婚約破棄なんて認めない
「グリーヒルダ・ディルトレイム侯爵令嬢、そなたとの婚約を破棄する」
一切表情を見せぬ鉄面皮で、ゲイズ国王太子フィオテリスはそう告げた。社交シーズンの始まりを告げる王室主催の大舞踏会に婚約者ではない女性をエスコートして現れた王太子は最初から侮蔑と好奇に満ちた視線を向けられていたが、まさにその婚約者が入場してきた途端に婚約破棄を叩きつけたところで集まる視線の数は頂点へと達した。
ちらりと周囲に目を走らせ、次にフィオテリスがエスコートしている女性の顔を確認し、ひっそりとグリーヒルダは肩を竦め、無言で次の言葉を待った。結い上げた髪から頬に落とした赫金色の一筋がゆらりと揺れる。
「そして私は我が従妹、フォーラ・エオスタ伯爵令嬢と婚約する」
フィオテリスと揃いの銀糸のような髪に、深い青の瞳を持った伯爵令嬢がそれに合わせて優雅な礼を取る。銀の細い髪はエオスタ伯爵家によく現れる髪質で、王太子であるフィオテリスにそれが現れたのは生母がエオスタ伯爵家から後宮入りした側室だからだ。グリーヒルダよりは幾つか年下であろう伯爵令嬢の微笑みは、可憐というにはどうしても悪意が滲み出ている。
王妃になるとしたら念入りに教育が必要でしょうね、とグリーヒルダは思う。本当に『王妃になるとしたら』だが。
少なくとも正妃となるにはエオスタ伯爵家では家格が足りない。建国以来の貴族もしくはその分家、あるいは侯爵家以上、それがゲイズ王国の正妃を輩出できる家格と定められているゆえ、50年ほど前の他国併合時にゲイズ王国の伯爵として吸収されたエオスタ家はどちらの条件も満たしておらず、フォーラ嬢が正妃となるにはエオスタ家が侯爵以上に叙されるか条件を満たす家の養女となるしかない。
まぁ、この場でそれを指摘しても仕方がない。ここで行動に出るということは、目処はついているということなのだろう。
少なくとも王太子とエオスタ伯爵家は、それぞれそう認識している。
「お話承りました」
口元を隠していた扇を畳み、丁寧な淑女の礼を取る。一つの揺らぎもないカーテシーはその優雅さとは対極に、コルセットで固定された上体と布地を重ねた案外に重いドレスを体幹で支えきる力技だ。侯爵令嬢として、そして未来の王妃として幼い頃より修練を積んできたグリーヒルダは、カーテシーを始めとする礼式の美しさには絶対の自信を持っている。
婚約破棄された程度では揺らがない誇りと自信が。
(――それにしても)
フォーラ嬢に熱い視線と扇で隠しもしない笑顔を向けられたフィオテリスが柔らかな微笑みを返す様子から、そっと目をそらす。再び広げた扇で引き締めた口元を隠し、通ったばかりのエントランスを引き返して侍従へと退室を告げる。
(あのような顔、見たくはなかった。……テリー)
ディルトレイム家の馬車に乗り込むとすぐに父と兄に使いを走らせる。待機していた侍女から濡らした手巾を受け取ると、荒っぽい手付きでグリーヒルダは幾分厚化粧の顔を擦るように拭った。
とりあえず命じられた処分が自室での謹慎であったことに、甘いものだなとフィオテリスは礼装を脱ぎ部屋着へと腕を通しながら内心呟いた。その場で廃嫡の上幽閉という可能性も高いと思っていた。
とはいえそれも遠い未来のことではないだろう。長らく己のみであった王位継承者は、2年前に正妃所生の双子の王子と王女が生まれたことで安泰となった。逆に言えば火種ができた。
火種とは年の離れた弟妹のことではない。己自身だ。
エオスタ伯爵家から後宮入りした側妃である母は、正妃の妊娠が公表された頃から裏で何やら画策しているという。それでも無事に生まれたということは、隣国の王女である正妃の側近が優秀であるのみならず、国王が本腰を入れてその身を守り抜いたということに他ならない。実際に国王は私的な時間はほとんど正妃と双子の子供達と過ごしており、それで母がひどく機嫌を損ねているのはよく知っていた。
元より決して愛されて側妃となったわけではない。当時はまだ王太子であった国王へと懸想し、媚薬を用いて事に及び、すぐに幽閉されて数週の後に妊娠が判明したのである。恋に狂ったと思われ、しかし王家嫡流を唯一継ぐ子を生んだ功績で側妃へと封じられた己の母が、実際は実家であるエオスタ伯爵家の意を組んで動いていたということをフィオテリスは知っている。従妹である伯爵家当主の令嬢が、あからさまな意志を持って近づいてきたのも。
知った上で――、
「近侍の交代をお許し願います」
「ああ、頼む」
部屋着へと着替える手が止まっていたことに気がついて、急いで残りを済ませて振り返る。
「え?」
交代したはずの近侍がお仕着せのままソファに座っている。当然部屋の主である自分の許しがなければ不敬に当たる行いだ。ほぼ対等の立場である妃か、せめて婚約者でもなければ。
「やあさっきぶり、テリー」
「な、なななんっ……」
叫びそうになった口を慌てて閉ざす。動揺を悟られるわけにはいかない。
どこに誰の目があるのかもわからないような状況だというのに。
「ああ大丈夫、少なくとも今の近侍は全員うちの親族か子飼いだから」
「そうか、じゃあ……」
もう一度大きく息を吸って――吐き出す。驚いてはいるがいまさら叫ぶほどの勢いはもうなかった。
「ヒルド、なんで君がそんな格好でここに……」
「ちゃんと正式な任命だよ? こんなこともあろうかと騎士叙任を受けておいたんだ」
「いつの間に」
「うちは武門貴族だからね、入団資格のための勉強はなかなかいい息抜きだったよ」
王太子近侍の制服である深紅の制服、先程は結い上げていたはずの赫金色の髪はばっさりと切られて肩につかない程度で揃えてある。平然と用意されたクッキーを一つ口に放り込み「毒は入ってないよ」と差し出してくるのは、先程『元』がついたはずの婚約者グリーヒルダ・ディルトレイムその人だった。
「あ、いやそれだけじゃなくて! なぜ、そんな格好で……」
「流石に令嬢の格好のままでこんな夜更けに来れないよ、しかもお互い渦中のど真ん中だろ?」
「なんで渦中に戻ってきたんだ……」
とりあえずクッキーを受け取るも、食べる気力もないままフィオテリスはグリーヒルダと向かいのソファにどさりと腰を下ろす。
母の実家の令嬢を婚約者に据える、というのは母の意に沿ったものだったが、それを重大な社交の場、しかも王室主催たる大舞踏会をぶち壊す醜聞としたのは己自身の意志だ。瑕疵もなく婚約破棄されたグリーヒルダには幾らかの悪意ある噂が纏わりつくかもしれないが、騎士総長という軍事のトップに君臨するディルトレイム侯爵家の令嬢ともなれば新たな縁談には事欠かないだろう。しかも婚約破棄した相手は廃嫡され、その外戚は没落――あるいは断絶、となれば、どちらに非があるのかは明白だ。
なのに。
「ディルトレイムは深夜に侯爵令嬢を王太子の部屋に送り届けるような真似は苦手だけど、その王太子の部屋の護衛や近侍の担当を調整するのは大変得意なのさ」
巻き込まれないように自ら遠ざけたはずの彼女は、あっさりと一番近くまで戻ってきてしまった。
そして。
「それに巻き込まれたまま外戚と心中する気の婚約者を助けに来るのが騎士ってもんだろ?」
侯爵令嬢としては決して見せない、けれど2人きりか騎士団の訓練場にいる時にはよく見せていた悪戯めいた表情で、フィオテリスの愛する人はにやりと笑ってみせたのだった。
実際、ディルトレイム侯爵家は代々武門を纏め上げる家であり、いわゆる社交や宮廷政治というものにはあまり関わっては来なかった。文官の長である宰相が公爵家から選ばれるか、少なくとも就任中は公爵相当の待遇を受けるのに対して、歴代の騎士団総長を務めるディルトレイム家は建国当時からの譜代でありながら侯爵のままである。おそらくそれに不満を持つような当主が出ていれば騎士団総長の地位を世襲独占することもなかったのだろうが、総じてディルトレイムの者達には政治的野心というものがなかった。
戦争となれば軍を束ねて堂々と武勲を重ね、平時は訓練と治安維持に務める。武官の地位は文官よりも低い代わりに、平民であっても志願兵となることに制限はなく読み書き計算程度の教育も受けることができる。武人としての才覚さえ示せば騎士となる機会もあり、そうでなくても俸給は下位の文官より高い。王家直轄地だけでなく貴族領であっても特に村落地帯の防衛は騎士の率いる王国兵に任せるところが多く、ゆえに地方から王都に出てきて兵士となり、赴任という形で故郷に戻ることも可能である。事実それを希望する民も多いため、ディルトレイム家が基礎教育と教練のために国王から認可を得て設立した兵学校の入学時期に合わせて王都まで送り届けるのは騎士団の業務のうちだ。それは王都から出たことのない騎士を地方へ派遣し実情を見せ、民との交流を促すという研修も兼ねている。
名誉なき代わりに徹底的に実益――いわゆる福利厚生を突き詰めたのがこの国の軍人であり、それを制度化し纏め上げているのがディルトレイム家である。
そしてエオスタ伯爵家はゲイズ王国に吸収される前から生粋の文門貴族である。以前からそうだったとのことだが、武官や軍人を軽視する派閥の中でもことさらの過激派であった。下賤な軍事など奴隷にでもやらせておけばいい、が口癖である。なおこの国では既に建国当時には奴隷制度は廃止されている。
そもそもかの国が併合される際とて、向こうの国軍の度重なる国境侵犯と近隣の村への略奪に珍しく当時の騎士団総長、すなわちディルトレイム侯爵が完全にキレてゲイズ国王に直訴状をぶん投げた結果である。「さっさと宣戦布告してくれないなら独立して自分でやります」という脅しは今でも当時はまだ王孫だった国王陛下が遠い目して語るほどの大騒動を巻き起こし、3日後というとんでもないスケジュールで宣戦布告が済んだかと思えば破竹の進撃と略奪で荒れた村の救済を同時進行で進め始め、1ヶ月しないうちにクーデターが起きて国王と王太子が『名誉を以って死んだ』後に遺された王女が併合と有能で誠実な商人の派遣を依頼してきた。国の困窮にも開かれることなかった宝物庫の中身を適正価格で売り飛ばして復興費用に当てたいとのことだったが、丁寧な見積もりの後にゲイズ国の御用商人が王城まで『丁寧にバラせば資材として売れる』という見積書を提出したところ、王女は三回読み直すと躊躇うことなく売約契約書にサインした。「その慎重かつ大胆なところに惚れた」とは当時のディルトレイム侯爵であり、グリーヒルダの祖父の口癖であり盛大な惚気である。その隣で当時は王女であった元侯爵夫人、グリーヒルダの祖母は頬を染めて微笑むのが日常だった。共に領地に隠居して壮健である。
なおこの話は完全に余談だが、あっさりとこちらの進撃にクーデターまで起こして白旗を掲げたという顛末にも関わらず、かの国からやってきたエオスタ伯爵はバリバリの武人蔑視者であった。曰く「クーデターが起きていなければもっと有利な条件で講和できた」とのことである。
もちろん攻めてきたディルトレイム侯爵はクーデターを起こした王女と結婚したこともあって、完全に目の敵であった。それぞれに代替わりしてもそれは変わらない。
ではなぜエオスタ伯爵の血を引く王太子の妃としてディルトレイム侯爵令嬢が選ばれたのか。
はっきり言えばバランス調整である。
外戚としての権力を狙うエオスタ伯爵家に対して、ディルトレイム侯爵家は騎士団と王国軍の維持経営さえしていれば基本的に満足、別に戦争すら自ら求めるわけではないという扱いやすい脳筋家系であった。かの国の件は宣戦布告もせずにこちらの領土への略奪を繰り返したからこそのガチギレである。ディルトレイム家は兵士軍人の福利厚生に余念はないが、その分軍規と倫理を常に重視するのだ。敵地で略奪しなくても、庇護すべき住民から収奪せずとも余裕のある給金と、その武力を振るう対象を明確にする倫理、退役後も生活できる最低限の教養、そして強制せずとも向けられる自然な尊敬と感謝。それらはディルトレイム侯爵家が培ってきた『軍事の存在理由』であり、兵士としての質を落とさぬまま王国軍を自然と適切な治安維持組織にもしていた。
手っ取り早く言えば民衆からの支持が高く、それでいて野心もなく権力闘争に加わるつもりもないため敵が少ない。目立つ敵対者はまさにエオスタ家のような武人蔑視派であるが、グリーヒルダの父であるディルトレイム侯爵は条件を一つだけつけてグリーヒルダと王太子フィオテリスの婚約を受け入れた。
それは「王太子の武術訓練を騎士団にて行う」ということである。
無論フィオテリスの母とエオスタ伯爵家は物凄く反対したが、では暗殺などから身を守り、いざとなれば従軍して軍の士気を高めることも役割とする王太子に必要な武術を身に着けさせられるのか、と半ば国王が恫喝して認めさせたのだ。それまで気まぐれな母親に過保護で過干渉に育てられていたフィオテリス王太子は当時8歳、グリーヒルダ侯爵令嬢も同い年。まだ子供向けの半袖サマードレスで対面した彼女を見た時、フィオテリスは目を丸くした。腕も脚もびっくりするほど太かったのだ。
フィオテリスはほぼ部屋から出されない生活を送っていたため運動不足ではあったが、むしろそれが不健康な細さに繋がっていた。母親も侍女達も細身であり、だから健康的に鍛えられたグリーヒルダの手足は太く、そして丈夫そうだった。
「あのような野猿のような娘を婚約者によこすなんて、見たかしら? あの腕も脚も太いこと」
顔合わせが終わった後に聞こえよがしに言う母に、反射的に頷きながらもフィオテリスは全く違うことを考えていた。
彼女は騎士団総長の娘だ。あの手足で武器を振るったら――まるで彼女がお伽噺の騎士みたいだな、と。
フィオテリスにとって、それまで騎士とはお伽噺の中の存在でしかなかったのである。
しかし「約束ですから」と容赦なく側妃と侍女達から引っ剥がしたフィオテリスが連れてこられたのは、まさにその騎士の巣窟であった。
銀の鎧を纏って微笑むような可愛らしいやつではない。実際の武器と同じ重さの木剣を持ってぶつかりあうガチの訓練である。箱入り息子にはあまりに刺激が強かったけれど、同時に目が離せなくなった。
けれどフィオテリスの袖を引っ張った可愛らしくも逞しい婚約者は、にっこり笑って言ったのだ。
「でんかはまだしばらくは、わたしと体力づくりからね」
まずその日は限界までとにかく走ったり素振りをさせられたりひたすら運動させられて、動けなくなったところをしれっとディルトレイム侯爵家へと連れて行かれた。外泊については国王から許可を取り付けてあって、側妃の足止めもしてくれた。使いは途切れぬほどにやってきたが、執事が同じ応対で追い返した。ちなみに執事は素手格闘の達人である。
連れてきた理由は単に側妃のところに戻しても、適切な休息を取れないだろうという理由だった。風呂でしっかり汗を流して使い込んだ筋肉を丁寧にマッサージしてもらい、筋肉痛に耐えつつも食堂に並ぶ質実剛健たる食事、特に肉を多めに使った献立に目を輝かせた。母親の好みによって普段のフィオテリスの食事はかなり肉類の少ないもので、量も多くはなかった。好きなだけ食べて構わないと言われて、遠慮を知らない少年は好きなだけ食べた。その様子に嬉しそうにしながら隣の少女はその倍くらい食べた。
そして熱を持っている筋肉や関節は冷やしてから就寝。ベッドはやたらと柔らかくはないが、普段よりずっと心地よく眠った。
要するに王太子はまだ深刻な影響が出るほどではなかったが、慢性的な運動不足と栄養不足だったのである。
翌日には筋肉痛も綺麗に治っていて「流石若い子は違いますなぁ」と羨ましそうな目で見つめる騎士団総長に照れながらもフィオテリスは笑った。その日はまた訓練場に行ったら今度は無理のないメニューが組まれていて、さらに夕食は王や正妃と取るように手配されていた。昨日のあれは体力測定であり、今の体力に合わせた鍛錬が行われるようになったのだ。また夕食は側妃によって勝手に手を加えられないための措置であるが、王も正妃も快くそれを受け入れたと聞いてもフィオテリスは緊張してたまらなかった。
そんなフィオテリスの青い顔に気付いて「じゃあわたし、いっしょに食べる」と言い放ったグリーヒルダはとんでもない怖いもの知らずではあったが、それも快諾されたので幼い婚約者達は国王夫妻と一緒に晩餐を頂くことになったのだ。
結論から言えばグリーヒルダが同席したのは正解だった。どうしてもぎこちなくなる父と子、嫡母と義理の子の会話にグリーヒルダはだいたい最高のタイミングで割り込んで、食卓を笑いに巻き込んでくれた。
特に洒落の効いた会話というわけでもなく、8歳の女児らしい感想や訓練中のフィオテリスの様子の暴露である。それでもその場を和ませるには、それが必要だったのだ。誰にも遠慮することをまだ知らない無邪気さが。
王太子フィオテリスは母と住んでいた離宮ではなく、本宮へと部屋を賜った。歴代の王太子に与えられる部屋ということで、母は満足したようであった。母やその息のかかった侍女と離れたことで鍛錬は順調に進み、身長もはっきりと伸び始め筋肉もついてきた。騎士団の正式装備の剣を使うには筋力は育ちきらなかったが、代わりに槍を使うようになればその実力もぐんと伸びた。普段の帯剣はフィオテリスにも扱える細身のサーベルとし、そちらは護身のためにマントや小道具、家具などと組み合わせて戦うことを学ぶ。あくまで身を守るための武術だが、槍の実力はもはや騎士と手合わせしても遜色ないまでに育った。
その頃にはグリーヒルダの王族教育も始まって、嫌だ面倒だもう私は騎士になる、とか言いつつも、王妃が裏で褒めちぎる程に頑張っていたのだ。
しかし婚約者であるグリーヒルダと、そして国王や正妃との仲が良好になっていくことに、エオスタ伯爵家の側は焦った。
さらにはもはやないだろうと思われていた正妃の妊娠、そして双子の出産。側妃と実家の焦りは最高潮に達し、当代伯爵の娘でありフィオテリスの従妹に当たる少女を送り込んだ。その意図はフィオテリスには手にとるようにわかったし、同時に己自身がこの国の火種となっているのも実感していた。実母の実家から王太子妃を出そうとするなど、国の乗っ取りを狙っていると言われても仕方ない。
だからそれに乗ったとエレオス伯爵家に思わせた上で、『早すぎる実力行使』によって全てを暴露する。誰にも相談することなくフィオテリスはそれを決め、そして今夜実現させたのだ。
この国を燃やす火種としての己を、あえて母の実家に向かって爆発させる。過剰に干渉する外戚を持つ王太子は排除し、正妃所生の子孫が即位する。それは必要な事だと思っていたし――自分が破滅するならばグリーヒルダは巻き込みたくなかった。
なのに、どうして。
突き放したはずなのに戻って来てくれたグリーヒルダは、こんなにも格好良くて。
「だいたいテリーに、あんな胸の痛くなるような作り笑顔は似合わないんだよ。出会ったばかりの頃と同じ顔じゃないか」
――その言葉にこんなにも、涙が出そうになるのだろう。
「泣いてもいいんだよ」
そしてどうして今欲しい言葉を的確にくれるのだろう。
「1人でよく頑張ったよ、テリー。でも、テリーがやろうとしてたことは私も、私の両親も、両陛下も知ってる……泳がせてたとも言えるけど、でもテリーが向こうの旗印になってくれたおかげで、エオスタ伯爵家を中心とする不満分子を炙り出せた。あとは誰がテリーに危害を加えようとしても、ディルトレイムと騎士団の名に懸けて必ず守り抜く」
すっと立ち上がったグリーヒルダは、両手を交差させて胸に当て、フィオテリスの前に膝を着き頭を垂れる。それは正式な騎士の主君への最敬礼。部屋にいた騎士達が一拍置いて同時にフィオテリスへと同じ礼を取る。
「……ヒルド、それに皆も……」
ふふと笑い声を立てて、その姿勢のままグリーヒルダは顔を上げた。
「騎士団と王国兵はテリーの味方だ。騎士は皆テリーの人柄をよく知っているし、王国兵はディルトレイム侯爵令嬢を婚約者として尊重する王太子を慕っている。もしも王太子の座は下りたとしても、臣籍に下ったとしても、君への好意は変わらないよ。皆、君のことが好きなんだから」
ほら、と押し付けられたハンカチに、もう堪えていた涙は止まらなかった。
「泣きたいなら泣いちゃえよ、その方が辛そうな笑顔よりずっといい」
時折震えるフィオテリスの肩をグリーヒルダは支えるように抱き締める。なかなか筋肉が付かないと悩んでいたその肩は、けれど着実に武人の肉体へと鍛えられている。
「大好きだよ、テリー。私の婚約者」
その軌跡をずっと一緒に過ごしてきたグリーヒルダは知っている。悩みも、苦労も、どのように過ごして何を努力しても、必ず誰かからは反感を買うという辛さも。国のために己自身すら切り捨ててしまおうという覚悟も。
「婚約破棄なんて認めないからな」
そう言って強く、その背を引き寄せ抱き締めた。
フィオテリス王太子の『暴走』を切っ掛けに、エオスタ伯爵家とそれに追随する一派は自壊した。
既に正妃の妊娠の時に、盛られかけた毒の出元はわかっている。エオスタ伯爵家と繋がっているという証拠までは出てこなかったが、此度は情勢の急転に慌てて危機管理もおざなりになったのだろう。取引現場で捕らえた者から手掛かりを手繰るうちにエオスタ伯爵が関わっているという確かな証拠を入手し、同時に派閥内に潜り込ませていた者が情報を掴んで戻ってきた。それを元にエオスタ伯爵派に属していた貴族に揺さぶりをかければ、観念して寝返る者も多かった。
思った以上に子爵や男爵といった伯爵家子飼いの下級貴族が寝返ったのは、彼らも領地の治安維持を騎士団と王国兵に委任しているからという事情が大きい。エオスタ伯爵家が武を軽視する以上はろくな私兵を持つこともできず、けれどそのような領地へも隔てなく守りを置くのは王国として、そしてその軍事を司るディルトレイム侯爵としての揺るがぬ方針であった。もちろんエオスタ伯爵家の領地とてそうして守られていたし、だからこそ自然と密偵を潜り込ませることもできたのだが、エオスタ伯爵がそれを理解することはおそらくなかっただろう。
用いようとした毒は王国では禁輸の品である。王立アカデミーにのみ僅かに研究用として卸されているのは、解毒剤の解明と医薬品としての活用を試みるためであり、アカデミー内でもその他劇物と共に厳重に管理されている。禁輸を侵した罪とその毒が既に行われた暗殺未遂に使われていたという事実、そして側妃であるフィオテリスの母に実家から送られてきた手紙を押さえたことでエオスタ伯爵家の取り潰しと陰謀に関わった者の処刑は確実となった。フィオテリスを除く国王一家を殺して王太子を冊立するという計画を、杜撰にも手紙で話し合っていたのだ。
フィオテリスが一連の流れに一切関わっていなかったことは、騎士団とディルトレイム侯爵が証人となった。謹慎に伴う軟禁、その見張りという名目で、彼を保護していたのである。王太子とディルトレイム侯爵令嬢の婚約は、書類上の手続きが一切なかったので破棄はされなかった。流石に夜に来たのはあの事件直後の一度だけだったが、その後も昼担当の近侍として毎日のようにフィオテリスの元にグリーヒルダが訪れていたことは僅かな人々だけが知っていることである。
陰謀に関わった者達の処罰を終え、宮廷がようやく落ち着きを取り戻した頃、フィオテリス王太子自らの進言で王位継承権の変更が決まった。正妃の元に生まれた双子の兄王子を王太子、妹王女を継承権二位とし、フィオテリスは王子となった上で継承権をその下とし、今後王と正妃の間に生まれた子はフィオテリスよりも上位とする。もう一人か二人弟妹が生まれるか、弟の王太子に後継者が産まれたら王位継承権は返上する前提での変更である。
ほぼ同時にディルトレイム侯爵令嬢との婚儀と、フィオテリス王子が婿入りの形を取ることが決まった。それを切っ掛けにディルトレイム家は公爵への引き上げが決まり、グリーヒルダと夫となるフィオテリス王子が当主となる。本来当主となるはずだった兄は即座に騎士団に異動願いを出して受理され、凄くイイ笑顔で「ありがとう妹そして義弟殿下よ! じゃあ私は王国兵の新人教育担当官になるねやったぁ!!」と言いながらスキップで兵学校へと向かったのであった。
「昔から新兵教育に憧れてたらしいんだ。基礎は大事だからね」
軟禁(仮)生活で落ちてしまったフィオテリスの体力を取り戻すためのランニングに付き合いつつ、グリーヒルダは呟く。隣でフィオテリスは流石に以前より息が上がるのが早いと感じつつ頷いた。ちなみにフィオテリスの鍛練計画も立てたのはグリーヒルダの兄である。ついでに言えば自室に籠っている間に出来るだけ体力を維持する筋力トレーニングも彼考案である。なお礼法の習得に苦戦するグリーヒルダに「全部演武だと思えばいけるだろ」と教本を作ったのも兄だ。身体はきっちりと武術で鍛え上げられているので、頭に動きさえ詰め込めればそりゃもう楽勝だった。ついでにカーテシーの姿勢維持は良質な下半身の筋力増強だと気付いたので毎日のトレーニングに取り入れた。以上、グリーヒルダの談である。
ともあれ彼のおかげでフィオテリスの身体能力の低下は最小限で済んだと思うが、やはりこうして走れば持久力は落ちているのがわかる。けれどそれ以上に久々に感じる外の風は心地よい。
「……本当は、解放感なんて感じるのは薄情かもしれないけど」
エオスタ伯爵家の当主と息子達は斬首され、妻と娘達は毒杯を賜った。その他の男子と未婚の女子はそれぞれ別の修道院に送られた。婚家から離縁された女性もいたが、自主的に修道院に向かったという。無論フィオテリスの母も毒杯にて処刑された。身内を一気に亡くしたはずなのに実感は湧かず、むしろ父である国王と嫡母の正妃に気遣われる方が心労をかけて申し訳ないと感じてしまう自分には真っ当な感情がないのかと、密かにフィオテリスは思ってしまう。
「間違ってはいないだろう、解放されたのは」
「だけど」
「むしろ解放感くらい感じてくれた方がこちらも罪悪感がない」
隣でぽつりと呟かれた言葉に思わずフィオテリスは振り向いた。さらりと目の前で炎の色をした髪が揺れる。
「テリーが全部背負うことじゃない、何もかも。だいたいこれから一緒に公爵家なんか背負うんだぞ、先に潰れられたら困るのは私だ」
目は合わなかった。けれど真っ直ぐ前を見て走る横顔が、君もそうしろと物語っている。炎のように流れる髪もその凛とした横顔ももっと見ていたかったけれど、今はグリーヒルダと同じ方向を見て、また走るのに集中することにした。
これからも同じものを見て、同じ立場で、一緒に走っていく――自分の手で一度は葬ってしまいかけた未来が、異なる形ではあるけどちゃんとそこにある。
ならば後ろめたさも罪悪感も捨てることは出来なくても、一番守りたかった人を守れたことを幸せに思いたかった。むしろ守ってもらった側だけど。
「……愛してる、ヒルド」
「いきなりだな。私も愛してるよ、テリー」
振り向けば今度は目が合った。照れたように笑ったグリーヒルダが一気に速度を上げる。着いていくのが精一杯のスピードに、けれどなんとか並ぶ。弾けるような笑い声に自分も笑う余裕なんてないけれど、心は爽快だった。
「婚儀までには万全に戻すからな!」
「あと三ヶ月だな、頑張るさ!」
騎士団の訓練場にそのまま駆け込むと、振り向いた騎士達が冷やかすような声と口笛、そして清潔なタオルと檸檬水で迎えてくれる。
「ただいま」
そう言える場所ができたことを幸せだと思いつつ、フィオテリスは呟く。それが耳に届いたのか、愛しい婚約者は幸せそうにはにかんだ。