宿泊客:マステマ
生まれついたその種類によって、決して犯せないルールというものがある。
普通に生きていれば思い立ちもしないような道の外れ方。
例えば、水中で息ができない者は目の前の大海原を泳いで行くことができず、さてどうやって船を用意しようかとそう考える。逆に、水中で息のできる者は目の前に大海原を置かれたところで、何とも思わず先を行く。
当然だろうと思うだろうか。
そう、当然だ。
人は誰しも、できることと、できないことがある。
個々人の能力的にという意味ではなく、種族能力的に、だ。
例えば、真冬に寒さに震えている、今にも死にかけそうな幼い子供に上着を一枚かけてやる。
大海原を体一つで渡るよりもずっと安易に思うかも知れない。
だが、それができない者もある。
天国――と呼ばれる場所は、実際はいくつかある。
天国、楽園、エリュシオン、極楽、桃源……。
ひとつひとつは関係があるものもあれば全く無いものもある。
とはいえ言葉は有限であって、圧倒的に数が足りないし全てを総論としてまとめる学者もない。また、その場に住まう者達も、名などという些細なことを気にすることは滅多にない。
そういうわけで、天使たちの住まう天界の最下層から中層に位置する、平和を押し固めたような花舞う園も、“天国”という呼び名がついていた。
巣穴である天国へと戻る為、マステマは黙々と飛行していた。
翼があるからといって何処からでも真っ直ぐ上へ飛び、天の園へ戻れるわけではない。天空と大地にはそれぞれ天力と地力のポイントが飛び飛びで存在しており、対で存在している二点の間にこそ天国へと戻る気の流れが存在している。地上表面ではこれをパワースポットだとか聖域だとか天関だとかいう。
最近は随分フェイクが増え、逆に本物のポイントが崩されてなくなることが多いが、この時代はまだまだ豊富にあちらこちらへ存在しており、通用口が多いことによって天国、地上、地国はそれぞれ行き来しやすく、また他の国の者の姿を見かけることも今よりずっと多かった。
仕事を終えて天国へ戻る為、ばさりと黒い翼を広げ、マステマと武装した他二人の側近はそのポイントへと急いでいた。
天使たちは総じて清潔感のある美しさを持っているが、担当の仕事の関係上、マステマは特に外見を重視して創られる。背は高く筋肉質で、しかしシュッとした色男。飾られた短剣のような鋭い外見の割にどこか甘さを感じる包容力のある言動。背中の翼を取り払って町を歩けば女どころか男までもが振り返るようにできている。
彼は地上は好きだが、地上に長くいることは好きではなかった。
人間に対する、罪への誘惑と告発。
それが、生まれながらのマステマの担当する仕事だ。
いや、逆か。その仕事の為だけに、マステマという天使が創られた。
人間を見守る“主”の僕である天使たちは一人一人に必ず役目を与えられている。駒のようなものだ。必要があれば創り出され、不必要ならば次に必要な時まで眠りにつかされる。
彼の仕事はといえば、リストにあげられた人間の心の強さや信仰心を計るため、あの手この手で人間たちへ試練や誘惑を与え、それらに負けた者と打ち勝った者を更にリスト化し、上へ報告する。負けた者へは定められた不運や罰を与える。
炎で全身を焼くとか、水に飛び込ませるとか、赤子を親から取り上げて目の前で逆さ吊りにし鳥に啄ませて殺すとか…。
ぱっと聞けば果たしてそれは天使の仕事だろうかと首を傾げたくものばかり。
この仕事が本意でないという訳ではない。
彼が仕事を拒むことはないし、主命を忠実にこなすことが喜びには変わりない。
だが、やりごたえは他の部署の仕事よりもある。ありすぎる。
性善説極まりない天使たちの間では、この仕事は余程忠実で責任感が強く実力のある者でないと務まらない為、マステマの評判はすごぶる良い。階位も特殊で独立しており、誰からも一目置かれている。
…とはいえ、慣れはしているが辛くないわけではない。
主は悪しき魂や核を創り上げることは不得意で、結果天使たちは皆一様に善人である。そんな中、必要悪を受け持つ者には心の負担が大きい。仕事を終えた後はいつだって達成感と同時に謎の虚無感に陥る。
対象の為だと解っていても、人間に辛く当たるのは苦しい気がした。
仕事が終わったのなら、さっさと天に帰るに限る。
人間の町や営みは大好きなのだが、ぶらぶらしていると見なくていいものまで見てしまう。
例えば――。
「…あ、見てよー、マステマ様」
「あ?」
低く飛行していたマステマを、同じように傍を飛んでいた部下のシトリィが呼ぶ。
翼も含め鷲の上半身と獅子の下半身、頭部はヒョウというこの魔神は、立派な四つ足の体格に似合わぬ猫撫で声で天使の上司であるマステマの意を引いた。
長年人々が踏み重ねてそれとなくできている森の道。その端に転がっているボロ雑巾のような布の中に収まって倒れている、行き倒れの人間の男を見せたかったらしい。
ひくり…とマステマは眉を寄せた。
こういうものを、見たくはないのだ。
…いや、見るのはいい。だがそれは助けられるのならばの話だ。
傷付き死を目前に控えている人間、暴行に遭っている人間、救いを求めている者たちをその場で救えるのであれば、いくらでも見付けてこいと部下達に命じることもできるだろう。
だが、彼らを見付けてもマステマにできることは報告することだけだ。
パン一切れでも、両手の水ひとすくいでも許されない。それは彼の仕事ではない。
それを分かっているはずのシトリィはごろごろと喉を鳴らして笑っている。こういう底意地の悪いことを素でやるところが魔神らしくはあるが、シトリィの悪戯は彼らからしてみれば本当に軽い戯れなのだろう。一時期よりは随分大人しいものだ。
それに、見付けられないよりは見付けた方が、やはりこの人間の為になるのだろう。目を反らすよりは、痛む心を耐えて直視する方が良いはずだ。
「テメェ…。この野郎。目端が利くな、お前は」
それでも舌打ちしながら、マステマは羊皮紙を取り出し死の近い魂の特徴と居場所、罪名や死因などを分かる範囲で書いていく。報告だけが彼が行き倒れの男にしてやれることだった。
元々、魂の回収を担当する者のリストに入っている可能性はあるが、それでも目に付いた以上は漏れがないかの確認をこの目でしてやりたい。
こんな町から離れた林道だ。しかも季節は冬。
これが春夏などであったらいくらかは通行人もあったかもしれないが、時期が悪い。救いは来ないだろう。
自分が身に着けている衣類を脱いででも、弱っているその体にかけてやれたらとは思うがそれはできない。
こうして多くの死を見送ってきた。
自分で行動して屈する人間を見るのも辛いが、目の前で救えそうな者を救えないという大きな壁もまた辛い。
諦めようと思ってもそう簡単に割り切れるものでもなく、マステマは溜息を吐いて羊皮紙を丸めた。
シトリィと同じく控えていたもう一人の側近…黒い翼と二匹の蛇の尾を持つ狼の姿でいたマルコキアスが、咎めるようにシトリィへ鼻先を向けて軽く牙を見せた。
その後で、マステマを見上げる。
「死に逝く者一人一人を相手にしていては身が保ちませぬ。上へ報告が行くだけ、その者にとっては良きことでありましょう。魂が迷う前に迎えが来ます」
「両手一杯の水や温かいスープ一皿で、気付けにはなるだろうにな。イヤになるぜ、まったく」
「何で。弱い奴から死んでいって、当然でしょ。人間だって動物なんだから。生きて死んで廻るもんだって。季節や水と同じっしょ。あんな道端で死ぬなんて、かーわいそー」
「エンジェルどもでも通ればいいんだろうが、俺じゃあな。運の悪い奴だ。なあ?」
「いや、そこ俺らに求められても困るし。…ねえ?」
シトリィの同意を求める声に、マルコは頷かない。
死を目前に控える男の前で、灰色と黒い翼を持つ獣を従えた黒い翼の男が足を止めている。
見る者が見れば、紛れもなく死の使いになるだろう。
心臓が締め付けられるようなぎゅっとした痛みを覚えつつも、表面上は淡々と溜息を吐くだけにし、再びばさりと翼を広げた。
「行くぞ。とっとと帰って報告するのがベストだろうからな」
「は」
「天使ってさァ、けっこーポンコツだよねー」
「ぶっ飛ばすぞ、クソヒョウ」
「口が過ぎるぞ、シトリィ。弁えよ」
各々翼を広げて再びポイントへ向かう途中、彼らは道を歩く人影を見付けた。
こんな季節に。
これはいい。このまま行けばあの男が倒れている場所に達するのではないか。
マステマはそう思ったが、またもや意地の悪いシトリィが付け足してくる。
「まあ、気付いたとしても普通は助けないでしょ。馬車とか馬に乗ってりゃ助けてやってもいいかもしれないけどさ、あいつ徒歩じゃん」
てくてく大地を歩いているその人影は確かに徒歩だ。
背筋がしゃんと伸びている感じからして子供や老人では無さそうだが、例え男であっても同じ成人男性を担いで離れた町まで行ってやろうとする善人はなかなかいない。
それもそうだろうな…と頷くマステマ。
…とそこで、はた…とその人影と視線が合った気がした。
距離は随分遠いし、まだ「人がいる」程度にしか相手の様子は見えない。それなのに、視線が合ったようなこの感覚。
後ろの二人も感じ取ったのか、ざわ…と一瞬にして警戒が生まれた。
「…ちょっと。何か今、目が合わなかった?」
シトリィが嫌そうな声で言う。
“目が合った”というのは比喩的表現で、相手の意識がこちらに向いていることに自分たちが気付けたという方が正しい。
普通であればマステマたちが対象以外の人間に見えることはない。子供は気付くこともあるが、死期が近い人間であろうとも担当の天使以外は見えないはずだ。マステマとて、今回係わった人間以外には見えるはずもない。
それでも、相手はこちらに意識を向けてきて、こちらはそれを察した。
マルコが首を低くしてよく見ようと目を細める。
「…男ですな。我々が見えているようですが」
「そんなことあるか?」
言いながらも、三人はその人影へ慎重に近づいていくことにした。
どのみち、目的地がそちらの方角なのだからどうあっても上空は通ることになるのだ。わざわざ避けるようなことではなかろうと進んでいくと、やはり人影は男で若い青年で、しかもばっちりこちらが見えているようで片手を額に添えて上空を飛行する彼らを物珍しそうに眺めていた。
これは本物だ。
黒い青年だ。黒髪黒目に黒衣。人間の振りをしているがこれは違う。
直感的に相手の中に煌めきを見付ける。赤くきらきらと輝く古い石のイメージがマステマの中に飛び込んできた。
相手の表情がなんとか分かる距離までくると、美しい青年はにこり、と微笑をした。
あまりに邪気のないその笑みに、マステマも思わず微笑してしまう。
だが、側近二人は妙に警戒をしているようだった。
人間ではないことは分かるが、相手が何なのかはっきりしないようだ。魔神のような気がするが、確証が持てないのだろう。自分たちとは違う気がする何かに、どう対応していいか分からないらしい。
天使であるマステマの部下として、仮住まいとはいえ天国暮らしが長い二人だ。そこそこ名は通っているものの、流浪の魔神など知る余地もないのだろう。
「こんにちは」
青年は朗らかに挨拶をした。
黒い翼のマステマ、左右に控える鷲の翼にヒョウの頭のシトリィ、尾が蛇の黒狼マルコキアス。
この三人を前に第一声が「こんにちは」ときたものだ。部下の二人はますます警戒を強めたが、マステマは一目で相手が気に入ってしまった。
「よう、青年。元気だな。俺たちが見えるのか?」
「ええ、何とか。…お強そうな方々ですね。どちらかで争い事でも?」
「いいや。天へ帰るところだ」
「天?」
魔界ではないのだろうか、とでも思ったか、青年は不思議そうに首を傾げる。
横からマルコに「あまり口を滑らせない方が宜しい」と注意をされ、マステマはごほんと咳払いをする。
だが既に手遅れで、短い言葉からぼんやりと相手を推測し始めた青年が、困ったような顔をする。
「天というと…神族の方ですか。…困りましたね。あの、もしかして私を見かけてしまって、倒そうとかそういうお考えなのでしょうか」
「何だお前、やはり魔神か」
実際は天使なのだが、神と間違えられる経験が無いわけじゃない。
神だとしたら自分を捕らえにきたのか…などと考える者は、大体魔神や悪霊が多い。この青年は恐らく魔神の一人なのだろう。
それにしては煌めきが美しい気がするが、まあそう言うのだからそうなのだろう。
正体が分かればそれでいい。不明なのが一番困るし厄介だ。
魔神だと聞いて後ろの二人も安心したらしく、いつでも飛びかかれそうであった体勢を少し柔らかくした。
「安心しろ。俺は神じゃないし、魔神というだけで毛嫌いするようなことはない。俺の側近はご覧の通り魔神だしな」
「それは、お珍しい」
これには流石に相手も驚いたようで、片手を頬に添えて後ろの二人を見る。
シトリィは青年を見下したようにフンと鼻を鳴らし、マルコは無反応で淡々と彼を見下ろしていた。
流石にいきなり名を名乗ろうとは思わなかったが、マステマはこの青年に更に少し近づいてみることにした。
滞空していた高さを落とし、上から覗き込むように青年の赤い瞳を見詰める。
澄んだ瞳はきらきらとルビーのように奥が見え、美しかった。
故に、たった一度の出会いであろうともこの青年が魔神でいう“落ちこぼれ”であろうことは想像に易かった。
こんなことを真正面から、しかも魔神に頼むのは間違っている気がするが…。
「……。なあ、お前さんさ…」
「何ですか?」
「悪いな、初対面で。こんなことを言うのも何だが…食い物を持ってないか。あと、水。葡萄酒でもいい。何でもいいんだが、この道の先に男が一人行き倒れている。そいつにくれてやってくれないか。介抱してやって欲しいんだが…」
背後で部下の二人が、一斉に溜息を吐くのが分かった。
「何を馬鹿なことを…」と呆れているのだろう。自分でもそう思う言動だ。
ここで、やなこった、か、叶えたら何してくれます?…が、魔神たちのセオリーだ。資本主義上等。
だが、この青年は笑顔でこう言った。
「勿論、構いませんよ。私の手が届くのであれば、助けて差し上げましょう」
青年は道端に倒れている男の元へ行くと、介抱し、どこからか食料を差し出した。
厚い立派な一着の外套を肩にかけてやり、目の前に敷かれた布の上に果実やチーズ、葡萄酒を用意する。
死に絶えていた男はそれこそぼろぼろと大粒の涙を零しながら与えられる食物を吐き戻す程に押し込み、その言葉しか知らないとばかりに感謝の言葉を何度も何度も何度も、譫言のように繰り返しながら青年に感謝をした。
傷付いた男の背を優しく撫でながら、傷薬のような言葉を与えて、黒衣の青年は隣に寄りそっている。
既に日は落ちてしまったが、マステマたちは離れた場所からその一部始終を見守っていた。
太い木の枝に足を組んで腰掛けるマステマの横で、お座りをしているマルコがぼそりと告げる。
「…違反ですぞ」
「いや~。ギリギリグレーのはずだぞー? 俺も俺の下のお前らも何もしてないからな。でもまあ、許されるのは一回きりだろうな。はっはっは!」
「ホントギリギリなんじゃないのー? 存在抹消とか、止めてよね。俺たちアンタらと違って、上司の顔に泥塗られるのホント屈辱なんだから。いきなり消されても知りませんよー……って、何そのガキっぽい笑顔」
反対側の枝に退屈そうに座っていたシトリィが、首を下げ、半眼で上司の方を向く。
普通なら見せないようなにまにました無邪気な笑顔の天使に、シトリィは呆れてものも言えない。
高々こんなことで。
たった一粒の人間の命がたまたま救えたことが、そんなに嬉しいだろうか。全く感覚が違う。
呆れると同時に、よくもまあそんな清らかな心根で日夜あれこれ悪行の仕事が勤まるものだといっそ感心する。如何に効果的に対象を追い詰め傷付けるかが務めとはいえ、魔神である部下たちも引くような彼の言動を見たのは一度や二度ではない。
そのうちストレスで死ねそうなものだが、自害もまた天使には歩めぬ道だ。
自らの終わりを決定する自由。これに勝る自由はなかなか無い。
元天使のマルコは彼の気持ちが分かるらしく、小さく息を吐く。横たわって重ねた腕に顎を乗せた。
マステマが、片手を口を覆うように添えたまま遠巻きに木の下に並ぶ二人の影を見詰め、しみじみと呟く。
その眼差しには羨望が浮かんでいる。
「あの人間にとっては、俺よりもアイツの方が“主の御使い”に見えるんだろうな」
「あー。人間って、目先の優しさしか見えないしねー。そこが馬鹿っぽくてかわいーんだけど。扱いやすいし」
「成長の為、誘惑も試練も罰も必要な経緯です。叱らぬ親に愛は無し。主の愛こそがマステマ殿というわけでありましょう」
「天使って転職できないの? 俺ら結構あったよ。ポジション変更。別の担当になるとか」
「できるか。何の為に創られたんだよ。…見ろよ。泣いて喜んでいるぞ。うまかったろうな。腹の中、何も無かったんだろう。魂にうっすら色が戻っていく。薬も渡しているぞ。アイツ何でも持ってるな」
「そして元気になったところに、“さて、ならば代償をいただこうか”という交渉になるわけね。ま、あそこまでしてやったら普通に魂もらえるでしょ。クズみたいなもんだけど」
「…!?」
シトリィの一言に、ばっとマステマが驚いた顔で彼を振り返る。
突然振り向かれ、逆にシトリィもびくりとした。
「え、何で? だって普通そーでしょ」
当然だろうとばかりの部下の発言に驚いて、夜になり、傷付いた男が寝静まった頃に黒衣の青年の傍までマステマは降りていった。
「なあ、お前」
「ああ、貴方。ご安心ください。こちらの方、もう大丈夫ですよ。一晩私の城で寝ていただければ、明日の朝には責任を持って――」
「悪いが、この男の魂は捕らないでやってくれないか」
「…え?」
突然そのようなことを言われて、青年は首を傾げた。
少し間を置き、くすりと笑い出す。
「いやですね。私、この方を得ようなんて思ってもいませんよ」
「…そうなのか?」
「あれ?」
マステマの後ろで、獅子の尾を揺らしながらシトリィが解せないという顔をする。
青年は横で休んでいる男の肩を、愛しそうにそっと撫でた。
「私はもう、家出をした身なんです。大きな天秤を支えるのが、疲れてしまって…」
「家出…?」
どこか哀しげな青年の呟きに不思議な共感を覚え、マステマはぼんやり彼を見ていた。
不意に、青年が顔を上げる。
「貴方も、ご無理なさらないでくださいね。…そうそう。申し遅れました。私、レーニアと申します。宿屋を営んでいるので、疲れたら、貴方方もいつでもいらっしゃってください」
「宿屋? そんなの、どこにあるわけ?」
静かに聞いているマルコと違い、シトリィが不満げに質問を投げる。
「お前、旅してるんだろ? 宿なんて、どこでやってるんだよ」
「どこでも」
ふふ、と青年は柔らかく告げる。
微笑み、再び妖艶な瞳を開き、マステマを向いた。
「金の鍵を見付けてくださいね。特に貴方。きっと貴方は、持っていると思いますから」
「…?」
一晩経ち、傷付いた男は見違える程回復した。
体力はまだ追いついていなかったが、一夜の間に何があったのか、死んでいた瞳に光が宿り、生きる活力を取り戻していた。
レーニアと名乗る魔神は最寄りの町まで男を送っていくらしいが、流石にそこまで長居はできないと、部下の二人を連れてマステマは天国へと帰っていった。
再び激務に追われる日々が続き、仕事あがりのある日。
不意に青年の言葉を思い出し、ほんの気まぐれに、マステマは“金の鍵”というものを探してみようかと考えた。
先ずは情報から集めてみるかと部屋を出ようとして、自分の卓上に全く見覚えの無い鈍色に輝く金色の鍵があることに気付く。
は?…と思ったが、ひとまず手にとって裏表と眺めて見ても何もない。
差し込む鍵穴を探そうとはしてみたが、天国に錠がある場所は殆ど無く、封じるべき所には封印が施されていることが多いため鍵穴が無い。
ひとまず腰に提げている小袋に入れて持ち歩くことにしたが、側近たちと離れ、夜に一人で気に入っている滝の傍へ降り立った際、流れ落ちる水の中に木製の扉を見付けた。
以前訪れたときは絶対になかったその扉の錠は鍵と同じく金色をしており、彼は無言のうちに懐から鍵を取り出すと差し込んでみた。
待ってましたとばかりに、カチリ…と鍵は滑るように回り、扉が開く。
開いた先は、眩いばかりの花畑。
空は青く高く広く、花は世界の果てまであった。
風が吹くたび花弁が舞い上がり、花の香りが空気を染めている。
「ようこそ。黒い翼の方」
その花畑の中央に、知った顔の美青年が立っていた。
ただの魔神とは思えない程きらきらと輝く魂の煌めきは、見間違えるはずもない。
マステマは呆然と、彼へ向かって一歩歩き出した。
扉の中に入るのは危険ではなかろうかとか、そんな警戒心を一切抱かせない、素晴らしい場所だった。
これはどうしたことだろう。
疑問を口にする間もなく、突如周りの景色がぐにゃりとひしげ、次に収まった時には周りの様子は一変していた。
寒い猛吹雪の丘。
花は一本も無く、大地は白い雪のヴェールが積もっており、空は灰色。吹き荒れる吹雪は見るだけで身に痛い。
――アアー…――アアアー……。
さほど遠くではない場所から突如赤ん坊の声がして、マステマはぎょとした。
この吹雪の中で赤子?
冗談じゃない。止めてくれ。胸が痛い。
表情には一切出さずに周りを見回すが、きりきりと締め付けられるように良心が痛み出す。
聞きたくない。俺じゃ助けられない。俺にはその資格も権限も無い。
どくんどくんと心音が脈打つ。それらを無視して、さらりといつものように懐から羊皮紙を取り出した。
消えかかっている命があることを書き留めることだけが自分にできる精一杯だ。
筆を取りだそうとした手に、す…と背後から手が重なる。
驚いて顔を上げると、あの黒衣の青年がいつの間にか傍にいた。
「安心してください。ここでは大丈夫。…さあ、紙などしまってくださいな。今は目の前にある小さな命を、貴方の手で救って差し上げて」
「――」
「貴方にはできますよ。私よりよっぽど」
虚を突かれた発言に、マステマは彼の助言に従った。
雪の中で泣いている赤ん坊を捜し出す。
最初はさくさくとやる気無く歩き辺りを見回してみる程度だったが、気付けば必死になって同じような景色の中泣き声を頼りに探し当て、姿を見付けると弾かれたように駆け寄った。
自らの衣類の一枚を脱ぐとそれで怖々と赤子を抱き上げてみる。
拙い手付きで抱き上げると、体温を感じた幼い魂は泣くのを止めた。感動で腕が震える。
傍で見ていた青年が、赤子の小さな手を握る。
「さあ。それじゃあ温かい場所へ行きましょう。山小屋なんてどうでしょう。暖炉がある山小屋がいいですねえ。厚い絨毯のある」
「…いやお前、これ――」
赤子を救い出した。
主の命も無しに、そんなことができるはずがない。
自分は審査官。
真実の判断の為、多少不幸の中にあるからといって、無条件にたまたま目に付いた人間を救うなんて、そんな不平等な行為は行えないはずだ。
他ならぬ自分がしている行動に仰天しているマステマに、黒衣の青年は微笑みかける。
「人間を救い出すのは初めてですか? …ふふ。私の宿へようこそ、天使マステマ。以前お会いした時、貴方の真核は少し曇っていて心配でした。天使の核はとても幾何学的で整っていて、好きなんですよ。曇ってしまっては勿体ない。今夜はどうぞ、ごゆっくりなさって。貴方の喜びが、私の喜び」
吹雪の中、赤子を抱いたままマステマは数秒間ぼんやりしてしまった。
やがてこの気温が赤子の為にならないと思い出すと、二人して慌てて近くにある山小屋の中に駆け込み、明々と燃える暖炉の傍に腰を下ろし、尚も腕の中で赤子を気にして暖める。
日頃余裕のある言動しかない彼から、ぼろ…と大粒の涙が出てきたのは、赤子が安らかな眠りについた後だった。
背を折り、抱く赤子を包み込むようにして、くつくつと声を押し殺して初めて涙する。
傷付いて倒れていた男を助けたあの時のように、レーニアは傍に寄りそうと優しく彼の背を撫でた。
本来歩くべき道からの外れ。
これを“外道”と呼ぶらしい。
開けた扉の中でだけ、道の外れ方を覚えた者は数多い。
例えどのような外れ方であれ、外に戻ってしまえばどれもこれも“許されざること”。
今日も縛られた貴方。
可哀想な貴方。
金の鍵を探しなさい。
貴方は、貴方がまだ思い立ちもできていない理想や願望、夢を必ず持っている。
現実的な話だ。道を外れれば幅が広がり、夢も可能性も広がる。
金の鍵を探しなさい。
【宿泊客:マステマ】
森の中を、白い鹿が駆け抜けていく。
アルテミスは息を切らせていた。思いの外体力を消耗している。まさか飛べないということがこんなに足枷になろうとは思わなかった。
意識せずに使っている特殊な力というものは数多い。
気が向いたときに爪先から空へとんと飛び立てることを制限されてしまえば、後は体力勝負になってしまう。
跳ねるように走りながら、アルテミスは焦っていた。
<一体何だというの…っ。何故空へあがれない…!>
助走を付け、何度かタイミングを掴んで空へ飛び上がろうと一際強く大地を蹴るのだが、大きな跳ねになるばかりでいつものように空へと上がることはできない。
そうこうしている間にも、背後から獣は追ってくる。
時折響く大きな吠え声に不覚にもびくりと肩が震える。
…おかしい。
自分は天に住まう神の一人だ。“飛べない”などということが有り得るのだろうか。
生まれながらに備わっている先天的能力であるはずのものが、忽然と欠けてしまうなどということが有り得るのだろうか。
二本足で立てない子鹿がいるのだろうか。あの美しい形を成す蜘蛛の巣の作り方を知らない蜘蛛がいるのだろうか。
必死で走るアルテミス。
その行く先の茂みから、不意にブロンディアスが飛びかかってきた。
<グルァアア――ッ!!>
<…っ!>
見事な反射神経でそれを避け、駆け抜けていく方角を変える。
勢い任せに飛びかかってきたブロンディアスはアルテミスの後方で地面を爪で剔ったが、着地するとまたすぐに追いかけてくる。
ここまで距離が詰められては彼の方が速く、今度こそその前足の鋭い爪がアルテミスにかかろうとしたところで、彼女の体が不意に消えた。
…いや、消えたように見えたが、その実ネズミの姿に変化した。
牝鹿の姿は消え失せ、白いネズミが一匹、たっとその場から走り去る。突然消えた体躯に一瞬戸惑ったものの、逃げる影を見つけ、もう殆ど本能的に追い始めるブロンディアス。
小さな姿は草木の間に入ってしまえば捕らえにくく、一度見失うと見付けづらい。
何度か見失いながらも、ブロンディアスはアルテミスを追い詰めていった。
二匹はどんどんと森の奥へと進んでいく。
だが、アルテミスの双眸はまだ悔しげに歪んでおり、絶望は見えない。
木々を行き、足場の悪い上り坂を一目散にちょろちょろと駆け上がっていくアルテミス。
彼女からすれば、自分が何故今追いかけられているのかさっぱり分からない。この男の目的が自分を殺すことだと聞いたところで、一体自分が彼に何をしたのか、思いもつかない。
ただ、自分を殺しに来たのであればやり返すに決まっている。
彼女がこの辺りで人一倍負けん気が強いのは誰でも知っている。ずっと未来の人間たちでも知っている。
相手はただのではないにしろ、所詮獣。狼だ。
本来の姿に戻って弓矢で射殺せばいいのだが、その為には距離が必要だ。追いかけられている現状では構えている間にブロンディアスは喉元狙って飛びかかってくるだろう。
ならば――。
上から飛びついてくる白狼の爪を何度かかわし、ひたすら走っていくと突き出た坂の上に出た。複雑に広がる彼女の庭の中、特別気に入っている場所だ。
森から出て途端に岩肌になった足場。その先端を目指して疾走していく。
向かう先は青空。後ろからは安直な獣がしっかりとついてきている。
ふん…と彼女は双眸を細めた。
<頭の悪い…っ、獣めが!>
肉声ではない声を張りながら、バッ…!と小さな身体は宙へ突き出ている見晴台のようなその先端から飛び出す。
その後ろで、向かう先に足場がないことに気付いたブロンディアスが急ブレーキをかけようとするが、とても間に合わない。
<…っグ――!>
勢いに乗った速度を落とせず、ブロンディアスは突き出した岩場から宙へと飛びだした。
一瞬、その双眸が今飛んだ足場の方を見、先に落ちたと見せかけて、その岩肌の絶壁に蹲る白いネズミを見付けるとグルルと牙を剥いた。
だが、もう遅い。
白い獣は飛べはしない。重力に従い落下する。
ブロンディアスは首を振って吠えた。
<アル、テミスゥゥァアアアア…ッ!殺スコロスゾオオオッ!! オマエの名ッ、忘れはシな――…!!>
言葉は最後までは聞こえない。
落下した先で、盛大な水柱が上がった。下はどうやら湖の端で、辛うじて水場に落ちたようだ。
だが、一度離れてもらえればアルテミスにとっては十分だ。
白いネズミは見下した目でブロンディアスを見下ろし、ちょろろと再び岩場の見晴台へと登ってきた。
そこで漸く本来の姿に戻ると、不愉快そうに眉を寄せ、荒い呼吸を整え始める。
すぐにもう一度飛んでみようとするが、やはり空へは上がれない。いよいよ飛び上がれないことが分かると、流石の彼女も青い顔をし始めた。
「一体何だというの。どういうことなの。…誰かある!」
はあはあと息を整えながらも顎を上げて声を張ってみるが、誰も来ない。
ここはニュンフェの森だというのに。
「誰か!…どうした。誰か私の武器を持って来なさい!」
「どうぞ」
「…!」
聞きたくない声が返事をし、アルテミスは慌てて振り返った。
背を向けていた見晴台の先に、彼女の弓矢を持ったレーニアが滞空していた。甲斐甲斐しくこちらに武器を差し出す様子が憎たらしく、アルテミスは露骨に顔を顰める。
「貴様…」
「ブロンディアスは負けてしまったようですね…。力を与えたところで、流石に彼単体では貴女には勝てませんね」
困ったように息を吐き、レーニアは岩場に足を着けた。
彼の手から武器を受け取ろうか取るまいか、考えながらアルテミスは彼へ爪先を向けて立つ。
「本気で私を殺そうというのか。他の神々が黙っていないわ」
「そこなんですけれどね」
憎しみの隠った視線も何のそので、レーニアは人差し指を立てた。
その後、考え込むように顎に片手を添える。
「私もね、実は今回のこと、少々出しゃばりが過ぎるのではと自分で思っているのですよ。何だかすっかり大袈裟になってしまいました。…とはいえ、ブロンディアスは久し振りに肉体共々私の宿屋の門をくぐった大切なお客様。気分良く宿をお出になって欲しいのです。私の願いはそれだけなのですが、今回のブロンディアスの気がかりは少々大きなものでした。…ですが私はね、一介の宿屋なのですよ。宿の主人とはそういうものであるべきだと思いませんか? 笑顔で去っていくお客様を、笑顔でお見送りしないと」
「知らないわ。ヤドヤなんて、聞いたこともない。私には縁のないものだわ」
吐き捨てるようなアルテミスの返答に、レーニアは少し寂しそうな顔をした。
「先程も申し上げましたけれど、彼の願いは“妻の命を奪った女神を殺めたい”です」
「私が? 冗談は止めて頂戴。私は人間の女の命を奪ったことはないわ」
心外とばかりにアルテミスが語感を強める。
もしかしたらそれは嘘ではないのかもしれない。先程、獲物にされた少女も手を下したのはレーニアとマーヤだった。彼女自身が、彼女の手で少女たちを殺したことはないのかもしれない。
それを有罪と感じるか無罪と感じるかは人それぞれだとは思うが、少なくとも言葉の並びとしては偽りがないのかもしれない。
いっそ誇らしげに言うアルテミスに、レーニアは静かに頷いた。
「そうかもしれませんね。私もできれば貴女を殺めたくはありません。けれどブロンディアスの願いと矛盾してしまいます。彼の願いは叶えて差し上げたいですが、どうにか彼の強い願いから貴女を逃がして差し上げたい。そこで、見方を変えてみたいのですが…」
顎に添えていた指先を降ろし、レーニアがふいとアルテミスを向く。
「貴女、確か処女神だとか」
短い言葉。
だがその言葉にとてつもない悪寒を感じ、アルテミスは肩に緊張が走ったのが分かった。
「男性に頼らない独立した精神の誓約。貴方の場合、それに肉体的独立も誓っていらっしゃるそうですね」
「……」
「他者に支配されないことを誓うからこそ、誓った女性たちは他の女性たちより強い力をお持ちだ。女神限定の強い縛りですけれど、その代わりに強い力と支配域を持つ。男神はそうはいかない…まったく、不平等です。しかし本当でしょうか。それならば、女神を止めていただくというのも一手かな、と」
そこでレーニアの考えていることが分かり、アルテミスの顔は見る間に青くなっていく。
主神へ直接願い出た彼女の誓いは有名で、周囲の男神たちの誰もが彼女とは一線を引いていた。例えただの狩り仲間であっても、あまり親しくなってしまえば恋心が芽生えてしまうのは目に見えている。
女神の友は多い。だが、男に混ざるのは好きではあるが、あまり親しすぎる相手はいない。
無粋な人間が彼女に惚れることは何度かあったが、そんなものは問題にすらならない。
ザ…とアルテミスが半歩後退する。
「笑えない冗談だわ…。私を愛する気なの?」
「どうでしょう、私の宿にいらっしゃいませんか? 貴女の夢を叶えて差し上げますよ」
まるで至上のパーティへ招くように、レーニアが手を差し伸べる。
アルテミスは呆れたように首を振り、肩を落とした。
「馬鹿馬鹿しい!」
「優男はお嫌いですか?」
まるで子供のわがままを宥めるかのように優しく尋ね、レーニアが僅かに地上から浮く。
くるりとその場で一回転すると同時に黒い布が広がって彼の姿を隠し、次に現れた時には先程の肉体美に溢れた荒々しい狩人の姿をしていた。
「こちらの方が宜しいか。…結構。貴女が貴女の最高の夢を見る為に、私には全ての用意がある。こちらへおいで、美しい女神殿」
深い声で、堂々とした仕草で先程よりも距離を詰められ、改めて手を差し伸べられる。
確かに先程よりは魅力的な姿に見えなくもないが、どのみちあんなことを言われて手を取る馬鹿はいない。
力尽くで来るかと思いきやそうでもなさそうな様子に、アルテミスは胸中安堵しては腕を組んで再び首を振った。
本心なのか、それとも演技なのか。レーニアは切に彼女に訴える。
「貴女を助けたい。貴女もブロンディアスにも、幸せな夢を与えたい。私は世が平和であり、誰もが幸福であれと願うけれども、とてもそれらを叶える力がない。ですから私は、私の腕の届く方を、精一杯、心から愛したい。…さあ、おいで。押し込めている願いを叶えてやろう。何をと思うかもしれないが、鬩ぎ合う私の心を分かってほしい」
「なら、さっさとあの獣を連れて出ていきなさい。貴様がどんな姿に変わろうとその腕に堕ちることはないわ。それよりも、私の飛ぶ力を返しなさい。一体私に何をしたというの」
「…」
当然だが、話し合いにもならない。
頑ななアルテミスを前に、レーニアは目を伏せて小さく首を振った。再び子供の可愛いわがままに溜息を吐くような仕草をしてから、目を開く。
開いた目が、す…と細くなった。
「お返しすることもできますが、それは貴女が貴女の夢を実現できたら後の話です。…ええ、ええ。理解っていますとも。誇り高きアルテミス嬢。貴女が夢見るお相手は、この世にただ一人であることを――」
再び、黒布がぶわっとアルテミスの視野からレーニアを隠すように広がり覆う。
だがそれも一瞬で、バサッ…!とそれらが払われ、対峙したのは――。
「――ご機嫌よう、姉様」
溌剌とした美貌の、若い青年神だった。
短く整えた髪と凛々しい鼻筋。茶の髪は色が明るすぎて金色にも見え、瞳は琥珀色に澄んでいる。後ろめたさなど無いような、どこか少年さを残した瞳としっかりとした眉は、温かい心根と冷静な思考の持ち主であることを悟れる。
地上から僅かに爪先を浮かせ突如現れた見知った姿に、ザアッ…!と、それこそ音を立ててアルテミスの顔色から血の気が失せていった。
何度もちらちらと広がったり収まったりしていた夜で染めたような黒い布も、今はまるで最初からそうであったかのように純白に姿を変えている。
青年は地上に爪先を着けると、まるで今この場にやってきた素振りで親しげに歩み寄ってくる。
びくっ…と、アルテミスが一歩後退した。
「随分会えなかったが、元気そうでよかった。今もニュンフェたちと森で暮らしているのかい? 父にもらった身内とはいえ、たまには俺のところにも遊びに来ればいいだろうに」
「……止めろ」
ぽつ…とアルテミスが口の中で呟く。
青年は気付いているのかいないのか、何の気負いもなく彼女へと近づいてくる。嗅ぎ慣れた彼の花の芳香がし、ますます体が強張った。
信じられないものでも見るかのように、近づいてくる青年を凝視する。
「止めなさい…。何なの、本当に……どうして……」
「姉様とあまりに会えないのは、とても寂しいものだよ。何故俺を避けるのか」
「お止めッ!!」
伸ばされた片腕を音を立てて払い、アルテミスが後方へ飛び退く。
…が。
「何処かへ行くの?」
「…!」
その片手首を捕らえられ、弾かれたように彼女は振り返って相手の顔を見てしまった。
「何処かへ行くのなら、俺も連れて行ってほしい。力になるよ」
よく見知った琥珀色の瞳は、自分と同じものだ。
偽者だとは分かっている。分かっているが、それでも心臓が高鳴り頭の中が白く塗り潰される程、目の前にいる存在は出来上がっていた。
姿形だけではなく、仕草、声色。何より雰囲気…。
「――アポロン」
アルテミスがよく知った青年の名前を口にした瞬間、彼は何とも言えない表情で微笑んだ。
よく知って当然だ。弟なのだから。
男神アポロン。
言わずと知れた、この地域の顔になるような華やかさを持つアルテミスの弟だ。
つい先程までは確かにレーニアの化けた偽者であったし、今現在もそうだ。
だが、他ならぬアルテミスが名を呼び、その化けた存在である今の姿を“名付けた”以上は、彼もまた本物のアポロンだ。
名付けるとは、存在を創ることである。
…レーニアは逃げるのを止めてしまったアルテミスの手を優しく取り直す。
彼女はぴくりと反応したが、夢から覚めようとするかの如く弱々しく首を振った。
身内だからこそ、今目の前に存在しているアポロンがどれ程本物と似ているかも分かる。驚く程瓜二つだ。見た目、仕草、雰囲気まで何もかも。
「俺も見せたいものがあるんだ。出かける前に、一緒に来てくれないか。すぐに済む。きっと姉様も気に入るよ」
「…」
レーニアが腕を引き、距離が詰まる。
笑顔と朗らかな空気をつくりだすレーニアの背後に、いつの間にかとても美しい石の扉が現れていた。
彫刻の細かい、彼女たちの時代の麗しい白い扉だ。唯一、西洋の鍵を差し込む金具がついていることに違和感がある。
レーニアはアルテミスを導きながら、急にしまったという顔をした。
「…あれ、俺は鍵を何処へおいただろう。とても綺麗な鍵なんだ。黄金色に輝いていて…。姉様、知らないかい?」
「…鍵?」
どこかぼんやりとした気持ちで、アルテミスは聞き返した。
そんなことを言われたって知らない。彼の部屋の鍵を、自分が持っているわけが…。
そう思ってふと足下を見ると、金色の鍵が落ちていた。
拾ってくれと言わんばかりのその鍵を、アポロンと繋いでいない方の手で、ひょいとアルテミスが拾い上げる。
「…これか」
「それだ。落としたんだ」
アポロンがぱっと笑う。
本当に嬉しげに笑い、彼女の手から鍵を借りようと掌を差し出した。
姿形は瓜二つで雰囲気も仕草もよく似ている。
しかしその瞬間何かを察し、アルテミスはは…っと一瞬だけ我に返った。
鍵を持ったままバッ…!と勢いよく腕を振り上げると、掌の中で鍵は消えた。
そのまま、目の前の弟の顔へ爪を振り下ろす。
「ッ…!」
ガリッ…!と、猫のように振り下ろされた彼女の爪で、アポロンの左頬にはひっかき傷ができた。
じんじんと赤くなり、血が滲み出す。
その血の色で、アルテミスは改めて我に返ると、さっと身を引いた。
「無礼者ッ!」
怒鳴り、また飛ぼうとして飛べないことを思い出し、仕方なしに駆け出す。
自分を惑わす異国の魔神を突き飛ばし、彼の横を走って湖に突き出ている岩肌の先端へと向かっていった。
引っかかれた頬を抑えて走る彼女を振り返り、レーニアがアポロンの姿のまま困ったような顔で笑う。
「う~ん…。素晴らしい。強いお嬢さんですねえ…」
レーニアの言葉が終わらぬうちに、アルテミスは湖へ身を投げた。
どぼん、という音の後しばし。
荒々しく水面は揺れ始め、やがてザバッ…!と巨大な水竜が姿を現した。
町の外れ、聖なる樹海にあるような太い大樹程もある巨体に、びっしりと紺色の鱗が並んでおり、ぎらぎらと光を反射している。吊り上がった竜の瞳と頭部左右にある珊瑚のような角と半透明に青いエラ。変わらない瞳の色で、何とかそれがアルテミスであると知る。
水面から突き出た竜の長い首は威嚇混じりに呻ると、レーニアが一人残っている見晴台に頭を寄せ、巨大な口を開けて吠えた。
ギャオオォオオウ…!!と森に響く鳴き声は、音というよりも震動が凄まじく、流石のレーニアもこの近距離で吠えられてしまっては驚くより他ない。
両手を耳で塞ぎ、びりびり震える空気に苦笑しながら耐えた。ばさばさと白布がはためき、一度レーニアの体から飛んでしまったが、必死に空気中を泳いでくると彼の腕へと戻ってきて必死に絡まってみせた。
咆哮が終わると、水竜は襲いかかってきた。
「え? …うおっと!」
喰う気である。
大口開けて向かってきたアルテミスの攻撃に驚きながらも、レーニアはひょいと浮いてそれを逃れた。
だが、すぐにアルテミスも食らい付いてくるが、再びそれを避ける。
見た目は爽やかな男神が、空中で体を丸めて片手を口に添え半眼で呻く。
「ううう~ん…。こんなに強靱な精神の持ち主はなかなか…。困ったなあ。鍵も消えてしまったようですし…」
レーニアが受け容れ、相手が宿に来る意思さえあれば、金色の鍵はいつだって宿泊客の身の回りにある。現れた扉に鍵を差し込んで回すだけで、あとは部屋へ直通だ。
だが、一度は姿を見せたアルテミスの鍵は存在を消してしまった。
あと少しだったのだが、彼女は宿へ来るのを拒否しているようだ。
次々と襲いかかってくるアルテミスを避けながら、さてどうしようかと悩んでいると、ガウガウ!と遠くで吠え声が聞こえた。
はっとして見れば、先程崩れた足場の下……崩れた岩土が山をつくっている湖畔に、ずぶ濡れになった白い狼が水竜に向かって吠え立てていた。
ブロンディアスだ。
レーニアの助力により落下した傷も癒えているようだが、毛が水で濡れて見た目弱々しい。
彼に気付いたのはレーニアばかりではなく、アルテミスもだった。
太い首を曲げ、ぎろりとそちらを睨む。
「…! いけない!」
青い顔になったのは本人ではなくレーニアで、すぐに彼の元に向かおうとするが、アルテミスが彼を襲う方がどう考えても早い。
再び咆哮しながら、アルテミスがブロンディアスに突っ込んでいく。
口を大きく開けて。相手が男であるのなら、彼女に遠慮など微塵も無い。
傷付けるのはいい。治るのだから。
だが、丸呑みは困る。
「止め――…!」
片腕を伸ばしてレーニアが声を上げる。だが間に合わない。
大きく開かれた磨り歯が並んだ口がブロンディアスに届く前に、バッ――!と影が飛び込んできた。
水竜となったアルテミスと比べてしまえば小さく見えてしまうが、それでも大きく漆黒で、ぴんと伸びた両耳と左右に伸びている角。そして額の赤い石。
マーヤが、襲われたブロンディアスの前に勢いよく飛びだした。白狼を狙っていた竜の口は、本来の獲物ではなくその獣に邪魔をされ、黒い毛並みとその下の肉へ牙を立てる。
<グ、あッ――!>
丸い円らな赤い瞳が、痛みに細くなる。
ぶしゅっ、と赤い血がいくらか宙を飛ぶ。
すぐに逃げようとしたが牙はしっかりとマーヤの胴体に食らい付いており、うまく抜けない。マーヤは首を振り、三つ足をじたばたさせながらも自分に噛み付いているアルテミスを睨み上げた。
グアッ…!と凶悪な口を開いて吠える。
<俺んちの客に手ェ出してんじゃねえぞォッ!ブスがあああッ!!>
<ぶ――>
年頃の女性にクリティカルな暴言を吐けるのは、少年の特権だ。
明らかに憤怒の色を湛えて水竜の目が光るが、それよりも早くレーニアが彼らに近寄りながら変化する。
彼に寄り添っていた純白の布が漆黒に戻ると、まだ広く広がる。彼らの視界を覆う程に広く広がると、バサリと布から飛びだしてきたのはもう一匹の黒い水竜だった。
アルテミスと同じく半身を湖に沈めた状態で長い首をもたげ、かと思ったら横から彼女の首に勢いよく噛み付いた。
悲鳴を上げるため、アルテミスが口を開いて上を向く。
マーヤが藻掻き、夢中で彼女の開いた口から逃れ出た。ばたばたと血を落としながら何とか湖畔に着地する。意識したのか偶然なのか、その体でブロンディアスをアルテミスから隠すと、体を低くしてぴんと耳を立て、歯を剥き出しにして威嚇する。
<離せ!止めろ――!!>
アルテミスは首を振って反抗したが、それでもレーニアは離れない。
バシャバシャと盛大に飛沫をあげながらやりあう二匹の姿が、不意に陰った。
マーヤが息を切らせながら頭上を見上げれば、上空に見知った扉が現れていた。
宿のドアだ。数あるドアのうち、何てことはない部屋のドア。
部屋の内側からドアを見ればそれはその部屋主にとって高価だったり風景を崩さない形をしているが、宿の廊下から見える各部屋のドアは全てこの形だ。
いつもは普通の大きさで宿の廊下に並んであるそれが、横たわるようにノッカーや金具を真下にして、信じられない大きさで空を覆っていた。
丁度、湖と同じ程の大きさは異常過ぎて、太陽の光を完全に覆い隠してしまっている。周囲の陰った森と、ずっと向こうの日の当たっている森や大地との明暗の格差は、まるで昼と夜のようだ。
今にもこちら側へ開きそうなドアを見上げ、マーヤは内心ほっと胸を撫で下ろした。
レーニアが呼んだのだ。
魔城タキオン。
アルテミスの首から口を離したレーニアは、爛々と輝く双眸を細めた。
宿へ招くのに彼女の同意を求めたかったが、もう諦めることにする。彼女を説得するのは困難だ。今すぐにはとてもじゃないができそうにない。時間をかける必要があるだろう。
無理強いをするつもりはないが、いつかはきっと理解してくれる。そうなれば、彼女の愛する血の繋がった弟、アポロンになり彼女を愛することで、ブロンディアスの願いも叶えられる。
時間は、固い意思だとか揺るぎない信念だとかを粉砕するのにとても適している。
心配はない。
自分の宿に部屋は……それこそ“無限”にある。
今はとにかく、彼女を宿に連れることだ。
ひとまずは仮でいい。
極上の、素晴らしい、彼女の理想に満ちた部屋へ案内するだけ。
<弟君の精液、確かに昨晩頂いて参りましたよ。貴方が望めば、私の宿で確かに彼の子を成すことだってできますよ>
<……!?>
<可哀想な貴女。その一途な愛情を、一体誰に遠慮をなさっているの? 誰も貴女を責めません。よくお考えになって。――さて、お嬢さん。キスは初めて?>
ぼそ…とレーニアが場に不釣り合いな甘い声で囁き、アルテミスの鼻先に噛み付いた。
傍目に見て、これがキスだと誰が思うだろう。
先程の首筋へのキスもそうだ。
二匹は暴れ狂いながらも、黒竜が青竜を押し倒すようにして湖に倒れ、高い波が起こった。沈んだ頭部に遅れ、二色の長い尾がうねる。
水中に沈んだ二匹を追うようにして、空に待機していた巨大なドアが開き、真下へ素早く降りてくると、白い光を水面に合わせるように沈み、そのまま水中へと消え、その後は何一つ浮かんでは来なかった。
…空を覆っていたドアもなくなり、荒れていた波が徐々に落ち着き、場が静寂に包まれると、マーヤは傷だらけの体で鼻先を上に向けた。
首を振れば水と一緒に赤い血が飛ぶ。
<……ふう!>
溜めていた息をまとめて吐き出すと、少し体を横にして影になっていたブロンディアスを振り返った。
彼は据わった目でマーヤを睨み上げている。
<グルルル…ッ>
<ったく…!テメェが来たせいで散々だぜ!これだから人拾いはするなっつってんのに、アイツは全然聞きやしねえ!!…まあ、レーニアの力が体の中でかっか暴れ回るのも分かるけどさ。我慢しやがれってんだ、バーカ!>
チッ、と舌打ちしてから、マーヤはかぷりとブロンディアスの後ろ首を口に咥えた。
ぶらんと垂れ下がった白狼の小さく見えることといったらない。
暴れているブロンディアスなど相手にもせず、マーヤはすっかり清浄な空気の無くなった森の木々の間へと足を向けた。
傷付いた魔獣は、それでもどたんどたんと跳ねながら、茂みの奥へと消えていった。
姉様姉様と事ある毎に寄ってくる弟を振り払うのはいつだって一苦労だった。
弟はいつだって天上の人々の中心で、近づいてくる輩に侮られぬようにと気を張っているアルテミスと違い、老若男女はもとより人間や動物たちにすら愛され、それこそ女神たちの注目の的で恋多き色男だ。
誰にでも優しく賢い。そのくせ身内にはどこか少年じみた面を見せることがあり、どんな相手も選び放題だろうに何故か失恋体質で、傷心しているところをよく見かけては「女を見る目がない」と呆れていた。
…生まれてすぐに離ればなれになった。
姉弟の顔など覚えているはずもない。自分に弟がいることは知っていたが、近くで見聞きして共に育たなければそれは他人だ。
彼が戻ってきた姿を見て、「彼は誰ぞ」と興味を持った女神たちの中に、心に幼さの残るアルテミスも存在していた。
ハンサムだこと。
狩りもお上手そう。
話し方もしっかりしていて、気品があってお優しく…。
移り気な友人たちと一緒に噂をしていた頃もあった。
彼は今まで見た男性の誰よりも素晴らしく見えたし、実際そうだった。
友人になれたら、親しくなれたら、どんなにか素敵だろう。
毎日愛を囁き合って過ごせたら…。
多くの女性たちの一人として彼女がそう思うことに、何の罪があるだろう。
憧れの異性に、愛し合いされたいと願っていたし、それが夢だった。
噂の彼が突如目の前にやってきて、好意的な笑みで「姉様」と呼ばれるその時までは。
途端に集まる、数多の羨望の眼差し。
…何がいいものか。
何がいいものか。何がいいものか!
「偉大なる父よ。ご相談が…」
ある日、父でありその地の主神に誰とも契りを交わさないことを願い出た。
弟以外の腕に抱かれるなんて真っ平だ。
父の代では兄妹同士でそういった話もあったが、血の混ざり合いで異形の獣が何匹も生まれる例が重なってからは禁止されていた。
熱心に結婚相手を探していた父神のショックは大きかったが、最後には認めてもらえた。
どこどこの誰が貴女に気があるらしい。
自分はどこどこのこういった者ですが是非貴女を妻に――。
縁談話というよりは、一方的な好意がひとつふたつどころか十、二十持ち上がり始めた頃合い、彼女はその片っ端から嫌悪感を抱いた。
自信満々で自分に近づいてくる男。そのどれもがアポロンに劣る。どうしようもないクズばかり。
どれもこれも気持ち悪い。
男なんて大嫌い。女を戦利品か何かと思っている。
自分にちょっかいをかけてくるような輩は、狩猟の獲物にでもしてやればいい。
つんとした氷のような孤高の美貌を持つ彼女に惚れる男性は少なくなかったが、様々な前例を聞き及んでいる為実際に声をかける者は少なく、軽い雑談ができるような者は片手の指で足りるくらい少なかった。
そうすることで最も距離が近い異性は、必然的に弟になる。
自ら会いに来ない姉の近状を案じると、弟はよく足を運んできて、様子はどうかと問いかける。
皆が追いかける男が、唯一自分のところにだけ進んでやってくる。
屈託無く笑い、大体自分の失恋話になり、共に狩りを楽しみ、楽器を奏で、占いをし、彼女がやりすぎた噂話を聞くとそっと諭す。
「姉様はそんなに美しいのに、誰も妻にはできないなんて勿体ないな。けれど、それが姉様の魅力なのだろうな。手の届かない花は、益々欲しくなるものだから」
大樹の下で向かい合って座り語らっていた時、彼は何気なくそう言って少し離れた場所に咲く花を見た。
近くにあるのに、届かない。
届かないからこそ、魅力的に見えるし欲しくなる。
ああそうだ。
誰よりも知っているとも。
「…男の好意など、邪魔なだけよ。抱かないでいただきたいのだけれど」
彼女は努めて素っ気なく告げた。
弟は笑った。「それは無理だろうな。だって見えているし届きそうだからね」と。
全くだ、と彼女は思った。
彼女は彼を異性として愛していた。
そして、自分の愛は実らせてはならないことを分かっていた。
彼女が、ブロンディアスとプシュケロアの関係を知らずにいたのは幸いだった。
自分が叶えられないことを他者が、しかも格下の人間如きが叶えているなどと知ったら、プライドの高すぎる彼女はとても耐えられなかっただろう。
今、彼女は泣き暮らしている。
素晴らしく美しい森、鏡のように空や木々を反射させている広い湖。鳥の囀りは始終響き渡り、姿は見えないがさわさわと人の気配がする。
それでも、大樹の下で両手で顔を覆い、さめざめと泣き暮らしていた。
嘗ては凛々しく結い上げていた髪を解き、ウェーブがかった金糸の如きそれは腰まである。高価な絹の薄い清純なドレスを身に纏い、琥珀色のぱっちりとした瞳は常に涙で濡れているが泣き腫らすようなことはない。
そんな姿でも誇りの高さは何となく浮き出るもので、心の小さい者であれば泣いている彼女に手を差し出すのは失礼であるような気さえしてしまう。
気配はするが、他者のいない世界。
この空間に希に、アポロンがやってくる。
どこからともなくやってきては彼女に気付いていないような素振りで湖畔を歩き、どこかへと消えていく。
散々他者を選び抜いたり突け離す一方で、彼女は孤独が大嫌いだった。故に、ニュンフェたちを父からもらって傍においていた。けれど、彼女たちももういない。
一人は耐えられない。愛する人はそこにいる。
誰もいない。
周りには誰もいない。
彼を呼んで愛していると告白し、愛されることを望んでも誰にも分からないし誰も責めない。
けれど、これが罠だとも分かっている。
あの歩いていくアポロンに声をかけたが最後、自分はあの、あの……ああ、何だったか。もう名前すら思い出せないあの魔神に、神の座を奪われ堕ちるしかない。
処女神を誓ってしまった以上、誓いが破られればもうただの女になるしかない。
そんなのは嫌だ。けれど寂しい。愛したい。愛されたい。喋るだけでもいい。少し手を握るだけでもいいがそれで止まらないのは自分が一番よく分かる。ああ、アポロン。誰も見ていない。手を伸ばせばすぐそこに――…。
何日も、何ヶ月も、何年も、何十年も、そしてきっとこの先何百年もこんな毎日ばかり。
ぐるぐると自分の中で自分が回り、一体何を泣いているのかも時々分からなくなってはまた思い出して泣き濡れる。
「誰か――。ああぁ…誰かぁ……」
喉を振るわせて彼女は泣く。
ピチチ…と姿を見せない鳥の囀りがどこからか聞こえる。
涙で濡れた彼女の瞳の先に、今日も湖畔を歩く愛しい青年の姿があった――。
続