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世界樹の傍の、Ⅳ  作者: 葉未
6/7

小咄:万能的な宿屋が夢見る夢について

「こんにちは。懐中時計をくださいな」


町の時計塔。

白いその建物の一階にある店にひょっこりやってきたレーニアを見て、カウンターの内側にいた時計屋は少し驚いた。


「どうしたんだい、レーニア。まだ午前中だけど」

「私が午前中に来てはいけないかな?」


青年の姿を取っているレーニアは、親しい様子で店に入るとカウンターに背中を寄りかからせて時計屋に微笑んだ。

彼が、対峙する者と同性の姿を取ることは珍しいことであるが、時計屋と会う時はからかう時以外は青年姿で会うことが多い。それだけ親しい仲なのだろう。


「別にそうは言ってないけど、珍しいか……お?」


近くに来たレーニアの片腕に黒いウサギが抱えられているのを見て、時計屋は瞬いた。

これは本当に珍しい。レーニアの使い魔のマーヤだ。

名前は知っているが、すぐに消えてしまうことが多いのであまり会ったことはなかった。

マーヤは半眼で時計屋を見上げると、はん…というような態度でそっぽを向いた。しかし今日は消える様子はない。


「マーヤくんが一緒なんて珍しいね。こんにちは」

<…>


無造作に手を伸ばして背中を撫でようとした時計屋だが、指が触れる前にヴォ!と威嚇音を出されて慌てて手を引っ込めた。

レーニアが微笑ましそうに笑う。


「今はちょっと治療中なんですよ」

「治療中? 怪我でもしたの?」

「そう。…いえね、勿論マーヤの蓄積している魔力を使っても治せるのですけど、勿体ないでしょう? 日夜頑張って溜め込んでいるのですし。ですから私が抱いて、私のものを使ってもらっているんです」

「…?」

「本当は女体になって胸に抱いてあげようと思ったのですけれど…」

<あんなデコボコのぶよぶよ、こんなとこあると邪魔なんだよ!>

「えーっと…?」


てしてし前足でレーニアの胸を叩くマーヤ。

当たり前のような口調で言われても、人間の時計屋にはちんぷんかんぷんだ。

暫く首を捻っていたが、気を取り直して両手をカウンターに添えた。


「それで、懐中時計だっけ? どういうものを探してる?」

「“銀色の懐中時計”を一つ」


早速懐中時計をいくつか並べてみせようとカウンター下の棚を開け始めた時計屋が、レーニアの言葉を聞いてぴたりと動きを止める。

屈んでいた腰を、のろのろとまた戻した。


「珍しいね」

「そうでしょう?」

「どれでもいい?」

「できれば条件を付けたいんですよ。貴方、アルテミスって女神を知っている?」

「そりゃ…。ギリシャ神話の女神様だろう?」


当たり前、というような顔で時計屋が答える。

不思議なもので、こういうことは人間の方が詳しかったりもする。


「彼女の“いない”懐中時計がいいのですけれど…」

「えっ…!あの女神様いなくなるのか!?」

「ええ。色々な不幸が重なって…」

「えええええ~? はー。そうなんだ…。結構上の方の神様なんじゃないの? よく分からないけどさ」


哀しげにレーニアが表情を曇らせ、時計屋が驚く。

腕の中で、マーヤが何か言いたげに主人を見上げたが時計屋は気付かない。


「アルテミスは、貴方が知る中ではどんな最後を迎えるのですか?」

「ん? …ああ、えっと。そうだな、確か…」

「堕落します? それとも、他の方と融合されるのでしょうか。突然消えてしまう?」

「俺が知ってる話だと、確かギリシャ神話は、後でローマと混ざるんだよ。けど………あれ? 思い出せない、かも?」

「おや。貴方は博識なのに」


レーニアが意外そうに言うので、時計屋は片手を振って否定した。


「俺の知識なんて浅くて狭いよ。人間なんだぞ」

「そこは反論しておかないといけませんねえ。魔神や神が何でも知っていると思ったら大間違いですよ?」

「そりゃそうか。はははっ。結構庶民的な神様とか悪魔とか多いからね。…んー。でも、そうだな。確かに、俺の知ってる神話のアルテミスも、途中からいなくなっていたかもしれないなあ。散々お祈りとかするけどさ、その神様が最後はどうなるのかなんて、案外知らないのかもね」

「留まるものなんて、ありませんねえ」

「あーでも…難しいな。俺は女神アルテミスがいる歴史しかしらないから…。君が言っているのは、なるべく始めの方からいない方がいいんだろう?」


そう言って、彼は徐に頭上を見上げる。

レーニアもマーヤも、倣って真上を見上げた。

時計塔の一階に位置している時計屋だが、店の端にある階段は螺旋階段の始まりとなっており、ここから延々塔の天辺まで続いている。また、その階段の壁際にはびっしりと同じ形をした壁掛け時計が並んでいた。

てんでばらばらの時間を差し、ちぐはぐに時を刻んでいる。止まってしまっているものもどうやらいくつかあるようで、そのうちいくつかは現在彼が修理中のものだ。

難問を出され、時計屋はすっかり困り顔をしている。


「勘でいいですから」

「いやいや、無理だって。確率考えてほしいな」

「じゃあ、どれでもいいです」

「条件聞いちゃったら無視も出来ないでしょーが。…一晩もらっていいかな。聞いてみるよ」

「分かりました」


もう一人の時計屋に相談をするという時計屋の意見を尊重し、レーニアは頷いた。

しかしその後で、くすりと笑う。


「貴方が勘で選んでも、たぶん当たると思うんですけどね」

「無理だって」


時計屋は褒め言葉としても受け取るつもりがないようで、ぶんぶんと片手を振って笑った。

明日の朝取りに来ると約束し、レーニアとマーヤは店を出た。








宿に戻ると、レーニアは階段を一階分だけ上がった。

実際には何階になるのか分からない廊下を進み、木造のドアをノックする。

返事があり、ドアを開けた。


「お加減如何ですか、ブロンディアス」

「お陰様で」


古代ギリシャの王族が使うような室内装飾の中、寝台に腰掛けていたブロンディアスは明るい顔を見せた。人間の姿だ。

長い間随分思い詰めていたように陰っていた瞳が、今では晴れている。そのせいか、今までよりも少し幼くも見え、相も変わらず美貌の持ち主である。

ただ、長めの金髪が途中から髪色が黒く染まっていた。

女神アルテミスを殺したいという願いは、結局今は果たせずにいる。

ただし、神である彼女をあそこまで追い詰め、捕らえ、神力の一部を奪って閉じ込めたことでブロンディアスは満足していた。

解放するのは神力を失った後だという。であれば、普通に寿命という死が彼女の未来には必ず待ちかまえている。最高だ。言うことがない。

彼が満ち足りてくれるかどうかが心配で何度も尋ねたレーニアだが、彼の魂は言葉通り曇りも減っていて見やすくなっており、本心であると分かるとようやくレーニアも安心することができた。

青年の姿のまま、レーニアはブロンディアスの横へ腰掛けて足を組む。


「傷もすっかり良くなったようですね。安心しました」


マーヤと違って“客人”でもあるブロンディアスは、宿で一泊すれば随分と肉体は回復することができる。

力を分け与えた故に眷属と呼んでも差し障りはないのかもしれないが、当初からレーニアは彼を惹き込もうとは思ってはいない。元々がお客人。憂いを晴らすために、力が必要だったというだけに過ぎない。


「本当に、何から何までレーニア様のお陰です。それから、マーヤ様も」

<そのオカゲで傷だらけだがな。もっと感謝しやがれ>

「あ…はい。本当にありがとうございます」

「マーヤは本当に偉かったですものね。格好良かったですよ」

<ふん。当たりま……って止めろ!頭撫でんな!!>


片腕に抱かれたまま頭を撫でられ、マーヤが怒る。

隣でそれを見ていたブロンディアスも、思わずくす…と微笑した。

彼の笑顔を見て、レーニアは胸がいっぱいになる。


「…ブロンディアス。これからお話することを、よく聞いてくださいね」


静かな話の切り口に、ブロンディアスが真面目な顔になって背筋を伸ばす。


「明日、貴方を元の世界にお返ししようと思います」

「それは本当ですか…!?」

「ええ。その世界にはもうアルテミスはいないでしょう。怯えることなく、日々を過ごしてくださいね。…今回は私がほんの少し助けることができましたが、いつもそうとは限りません。人間の貴方には、やがて死が訪れます。生き急いでもいけませんし、死に急いでもいけません。いざ死が訪れる時の為に、精一杯、お生きなさい」

「…はい」


レーニアの言葉を、ブロンディアスは真剣に受け取った。

妻の仇とそればかりで魂に薪をくべていた。今なら分かる。あれは良くない。

その切実な願いがレーニアを惹き付けることができたが、彼の言うとおり今回のようなことは極めて希で、何ならもう二度と無いだろう。

目の前の黒き青年に出逢うこと自体が、奇跡に近いのだ。


「それからもう一つ」


優しく告げて、レーニアは膝の上に抱えていたマーヤを置くと、両手でブロンディアスの細い片手を握った。


「よく聞いてください、ブロンディアス。もう二度と、貴方は心から誰かを憎んではいけません」

「憎んでは、いけない…?」

「ええ」


こくりと頷くレーニアを、ブロンディアスが不思議そうな顔で見上げる。


「貴方の中に、私の因子が残っています。アルテミスを追いかけた時のこと、貴方はあまり覚えていなのではないですか?」

「…」

「普通に生活をしていれば大丈夫。ですが、憎しみに反応して力が貴方を奪う可能性があります。ですから貴方は、もう二度と、誰かを殺したい程憎んではいけません。…難しいことかもしれませんが」


穏やかな今この瞬間に言われても、ブロンディアスには正直ピンと来るものはなかった。

ただ、アルテミスを追いかけている間の記憶が殆どないこと、先程マーヤに感謝はしたが実のところその辺りの記憶は殆どないことも言われたとおりだ。

きっと自分は、誰かを憎めばあの時のように獣になってしまうのだろう。

確かに強い力といえば力だが、女神への怨みを晴らした今、もうそのようなことは起こりえないような気がした。あんなにも誰かを憎んだのは生まれて初めてで、きっとこの先は無いだろうと考えられた。


「分かりました」

「心を広くお持ちになってくださいね」


頷くブロンディアス。

レーニアは満足そうに頷くと、彼と抱擁して部屋を出た。

プライベートエリアに戻ろうと歩き出した廊下。

マーヤが腕の中からぽつりと呟く。


<…アイツ、絶対ェ分かってねえな。人を憎むなとか、自分一人じゃどーにもできねえだろ。特に周りの連中がクズの場合はさ。結構難易度高ェ縛りなのに>


レーニアは何も答えず、指の背でマーヤの胸を撫でた。

それは彼自身が決めることだ。

誰かを憎むことも、また個人の自由な感情の中の一つなのだから。











翌日、時計屋は注文した銀色の懐中時計を確かに用意してくれていた。

小箱に入った素晴らしい懐中時計はレンタルのみで、用事が済んだらすぐに返さなければならない……というか勝手に返っていくが、それでも高価だ。カウンターの上に、レーニアはジャラジャラと金銀財宝を広げて支払ってきた。

ブロンディアスを町の入口に残し、男性姿のレーニアは懐中時計を懐に入れて町から出ると森の中を暫く歩く。傍にはマーヤも相変わらず面倒臭そうな顔で着いてきており、ふよふよと浮いている。一日レーニアの魔力を少しずつわけてもらい、傷はすっかり治ったようだ。

遊歩道になっている踏みしめられた道が何本かあり、周囲の樹海の各所にある建造物や外れに住むことが好きな町人たちの家に着くものだが、気分に任せて途中から道を外れて草花が茂る中へと進んでいく。

空を覆う木々を見上げて楽しんだり小鳥の声を聞いたり、彼らは暫く散策を楽しんだ。マーヤなどは途中から浮くのを止めて地面を自分の四本の足で歩いたりもした。どうやら彼なりに楽しんでいるようだ。

彼らはやがて、小川に差し掛かった。

湧き水なのだろう。細いが、濁りは全くなくさらさらと透明な布のように流れている。


「どっちだと思います?」


屈み込んで片手を小川の水に差し入れながら、足下のマーヤにレーニアが尋ねる。

川上か川下か。

マーヤはどうでもよさそうに答えた。


<知るかよ。…でもまー、森の奥で二人きりで過ごしてたっつーんだから、もっと川上なんじゃねーの?>


その意見は採用され、一人と一匹は川上の方へ歩き始めた。

小川沿いに暫く森の中を歩いていくと…。


「…見つけた」


やがて、小川の傍に人影が蹲っているのが見えた。

古びた服を着ているが、少女かと見間違える程華奢で美しい少年が欠けた瓶に水を汲んでいる。

近づいてみると、それは紛う事なきブロンディアスだった。

さくさくと敢えて足音を立てて近づいていくと、彼はこちらに気付いたようで水瓶を両手に持って立ち上がった。


「やあ。こんにちは」

「……何か用?」


たっぷり訝しんだ後、ブロンディアスは突っ慳貪に口を開いた。

こんな森の奥、やってくる者など滅多にいない。しかもレーニアたちは場に不釣り合いな風変わりで高価そうな衣を身に着けている。警戒して当然だろう。

しかし、爽やかなレーニアの微笑みと声に明らかに敵意がないので、すぐに思い直して警戒を解いたようだ。武器らしい武器を持っていないことも見てとっての反応なのだろう。

見間違いなどある訳がないのだが、見目麗しい少年にレーニアが尋ねる。


「貴方のお名前、“ブロンディアス”…ですよね?」

「え? …ああ。確かに、そうだけど…。アンタ一体だ――」


言葉は、そこで途切れた。

驚くような間もなく、足下にいた黒く小さな魔獣が一瞬で本来の大きさへと戻り、ばくりと彼を一呑みに呑み込んだ。

マーヤが口を閉じた直後、咄嗟に少年が手放した水瓶が落ちて割れた。








「…さて、ブロンディアス」


濁りなくさらさらと透明な布のように流れている小川の横で、レーニアは立ち止まると後ろを振り返った。

町に戻って、入口で待っていた彼を連れて再び樹海へと入ったが、見知らぬ土地の森だと思っていても何か察する者があるのか、先程からきょろきょろと周囲を見回していたブロンディアスはレーニアの言葉ではっと我に返った。


「名残惜しいですが、ここでお別れです。私が見送れるのは、ここまで」

「え、あの…。いや、ですが…」


突然森の中に置き去りにされても困る。

慌て出すブロンディアスに、レーニアは首を傾けながら笑って見せた。


「私を信じて、今日一日はここでじっと待っていてください。きっと迎えがやってきますからね」

「…迎え?」

<とにかくレーニアが大人しくしてろっつってんだ。テメェは従え>


レーニアの向こうで浮いている、マーヤの呆れたような声がそう告げる。

不安は残るが他ならぬ自分を救ってくれた彼の言葉。ブロンディアスはこくりと頷いた。

彼の反応に満足し、レーニアはその手を固く握る。


「忘れないでくださいね、ブロンディアス。他者をねじ伏せる力を持つそのこと自体は、決して悪いことではありません。けれど、力が大きければ大きい程、それを抑える理性が必要になってきます。強大な力それ自体は罪ではなく、罪を作るのはあくまでも“貴方”の人間性。…もしも力に任せて欲望を叶えるのならば、それもいいでしょう。けれど、必ず廻り廻って返ってくる時の覚悟をなさってください。人を嫌うということは嫌われることであり、人を憎むということは、憎まれるということです。ご理解なさい」


他者を憎めば、憎まれる覚悟を。

他者を殺せば、殺される覚悟を。

雁字搦めの見えない運命の鎖は、見えないだけで律儀にどんな存在にもついて回っている。

動けなくなる鎖の量というものはその存在それぞれだが必ず積み重なっており、集まった鎖はいよいよ対象の死を招く。

魂の流転には規則性がある。研究している神も魔神も人間も精霊もいる。

与えた力が体内に残ってしまう限りは、ブロンディアスにもただの人間よりも少し広い視点を持って欲しかった。

レーニアの言葉を受け、こくりとブロンディアスが再び頷く。


「どうしても困ったり疲れてしまったりしたら、またいらっしゃい。私と愛し合わなくても構いません。貴方には愛する方がいますもの。ですが、金の鍵はいつも貴方のポケットにありますからね。…さようなら、ブロンディアス。お幸せに。私の大切なお客様。貴方とのご縁を嬉しく思います。貴方の笑顔が、私たちの報酬ですよ」

「…!」


とん…とレーニアが爪先で大地を蹴る。

ふわりと花弁のような軽さで後方へ浮けば、周囲を黒い布が体から離れた翼のように何枚か広がる。

少しずつ離れていくレーニアに、ブロンディアスは慌てて声を張った。

結局、ブロンディアスは彼が何という神なのか明確に理解することは無かったが、それでも自分一人では到底成し遂げられなかった女神への復讐を果たせた。


「レーニア様…!ありがとうございます!!本当に、本当に――…!」


ブロンディアスの声を聞きながら、黒衣の魔神とその使い魔は木々の間から姿を消した。








森に一人残され、彼は待った。

“迎え”がどんなものかは知らないが、レーニアの言葉通り何日でも待ってやろうと思っていた……が、その覚悟を無碍にするような短い時間で、それはやってきた。

さくさくと無防備に森を歩く軽い足音。

ブロンディアスはぎくりとした。知っている足音の気がした。

…いや、まさか。

顔を歪めて、泣きたくなる。いっそ笑いたくもなった。

まさか“彼女”であるはずがない。下らない希望を持っている自分に反吐が出る。

“彼女”が殺されてしまったからこそ、自分は復讐を誓いあの黒衣の宿の主に出会った。その彼ともついさっき別れたばかりだ。ここで“彼女”が生きていたら、一体今までの過程は何だったと――…。


「…ブロン?」

「――!」


しかし“彼女”は現れる。

自分と同じ色の髪と瞳。愛らしく穏やかな、世界でただ一人、心から愛することができる少女が、森から出てきてブロンディアスに歩み寄る。

…ああ、忘れていた。

この森の空気を忘れていた。

道理で何となく歩いた覚えがあるような気がしていた。そんなことも忘れていた。

そうだ、家と呼ぶのもやっとである住まいのボロ小屋は、確かにそっちの方角にあって…。


「そんなところで何をしているの? とても遅いから、心配していたのよ。…あら。水瓶が割れてしまったの? それで困っていたのね」


のんびりと少女は口元に片手を添え、近くに転がっていた水瓶の破片を見付けてくすりと笑った。

少年は暫く沈黙し、彼女が疑問に思った頃に漸く彼女へ飛びついて力の限り抱き締めた。

時計は誠実に時を刻み続ける。

ピースが入れ替わったところで、同じ形で同じ絵面ならパズルは完成する。

実際のパズルと違うところは、時は動物で、この後刻み続けた先でどう変わるか変わらないかだ。

貴方の代わりは、いないようで、実はいくらでもいるものだ。








町の門をくぐり、メインストリートを真っ直ぐ歩いていたレーニアの手から懐中時計が完全に消えた。

彼の肩に前足を添えていたマーヤがそれを見てぽつりと呟き、前足を離すと二本のそれで鼻の頭をくしくしと撫でる。


<まーまー。よかったんじゃねーの? 後のことは知らねーけど。肉も喰えたしな>

「本当に」


心底その様に、レーニアは呟いた。

メインストリートを歩いていると、擦れ違う何人かから声をかけられる。感慨深そうな表情をその時ばかりは消し去って、ひらひらと手を振り替えしては再び何もない掌を見詰めて歩いていた。

ふと肩の力を抜いて、息を吐く。


「何だか、当初思っていたよりも大事になってしまいましたね」

<あの女が堕ちれば、お前の輝きは増えるんだろ? いーじゃん、女神なんざ掃いて捨てるほどいやがるんだ。一匹二匹、地べたすりにしちまえよ>

「んー。どうでしょうねえ…。ですが、確かに今の所、私は何もしていませんね。マーヤが頑張りましたね」

<ヒハハッ!俺はばくばく喰えて満足!久し振りに人間も喰えたしなー。やっぱうめえよ。精霊どもは殆ど喰ったけど、あんまポイントにゃなんねーからクズばっかだぜ。まずいし、ヘルシーすぎ>

「マーヤはまだ大人の味が分からないですものねえ。けど、年末査定で昇格かもですね」

<もうここにいんだから、お偉いさんとは縁なんかねーっつーの!しかも何だ、年末査定って!俺は俺の力を上げるためダケ!!…に、やってんだよ!爵位なんざどーでもいいね。外の連中が勝手に決めてるだけだろ!>


冗談めいて言うレーニアに、マーヤが怒鳴る。

どうてもいいといいつつ、レーニアと違い彼が自分の行いを随時気にしているのは明らかだ。

この町に来るまではそんなこともあった。毎年とまではいかないが、定期的に奪った魂や輝きを見比べられ、それによって位が上下される。

必要悪なのは分かっている。

世界の天秤というものは存在していて、意識無意識にかかわらず、ありとあらゆる存在は常にバランスを取っている。一定の存在から上はそのことを明確に理解できてしまうので、彼らは己の行動に責任を持って動いていることが多い。

引き際も心得ている。真の悪人が“犯罪者”にならないことと同じだ。賢い者たちは表には出ないし歴史の端の方にひっそりと名を残している程度だ。

だが、どんなに頭で理解していても、感情が追いついてこないこともある。そのせいではみ出し者だ。

この町の穏やかな気風は愛おしい。ここでなら、誰も自分を責めはしないし、光の中の存在でいても許される。

もう随分長く居座っているけれど、一体いつまで許されるだろうか。

自分はこの町の“町人”だけれども、町人誰しも住み続ける権利がある訳ではない。希に町人の入れ替わりがあるとぞっとする。眠れない程にぞっとする。

次は自分かもしれない。

長い時間を生きてきた。

他者を憎めば、憎まれる覚悟。

他者を殺せば、殺される覚悟。

――を、一応事ある毎にしてはみているけれど……自分たちにとって、それらは業にはならない。

では逆ではなかろうか。

自分の業からはみ出して、他者を救い続けていれば、いつかは鎖が積み上がり――…。


「……私のことは、誰が殺しに来てくれるのだろうね」


強大な力を持つ魔神は、晴れやかな天を気持ち良く仰ぐ。

その鼻先に、可愛い黒ウサギのラビットキックが炸裂した。

流石にこれは黒布も守ってくれなかったようで、意外とちゃんと痛かった。











「よう、レーニア!」


金色の鍵で錠を開け、ノックしてから入ってきたマステマを、レーニアはスタンダードな黒いナイトドレスの姿で出迎えた。

主となる宿泊客の理想通りに変わるこの部屋は、今は晴れ渡る青空と野花と芝生になっている。奥の方には石造のちょっとした建物があり、棘のない赤い薔薇が巻き付いて広がっている。


「ようこそ。お待ちしていましたよ、マステマ」


石のベンチに腰掛けて宿泊客を待っていたレーニアは、約束通りやってきたマステマを素直に歓迎した。

黒い翼を持つ天使は慣れた様子で彼女に近づいていき、先に会ったときと同じように彼女の腰を抱き、翼を低く開いて緩く包み込む。

額を合わせ頬や首に何度かキスをして、労るように両手を握る。


「ああ、やはりお前に会うと心が安らぐ。…さて、俺が誰だか分かっているか? 他の俺と一緒にしてもらっちゃ困るな。お前がアルテミスを探していた時に会ったマステマ様だぞ?」

「いやですね。勿論分かっていますよ」


くすくす笑いながら、共にベンチに腰掛ける。

見晴らしが良い空の下。

天使のマステマは肉愛を望まず心の寄り添いが理想の愛になる為、敬愛のキス以上には進まない。朝靄の湖畔や今日のような快晴の青空、星々美しい夜景など、バリエーションは気分次第だが、景色の良い場所で共に葡萄酒と少しのチーズを楽しむことが彼の最高の一夜だ。

理想とは、人の数だけ存在する。

見かけは性別としての男性であるが、繁殖機能は無い。親愛はあるが恋愛情という感性がそもそも無い為、“理想の相手”というものが明確に存在しないこともあり、彼と会う時レーニアは自身の姿でいることが多い。

何となく女性の姿を取ってしまうのは相手の見かけが男性だからだろうが、例え男性の姿であっても、ひょっとしたらマステマにとっては関係がないのかもしれない。

他愛もないことを話した。

宿からあまり出ないレーニアに外の話の、なるべく良い話を選んで聞かせる。演技などではなく、彼女がそういった類の話が好きであることは、長年の付き合いで知っているのだろう。


「あの少年はどうなったんだ? 気になってるんだが。アルテミスには会えたのか?」

「ええ。会えましたよ」

「ということは…殺してきたのか。まさか。あのお嬢さんをか? 大事だぞ」

「いいえ。今はまだ生きていますし、殺すつもりは今はもうありません。彼もそれでよいというお話で、助かりました。今はこの宿の別の部屋にいらっしゃいますよ。こちらとしても、何も無理強いをするつもりはありませんもの」

「…」


眉を寄せるマステマ。

顎に片手を添えて渋い顔をしている彼をレーニアは愉快そうに笑い、隣に腰掛ける彼に尋ねた。


「聞いてみます? “どういうことだ?”…って」

「あー…。悪い予感しかしないな…。止めておこうか」

「賢明ですねえ」


くすくすとレーニアが微笑む。

マステマは肩を竦めてこれ以上話には入らないことにしたらしい。世界を平和にし隣人を愛したいのならば、視野は狭い方がいい。

気を取り直し、彼は隣に腰掛ける気品ある女性へ視線を送る。


「主がお前のことをお気に留めていらした。“現の侵食”は今はどのような様子なのかと」

「まあ…。いやですね、マステマ。今日は仕事でいらしたのかしら?」


随分と古い呼び名で呼ばれ、レーニアは口元に片手を添えて悪戯っぽく笑った。

“現の侵食”などというかわいげのない呼び名が、彼女はあまり好きではなかった。

大体、それもまた後からついた呼び名だ。現在でこそ神族や魔族という呼び名が生まれその末席にいるレーニアだが、その前はまた別の呼び名があった。

まだまだ神だとか魔神だとかも定まっていない頃の話なので、今の若い魔神たちに言っても何のことやら分からぬだろうが、生物もまだ無い頃、ふいよふいよと今後の世界を定める上で必要不可欠な不動の原理や揺るがない真言や数字たちが生まれた。

彼らはその後の歴史で発見されたり未だ謎のヴェールに包まれていたりするが、水が上から下に流れるとか、ある音響で特別な幻覚が見られるとか、巻き貝と台風に共通する遠心力と角度とか、そういう世界のルールたちが存在している。

“ソムニュムゥ”はその一人。太古からの原始的な存在の一人だ。

夢や幻など、現実とは少しずれた空間を司る。

存在している現実の変えたいところをチョキンと切り取り、夢や幻で出来上がった存在や現象を代わりにパチリと填め込むことで、流れるような現実として我々の現実となる。

今目の前にある現象や環境を少しずつ侵して実体を損なわせること。

花畑があれば瞬時に荒れ地にすることもできるし、逆に荒れ地があるのならば花を芽吹かせることもできる。

今ある現実を“今ある現実以外”にできてしまうのが、彼女の力だ。

…だが、できる力があるからといって、それを好んで使うかどうかはまた別だ。

レーニアは昔から、晴れた日にせっせと布を洗い、庭に干すことが好きで、それを眺めることも好きだ。ちちんぷいぷいと指先一つで布を新品同然にしたって、心は涸れるばかり。何て面白味のない自分の力。

昔の話を持ち出されるのはあまり好ましくないが、昔話ができる相手も随分減ってしまった。マステマは、彼女の古い頃の姿を知っているわけではない。彼のずっと上の上司が知っているというだけだ。


「そういうわけじゃないさ。だが、主に命じられたことは従うようにできているんだ。仕方ないだろうが」

「元気です、と伝えてくださいな。昔よりずっと愉しんでいますよ。けれどもうどうぞ私のことはお気になさらないでとお伝えしてくださいな。世界の大きな天秤の大切さは知っているつもりですけれど、私はもうその天秤から家出を決めたの。だって、何をしても上手くいかないのですもの。…ねえ、マステマ。分かってはいるけれど貴方の意見を聞かせてくださいな。どうして世の中に悪行や悪事が必要なのかしら。何故私は他者をこんなにも簡単に侵せてしまうの? 普通はこんなことができないみたい。なら、何方が私を侵してくださるの? どうして誰も私を消してくださらないのかしら。私と本当に対になる方は、一体どちらにいらっしゃるの?」

「…レーニア」


冗談めいた何気なく話し始めた言葉に、段々と熱がこもっていく。

諭すようなマステマの声にも気付かずに、片手にしたワイングラスを膝の上に下げ、レーニアは遠い丘の向こうを見詰めた。


「私を消してくださるのは誰なのかしら。その方は、侵食なんて力の私からちゃんと輝きを奪えるのかしら。心配だわ。アルテミス嬢はとても可愛らしいお嬢さんで、けれどまだまだ幼く全くの微力でした。有名な女神と聞いていたのに…。マステマ。貴方が今とてもつらい仕事をしていることは知っているけれど、それでも言わせてください。貴方は幸せです。貴方の心が堕落した時、必ず貴方の“主”が消してくれるんですもの」

「心の堕落、か…。そんなことが容易に起こると思うか? 俺は“天使”だぞ」


いっそ狂えたらと思ったことは何度もある。

肩を抱かれ、慰めるように軽くその場所を叩かれて、レーニアは少し我に返った。

自分の発言を思い直し、また微笑する。

“堕天使”などというものはイレギュラーの産物だ。基本そんなものは存在しない。

悪行を行う天使もいる。マステマもその一人だ。

だがそれは主命を与えられて行う正式な仕事で、与えられる側がどう思おうがどう書こうが、彼らは主命を全うしているだけに他ならない。

主命に従わない天使など、ぽいっ…どころか、即刻デリートだ。

従者マルコが特例でそうであるようにそんなことも希にあるが、基本的には主の命に従うだけに存在している天使たちが堕落などという奇天烈な行動を起こせるはずがない。

小さく笑い、レーニアはマステマの首に頭を預ける。


「…すみません。感傷的になりすぎました」

「いいさ。たまには」

「私は悪質になりたくない…。なりたくないんです。ですが、気が緩むと、気づくと、良くないことをしていることもあるみたい…。何が良くて、何が悪いのかしら。たまに分からなくなります。…笑う?」

「笑うわけがない。俺もそうだ」

「…。アルテミス嬢は、殺めていないの。…大丈夫ですよね?」

「そうか。少し安心したぞ。だがな、レーニア。他者を殺めること自体は、悪事ではない」


きっぱりとマステマが告げる。

レーニアはゆっくりと、眩しそうに彼を見上げた。


「それは天秤が見えぬ者たちの小さき徳の初歩だ。赤子の覆い布のようなものだ。それを守らなければ成り立たないものもあるだろうが、お前の求める善は尊い。自然、犠牲も多いだろう。そうして考え続け苦しんでいる限りは、お前はその道を歩けているのだろう。…ああ、レーニア。お前が宿をやっているから、俺はこうしていい場所でお前と軽食を楽しむ楽しさを知ったんだ。救われているよ。会いに行ける者がいるだけで、俺は本当に幸せ者だと実感する」

「…今日はどんな仕事をなさってきたのですか?」

「聞きたいか?」


余裕のある顔で、マステマは内緒話のようにレーニアに顔を寄せる。


「人間のな、花のように可愛い赤子を親に焼かせてきたさ…」

「まあ…」


額を合わせて愛の言葉のように囁くマステマに微笑する。

今度は彼女が慰めるようにマステマの翼を撫でた。


「本当、上手くいかない世の中ですねえ…。外は厄介事ばかり。大変ですね」

「だが、お前のその少年は幸せにしてやったんだろう?」

「ええ。恐らくは」

「それで十分だ、レーニア。お前はよくやったよ。綺麗事でも何でもない。目の前の一人を助けてやれることは、尊くて難しい。俺はお前が羨ましくて堪らない。…そうだ!今日はあの少年を俺が助ける夢を見せてくれないか」


名案を思いついたとばかりに、マステマがレーニアに言う。

彼女は無邪気な彼の夢を聞いて笑った。


「ブロンディアスをですか?」

「ああ。主の命なくとも、俺が俺の判断であの少年を救えたらどんなにかいいだろう。少年が何故あの女神をあそこまで憎んでいたのかも、探れるようならば俺が自力で探ってやろう。報告などをすっ飛ばして救いを求める者をその場ですぐに救うことができたら、こんなに幸福なことはない。そうだ、そうしてくれ。たまには人を助けたいからな」


助けて、と嘆くものを、救える手があるのに後にしなければならない辛さというものがある。伸ばされた手を無視する激痛。

ブロンディアスが助力を求めた時に気兼ねなくその手を取ってやれたらと、マステマはあの場を離れてから相変わらず考えていた。

それを表面上には出さない男だ。言動も何ら変わらない。

それでも心の奥底ではずっと引っかかっていたらしい。

本来はできないその行為も、レーニアの宿の一室でなら可能だ。

彼の言葉に、レーニアはゆっくりと立ち上がった。


「いいですよ。どうせだったら、私がブロンディアスに会った時と同じシチュエーションから始めてみたらいかがです? 流石に場所は普通の森になりますけれど」

「俺もお前の住む“町”を見てみたいものだ。下の扉の、窓の、その外を」

「いいところですよ。本当に。…でもね、マステマ。ご安心なさって。貴方の楽園なら、この私が創れますわ。ブロンディアスをどうぞ救ってさしあげてね」

「任せろ!」


マステマはやる気十分という様子だ。嬉しくて堪らないのか、腕をぐるぐると回し、ばさばさとまるで少年のように翼を上下させ準備体操などをしている。

今夜はよく知った知人もまた、大切なお客様だ。

彼の願いは何だって叶えてあげたい。

もう自分では、何かを願うことは難しくなってしまった。誰かの願いに便乗することで、漸く夢だとか希望だとか救いだとかを思い出せる。

夢の中とはいえ、何でも手に入る力。それは持ち主にとっては、何一つ大切にできないことと似たような意味だった。何でも叶う。何でも手に入る。…では、何を望めばいいと?

気が遠くなるような長い時間を過ごしてきて、すっかり物欲は無くなった。生きることに飽きていた。そろそろ己という存在の消滅が恋しい。けれど、それを行える存在がなかなか見つからない。

“死ぬ自由”は確かに存在する。

しかしその自由が彼女にはない。ただの魔神なら死や消滅も有り得るだろうが、本来が太古の存在である彼女は、自分がどうしたら消えるのかよく分からずにいる。

肉体があれば容易いだろう。生物は刃物で死ぬし、食べなくても死ぬし、何なら温度差でも死ぬ。けれど彼女の場合、刃物では死なないし、生気を食べなければ餓死状態にはなるが、決して核が消えるわけではない。核を傷付けてみたいけれど、これがどうにも硬くまた柔らかい。

“自分が終われない”と気付いてから、宿の経営を始め宿泊客たちの幸せが自分の幸せと気付くまでの時間は、絶望的に酷く長く感じた。今は宿の経営が生き甲斐に他ならない。

宿泊客を助け、救い、良いことをする一方でその願いに係わる悪行と呼ばれる行為を必ず重ねていく。いつかはきっと、鎖は積み重なり、自分を滅しにくる存在が現れるはずだ。

レーニアは優しくマステマの片手を両手で握る。


「それじゃあ、今夜はお別れね。何らかの終焉を迎えるまで、頑張ってくださいね。金の鍵で、またいつでも遊びにいらして。…おやすみなさい、マステマ。良い夢を――」


ずぶ…と世界が沈んでいく。

ぐにゃりと世界が一度歪み、次に戻った時には辺りは森だった。

歩いてみるマステマの行く先に、一人の美しい少年が倒れている。大した距離でもないが、彼は翼を広げ、一気にその傍へと飛んでいった。

…本当は、こんな風に迷える者がいたらすぐに駆け出して抱き起こしたいのだ。けれどそれは許されず、見て見ぬ振りをして上空を通過することしかできない。

そうして担当の窓口に報告する。「どこどこで少年が倒れていた。死に絶えるであろうが、迎えは用意されているのか。今日か明日のリストには入っているかどうか」と。

そうして、その日の死者数がプラス1される。

それでいいのだろうか。

数多いる天使たちが好きずきに人助けをしていたら収集がつかないことは解る。善行が常に最良の結果をもたらすとは限らない。悩む全ての人間を救ってやることが、彼らの為にならないことも解る。だが、中には情をかけて許される者もいるはずなのだ。

だが、ではそれはどのように選出されるというのか。誰が選び取るというのか。

そんなことは解っている。

けれど、本当はこうして――…横に屈んで、抱き起こして……。


「――おい、お前。大丈夫か? どうした。しっかりしろ」


本当はこうして、好きずきに、目についた者を全て救いあげたい。

…所詮は夢幻だ。

こんな夢の中で少年一人を救ったからといって、今日焼いてきた赤子のことが胸から逃げていくわけでもない。

それでも、マステマは少年を抱き上げて介抱し、願いを聞き出し、レーニアとはまた違う結果になるだろうがそれを叶えるだろう。

それが彼の、絶対的に届かない夢のひとつなのだ。

だから彼のポケットには、いつだって金の鍵が入っている。







ところで、平和な町でいくらか経った午後のことだが――。


「あーあー…。まーた止まってる……」


時計屋がぼやく。

時計屋の中にある壁にびっしり並んでいる時計が、ひとつ、止まった。

なに。

よくあることだ。









夢とは、今目の前にある現実とは違うことである。

今の現実とは違うということは、今の現実を少なからず侵し、変化さなければ叶わないものである。

夢とは、罪のないものである。

どんなに下卑たことを考えてもやっても構わない。何をしても許される。大切なことは、現実との境界をしっかりと把握していることだ。“現の侵食”はそれらを入り交ぜている者が好きではない。夢を半分でも叶えている者のところに、手を貸す必要はないからだ。貴方以上に不幸の中にいる者は、貴方が想像しているよりも多い。

夢とは、二種類ある。

頑張れば手の届く範囲にあるものと、努力だとか何だとかを無碍にする、夢も希望も持てずに絶対的に叶わない、ルールめいたものと。

自分で変えられるものは、自分で変えなさい。

けれど、何をどうしても叶わない願いを持っているのなら、その願いが叶わない絶望に打ち拉がれて眠りにつく夜、ポケットの中を探りなさい。

金色の鍵があったなら、今貴方が抱えている願いは本当に自力で叶えることが難しい願いのはずだから、次は扉を探しなさい。

扉をくぐって現れた豪華絢爛な場所や愛しい相手が現れ、さも今抱えている絶望を充たしてくれそうなていであったとしても、流されずに目の前の相手の手を握ってしっかりと「助けて欲しい」と主張なさい。

宿の主の同情を誘うことは、決して難しいことではないのだから。

彼女は、何かを願われ、助力を乞われ、他者の力になり叶えることに永く永く餓えている。

傲慢に強請りなさい。

欲は夢の中にこそ現れる。

彼女はそれを拒まない。













<……キザ男は帰ったのか?>

「ええ。るんるんでしたよ。スキップでもしそうなくらいに」

<キモ…>


朝は静かな宿の門。

黒いその門を開き、レーニアとマーヤは敷地の外へ出た。ちょっとそこまで買い物に。

買い物をする時は女体に限る。店によってはサービスしてくれるところもある。全て手に入る力。けれど、彼女は買い物がとても好きだ。


「先日頑張ったので、今日はお好きな肉を買ってもいいですよ、マーヤ」

<当然だな!天竜の肉を喰わせろ!C5ランクのやつだ!>

「まあ、贅沢」


ぴんっと耳を立て、マーヤがひゅんひゅんと辺りを飛ぶ。

そんな彼に、人差し指を立てた。


「でも、一つだけですよ?」

<いいのか!? ヒャハハハッ!どうしたレーニア!太っ腹だな!!>


穏やかな日常。面倒臭い所作の多すぎる生活。平凡なやりとり…。

宿を出て行く彼女たちの背後で閉め忘れている扉が揺れ、タキオンはゆっくりとそれを閉めた――。




End

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