに倣って姿勢を低くする。
そんな中、ぱちぱちぱちと、その場に不釣り合いな拍手が響いた。
「……っ、誰だ!?」
ずっと黙っていたゲミュート公爵が、怒りの矛先を見つけたとばかりに叫んだ。