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世界樹の傍の、Ⅳ  作者: 葉未
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宿:魔城タキオン

ものは、常に主を求めるものである。

動的な生物たちと違い、余る力があるが自らは事を成せない不動物たちにとっては、どのような主を持つかが運命の分かれ道であり、遺憾なく才能を発揮できるか否かの分かれ道である。

貴方の身の回りにある時計ひとつ、マグカップひとつ、机ひとつ…。

一体どれほど前から、それらを使っているのか、遡って考えたことはあるだろうか。

彼らは、よくよく主を見ている。

貴方も、よくよく彼らの存在を意識しなければならない。

それが、良き主人というものである。


貴方もまた何かの主であり、貴方を支えている僕たちが、確かに存在しているはずである。







「いいかい、お前たち…」


魔神であろうと、辛うじて生存できる大洞の奥深く。

聖域が過ぎて近寄りもしないこの洞で永い間暮らしていた魔神の老人は、日を選んでとうとう久し振りに言葉を紡ぎ出した。

パチパチと遠慮気味に燃えている洞の端の火は蝋燭程しかなく、老人の姿も定かではないが、小さな低い丸椅子に腰掛け背中を丸め、老人は目の前の低いテーブルに灯っている九つの岩石たちに、まるで幼子に言い聞かせるように優しく髭の下から言葉を紡ぐ。


「随分永らくかかったが、ここにようやく、お前たちは完成した…。よくお聞き。お前たちは皆、尊い“偉大なる一族”の女王に仕えている、最も位の高い侍女たちからひとつずつわけていただいた欠片たちだ。その誇りを忘れずに、立派なものにおなり」


そう言うと、老人は一つ一つを順に両手に包み、それぞれに名前を与えた。

名は、どれも男性的な名だった。

女性しかない偉大なる一族たちは、老人に欠片を与える際、“名を与えるのならば男のものを”ということを条件付けてきた。

これは彼女たちにとって、実験であるらしい。

それでも老人は構わなかった。彼女たちから欠片を与れるなど、何かしらの条件が無ければ逆に怖ろしすぎる恩恵だからだ。

名を与えられた岩石はきらきらと光り輝いて消え去り、ここよりも少しばかり天へ近い魔界のどこかへある自身の造られた体に移っていく。

老人は最後に、一つの茶色い岩石を両手に包んだ。

ごつごつしたもの、すべすべしたもの、形の整っているもの、整っていないもの…。全ての中で、この末の岩石が最も素直な外見ときめの細かさをしていた。

何という変哲もない茶色い肌。ごつごつしてはいないのに強く握れば崩れてしまいそうな、まるで砂が固まったような、何となく脆い印象がある拳程の大きさの欠片。


「お前の名は、“タキオン”だ」


老人はそう告げ、タキオンと名付けられた偉大なる一族の欠片は他の兄弟たちと同じく、生みの親から分かれ、独立した。


「タキオン。お前は柔らかい子だ…。大人しいお前には主があるのが良いだろう。よい主を見つけなさい。この者の傍にありたいと思うようなお人を見付けたら、心から尽くしてやりなさい」


きらきらと石は光り出す。

老人の名は、タキオンも知らない。

ただ、彼が魔界随一の建築家であり、自分の体が遠い場所にあること、そこに自分が行くことで“自分”が完成することを分かっていた。

親の顔に泥は塗りたくない。自分は立派な城になろう。

タキオンは老人と別れを告げ、遠い遠い地にある、用意された己の肉体へと飛んでいった。





タキオンの体は、素晴らしい城だった。

絵に描いたような白亜の……とまではいかずとも、灰色の横に広い西洋建築で、屋根は血が滴っているかのように赤く、夜になれば青くなる。周囲にあるごつごつとした岩場は人や生物が住まえるような環境ではなく、生まれ持つ彼の威厳を高めた。

最初の城主のことを、今はもう覚えていない。

ただ、代々自分がその辺りを治める位ある魔神の住まいであることは分かった。

最初の城主、その次の城主を見たとき、「自分はおどろおどろしい方が良いのだろうな」と漠然と考えていた。

建築物や人工物など、造られたものに心が生まれるには、通常、少々時間がかかる。

生物として生まれてくる生きものたちはまず魂があり、そこに肉体と心が重なるが、不動物たちは逆だ。

例えば、有名な話では心を込められて造られた人形は五十年程で自身にも心が宿り、百年で魂が宿る。

建築物はおおよそ百年で心が宿り、二百年で魂が宿る。当然、個体差がある。

だが、タキオンや兄たちは始めからぼんやりと心を持っていた。

ふわふわもやもやと浮遊する心。定まらない考えや気持ちが、つねにぐるぐると天井付近を空気と一緒に彷徨っている。

勿論、タキオンは言葉など発することはないし何ができるわけでもない。自分の体内で暮らす人物たちにそこまで興味があるわけでもなかったので、風の噂によると好まない城主を力任せに追い出すような気性の荒い兄たちもあるようだが、住まう人によって態度を変えるということもなかった。

ただ、老人の教えの通り、“主”と呼べる人物を長い間探していた。

城主たちは様々な部屋に様々な装飾品や物を置いたし、様々な性格の者がいた。

タキオンにとっては、城主=主ではないが、果たしてどういう人物が“主”たる者なのかも全く分からない。

ただ、城主が変わるという話が出、出て行く者があっても漂う心はまとまることなく、何の変化もなかった。

人格と呼べる程人格も無い。ただ、忠実に建物であり続けた。

そんな永い時間の中で、また新たに一人の城主がやってきた。

次の城主は、見た目が美しい青年の魔神だった。

見た目が美しいくせに、装飾は無かった。外見を美しくしている者は大体、装飾品もじゃらじゃらとつけている場合が多いような気がしたが、この青年はそういったことがなく、まるで人間の旅人のようなラフな姿だ。

彼は伴を一人も連れず、門の前に立つと両手を腰に添えてタキオンを見上げた。

長い間沈黙し、そしてぼんやりと、どこか遠い目をして呟いた。


「…綺麗なお城」


青年は暫くそうして、これから自分の城になるタキオンを見上げていた。

やがて顎を引くと、彼はとぼとぼと正門から中へ入ってきた。

どこか疲れた顔をしていた。

青年は、レーニアという魔神だった。

レーニアは姿が定まらず性別もないようだった。本当に性別が無いのなら、彼は由緒ある魔神のはずだったが、それにしては随分爪弾きにされているようだった。

彼は、城の中では青年の姿であることが多かった。

この青年、今までの城主と違って部下を一人も持たず、城内を装飾することもなく、また務めも果たさなかった。

広々とした広大な城の最上階。

玉座の奥に自らの章すらかけることなく、玉座の間の傍にある城主の部屋で一日窓の外を見て過ごしていた。

冷めた眼差しで石造りの窓際に頬杖を着き、窓の外を眺める。

何か興味を惹くものがあるわけではないようだが、他者がおらず、衣類や装飾品、美醜も姿形も思いのままで、食事も特別必要は無く、一度力尽きても一定時間で再び健全状態に戻り、また睡眠も必要がないような存在にとって“時間を使う”ということは、どうやら至難の業らしい。

すべきことが何もない城主は、椅子に座り時間が過ぎていくのを待つしかないようだった。

一日、十日、一月、一年、十年、百年……。

希ではあるが、人里離れているとはいえ、持ち主不明のこの城に人間の来客がない訳ではない。

本来はこの城が人目に付かないように配慮する必要があるであろうし、万一やってきたらそれこそ鴨が葱を背負ってきたようなもので、契約を取り付けて魂を得てもいいし単純に捕らえて肉体を加工してもいいだろうに、この青年は何もせず、逆に広々とした食堂で夢のようなご馳走を用意し、一晩の宿として寝床を与えてやることもあった。

何なら土産まで持たせる大盤振る舞い。戻った者は「神の館に招かれた」と大層誇らしげで、お伽噺にもなっている。

そうなれば決まって近いうちに魔神の来客があり、酷く城主を罵るものもあれば、心配そうに声をかけるものもあるが、その時ばかりは美しい城主は飄々とした態度で彼らの言葉を逃れる。

…が、独りになるとまた早々と自室に戻り、伏せて過ごしていた。

こんな魔神もいるものかと、タキオンは不思議に思って、段々と漂っていた意識はこの青年に対する疑問でまとまっていった。

他者が誰もいない城。

こんなのは寂しすぎる。今までは大勢人がいたのに。笑い声が響くことも温かい血が流れることもない。せめて部下を持てば良いと思うが、この魔神を崇め賛同してくれるような者は、きっと純粋な魔神の中にはいないのだろう。

青年は、決して弱いわけではない。

寧ろ実力は有り余り、古の風の匂いがする。

今彼が持っている爵位は低すぎて不釣り合いな程に思えたが、決められた務めを一切果たさないのであれば、それは確かに低い評価しか受けないのだろう。

タキオンは、何故彼が伏せているのかよく分からなかった。

力があるのに務めを果たさないその理由が分からない。

持っている力は使わないと意味がない。そうではないのだろうか?

自分は城だ。故に、人が出入りをしたり住んだりするべきだ。当然だろう。

人は、できることをするべきだ。務めを果たせば、自ずと評価はついてくる。

彼に他者を陥れる力があり、それで地上に巣くっているいくらかを引き算し、また凄まじい大きさと勢いで回っている輪廻の輪から適度に量を調節する能力と義務がある以上、彼はそれを果たさなければならないはずなのに。

他者に会う時と会わない時との様子があまりに激しい青年が段々と心配になってきたタキオンは、ある日窓の一つの金具を緩めておいた。これくらいのことならできる。

その日も伏せっていた青年は、自分から一番離れた部屋の窓が風で不意に開くと、ぴくりと無表情でいた顔を上げた。

やることができて嬉しかったのだろう。少しだけ表情が和らぐ。


「おやおや…」


まるで待ってましたとばかりにいそいそと立ち上がり、その窓を閉めに歩いていく魔神。

ただ窓を閉めるという動作を、とても丁寧に、まるで大切な儀式でもするかのように、彼は両手でしっかりと閉めた。

その後で、指先で金具を撫でる。


「…よし」


そうして、そっと両手を離した。


「…。今日は…風が強いのでしょうか…」


少し嬉しそうに、遠くを見る。

ここでタキオンは思った。

ああ…。この方は、“そういうこと”が好きなのだ。

仕事が好きなわけでもなく、プライドや誇示や名誉などもどうでもよく、“そういうこと”が好きなのだ。単純に。

生まれ持ってある程度用意されている道から、若しくは、周囲の者たちに用意され整えられている道から、大幅に外れていることが好きなのだ。しかし周りはそれを「馬鹿じゃないのか?」「信じられない」と貶す。

タキオンはこの寂しく哀しい城主の苦しみが、ほんの少し分かった気がした。

時々迷い込んだ人間を助けたり、開いた窓を閉めることが好きだったりする彼は、魔神たちの中ではそりゃあ落ち溢れになるのだろう。

今まではきっと、それでも少しずつ務めを果たしていたはずだ。

けれど、何かを切っ掛けにして、それがもう嫌になってしまったのだろう。

きっと他愛もない切っ掛けだったのだ。だが、その他愛もないことが、積もり積もった引き金になる。

タキオンは、そっと彼に寄り添うことにした。

果たしてこの人が老人の言う主になるか否かは別としても、孤独の生活の中、暖かい日には窓を開け、招かれざる来客があればそれとなく門や扉を堅くしたりした。

近くを迷う人間があれば、いつもより大きく塔の鐘を鳴らし、客人に居場所を教えた。迷う人間が来た時の青年の顔こそ、生き生きとしていた。

しかし、所詮は建築物。

それらしい心があるとはいえ、なかなか形にできない。

窓を開けみ見たとしても全開になることはなく、ほんの少し金具が外れる程度。鐘を鳴らせるのは、丁度良い時間の前後の時ばかり。城主もこの心には気付かずにいた。きっと、いつも自分は独りだと思っていたに違いない。

その日もいつも通り、数日前に旅の人間を助けてしまったことで、やってきた魔神からレーニアは説教を受けた。

それだけならまだしも、少し喧嘩になった。

一方的に攻撃をした客人をレーニアは相手にせず、ひらりとかわして何とも無かったが、玄関を入ってすぐのフロア天井に大穴が開いてしまった。

レーニアはがっかりして、崩れ落ちた瓦礫の傍で途方にくれていた。

城を直す。やることができて嬉しいが、知識も材料も全く無い。元通り、この美しい城の天井に直せる自信がない。

これはもう技術者を呼んで、プロフェッショナルに直してもらうのが一番いいだろうか…。

それがいい。そうすれば、ここにお客様を招ける。

だが、果たして自分の依頼を受けてくれるような魔神がいるだろうか…。

そう思って両手を組み天井を見上げたレーニアの視界に、石でできた箱が写った。

崩れた天井と上階床下の僅かな空間に、まるで忘れ去られたかのような立方体の石でできた小箱があった。

不思議なことに開け口は無い。箱というよりはブロックだ。しかし、中に微かながら煌めきを感じる。

中には、タキオンがいた。

あの小さな岩石。偉大なる一族より与えられた欠片。

本体を手にされても、タキオンは不思議と嫌悪感を感じずにいた。

彼を手にし、魔神の青年は首を傾げた。

視覚では何も変化は無いが、確かに石箱の表面に何かが書いてある気がした。

感覚で読み取る。


「タリ――…ん? ああ、違いますね。何処の表記なのでしょう。難しいですね…。…た、タキ……“タキ…オン”――?」

『――』


瞬間、ぶわっ――!と箱から魔力の風が起きた。

レーニアでも驚く程の古の力の風が目の前に凝縮され、一瞬、風がとても古い青年の姿を取ろうとしたようだったが、空気にできた魔力の凹凸を感じた直後、そのシルエット紛いのものはパッと霧散してしまった。

霧散した力は、大きなこの建物の隅々まで、光の速さで広がっていった。

ザザザザ…!と風と光が建物の形をなぞるように走り抜け、その光が走り抜けた後、城の内装は一変していた。

寂しかった城内は、覚えのないあらゆる趣味の良い装飾品があり、冷たい石廊には厚い絨毯が引かれた。窓という窓は磨き抜かれた後のようにぴかぴかと外の様子を写している。

崩れていた天井は元通りに戻り、瓦礫の芥一つもない。威厳ある門がそれまでより少し低くなり、おどろおどろしかった顔のドアノブは金色の獅子に変わっていた。

以前よりずっと清潔感があり、城内が明るく居心地が良い。

ぽかんと立ち尽くすレーニアの手に持っていた石の箱は、いつの間にか一枚の紙になっていた。



――『我が主となりたくば、輝血にて名を記せ』



レーニアはこれに応えた。

指先を傷付け、血で名を書く。何ならもう半分忘れかけている古の名前を正確に記した。

すると、タキオンは自身の中をまたさっきとは違う魔力が駆け抜けていく感覚を覚えた。

始めは、タキオンの名をして本来の力に目覚め、次に主の古の名を得て、予想だにしなかった膨大な魔力が城全体に温度を持った血のように奔っていった。

これだけの力を、この青年は持っていたのだ。

これだけの魔力があれば、何だってできる。

タキオンは再び、挨拶だけはせねばと何とか慣れない感覚でもって、青年の幻影を創り出そうと魔力を練った。

輝くフロアに現れた古い青年姿の影。

ゆらゆらと動いて定まらないそれにレーニアが気付いたが、一目で敵でないことは分かった。

鼻が高く彫りの深い、端整な面立ちの幻影は、消えたりあつまったりを繰り返す霧のような姿で、それでも何とか形にすると顎を上げ、距離のあるレーニアへと向き直った。

一歩一歩、歩いていく。

歩く度に影が揺らぎ、見えなくなったかと思うと再び形になる。

暫くその様子を眺めていたが、レーニアは何を思ったか、やがて姿を美女へと変化させた。

相手の選んだ容姿に合うような、少し古めかしい美女だ。


『――』


レーニアの前までやってくると、タキオンは足を揃え、す…と右手を胸に添え、その幻影に何とか機械的な動きでレーニアへ頭を垂れさせる。

レーニアはドレスの裾を抓み、優雅に腰を落として無言のまま微笑し、無言の挨拶を返した。

一新した城内広間。

まるでダンスの申し出のようなそのシーンを以て、魔城タキオンは主を定めた。

膨大な力を持つ主の魔力を絶えず受け、この城は類を見ない名城となった。








改めてタキオンを得たことで、レーニアは魔神たちにとってますます説得しづらい存在になってしまった。

爵位あるレーニアは世を支える大きなバランスを取る義務があり、仕事が嫌だで許されるようなポジションの存在ではない。どうしても務めないというのであれば、他の者に爵位を譲り退いてもらわなければならない。

常識ある魔神たちは大いに苦労をしたが、何とかタキオンの中に招き入れてもらい、レーニアを何度か説得した。もう百回以上になるだろう。

いよいよ最後通告が出て、正式に爵位を下げられたレーニアは住まいを追われることとなった。

爵位になど何の未練もないレーニアは、それならばいっそ人間の振りをして旅をして、世界を見て回ろうと考えた。

荷物は一切必要ない。彼に荷物が必要だろうか。

生きる為に必要なものなど、思い立ちすらしない。いっそ一つくらいそんなものがあれば、それを奪われれば終われるという簡単な存在でいられたのに。

ただ、タキオンとの別れは本当に残念に感じた。

最後の一日、レーニアは井戸から清潔な水を汲み、自分にできる範囲で掃除をしてみた。

広い城内全てとてもできるものではなかったが、感謝を込めて掃除をした。これもまた他の魔神達がみたら、頭がおかしいと思われただろう。

それが終わると門前で名残惜しそうにこの城を見、青年の姿であったが、あの日のように優雅にドレスの裾を抓んで開く仕草をした。

とうとう背を向け、まるで散歩のような身軽さで出て行った。

すぐに、次の城主がやってくる。

この城はその次の城主のものだ。

ところが――。






「…おや」


随分歩いた気がする頃に一度振り返っても、まだレーニアの視界には城があった。

周りの景色は変わっているのに、どれだけ歩いても、一定の距離を空けた景観の一つとして、城はいつまで経っても見えていた。

最初湖の傍にあった城は、レーニアが丘を越えるとその丘手前にあった野にあり、次に山を越えればその過ぎてきた丘に見え、草原に出ればさっきの山に建っていた。


「……」


レーニアは少し考えた。

額に片手を添えて、城を見た。

そうして、流石にちょっとおかしいかなと思いつつ、少し離れた場所に建っている城へ語りかけてみた。


「一緒に行きますか?」


随分距離があるにもかかわらず、その呟きをするや否や、遠くに見えるタキオンはゆっくりと浮き上がると空を飛んでレーニアの方へやってきた。

飛んでいる間に小さくなったのだろう。傍に来る頃には掌サイズだ。こんなこともできるのか。

まるで犬が呼ばれて駆けてくるようなこの行動に、青年は思わず吹き出し、すくすと笑いだしてしまった。

笑っている彼の横で、腰に巻いてあった黒い布がさっと広がる。

ミニチュアのようになっているタキオンは、ゆっくりそとの上へ着地した。ひゅっと端と端を結び、黒布は再びレーニアの腰に戻ってくる。

黒い布の中に包まれ、タキオンはほっとして嬉しがったが、この青年の魔神は彼よりもっとずっと嬉しかった。

独りで何者にも立ち向かうつもりだった。

大きな役目から逃げを計る彼を、許さない者は多いだろう。

だが、共に旅をするものがあるだけで、レーニアは随分救われた。

寝るのはどこだって構わない。寧ろ寝なくてもいい。

けれど夜毎元の大きさになり出迎える扉、部屋、イス、ベッド、天井の照明…。

これだけで、何と心安らぐことか…。

レーニア自身は休む気も眠る気もあまりなかったのだが、タキオンがそれらを用意することによって、その気持ちを大切にする為に、彼は永い旅の間も休むことを習慣に入れた。

力ある魔神が自らを追い詰めすぎぬように休息の場を提供し続ける。

これは大きく世界の行く末を左右するものなのだが、誰にも気付かれず時間は進んでいく。

目に見える類い希なる功績というものは本当に一部で、真の功績とは、問題が何一つ起こらず流れていく時間の中で行われた些細なひとつひとつである。

次の魔神が来た時に、当然だがそこに既に城はなかった。

魔城タキオンは行方知れずとなり、ついには歴史から姿を消した。

現在、魔界の誇る九つの建造物のうち、これ一つが欠落している。

どんなに詳しいマニアでも、迷い込んだ小さな町の宿を見たところで、誰も何も思うまい。

だが、無礼だけは働かぬように。

相手は無機物と侮る無かれ。

彼らにも、誇りがあることを忘れてはいけない。

その腹の中には未だ何十名という者たちが彷徨い、何百名という者たちの屍が転がっている。

貴方が“神隠し”などという単語を知っているのであれば、もしかしたら、貴方の住まう地域にもこのタキオンとその主が訪れたことがあるのかもしれないし、また心や魂を持つに至ったものたちが人知れず主人や無礼を働いた者たちを喰らっているのかもしれない。




貴方の心と魂を支えているのは、何も人だけではない。

動的な人物たちよりも、より忠実に貴方を出迎える者がある。

部屋で流す貴方の涙を見て、案じるものが確かにいる。

信頼できるものが、人ばかりとは限らない。

一番誠実に貴方を支えてくれるのは、案外、人などではなく、愛用するたった一つの物かもしれない。

自らの心を支える何か。

それが一つでもあれば、そこはたちまち貴方の知る場所となり、そこは貴方の帰る場所にすらなる。


どんな脆弱な者であろうとも、貴方が道具を一つでも使うのならば、貴方を慕う全てのものの為、自覚を持ちなさい。

貴方には多くの従者がある。

どんな時も、良き主人でありなさい。







【宿:魔城タキオン】







<おっっっっっっっっっっっっせぇええええっよ!!>


夜の森の奥からレーニアが戻って来る。

その気配をちらりと察しただけで、マーヤはビュンと飛んでくると正面からレーニアに怒鳴り散らした。レーニアは両手の人差し指で耳を塞いでくすくす笑う。


「すみませんすみません、マーヤ。怒らないで。収穫はたくさんありましたから」

<何時間経ってると思ってんだ!>

「とても楽しかったもので。…おや? ブロンディアスはどうしました?」


周りを見回しても、ブロンディアスの姿は無い。

一緒に待っているはずだったが、どうしたことか。

本気で不思議がっているレーニアに、マーヤは苛々と足で空を蹴った。


<ちょっと偵察☆…で、ここまで待たされるなんて思わねえだろ!クソガキには部屋に戻ってもらったっつーの。こんな所で何時間も待たせらんねーだろ!>


レーニアにしてみればそんなに経っていないと感じても、実際は軽く五時間は経っていた。

マーヤの判断は褒められるべきことだろう。口は悪いがしっかり客人サイドに立って物事を考えられるし気遣いもできる。

マーヤの言葉に、レーニアは意外そうな顔をした。


「鍵は持っていましたか?」

<奴の懐にちゃんとあったぜ>


宿に入る為の、渡してもいない金色の鍵。

ブロンディアスがそれを懐から取り出せたのならば、何も言うことはない。きっと彼は一等部屋で体を休めていることだろう。そんな気分でもないかもしれないが、森の中に長時間放置されるよりは、部屋で待っていた方が幾分心理的疲労も少ない。

ブロンディアスが鍵を持っていた、という話を聞いて、レーニアはふ…と笑った。


「そうですか。それなら結構」

<収穫はどうだったんだよ? やっぱりそのアルテミスって女で間違いはねえのか?>

「ええ。ブロンディアスが探している“女神”は間違いなく彼女ですね」

<マジか。じゃあ、大事になるな。…にしても、何だよその格好。寒くねえのか?>


往き道に着ていた服を身に着けておらず、薄い衣は与えられているがかなり露出が多い。

半裸のようなプシュケロアの姿を取っているレーニアは、胸元に手を重ね、いかにも純情可憐な少女を思わせるようなポーズを取った。


「可愛らしいですか?」

<ハア? お前の格好なんか興味ねーよ。どうとでもなれるんだから。外皮をどうしたって美しいも何も無いだろ。とっとと戻れよ>


呆れているマーヤ。レーニアは小さく笑った。

彼女の背後から再び黒い布が現れてその姿を隠す。

だが、次にその布が払われても、レーニアはいつもの妖艶なナイトドレスの美女でも、背の高い黒衣の美青年でもなかった。プシュケロアをそのまま成長させたような、若々しい肉体のブロンドの女性だ。品が下がらない程度の、質素な金飾りや刺繍がその姿を彩っている。

気付けば黒い布も、純白になって彼女の細い腕にかかっていた。白い衣に明るい髪と明るい瞳。元々のレーニアの雰囲気も相まって、清楚であるにもかかわらず妙な色香と美貌という圧を持った姿ができあがる。

大体の男は、その掌でころりと転がせそうだ。


<何だよ、それ。金の髪が気に入ったのか?>

「ちょっと会いたい方ができましたので、今夜は宿には戻らないことにします。お客様もブロンディアスだけですし、お留守番できますね、マーヤ」

<そりゃ、お前が門を閉めちまったまんまだからな。……会いに行くって、まさかあのドS天使のところか?>


マーヤが言っているのはマステマのことだ。

何度か宿に来たことがある彼のことをマーヤは知っているが、レーニアと違って彼は天使の前なんかに進んで出たくは無い。無論、できればレーニアにも縁を切って欲しいのだろう。個人的にもああいうキザ男は虫が好かない。

そんな願いは無理だと分かってはいるのだが、出禁にすればいいのにと思う。


「マステマにもまた会いたいですけれど、彼はすぐに向こうから来てくれるでしょう。もっと別の方です」

<女に化けて行くってことは、男だな?>


耳をぴこぴこさせながら推理を始める小さな眷属の鼻に、レーニアは人差し指をそっと添えた。ふんわりと笑う。


「…内緒」


それだけで、マーヤはぐっと押し黙った。

言いたいことは色々あるが、自分の上司はこうと決めたら止まらない。益して、そんな顔で言われたら強くも出られない。しっかり留守番を務めるしかないのだ。

爪先で大地を蹴り、レーニアは夜空に浮いた。


「ブロンディアスに、アルテミスが例の女神だったと伝えておいてくださいね。一晩休んで、明日殺めに行きましょう。覚悟をなさってゆっくり休んでもらいましょう。…マーヤも、明日はたくさんお手伝いしてくださいね。宜しくお願いしますよ」


見上げるマーヤの前で、レーニアは南へと飛んでいく。

白い姿は暫くの間見えていたが、やがてその白も夜に呑まれて見えなくなった。





――そして、夜が明ける。





ブロンディアスは宿屋の柔らかいベッドで一晩を過ごし、金の皿に盛られた減らない果実と減らないスープ、減らないパンという豪華な朝食を前に、ほんの少しそれらを口に運んでからレーニアとマーヤと共に宿を出た。

宿のある町は朝から活気づいていて、メインストリートは馬車が通り、多くの店が開き、人々が行き交っている。

ストリートを少し歩いて、また横道に入る。この間と同じく、すぐそこから森という場所でレーニアに従って足を止めた。


「さて、いよいよです。ブロンディアス、覚悟は宜しいですね?」

「――はい」


真っ直ぐな瞳で、ブロンディアスはレーニアを見た。

彼女は嬉しそうに柔らかく微笑む。


「貴方が女神を殺めるには、不意打ちが必要でしょう。そこで、貴方の姿を、一時、金の首飾りに変えておきます。私が彼女にプレゼントとして差し出すので、貴方が“今だ”と思うタイイングで、腕を振り上げるイメージをお持ちなさい。きっと元の姿に戻れます」

「…はい」


ブロンディアスは、ぐっと右手に持ったナイフを握りしめた。

横で聞いていたマーヤが、ぴこっと片耳を浮かせる。


<そいつの“核”は絶対体内にあるのか?>

「私たちとは違いますからね。…って、マーヤはここにお持ちですけれど」


とん…とレーニアが指先でマーヤの額を軽く小突く。

小さな兎はぶっと膨れて、鬱陶しそうにその指先と距離を取ると後ろに身を引いた。彼の力ではまだ体外に核を移動できない。幼い、と言われた気になって少し膨れっ面である。


<なら、フツーに心臓狙えってことか>

「ええ。問題ないと思いますよ。昨日、傍に寄り添った時に圧の高い場所は確認しておきました。心臓で問題はありません。そこを狙ってください。中心の方が外しても深傷を負わせられます」

「分かりました」

「それじゃあ、ご健闘を」


ブロンディアスの正面に立ち、レーニアは彼の両肩に手をかけた。

身を寄せてそっと額にキスをしてから、両手が触れている肩をするりと撫でる。

途端、ボッ…!と炎が燃え上がるような音がしてブロンディアスの姿は消え、代わりに宙に金色の首飾りが現れた。

重力に従ってすぐに落下をはじめるそれを、マーヤがひゅっと飛び込んで自分の首にひっかけ、レーニアの掌にぽとりとそれを落とす。

輝ける金の首飾り。ブロンディアスの髪の色と同じく、太陽の光できらきらと輝く。


「…さて」


丁寧に白い布でそれを包み込み、レーニアは顔を上げて目の前の森を見据えた。

既に彼女もアルテミスに会っている。

彼女の元に行くことは造作もない。また、昨日会った時の“翌朝”に辿り着くことも、造作もない。


「大切なお客様の心安い一夜の為…。行きましょうか、マーヤ」

<へ~い>


レーニアの肩に前足を添え、マーヤが応える。

緊張感のないその声に小さく微笑して、彼女は森の中へと踏み込んだ。











狩りを終えた午後の森――。

いつもは密かな華やかさと清廉さがある乙女の園は、一気に色めき立っていた。

一定の距離を空けて右に左に覗き見る乙女達の間を、悠々と大股で一人の益荒男が黒い猟犬を連れて歩いている。

体格の良い男よりも更に一回り大きな体付き。腰下に巻いている白い布はシンプルだが大変質の良いものなのは一目瞭然で、太い首には美しい白キツネの毛皮を纏っている。その間から覗ける隆々たる筋肉の何と雄々しいこと。

古い大樹の幹を思わせる濃い茶の髪は癖がなく腰まであり、彼が一歩歩くごとにその動作をより広く見せる。長い髪は長身の男によく似合っていた。

双眸は細く鋭く、人相がよいと一口には言えない。だが、鋭い眼差しには高い気位と媚びのない自己がはっきりと見え、その視線に一瞥されるだけで木々の後ろに隠れている乙女たちはまるで随分昔から恋い焦がれているかの如く、この男に心を奪われていく。

矢を背負い、弓を片手にやってきた男に森はざわついた。

人間なのか神なのか分からない。とにかく気品があるこの男へ、ニュンフェたちは誰も言葉をかけられないでいた。

例の湖まで難無く出てくると、男は水面を見詰めた。

少しの間待ち、何ら変化が無いと知ると、今度は遠巻きに眺めている乙女たちへ向く。鷹の目のような雄々しさに負け、彼女たちはそろりと姿を現した。


「女神アルテミスはご不在か」


太い声も魅力的だ。

狩りを嗜む男を好むニュンフェたちの代表が、一歩前に進み出る。


「貴方は一体どなたなのでしょう。我らの主に何のご用かしら」

「私の名はマーヤ」


男が断言する。

彼の足下で漆黒の猟犬が、何故か一度くしゃみとも呻りとも取れぬような声をあげた。

マーヤ。この地ではあまり響きの良い名とはいえないが、異国の香りがする。容姿の美しさは、時にどんなことでも好意的に相手に受け取らせる良い道具にもなる。


「ご覧の通り、猟を生業としている。噂でこの地に狩猟の女神がいると聞いてやってきた。もしもご不在であるのなら、貢ぎ物を預かって欲しい」


男は腰に提げていた袋の中から、布に包まれた黄金の首飾りを取り出した。

一介の人間にはとても高価なものだ。代表した娘は品定めをするかのような眼差しで、マーヤと名乗るその男を見る。

ややあって、彼女はにこりと微笑した。


「ええ。預かりましょうとも。ただし――」

「…!」


そのタイミングで、どこからともなく飛び込んできた若く白い牝鹿が、跳ねて彼女と男の間を通過した。

そのまま、すぐに近くの草の間へ入って見えなくなる。


「今の牝鹿を捕まえられたら、です」

「…なるほど」


男が、ふ…と笑った。

笑ったその一瞬の笑みだけは妙に柔和だ。これがまた娘達を虜にする。

矢を背から抜きながら、男が歩き出す。足下の猟犬も舌を出し、首を下げて短い息を吐きながらぎらぎらした瞳を牝鹿が消えた方角へ向けた。


「では、行こうか」


そんな愛犬の頭を、ぽん…と男は軽く叩いた。

漆黒の犬は四つの爪先で地面を蹴り、弾丸のように飛びだして行った。その後を、弓矢を手に男も追っていく。些かのんびりした足取りだが、それがまた様になる。

木々の間に消えていった男の背後で一部始終を見ていたアルテミスが上空から降りてきて、対応したニュンフェと顔を見合わせ、くすりと笑う。

機嫌良く微笑しているその笑みは、無邪気なそれとは程遠い。優越感に満ちた女性の笑みだ。


「アルテミス様にお会いにいらしたようですわ」

「私の可愛い鹿を捕まえられるか、見物だこと」








<勝手に人の名を名乗りやがってええええ!!>

「あら。いいじゃないですか。だって私はマーヤのご主人様ですよ」


複雑に入り組んだ森を疾走しながら、黒い猟犬に化けさせられた本物のマーヤが怒り露わにバウガウと吠え、後に続く弓矢を持った長髪の益荒男…レーニアが飄々とそれをいなしている。いかにも男らしい今の外見と中性的な言葉遣いが気色悪い。

どの様な種族でもそのようだが、神や魔神たちにとって、名はとても大切なものだ。勝手にそれを使われるなんて以ての外。プライドに歯形もいいところなのだが、使っていいとすれば確かに主であるレーニア以外に存在し得ない。

それでも勿論気分の良いものではなく、拗ねて腹を立てるには十分な理由だ。マーヤはその憤りを専ら狩猟に使うことにした。

いつもは空中を漂っていることが多いが、生来ただの兎だった彼だ。四本足はお手の物。益して肉体を“名犬”に化かされたからには、たかが牝鹿など遊び相手にもならない。ぐんぐんと右へ左へ必死で逃げる牝鹿を大きく囲い、レーニアの矢の届く場所へと誘導する。

狩られる牝鹿も必死だ。若い体からぷんぷんと死の匂いが漂ってくるが、それにはレーニアが手を止める“願い”の匂いは全く無かった。完全に暴力と死に対する恐怖の匂いしかしない。

命が燃え尽きる前に、命に代えても叶えたいことが、この牝鹿にはないようだ。そして、大体の命は得てしてそういうものである。

狩猟は好きではないのだが、嗜みとして心得ているレーニアは矢を引く。

キリキリと鳴る弓を撓らせ、背丈の低い木の一つへ向ける。離れて獲物を誘導しているマーヤが、合図として三度短く吠える。

レーニアは双眸を細め、低い木を見詰めた。

――来る。

ガサッ――!と音が鳴っと同時に矢を放つ。

放たれた矢は、音に遅れて飛びだしてきた牝鹿の首を見事に射抜いた。

ヴォッ…!と高くくもった泣き声と共に、鹿はその場に倒れ、ひくひくと四肢を動かし痙攣をはじめる。そこに追い立てていたマーヤもやってきて、藻掻く鹿を得意気に見下ろしてからレーニアへ向いた。

元は同じ森に住む仲間……などとは、最早思わない。マーヤは今の己を気に入っているし、この鹿とは何ら縁もない。

世の中には喰らう側と喰らわれる側がいることを、魔神としては幼いこの兎も十分理解している。


<ヒャハハ!悪くない腕じゃねーか、レーニア。あんまりやらない割にはな!>

「マーヤのお陰ですよ。誘導してくれてありがとう」


レーニアの足下にやってきたマーヤの首を撫でて褒めてやる。いかにも猟犬らしく、マーヤは首を下げてその手を気持ちよさそうに受けた。


「さて、それじゃあブロンディアスも退屈でしょうし、早くこの鹿をアルテミスへ――…おや?」


倒れて藻掻いている若い鹿に歩み寄ると、色素の薄い鹿の形はゆっくりと伸びていき、見知らぬ人間の少女の姿になっていた。

本来は美しい容姿と顔なのであろうが、その肉体は迫る死にすっかり恐怖しており美しさを欠いている。首を矢で貫かれ、涙の滲む双眸を見開き、蒼白の顔と口で必死に呼吸を繰り返しがくがくと痙攣していた。


「ヒ、――ヒァ…ッァ…ア、……っ」


ひゅぁひゅぁと空気の抜ける呼吸は、喉に矢が刺さっているためだろう。

吸う酸素は肺に届く前に半分が抜けてしまう。

ただの人間で自主的に姿を変えられる者など希だ。おそらく、アルテミスにでも姿を変えられ鹿として獲物にさせられたのだろう。

レーニアは表情を曇らせ、困ったように片手を頬に添えた。


「まあ…」

<人間かい>


舌を出しながら、マーヤが呆れたように言う。

なるほど。女神は“狩り”がお好みらしいが、森の動物は飽きてしまったのだろうか。それとも、彼女たちにとっては人間も森の動物のひとつなのかもしれない。

ある意味、間違ってはいないのだろうが…。


<苦しそうだ。殺してやれよ、レーニア。持っていかねえとあの女神に近づけねえんだろ?>

「そうですねえ」


あまり気乗りはしないが、レーニアは藻掻いている少女の傍に寄ると怯える彼女の頭に片手を添えてゆっくりと撫でながら屈み込んだ。

絶望で滲んだ瞳が彼を見上げる。


「すぐ痛くなくなりますからね。さあ、お眠りなさい」

「――…」


次の瞬間、ずぞっ…!と音がするくらいの勢いで、少女の肉体から何かが外へと抜け出た。

物理的な肉の塊である、体の内側にある医学的に名前の無い何か。心臓を動かすもの、脳を動かすもの。その何かがごっそりと肉体から吸い上げられ、レーニアの体に溶け込んでいく。

急激に抜けていく何か。その感覚は、少女に猛烈な眠気と良く似た感覚を与えた。

痛みも恐怖も相手にならない、強いまどろみ。とろりと瞼が重くなる。

やがて、自ら目を伏せ、かくん…と糸が切れた人形のように少女は藻掻くのを止めた。残ったのは、首に矢の刺さった、些か血で濡れていても十分可憐な、どこにでもいる少女の哀しい遺体だ。


<おうおう、どうした。嫌いなくせに珍しいな>


死気がレーニアの好みでないことを知っているマーヤが、ケケケと笑って茶化す。

レーニアは彼の言葉を聞きながし、細い首を貫通している矢を抜かずに邪魔な部分を折ると、少女の遺体を横抱きに抱き上げた。


「さて、戻りましょうか」


いつも通り穏やかな顔で死した少女を抱え直すと、表情を引き締め、男性的な言動を思い出しながらレーニアは湖畔へと戻ることにした。








湖畔が近くなるにつれ、ニュンフェたちの賑やかな空気が戻ってくる。

喋らず姿を見せずとも、何となく明るくどことなくさわさわしている。ある程度の森でそう感じる時は、大体彼女たちがいることが多い。

レーニアが少女を抱えて戻ると、今度はアルテミスが姿を隠さずに待ちかまえていた。

水辺とまで近くではなく、しかし気に入っている湖の見晴らしが良い大木の下にある腰掛けに良い石とその周辺に布を敷き詰め、優雅に足を組んで座り、愛犬と娘たちに取り囲まれた状態でやってきたレーニアを待ち受けていた。


「ほお。射止めたか」


アルテミスが感心したように言う。

ニュンフェたちがレーニアの傍までやってくると、くすくす微笑み合いながら彼の抱えていた少女の遺体を数人で受け取った。その際、意味深にレーニアの肩を撫でたり、触れて頬を赤らめるような調子である。

少女の遺体をニュンフェたちに任せ、レーニアはそのままアルテミスの座る前までやってくると膝を折って頭を下げた。

あまりに流れるように自然に抵抗無くやるものだから、マーヤは咄嗟に驚くことが遅れてしまう。ぎょっとしている間にレーニアが謹んで口を開く。


「お目にかかれて光栄です」


足下に伏す男を、アルテミスは冷たく微笑して見詰めた。

誰も、昨日この場所に迷い込んできた可愛らしい小娘と同一人物だとは思いもしない。

感じが近ければ普通なら察せたとしてもおかしくないのだが、それだけレーニアの変化が巧みということだ。

外皮だけを化けるような変化ではなく、核の外側を膜で包み込み、魂の色から相手を化かしてしまうので、余程でない限りは見抜けない。


「腕は確かなようだな」


寡黙な男を気取って…そしてマーヤが相手に噛み付くのをぶるぶる震えながらも多少我慢している間に事を終える為に、レーニアは頭を低くしたまま懐から布を取り出した。

掌の上で広げ、姿を見せた金の首飾りに、周囲が再びざわりと揺れた。これを見ていたニュンフェたちが羨ましげな息をついたらしい。

隣や近くの者たちと小声で何かを語りはじめ、くすくすと笑い声が響く。

マーヤがぎろりと睨みを利かせたが、気付く者はない。例え好意的であろうとも、彼女たちの微笑は耳障りであることも多い。


「…これを」


恭しく、レーニアが差し出す。

アルテミスが取りに来るかと思ったが、そう上手くはいかなかった。侍女らしき娘の一人が彼女の足下から離れ、ふわふわとした足取りでレーニアの傍へやってくるとその手から首飾りを受け取った。

そのまま、主の元へ運んでいく。その細い背中を、レーニアは僅かに上げた顔から盗み見るように見詰めていた。

娘は大切そうに両手でそれを持ち、一歩一歩、アルテミスへと近づいていく。

周りを囲む他の娘達の間を通り、彼女のご自慢の愛犬の間を通り、本来他者が軽々しく入り込めない懐へ。こういった場所に入るには、意思を持った生きものでなく物品の方が優れているのだから、何ともおかしな話だ。

胸が高鳴る。ここからが本番。

レーニアの双眸が細くなる。口元が緩まないように気を付けた。

いつしか、隣に座っているマーヤもお座りしたまま首を低くして様子を窺っている。

娘に差し出された首飾りへ、アルテミスが両手を伸ばす。


「どれ。どんな――」


受け取ろうとした直後――。

ふ、とアルテミスに影が落ちた。

己の指先を見詰めていた彼女が、無意識に陰りの原因を求めて視線を上げれば、ふわりと金の髪を広げる華奢な少年が、逆手に持った銀色のナイフを鬼気迫る形相で振り上げていた。


「プシュケの仇――!!」

「…!」


ナイフが振り下ろされ、アルテミスの心臓を狙う。

だが、彼女は素早く片腕を上げると、振り下ろされた少年の――ブロンディアスの腕を、何とも勇ましく掴んで止めた。

心臓を狙ったはずのナイフは止められた高さのせいで、まるでアルテミスの喉を狙うかのようにその場所に留まり、両者の力でぎりぎりと拮抗する。

遅れて、ニュンフェたちの悲鳴がさながら演劇への大喝采のように沸き起こる。


「アルテミス様!」

「アルテミス様…!」


両手で口や頬をおさえながら悲鳴があがるも、駆け寄ろうとする娘はこの数秒間の間にはいなかった。

代わりに、彼女の自慢の名犬たち数匹が素晴らしい呻り声を上げ、吠え立て、牙を剥き出しにしながら駆け寄ってくる。

判断力に優れた優秀な猟犬たちは二手に分かれ、一方はレーニアたちを取り囲み、もう一方は真っ直ぐナイフを手にアルテミスを襲っているブロンディアスの背中や足を目掛けて突っ込んでいった。

唾液に濡れた鋭い牙が足に届く前に、猟犬たちに気付いたブロンディアスが舌打ちをしてアルテミスの手を払う。

大地を爪先で踏み、タンッ…!と軽く退くと、今さっき彼がいた場所を勢いに任せた犬が一匹、弾丸のような速度で通過していった。


「っクソ…!」


悪態をつきながら、ブロンディアスがアルテミスから離れる。

勿論犬たちは罪人の少年を追い、方向転換して襲いかかってくる。

仕方なしに、ブロンディアスはうるさい程に吠え立て、今一度飛びかかってくる犬たちに向き直った。ナイフを構える。

バッ…!と勢いよく飛びかかってきた猟犬の一匹を体を捻って避け、間も無く飛び込んできた二匹目の横腹をナイフで割く。擦れ違い様の無我夢中の一刀はどうやら上手く入ったらしく、キャィン…!と甲高い鳴き声が目立って響いた。

傷を負った犬はそのまま向こうに転がり落ち、どくどくと流れる血の中で藻掻く。

だが、敵を前にして仲間一匹傷付いたとしても、他の猟犬たちはすぐに気は取られない。まだまだ吠え声の方が圧倒的に多い。

ブロンディアスは夢中で犬たちと対峙した。

噛み付かれ、引っかかれては突き飛ばし、腕を振り上げては押し倒される。だが、上に乗られれば一番近い犬の目玉や耳にナイフを刺し続けた。

とにかくナイフの……手の届く範囲内で、傷を与える。

一度に全ては無理でも、少しずつ傷を負わせ、同時に負っていった。

場はブロンディアスと数匹の犬たちとの乱闘になるが、周りの娘たちは血の気の失せた青い顔で愕然とするばかりで動けない。

動ける数人の者たちは、あまりに突然のことで動けずにいるアルテミスの元へ駆け寄ってその肩や背を撫でた。

突如始まった目の前の獣と人間の死闘に、呆然としてしまう。


「う~ん…。残念。失敗してしまいましたね」

「…!」


この場に不釣り合いなのんびりした声にはっとして、アルテミスはブロンディアスから視線を移した。

見れば、先程逞しい男が平伏していたその場所に、全く見覚えのない漆黒の美女が立っていた。

露出の多いナイトドレスはアルテミスや周りの侍女たちにとっては見覚えなど無くて当然だし、例え衣類や装飾品が彼女らの知るものであったとしても、その美貌に釘付けになっていただろう。

初見で、レーニアを凝視しない者は少ない。

そして数秒でもいい。凝視をしてしまったのなら、その者にはレーニアの力が働くことを意味する。

レーニアの横には先程の黒い猟犬がいた。

大人しくお座りしているその犬だけが、さっき同じ場所で平伏していた男を見たことが夢幻でないことを教えている。

…だが、他半分の猟犬たちはどうしたものか。

ブロンディアスに襲いかかった猟犬たちの半分は、彼らの方へ向かったはずなのに、今はその犬たちの姿はどこにもない。

ぺろり…と、レーニアの横にいる黒い猟犬が舌で口の周りを舐めた。

ただならぬものを感じ、アルテミスは静かに立ち上がった。

腰掛けていた横に立てかけてあった弓矢を奪うように手に取る。


「…何者だ、お前たちは」


厳しい顔で問いかけるアルテミスに、レーニアは何の緊張感もなく微笑した。


「すみませんね、うるさくしてしまって。ですがどうぞお許しになって。私の名は“レーニア”」

「…レーニア?」

「ええ。レーニア・レイン・……“ソムニュムゥ”」


レーニアがそう名乗った瞬間、彼女を中心に疾風が巻き起こった。

砂や葉や、細い枝が飛ぶ。

風を起こしたわけではない。抑えていた魔力を少し解放しただけだ。風は副産物。

突然目の前に膨れあがった力の気配に、アルテミスもニュンフェたちもぎょっとする。そしてその力の風の中心にいるのは、今度は見慣れぬ黒衣の美青年だった。

低くなった声でレーニアが優しく告げる。


「流浪の魔神です。お見知りおきを、美しいお嬢さん」

「ま、じん…!」


ぞっとする。

アルテミスが今まで見聞きしている魔神とは随分違っていた。

そもそも“魔神”は彼女の暮らすエリアにはあまり存在していない。噂は聞いたことがあるが、死者の世界も死の世界の神が支配しているし、時折紛れてくる異国の魔神は自分たちとは姿形が程遠いものばかり。

こんな、自分と似たような姿形の…しかもどちらかといえば美しい魔神がいようとは。

そんなものなのだ。視野というものは。

例え千の目、千の耳を持っていようとも、主観がひとつであるならば、その者の視野はそこでおわり。

アルテミスが知らないだけで、世界はもっとずっと広い。

彼女の知る死者の世界など、公園の一角の砂場のようなものだ。

ただ、それを知らないことで彼女を責められるはずもない。彼女はただただ、“知らない”だけだ。それを咎めてはいけない。

無知は罪であるかもしれないが、それは目の前に知る機会が転がっているのに学ばないことだ。機会無き者にまで罪を認めてはいけない。

驚くアルテミスに、青年の姿を取ったレーニアは爽やかに微笑みかける。


「私はあそこで死闘を繰り広げている少年にご縁ができましてね。彼の願いを叶える手伝いをしているのです。その願いというものが、とても残念なことに、“貴女の死”なんですよ」

「…何だと?」


思わずつられて笑ってしまうような突拍子の無さに、アルテミスは聞き返した。

“自分の死”を手伝う?

つまり、目の前のこの魔神は、自分を殺しに来たわけだ。

アルテミスは本格的に武器を構える。弓に矢を宛がい、いつでも射られるようにしながらふわりと爪先を大地から浮かせた。

ちらりと横を見れば、可愛い猟犬たちは殆ど殺されていた。

だが、その犬たちと死闘を繰り広げていた例の少年はというと、最早虫の息。

四肢を噛まれ、肉は欠けて骨が覗けているところもある。犬の死骸に囲まれ、べったりと血で濡れて死にかけていた。もしかしたら既に死んでいるのかもしれない。

ならば、残るは目の前のこの魔神だけだ。

仕える女神が武器を構えたことで、蒼白になっていた周囲のニュンフェたちも、せめて彼らを逃がさぬようにとざわざわと周りを囲みはじめる。

隣の娘よりも少しだけ勇気のあるニュンフェが一人、精一杯の気力を振り絞り、胸の前で手を組んで声を張った。


「…ここは!神聖な森ですわよ!貴方のような卑しい異国の魔神が来るところでは――」

「おや、貴女」


彼女の方を向いたレーニアが、彼女の顔を見て嬉しげに気付く。


「香油を塗ってくれた娘ですね。ありがとうございます。とても気持ち良かったですよ」

「な…。…え?」


あの時助けた無垢な人間の少女が、今目の前のこの魔神だとは、誰もすぐにはぴんと来ない。それだけ彼女の変化は純粋なものなのだ。

お陰で、レーニアの言葉はまるでそのニュンフェの娘が、彼を手助けした裏切り者のような印象を瞬時に周りの者たちに与えた。

周囲の娘たちは驚いて、ザッ…と彼女との距離を取る。


「魔神を誘い込んだの…?」

「信じられないわ」

「どうして裏切りなんて…」

「…! 違いますわ!私は――!」


必死に弁解を始めるニュンフェ。

傍らで起きる仲間割れから視線を外し、レーニアが再びアルテミスの方へ視線を戻すと、丁度彼女が引いた矢が一本、こちらに飛んでくるところだった。

逃げるでもなく驚くでもなく微動だにせず、飛んできた一本の矢がレーニアに届く前に、すぞっ…!と捻れて飛びだした大きな漆黒の布が、まるで手のように意思を持った動きでその矢を掴んで絡め取った。

バサッ…と布が開けば足下に矢が音を立てて落ちる。

布は威嚇をするように一度だけ随分大袈裟に広く布地を見せると、すぐに縮こまりまたレーニアの腰に巻き付いた。

何でもなかった風に、レーニアは続ける。


「貴女は狩りがお好きのようですね。ここは正々堂々、まずは貴女のお得意な狩猟で決闘といたしましょう。…ブロンディアス」


彼はパンパンと両手を叩いた。

執事でも呼ぶような気軽さで、傍らで傷付き横たわっている、血濡れの縁ある人間を呼ぶ。

…人間?

確かに少し前まで彼はそうだった。

だが、果たして今はそうだろうか。

ここが時間の流れの、怖ろしく、そして愉快なところだ。


「ブロンディアス、起きてください。起きられますよ」

「…!」


まさか、と思い、青い顔をしてアルテミスも周囲の娘たちも、倒れている少年を見る。

レーニアの呼び声が響き終わった後、ぼっ…と、蝋燭に火が灯るような音が何処から聞こえた。

その音の後で、横たわっていた少年の体に変化が起こる。

彼が横たわっている場所にだけ、強い靄が発生したかのように景色がぼやける。ピントが合わない。

その中で、少年の体は僅かに縮んでいた。白く美しい手足からは、その長さが縮むと同時に徐々に毛が生え、爪は鋭く伸びて足に巻いていた布を破り突き出す。華奢な身体の細さは変わらず、だが筋肉は凝縮され、それまでよりもぐっと筋肉質になる。

男性にしては長い金の髪は膨れあがった首や肩の体毛に解け、頭部から肩胛骨にかけての体毛に色をつけた。

顔は今や体毛に覆われ鼻が突き出たが、愛らしさの残る中性的な雰囲気はどうしても残る。

だが、人の体はもう何処にもない。

余裕を持て余した衣類の内側からのそりと立ち上がったのは、見目麗しい一匹の白い狼だった。

背に金のラインが入る狼が琥珀色の瞳を開ければ、その双眸の上……額に、真っ赤な木の実程の大きさの宝石が、まるで芽吹くようにぱっくりと毛皮を裂けて現れる。

四本の足で立ち上がった白狼の足は自身の血で赤く汚れていたが、今はその様なことは気にもならない。

白狼は、ぴちゃ…と赤い水溜まりから前に出た。

確かめるように鼻先を動かしながら周囲を見回し、レーニアの方を向いたが、すぐにその後でアルテミスを見上げた。

グルルルル…と喉が鳴り、歯を剥き出して呻る。


<め…メガ、ミ…。…メガミィィ…、カ、カタ、キ……っ>

「…っ」


ビリビリと殺意が膨れあがる。

敵意を剥き出しにされ、アルテミスは構えた矢を白狼に向けたが、レーニアのことも無視はできない。どちらへ構えて良いのか迷っている様子だ。

だが、心配せずともレーニアに動く気は無い。

一人の女神に大勢で押しかけるような、そんな野暮なことを彼女はしない。

命を賭した勝負は、魂の輝きにかけて正々堂々と。

アルテミスは堪らず渇いた笑みをみせた。悪い冗談としか聞こえない。

多くの土地で“悪魔”だとか“魔族”だとかいわれている輩が何をと、笑うだろうか。

彼らが誠実なのか不誠実なのか知らないというのに、何を理由として笑うのだろうか。他者から聞いた話を理由としてなのだろうか。


「貴様…、本気か? この私が、コイツを射止められぬとでも思うのか」

「おや。逆ですよ。私の可愛いブロンディアスが、今から貴女を狩るのです。復讐に来たのですから、彼が追う側なのは道理でしょう?」


彼の言葉にかっときて、アルテミスは声を張った。

侮辱もいいところだ。


「馬鹿にするな!この私が獲物だと!? ふざけるのも大概に――」


言葉の終わりは、ブロンディアスの遠吠えに掻き消された。

胸を反らし、口を上に向けて放たれる遠い鳴き声。その喉元に天使の見慣れぬ印が一瞬輝く。

“汝に勇み気を”。

人を襲うには、いつだって多少なりとも勇気がいる。天使の加護が神を殺めようとする獣を包む。

鳴き声をBGMに、レーニアは距離のあるアルテミスへと左手を差し出した。


「ブロンディアスは飛べません。地上戦で、お願いしますね」

「――!」


触れられたわけでも、視覚的に何かが生じたわけではない。

それでも、ぞっ――!とアルテミスの中から彼女を構成する一部が忽然と消え去る。

直後、がくんっ…!と彼女の体が揺れ、数メートル上空で滞空していた体が突然重力を思い出し、落下を始めた。


「…っ何――」


何をされたのかも何故自分の体が落ちているのかも、アルテミスにはすぐに分からなかった。

体に巻いてある布を揺らし、落ちる体を狙って白狼が駆け出す。

大地を蹴り、走り込んでこちらに飛びつかんとするその獣の姿を、それでも彼女は混乱の中で何とか把握ができた。


「くっ…!」


悔しそうに奥歯を噛み締め、その姿を牝鹿へと変化させる。

ぱっと無くなった両手から弓矢が離れ、四つ足になった美しい牝鹿はその前足を大地に着けるや否や、脱兎の如く森の奥へと駆け出した。

その後を、猛烈な勢いで呻る白狼が追いかける。

二匹は木々の奥へ消え、あっという間に見えなくなった。

口元に片手を添え、くすくすとレーニアは上品でありながらも愉快そうに笑う。

緊張感など欠片もない。まるで小さな子供を見守るような温かみすらある。

周りのニュンフェたちはぞっとし、なかなか動けなかった。

だが、やがては再び勇敢な者が出てくる。


「お…お助けしないと…!皆、木々でお姿をお隠しして、あの獣を封じ込――」



――ばぐっ。



混乱の森に妙な音が響き、一同は凍り付く。

一瞬前まで主を救わんと声をあげた娘がいた場所を、巨大な黒い獣が、不意に陣取った。

獣は、レーニアの宿にある両開きの玄関口にやっと入るか入らないかくらいの大きさで、全体的に丸みを帯びていた。毛並みは黒く艶があり、日の光で白く輝いてはいるが、硬さも感じる。

両耳が酷く長く、まるで角のように斜め後方へピンと伸び硬質的だが、実際の角はというとその耳の生え際に毛並みより少し色の落ちる角がヌーのように左右に伸び、途中で上部へ向かっている。正面から見れば、まるで四本の角が生えているようにも見えるだろう。

巨大な獣は三本足だった。後ろ足二本に前足一本。鼻先らしき場所をもぞもぞと地面に擦り付けるような仕草をしていたが、やがて鼻先を浮かせれば、額に深紅の宝石が埋め込まれていることに気付ける。

その下で、ぱちり…と丸い双眸が開いた。

巨大なだけで、円らな赤い瞳は吸い込まれそうな程鮮やで純粋だ。だが…。

更にその双眸の下にあるらしい口から肉厚の赤黒い舌が現れ、べろん…と周りを舐めた。


「………え?」


娘たちの誰かが呟く。

先程までそこにいた友はどうしたのか。

それこそイメージしやすいような気がするが、頭は肝心な時に怠けるから困ったものだ。

黒い三つ足獣はぱちぱちと丸い瞳で瞬きをすると、くるりと体の向きを次に近い娘の方へと向けた。

そして、ぐあっ…!と直前までは想像もできないような巨大な口を開け、首を低くして吠えた。



ググァルァァアァアアアアア――…!!



鋭く並んだ、肉を食す為の歯。赤い口内、肉厚で長めのぶつぶつした舌…。

空気をびりびりと振動させる深い鳴き声に、娘たちは一斉に動き出した。悲鳴を上げながら我先にと奥へ逃げ惑う。

だが、飛びだした獣はバラバラに逃げる彼女たちのうち最も近い一人に飛びかかるなり、一口で口の中に収めてしまった。ぶちゅ…と口内でチェリーを潰すように食せば、存在は瞬時に霧散し、この森のどこかで彼女だった植物が枯れ落ちる。

口の周りは汚れなかろうに、またべろりと舌で周囲を舐めながら次の娘に狙いを定めて強靱な後ろ足で大地を蹴る。

爛々と瞳と額の宝石を輝かせ、深く凶悪な笑い声が森に響く。


<精霊どもだけかっ!なあっ、肉はねえのか、肉は!? オラオラァアア!喰い殺してやるぜー!? ギャハハハハハッ!!>


巨体は森の障害を気にしない。

力任せに突進し、次々と木々を薙ぎ倒してはニュンフェたちを追っていく。ある者は喰われ、ある者は本体である植物を踏み潰され噛み切られる。

必死で木々の間を逃げ惑う彼女たちの姿は、遠目に見るレーニアには、まるで森の中に吹き込んだ季節狂いの風花に見えた。それを追って、黒い巨体が林間を無理矢理切り開いていく。

暴れ狂う黒い巨体……マーヤは、すっかりはしゃいでしまっていた。

レーニアとしては日頃の可愛らしいウサギの姿が好ましいのだが、マーヤ本人はというと今の姿の方が気に入っているらしく、元に戻るとこの通りはしゃいでしまうことが多い。

力を持てば、誇示したくなる。見せびらかしたくなる。当然だ。

腕力、魔力、財力、権力…。それは強い欲求となって持ち主を誘う。力に取り込まれるなどということはよくあることで、一般的に持ってしまった力というものは、倫理観や正義感、理性などを瞬く間に呑み込んでしまう。

例えば目の前に開かないお菓子の袋があるとして、貴方が空腹で、片手にハサミがあったとする。使わない者がいたとしたら大層な愚か者に見えはしないだろうか。誰もが「それで開ければいいじゃないか」と考える。

“だって、それで開けられてしまうのだから。”

持ってしまっている力とは、そういうものだ。

例え話にしては歪曲が過ぎている、ピンと来ないと感じるならば、きっと貴方は“特筆すべき力なき者”側なのだろう。

貴方の胸の中ではまだ道徳心とか理性という宝石がそれは素晴らしく輝いていて、いずれ何かしらの力を手に入れた時に、今のぶっ飛んだ例え話を思い出せればいい。きっと理解できるはずだ。

とにかく、力を手に入れて日が浅く、しかも幼く無邪気なマーヤでは暴れ狂いたくて仕方がないらしい。

今こうしてはしゃいでしまっていては説得力もないが、本来は基本的に理由無き暴力は好きではないし心根は優しい少年だ。

ここで、彼は他者の肉を喰らうではないかと言い出す者がいらば、貴方はどうかしていると笑ってやりなさい。食は立派な理由であろうと。そんなことも忘れているのかと。

どんなに心優しかろうと、レーニアに与えられた強い力は気持ちがあどけない分誇示したいし、彼女のGOサインが出たとあらば遠慮は無用。日頃ちょっとだけ礼儀正しく我慢していることで遊べる。

泥団子を投げられる側よりも、投げて当てる側の方が愉快にきまっている。

襲われるのは楽しくないが、“誰かを力任せに襲う”というのは、やはり愉しいものなのだ。残念なことだが、これは排他的に生きる生物たちには仕方がない。誰しも覚えがあるはずだ。


「マーヤ。程々に」


彼が暴れている方に向けて言ってみるが、恐らく聞こえてはいないだろう。

だが、支援慣れしている大勢のニュンフェたちの足止めが必要なことは確かだ。彼女たち自身に大した力はないとしても、森の中というこのホームフィールドでアルテミスの援助をされてはブロンディアスに分が悪いし公平ではない。

レーニアは困ったように溜息を吐いたが、マーヤのことは本人に任せ、遠く少なくなるニュンフェたちの悲鳴を聞きながらブロンディアスを追って二人が消えた方角へと向く。

こんなに壮絶な場にもかかわらず、近くの木々の間や枝の上から森の小動物たちが彼を探るように覗き見ていた。

彼らは本能的に分かるのだろう。多少森を荒らすかもしれないが、彼が、自分たちには牙を剥けないことを。

レーニアは枝の上に集まる小鳥たちに微笑みかけ、足を進めた。




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