139話 羽州の狐の覚悟
「くそっ。」
羽州の狐と称された義光が、奥歯を噛みしめている。
羽州の狐は、昔、最上家に忍び込んだ事がある女を、東が召抱えたのを良く思っていない。
「このままでは最上家は滅んでしまう。」
お家第一の義光にとって、これは予測不能な事だった。
織田信長の恩人と仲良しになっておく事で、戦乱の世を生き抜こうと目論んだのだが、こちらの秘密が大滝家に知れ渡るのは避けたい。
だが、友を殺された者が、大人しくしているはずもない。
最上家が代々統治してきた出羽は、大国とは言い難かったが、それでも豊かな国だった。
義光は、その豊かな国の領主であるという誇りを捨てる事は死よりも耐え難い事だった。
我が軍は多くても7000程度だが、正室・久弐の実家である大崎家や、同腹の妹が嫁いだ伊達家からの援軍を加えれば、3万は超える。
そういうずる賢い考えが、頭から離れなかった。
しかし、義光は信長と比べて、瞬時に判断する能力を持っていなかった。
突発的な出来事への対応力もなく、その功績も大きくはなかった。
自分の力で何とかしようともせず、最初から援軍に頼ろうと思っているのならば、それはもう論外である。
「久弐!」
「はい。」
羽州の狐の正室は、戦国一の美女と歌われたお市に次ぐ美しさだった。
「わしは織田を・・・大滝を攻める!」
「なっ、なにゆえ・・・」
「以前、忍び込んできた田村家のくの一の1人を焼き殺した事があったな。」
「ええ、そうでしたね。」
「生かしておいたもう1人のくの一が、大滝家の毒見役になったのだ。」
「まあ。」
「大滝家に最上の情報が漏れてしまうのは、非常にまずい。それゆえ、大滝を攻める。」
「何がまずいのです?」
「実は、わしは外国と組んで織田家を滅ぼす計画を練っていた。何年も前から。それがばれてはまずいのだ。・・・久弐、そなたは大崎家へ帰れ。」
「嫌です。」
「最上家は滅び、わしも自害する。そなたは生きてくれ。」
「嫌でございます。私はあなた様の正室ですよ。」
「ならん!」
義光は麻酔薬を染み込ませた布を、久弐の口に当てた。
「何を!?」
久弐は抵抗したが、麻酔薬によって眠りについた。
「すまぬ、久弐。」
(最上家の誇りを捨てるくらいなら・・・久弐、お前と離縁してでもわしは戦う)
久弐は大事な妻である。
大事な妻を捨て、命を捨てても、誇りだけは捨てずに生きようと、義光は決心したのだ。
(今回の戦でわしは死ぬだろう)
死を悟り、剃刀で髪を剃った。
「まあ、義光様!」
障子を開けた少女が、持っていたお盆を落とした。
お盆に乗っていた茶がこぼれた。
(・・・まだ側室がいたか)
側室の真智は、久弐と同じくらい頑固な性格だ。
「何という事を!」
真智が義光に詰め寄る。
「黙れ、真智。」
「あなたは一国の主ですよ!?若いのですよ!?それなのに出家だなんて・・・」
「黙れと言っているだろう!?」
出しゃばる側室を一喝し、蝋燭の明かりを消して眠る。
夫が髪を剃った事に驚いた真智は、自室に籠もり、短刀で胸を突いた。