もういいかい
このテレビと目覚まし時計は何かって? ちょっとした気分転換だよ。うるさくて聞き取りづらい? そりゃ悪かった。だけど止めるつもりはない。
「何があった」って?別に大したことは何もないよ。
だからもう帰っていいぞ。俺はもうしばらく休む。有給はまだ何日か残ってたはずだしな。
……お前もしつこいな。何もないよ。大した話は何もない。話せば楽になる? ああ、そうか。そうかもな。
ただ単に、夢を見たってだけだ。夢って、夜見る奴な。
夢の話。それも、他人の夢の話だ。これ以上ないほどどうでもいいモンだろ。
それでも聞きたいって言うなら、まあ、話してもいい。
その日、俺はすげえ疲れてて、帰ってくるなり風呂にも入らず万年床の布団に入って寝た。汚いって言うなよ。わかってる。疲れてたんだよ。
で、意識を失う間際に「あはははは」って笑い声が耳元で聞こえてさ。
目を開けたら、自分がどこか別の場所にいることに気がついた。
そこが夢だってことは一瞬でわかった。夢だけど、でも体は自由に動いて、痒さとか痛さとかは普通にあった。ともすれば現実以上にリアルな感触だった。
そこで最初に感じたのは臭いだった。夏場に常温で放置した生肉が腐ったような、酸っぱくて吐き気のする臭いが風が吹くたびに顔に吹きつけられる。でも、吐こうとしても何も出てこない。指を突っ込んでみても、あるのは苦しさだけだった。
そんな悪臭に慣れて、落ち着いて辺りを見てみると、月がない真っ暗な夜で、地面は泥みたいなのでぬかるんでた。臭いの元はその泥だと思う。着ていた服は上も下もすぐに真っ黒になって、靴は足を動かすたびにぐちゃぐちゃと嫌な音をさせた。
俺の周りには俺以外の人も何人かいて──ああ、男も女もいたんだよ──でもその人たちはただボーッと突っ立ってるだけだった。俺みたいにはっきりとした意識はないみたいだった。
そんな俺たちを囲むように、東西南北色んな方向に赤い鳥居が何本も何本も立ってるんだ。
真っ暗なのに何故か周りのものがよく見えたのは、こうして思い返すと夢だからだと思う。
そうなんだよ。よく見えた。だから、見えちゃったんだよな。
赤い鳥居の影に、人影があったんだ。何人もいた。どの鳥居にもいて、男の子も女の子も、おっさんもおばさんも、爺さんも婆さんもいた。
それを見たときにゾワッとした。本能的に、この世にいちゃいけないものだと思った。
全員、顔がなかったんだ。
目と鼻と口には真っ黒な穴が開いてて、黒い泥みたいな液体をダバダバ蛇口みたいに垂らしてた。
そいつらがゆらゆら不規則に揺れながら「もういいかい」「もういいかい」って言ってる。無邪気な声で。笑いながら。ごぽごぽという水音混じりで。
俺は耳を塞いだんだけど、その声はずっと聞こえてくる。耳に泥がこびりつくように。
「もういいかい」
「もういいかい」「もういいかい」
「もういいかい」「もういいかい」「もういいかい「もういいかい「もういいかい「もういいかい「もういいかい「もういいかい「もういいかい「もういいかいもういいかいもういいかい
「もういいよ」と、隣の人が言った。
すると、そいつらは笑いながら、ふらふらした足取りで走ってきたんだ。
それから、全身に飛びついてひっついて、全身から黒い泥を垂れ流しながら、全身をくすぐってきた。
「あははははははは!」囲んだ連中が笑う。
「あははははははは!」囲まれた人が笑う。
叫ぶような大声だった。
それをきっかけに、他の人たちも次々、虚ろな表情のまま「もういいよ」と言い始める。
「あははははははは!」「あははははははは!」「あははははははは!」
大きな笑い声が響く。
「あははははははは!」
俺は気づいた。笑い声じゃない。
これは、わめき立てる悲鳴なんだ。
苦しさで言葉が発せなくて、それでも声を上げている姿なんだ。
ある時、笑い声がぴたっ……と止まった。
何事だろうと目を開けたら、
全員の顔が、俺の方に向いていた。
「もういいかい」
よくない。いいはずがない。
「もういいかい」「もういいかい」
やめろ。目を閉じる。下水道のヘドロが腐ったような臭いがする。「もういいかい」俺の肌が触れるか触れないかの位置に立っているのだと体温で俺に知らせる。「もういいかい」「もういいかい」声は止まない「もういいかい」耳元から聞こえる「もういいかい」背後から聞こえる「もういいかい」「もういいかい」足元から聞こえる「もういいかい」「もういいかい」首から聞こえる「もういいかい」やめろ「もういいかい」やめろ「もういいかい」目覚めろ「もういいかい」これは夢だもういいかい早く目覚めろもういいかい目覚めろもういいかいめざめろもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかい
もういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういいかいもういい──
──あ、ああ。すまん。ちょっと意識が飛んでた。
話の続きだよな。続きというか、終わりだけどさ。
そのあと、俺は叫びながら目が覚めた。
仕事は休んだ。というか、お前も知っての通りその日から行ってない。
精神科? 行ったよ。俺の話を聞いて即座に睡眠薬を処方してくる最高の先生だったよ。処方箋ごとゴミ箱にぶち込んである。
ただの夢? ああ、そうだな。
でもさ。朝起きてから付けたテレビで俺、偶然見ちゃったんだよ。
「もういいよ」って答えちゃった人のうちに、それなりの有名人がいたらしくてさ。
死んだってニュースがちょうどやってた。
死因は深夜の窒息死。
なんでも、横隔膜が破裂してたんだと。
それを聞いて、俺はくすぐられて、大声を上げて、ひたすら笑いわめいていた姿を思い出した。
くすぐられて、くすぐられて、くすぐられてくすぐられてくすぐられて、陸で溺れるように死んでいったであろう姿を。
そして、ほんの少しでも目がさめるのが遅かったら、きっと俺もそうなってたんだろうな、と思った。
だって、俺はもういいよって叫びながら起きたんだからさ。
だからだろう。
今も、俺の耳元では「あはははは」「あはははは」って声が聞こえ続けている。
テレビの音じゃかき消せない、ごぽごぽという、汚泥混じりのもだえる声が。
あははははと呼ぶ声が。
俺はあれから寝れてない。
寝ようとも思わない。