第一話 第二王子の婚約破棄宣言・前
契約の解消または破棄には、然るべき手順が必要だ。王政においては特に王命によって整えられた契約を解消または破棄することは困難であるが、手順さえ踏めば処罰の対象になることを避けられる場合もある。訴えを起こし書類を提出し、説明をする。簡略ではあるが、つまりそれだけをすればいい。しかしどうにもそれができないことがあるのだと、モナルヒ王国第二王子であるクラウスはパーティー会場で自嘲した。
王城で開催されたこのパーティーは、モナルヒ王立学院の卒業を祝う為のものだ。モナルヒ王立学院とはこの王国で一番に大きな研究教育機関で、魔法から政治、農業や数学、芸術に考古学など様々な学問を学び研究している場であり、貴族も平民も関係なく王国中から優秀な人材が集まる最高学府でもあった。平民の識字率や教育費の関係で貴族の割合が多いのは事実だが、その分平民の成績優秀者には学費の免除制度などもあり平民の学者も多く在籍している。
学生としてモナルヒ王立学院を卒業する者は、社交界や政治に参加したり研究者や文官として働きに出たりなど様々な道を進む。このパーティーはその前祝いだ。平民の身分や貴族であっても下位の者たちではそうそう訪れることのできない王城のパーティー会場を未来ある若者に広く開け放つこの日は、ここにいるほとんどの者にとってとても特別な日だった。彼らはこれからの輝かしい未来を想像し、期待と不安の両方を抱えながらこの素晴らしい卒業パーティーに参加している。けれどクラウスは――。
「フラヴィア・ゲミュート公爵令嬢、君との婚約は本日をもって破棄する」
卒業生たちに祝辞を述べに現れた父王の前で、生まれる前から決まっていた婚約者に対してそう言い放った。
クラウスに名指しされたフラヴィアは、あまりのことに一瞬呆然としたけれど淑女らしく感情を呑み込んで背筋を伸ばし口元を引き上げる。その堂々とした振る舞いは、周囲の者へ多少の安心感をもたらした。
「申し訳ございません、クラウス様。仰っていることがよく分からず、もう一度お聞かせ願えますでしょうか?」
「ああ、君と私との婚約を破棄すると言った。聞こえただろうか」
「……ええ、ありがとうございます。ですが、わたくしとクラウス様との婚約は王命。それも我々が生まれる前から決まっていたことですわ。わたくしが破棄を受け入れようと入れまいと、わたくしや第二王子である貴方の思い通りになる事象ではありません」
「理解している」
フラヴィアから視線を外したクラウスは、国王に向かって跪いた。
「父上……いえ、陛下。王命に逆らうことへの処罰を受ける覚悟はできております。どのようなご判断にも従う誓いをここに」
「……クラウス、お前は自分が何をしているのか理解しているのか」
「ええ、確かに」
国王が怒りを抑えきれずに声を震わせたが、対するクラウスはひどく落ち着いて淡々と返事をする。異様な空間に会場にいる人々は皆、固唾を呑んだ。
国王の後ろに控える宰相でありフラヴィアの父でもあるゲミュート公爵が顔を真っ赤にして一歩踏み出そうとしたのを、先に呼吸を整えた国王が留めた。
「その覚悟とやらはどのようなものだ。身分を剥奪され身一つで市井に投げられても、一生この王国に戻ることを許されなくとも、毒杯を授けられても、黙って受け入れるとでも言うつもりか」
「陛下の御心のままに」
「儂が、息子であれば恩情をかけ見逃すとでも思っているのか……!?」
「いいえ、決して」
激昂しかけている国王とは対照的に、やはりクラウスは冷静で淡々としていた。普段の彼とは多少違うその姿に、周囲の人々は眉間に皺を寄せる。
クラウス・モナルヒとは、現モナルヒ国王の公妾が産んだ第二王子だ。第一王子を産んだ王妃が亡くなったあと、すぐに迎えられた公妾が産んだ男児として幼少期から微妙で繊細な立ち回りを要求されてきた人だった。クラウスの母である公妾は侯爵家縁の王宮メイドだった人で、彼のことを思いいつも「決して出過ぎないように。第一王子の邪魔になるようなことや目立つことは避けて、いつも穏やかに微笑んでいるように」と言いつけていた。そして自身が王宮にい続けるのも息子の邪魔になるだろうと、今は離宮に引きこもり静かに息を潜めている。
母の教えを守り、クラウスは穏やかであろうと常に心がけていた。その優しげな雰囲気は喧噪や嫉妬、王位略奪などとはかけ離れていて、反第一王子派でさえ彼に接触していこうとする者は少ないくらいだ。公妾の教えはきちんと彼を守っていた。それなのにどうしてこんなことになったのかと国王は頭を抱えながら、息子の背後で事の成り行きを見守っている集団の中の一人を見た。
「……それは、お前の後ろにいるアルメヒティヒ王国の子爵令嬢の為か?」
クラウスは、そこで初めてぴくりと身じろいだ。国王はその様子にため息を吐き、手を上げる。
「パトリシア・クライネ嬢、前に」
「陛下、彼女は関係がありません」
呼ばれた令嬢は、隣国アルメヒティヒ王国からの留学生だった。卒業パーティーに相応しい華やかな衣装を身に着けているものの、丸く分厚い眼鏡のせいか少し野暮ったく見える。国王の言葉に思わず立ち上がったクラウスは彼女を庇ったが、国王の呼びつけを無視はできない。令嬢は表情を硬くしながら、そっと前に出た。もう一度クラウスが口を開こうとしたが、それは別の声にかき消される。
「関係がないだなんて、よくそのようなことを仰いますね。わたくしも存じておりましたわ、貴方と彼女が不貞行為に及んでいたのだと」
そう発言したのはフラヴィアだ。本来国王が会話をしている最中に許しもなく言葉を発するのはご法度であるが、状況が状況の為に国王はそれを黙認した。
第二王子の婚約者に相応しく、そして公爵令嬢として淑女然としたフラヴィアは美しく微笑んだ。
「発言の許しも得ず、申し訳ございません、陛下」
「いやいい、許そう。続けなさい」
「寛大なご配慮、ありがとうございます」
フラヴィアは国王からの正式な許しを得て、クラウスとパトリシアに向き直った。
「……クラウス様、貴方はパトリシア嬢が学院に来てから変わってしまいました。生徒会の業務と嘯いて、よくお二人で一緒にいらっしゃいましたね。学院の中のことだけだと、わたくしが黙っているのをよいことに随分と楽しくお過ごしでしたこと。そしてわたしくへの当てつけとして悲劇の主人公気取りとは、もう呆れてものも言えませんわ。国税で生きる我々貴族の責務を、民たちからの信頼を何だとお考えなのです。貴女もですわ、パトリシア嬢。交換留学制度は我が国とアルメヒティヒ王国との大切な交流でしたのに、このような騒ぎを起こす一端となったこと、どう責任を取るおつもりなのです」
フラヴィアの変わらぬ堂々たる姿勢に、父であるゲミュート公爵は小さく頷く。しかしクラウスもしっかりと背筋を伸ばし、フラヴィアを見つめ返した。まるで、自身に過失があると思ってはいないような雰囲気であった。
「フラヴィア嬢、不貞行為と悲劇の主人公とは手厳しいが、その証拠を君は出せるのだろうか」
「ええ、勿論。我々に付いていた、透明な側衛たちが証明ですわ。貴方とパトリシア嬢が何度も生徒会で二人きりになっていたことを彼らは知っています」
透明な側衛たちとは、この国で王族やその関係者に付く護衛たちのことだ。近衛とほぼ同じ業務内容ではあるが、透明な側衛たちは特殊な魔法で常にその姿を隠し護衛対象に付き従っている。
「ふむ、では君は我々が二人きりになったということで、それを不貞と言うのだな」
「何が仰りたいのです?」
「透明な側衛たちは、自室以外では常に私の傍に控えている。今もだ。君の言う通り生徒会室で私とパトリシア嬢が二人になった時間帯があったとしても、その時ですら側衛は私の傍で護衛をしている。つまりこの時点で二人きりではない。君の言う不貞行為とは、ほかに何のことを?」
そこで初めて、フラヴィアは眉を僅かに動かした。
「透明な側衛たちは、人数には含まれないでしょう。彼らはもの言わぬ人々。特に王子であるクラウス様に対して苦言を呈せる身分を持ってはいないのですから」
「論点がずれているぞ。君は、私とパトリシア嬢が二人きりでいたことを不貞行為だと言い切ったのだ。しかし私は二人きりになったことはないと言っている、透明な側衛たちの身分はここでは関係がないだろう」
クラウスの主張は、正論であるかもしれなかった。それでも反論をしようとするフラヴィアを、今度はクラウスが自身の声で制する。
「更に、透明な側衛たちは私ではなく国王に従う者たちだ。私の行動に不義があれば、彼らはそれを国王に報告する。当たり前だろう、君は公爵家の人間であり現宰相の娘で政治的にとても重要な位置にいる。そんな婚約者を持つ私が、不貞行為など気の迷いだとしても許される筈がない。……陛下、彼らから私の不貞行為の報告はございましたか?」
国王はその問いに答えなかったが、それはつまりないと言っているのと同義だった。周囲で話を聞いていた人々は、お互いに顔を見合わせる。ほんの少しの変化ではあったが、明らかに流れが変わりつつあった。
「……透明な側衛たちを脅したのですか?」
「さっきも言ったが透明な側衛たちは私ではなく、国王陛下に直接仕えている精鋭たちだ。私が何かを命じたところで、彼らは私の言葉など聞かない。それは君が一番分かっているのではないか」
「何のことです」
「君が常々言っていたことだ『第二王子は二心も野心もなく穏和だが、だからこそつまらなくて誰も従わない』とね。その通りだと、私も思う」
「……っ」
ここでやっと、フラヴィアの表情が崩れた。しかしクラウスは変わらない。パトリシアを後ろ手で庇いながら、まっすぐフラヴィアと向き合っている。
「悲劇の主人公気取りというのは、あえて否定はしない。この国の王子でいることも君の婚約者でいることにも限界を感じてこんな騒ぎを起こしたのだから、その程度の汚名は当然だろう」
「っ、それはわたくしへの皮肉ですか」
「違うが、君がそう感じたとしても謝罪はできない。しかし君には謝罪を要求する」
「な」
「パトリシア嬢に謝罪を。私の行動と彼女には何の関係もない。隣国からの交換留学制度は、さっき君が言った通り我が国と隣国との大切な交流だ。その留学生を誤解でもって糾弾したなどと。あってはならないことだろう」
「何故わたくしが、子爵家の娘ごときに!」
フラヴィアは顔を真っ赤にしてそう叫んだ。先程までの淑女は、もういなかった。しかし仕方がない、フラヴィア・ゲミュートとは本来そういう人間だった。
公爵家の娘として何不自由ない生活をし十分な教育を受け、そして第二王子妃になることを生まれる前から定められてたフラヴィアは、おそらく同世代の誰よりも恵まれていただろう。王太子である第一王子の妃はいずれ王妃となり国母となる緊張感を常に感じなければならないが、第二王子妃にはそれがほぼない。第一王子が国王となり、第二王子が王弟となってもその仕事は政治よりも広報や社交が主だろう。責任は国王夫妻の半分以下だけれど、地位は彼らのすぐ下だ。フラヴィアは、幼い頃から自身がこの国で最もよい身分を約束されているのだと確信していた。
だからなのか、フラヴィアは子どもの頃から多少傲慢な気質を見せていた。それは子どもらしい自己中心性でもあった。けれどフラヴィアが公爵令嬢であり未来の第二王子妃であったことから、その傲慢すら貴族の矜持などととらえられ誰も彼女を注意はしなかった。傲慢ではあったけれど、フラヴィアが有能であったことも原因の一つだろう。
フラヴィアは暗記が得意で、多くの本を丸々覚えて諳んじることができた。文化芸術への関心も高く複数の楽器を弾きこなし、会話も得意で社交にも問題がなかった。教育係たちのほとんどが第二王子妃として不足なしと太鼓判を押していたのだ。
ただフラヴィアは、想定外のことや自身の思い通りにならないことには昔からすぐに癇癪を起していた。彼女はその日の気分のおやつが出てこないだけでメイドを叱りつけ料理長を呼び出してコップを投げるような子どもで、成長と共にその激情を上手く隠すようになったが本質は変わっていないのだ。子どもの頃から争いを避けて通ってきたクラウスには、あまりにも刺激的な婚約者だった。
「隣国のしかもたかだか子爵家の娘に、公爵家の人間であるわたくしが謝罪をする必要などどこにあるというのです!?」
「理由は既に示した」
「ふざけたことを仰らないで! 卒業パーティーの日に婚約破棄などと言い出すような頭のおかしな貴方の指示など、誰が素直に聞くというのです!」
「また論点がずれた。私は君の質問に答えたが、君は主語を入れ替えてそれがさも正しいかのように話を進める。君との会話はいつもこうやって成立しなくなる。私はもう、そんな君には付き合いきれないんだ」
クラウスがきっぱりとそう言い切ると、フラヴィアは拳を握りはくはくと口を動かした。けれどそれは言葉にはならない。フラヴィアは焦っていたのだ。クラウスがここまで言い返してくるなど、彼女は夢にも思っていなかった。
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