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世界樹の傍の、Ⅳ  作者: 葉未
3/7

ベルボーイ:マーヤ・カルバンクルゥール

貴方が“悪”に染まりたくないのであれば、よくよく良い仮面で、隣人と同じことをするべきだ。

どの時代、どんな種族であろうとも、“己と違う”というこの一点が敵意を生み、やがては境界線となり、対峙する者と見なされ“悪”とされる。

機会を得て“聖なるもの”とされる以外は、皆一様に排他される。

例えそれが、ただただ珍妙なだけであってもだ。






ここだけの話だ。

彼は己の過去を晒されることを特別に嫌悪するし、今の自身を気に入っていることもあってその口からは何も語ることはないから、ここだけの話だ。

とても愛らしく心優しい茶色い兎が一匹、とある南の小島に住んでいた。

兎は、何てことのない茶色く小さな兎だった。

数匹の兄妹と共に育ち、その中では活動的で剽軽で、そうして口は悪いが心優しかった。

彼の水飲み場である泉はとても美しく澄んでおり、中央に一本の細い木が生えていた。

水で清められたこの場所に生えていたこの木に精霊が宿ったのは自然の成り行きだが、この精霊、一人で過ごすことに耐えられず、少し離れた隣森の広い池へ行きたいと毎日のように告げていた。

そこには美しいその池の姫がおり、自分はその侍女として池の畔にお仕えしたいという話だった。

兎の身でありながらこの精霊を目視することができていた兎は、それならば自分がその旨伝えてあげようと、精霊に告げた。

精霊を見ることのできぬ他の獣から訝しみの目を向けられたことには気付かずに。

兎にとっては長旅だが、彼は小さな手足で気持ち良く隣の森の池まで行くと、そこに住まう池の姫と周囲の木々の精霊たちに自分の森の精霊のことを話した。彼女たちは隣森に精霊がいたとは気付かずにいたらしく、同じ仲間であるのに一人ではさぞ心寂しかろうと、喜んでその話を受けてくれた。

兎は再び森に帰り、その旨を木の精霊に告げた。

精霊は喜び、協力してくれたお礼にと、兎に霊力を分け与えることにした。

茶色い兎の額には加護の緑の印が表れ、兎は地上のみならず、猫のように木々へ登ることも許されたし、鳥のようにとはいかなくとも、リスのように木から木へ跳ぶことを許された。

ところが、主であった木の精霊がいなくなり、泉は以前よりも湧く量が減ってしまった。濁りもした。

動物たちに精霊の姿は見ることができなかったが、何故かその原因は兎であろうという噂になり、彼はあらゆる動物たちから嫌われてしまった。

しかし何てことはない。

本来、兎は単独行動で生き抜く動物だ。心優しいとはいっても彼もまたクールな自らの種族の範囲の中で優しい方なのであって、誰と連むことなく日々を生きてきた。

精霊が見える彼は、他の動物たちと比べれば彼らに愛されていた。どんな種族でもそうだが、自らより力ある種族に“ほんの少し気に留めてもらえる”というだけで、彼はとても生きやすかった。

だがある日、森の中を迷って迷って、知識もなく奥深くまでやってきた馬鹿がいた。人間の男だ。

軽装備での迷い人。森の動物たちは皆馬鹿だなぁと放置していたが、兎は精も根も尽き果てた様子のこの男を救ってやろうと思った。

ぱっと男の前に飛び出ると、男はすぐに兎に気付いた。

額に緑色をした何かの印があるその兎に近づくと、兎は素早く逃げる。だが、暫く行けばまた立ち止まり、じっと男を見ていた。その繰り返しで、男は森の入口へと戻された。よくある話だ。

さて、命からがら戻ってきたこの男、出会う人という人にその兎のことを話して触れた。

「森に神秘的な獣がいて救われた」

「木々を行き来し、まるでリスのようで…」

「額には輝く緑の印があり、あれはきっと神々の印に違いない」

「触れればきっと、御利益が――」

話は尾もヒレも付いていく。

天啓の如く思い立った何人かの口元がゆったりと緩む。

――さあ、狩りの始まりだ。






多くの人々が森に入り、“額に緑の印のあるリス”を探した。

彼らは一様に網や槍といった武器を持ち、ついでに出会った動物を食料として狩っていった。

朝から夕刻まで入れ違いに。時には晩まで火を着けて。

そのリスを手に入れれば巨万の富が手に入る。幸福が約束される。病気が治る。神の声が聞こえる。等々。

好奇心と欲望だけが森を囲い込み、動物たちは急激な人間の攻撃に無力だった。

例の兎もまた、命からがら日々を逃げていた。


「いたぞ!追え!!」

「捕まえろ!!」

「大金を逃がすな!!」

「聖獣だ!!」


何を言っているのか分からない大声に怯え、振ってくる網を避け、飛んでくる槍をかわす。

塞がれた往き道から急転換して脇道へ逃げ、飛びナイフが片足を掠めて血が流れ、猟犬が吠える声と足音を背後に聞きながら、吹き矢を受けてビリビリする背中を振るわせごつごつした岩肌の隙間へ飛び込んだ。

ぶるぶると小さな体を恐怖で震わせ、はっはっ…と短い息をし、それでも入ってきた隙間に正面を向けて、きっと凍った顔を向け警戒した。

けれど、警戒をして何になるだろう。逃げ道はもう無い。入ってきた隙間に敵が現れれば、もうあとは捕らわれるだけだ。

…殺される。

殺される。殺される!!

すぐそこで人間達の声が聞こえる。犬が吠える声が聞こえる。

自分はここで死ぬのだ。死ぬ。

今まで一度として認識どころか理解していなかった死という概念を、その時初めて兎は知った。

足音がする。

こつこつと。人間がすぐそこにいる…!

恐怖に怯えてぎゅっと隙間の奥で団子のように丸くなる兎の耳に、場違いな柔らかい声が降る。


「そこに、誰かいるのですか?」

<…!>


兎はびっくりした。

相手の言っている言葉が分かったのだ。

言葉というと語弊があるかもしれない。彼らが意思疎通に使う鳴き声や音波などの響きと、脳内のイメージ映像を併せての言葉だ。まるで動物や精霊たちと会話するように。

少なくとも相手は人間でないということは分かるが、猟犬などように人間側の奴かもしれない。

兎は黙って硬直した。

すると――。



――シャッ…!



甲高い音をたてて、目の前を一瞬黒いものが過ぎ去っていった気がした。

びくっ…と一瞬遅れで兎が震えた瞬間、目の前が突如開けた。

横穴の途中を、上から下まで熱したナイフでバターを切るかのようにして、唐突に広がる視界。

現れた景色の真ん中に、黒いナイトドレスに身を包んだ美しい女性が前屈みになりこちらを見ていた。

漆黒の髪と服。腕に絡め、夜風のままに踊るショール。そして吸い込まれそうな紅い目。くらりとする甘い匂い。

美女はさも博愛主義者のような顔で、にこりと微笑する。それは恐怖に追い詰められた者には有無を言わさぬ聖母のような威圧を与えた。


「おや。可愛らしい」

<…っ>

「こんにちは、兎さん。どうしました? とても怖い想いをされているようですね」


美女は兎を抱き上げると、大切な赤子をそうするように胸に抱いた。

兎は可哀想な程ぶるぶる震えて小さくなっていた。美女は彼をあやす。


「よしよし。誰かに虐められたのですか? 狼さんかしら。何をそんなに怯えているのです?」

<に、人間が…!>


人型をしているが相手が人間でないと直感で悟ると、兎は安心してか声をあげた。

涙を流さないはずの兎の瞳から、雫が二粒垂れ落ちて毛並みを濡らす。それだけ怖ろしかった。自分の命が狙われることも怖ろしいし、何より自分のせいで他の命が消えていくことを怖ろしく感じた。

混乱した頭と言葉は恐怖を紡ぐが、胸に渦巻いているのは無力を嘆く気持ちばかりが熱を持っていた。

森から奴らを追い出さなければならない。

ならないんだ。何としても。

追い出さなければならないのに、自分は怖くて逃げている。

悔しい。

悔しい…!


<人間が俺を殺しにくるんだ!!俺を狙って槍とか矢とか…あと犬もよこすんだ!俺を喰い殺そうとして!! 森のみんなを殺して歩くし…っ!――い、今までこんなこと無かったんだ!本当だ!!でも、でも何でだか知らないけど、急にすごく森に来てそれで俺ばっかり狙われて、足が切れて血が出て、に…匂いを、覚えられたからっ、ずっとずっと追いかけられてそれで――!!>

「まあ…。可哀想に」


恐怖から息荒く捲し立てる兎を落ち着かせるように、美女は軽く揺らした。


「追いかけられてここで怯えていたんですね。自分が理由で殺戮がおきて…。さぞ怖かったことでしょう。もしかして今もですか? 変ですね。どうして貴方みたいな可愛い小さな兎さんを寄ってたかって追っているのでしょう。…ですが、これも何かの縁。よかったら、私がお手伝いしましょうか?」

<て、てつ…だい…? ……って、なに…?>

「追いかけられているのなら、逃げたところで追われます。何とかしなければなりません。宜しければあなたに牙を差し上げますよ。…ああ、これは木の精霊の守り印ですね。精霊にお知り合いが? とても美しいですが、彼女たちの加護は少々弱いですから…。実際はあまり役に立たないかもしれませんね」


美女は胸に抱く兎の額に指先を添える。

目を伏せる兎の額で、ふ…とその印が端から中央へと消え失せ、ボッ…!と黒く額の上で一瞬火が生まれた。

そしてその火が消えれば、代わりに額には深紅の石が表れた。

優しく弱い守りの力ではなく、実体を持った物理に支配された石。力の象徴。

びくん…と兎が震える。

表現しづらい力の塊が、心臓と額から四肢に流れていくのが分かった。

まるで輸血のように、温度のある何かが体内を走っていく。どくん、どくん…と体が震える。


<ぁ…。え…?>


狼狽える兎を、美女はそっと高い岩肌へ置く。

その背中を丁寧に二度撫で、額の石にキスをした。


「相手の場所が分かるようにしてあげますよ」


彼女がそう告げて唇を離せば、兎の頭の中には不思議と嗅覚による地図のようなものが生まれた。

今、森にいる人間どもの配置が分かる。

また、どこにいる奴が何を自分にしたことのある者かもはっきりと、まるで匂いや音と同じように五感六感で分かった。

美女は優雅に掌を上にして、眼下の美しい森を示す。


「可愛い子。他ならぬ私が許しましょう。…さあ、やりかえしておいでなさい」

<――>


その声に、タッ…!と兎は駆け出した。駆け出した足場の岩がドカリと割れる。

爛々と輝く深紅の瞳。

駆け出した獣の影は兎と呼ぶには巨大過ぎ、また漆黒で、木々を薙ぎ倒して森を駆けた。

その鳴き声に死を直感した猟犬たちが、この広大な森の中、あちこちで一斉に尾を下げ、逃げに入る。甲高く心細く鳴く、そんな猟犬たちを見て、森に入っている人間たちは何事かと首を傾げた。

――さあ、狩りの始まりだ。







ある地域の伝説には、額に紅い宝石、若しくは緑の印をつけた、リスのような動物がいるとされている。

得たものには幸運を運び、額の石や印には膨大な魔力があるらしいが…。

最初に見た冒険家以外、今尚、誰一人、この動物を見た者は無いという。

理由は、賢い貴方ならば察することができるだろう。

胃の中に入った者に口は無し。

それだけのことだ。


故に勇ましき後世の者よ。

分かっているのならばそれでいい。

貴方の輝かしき夢や理想の為、彼の獣を、探したければ探すがいい。

命を賭して、探すがいい。








【ベルボーイ:マーヤ・カルバンクゥルール】








図書館を出た二人は、馬車を呼ぶのではなく徒歩で町のメインストリートへと移動した。

日は既に高く、あちらこちらを住人が歩いている。

石畳もあれば煉瓦もあり、土道もある。木造建築があれば石造建築もあり、よく解らない素材で出来ている建物もあるし、通行人もそれはそれはバリエーションに富んでいた。

見慣れぬものばかりでブロンディアスは始終怯えた様子でもあったが、それ以前にどうにも理解の範囲を飛び越えてしまっているらしく、ぼー…とどこか放心気味で、ひたすら俯いて歩くことを決めたらしい。

自分の前を歩く青年が力の強い神でなければ、発狂してもおかしくなさそうなものである。

まるで義務のように前を歩くレーニアの足下を見ている宿泊客に、くす…と彼は微笑した。

軽く後ろを振り向き、ブロンディアスに微笑みかける。


「そんなに緊張しないで。何か美味しいものでも食べようか」

「あ…」


意図的にフランクに話しかけられ、漸くブロンディアスは顔をあげた。

レーニアが会話をしやすいよう配慮してくれたことがよく分かった。実際、レーニアの方で自分の周りの気を少し抑えたことで彼も楽になったのだろう。

存在が大きいということは、何をしなくても周囲の者を控えさせてしまうものだ。


「ブロンディアスは何が好きなのかな? あの頃の人間は確か、パンとかチーズとか…。干し魚とかだったかな。木の実や果実は私も好きだよ」

「光栄です、レーニア様。…その、干した果実があればそれで」

<けっ。なーにが、“好きだよ”…だ。食えねえくせしやがって!>


ぽん、と音を立て、マーヤがレーニアの頭上に現れた。

ひくひくと鼻を動かし、そのままレーニアの頭の上に前足を置いて漂う。

彼は歩きながら上を向き、姿を見せた従者に応えた。


「でも好きですよ?」

<栄養にならないものを作ったり食ったり…。お前は呆れるくらい変わり者だぜ>


マーヤの言うとおり、レーニアにとって動植物の食物は基本的に彼の栄養にはならない。町のレストランやカフェなどは勿論神魔族に対する食事も揃えているが、彼は好みとして性行為中の甘く生きの良い生気が好きだし、自分の宿屋で絞りたてのそれらを食する方が美味しいので、滅多に町の食事処に入ることはなかった。

いい加減に従者の黒い兎にも慣れたブロンディアスは、ちらりとマーヤを見てから申し訳なさそうに両手を胸の前で合わせてレーニアに口を開いた。

図々しいかもしれないが、必要なものがある。


「レーニア様、その…。食事も有難いのですが…。恐れ多くも、武具を賜れれば」

「ブグ?」


ピンと来ないのか、レーニアが首を傾げる。

そんなものをどうするのだ?と言わんばかりの言動に、頭上のマーヤが呆れ顔で助言する。


<人間は武器がねえと駄目なんだよ。知ってるだろ? サーベルとかアックスとか弓矢とか>

「ああ…!武具!」


ぽんっと古典的にレーニアが両手を合わせる。

あまり武器を活用しない魔神からすれば、わざわざ戦う為の道具を揃えるという感覚が薄い。彼の場合、今当に腰に巻いてある黒い布が武具であり防具でもあるのだから、わざわざ手に持つものでもない。

人間はゼージャクだからな、とマーヤは馬鹿にしたように言う。


「それもそうですね。武器屋さんへ行ってもいいですが…。通り過ぎてしまいました」


足を止め、困ったように片手を頬に添えて今まで歩いてきた道を振り返る。

今更戻るのは少し面倒臭い。


「私を刺したナイフはどうなさいました?」

「…!」


びくっとブロンディアスが震え上がった。

弾かれたようにその場に膝を付き、額を地面に擦りつけ出す。


「申し訳ございません…!あの時はすっかり頭に血が上り…」

「ああ、いえいえ、それはいいのですよ。私も久し振りに刺されて愉しかったですから」


驚いたレーニアが慌てて屈み、伏せているブロンディアスを起こす。

近くで浮いているマーヤは呆れてものも言えない。


<ナイフなら俺が持ってるぜ。あんな所に出しっぱなしにしたら店の沽券にかかわるからな>

「片付けてくれたんですね。流石はマーヤ。偉いですね~」

<べっ…!>


びっ…!とマーヤの耳が一瞬ぴんと伸びる。

それから、ばたばたと忙しなく耳が上下した。


<お前らが片付けねえからだろ!何でいつも俺なんだよ!出しっぱなしにすんなよな!出したモンくらい片付けろよ!!>


かっかと怒るマーヤを撫でようと手を伸ばすが、レーニアの腕を全力で避け、マーヤは羽虫のように二人から距離を取った。

撫でるのを諦め、改めてレーニアは青い顔をしているブロンディアスに向く。


「神を殺すのはナイフでもできますよ」

「え…」


彼の言葉に、ブロンディアスは瞬いた。

自分が持っていたのは本当にただのナイフだ。しかも、上等なものではない。森の木の皮を剥いだり、木の実の殻を割ったり、動物の皮を剥いだり…。本当に、どこにでもあるナイフ。

人を刺しても貫通するかどうか怪しいあのナイフで、神を殺せるとはとても思えない。

訝しげなブロンディアスに、レーニアは人差し指を立てた。


「実体の無い大凡の神魔族には“真核”があります。人間でいうところの心臓のようなものですね。例えば私が例の女神や神を傷付けた場合、普通に傷付けられますが…。人間が神を傷付けようと思った場合、他の部分に刃物を刺しても傷付けられはしますが、時間で回復されてしまいます。逆を言えば、真核を傷付ければ一発です。スタンダードな女神のように見受けられましたから、きっと体内のどこかにあるんじゃないでしょうか。…まあ、難しいですけれどね。本来ならば一捻りある武器があれば楽かもしれませんけれど」

「…」

「大丈夫ですよ。心配なさらないで。私もお手伝いしますから。…本当に食事はいりません? 気持ちは逸ると思いますが、捜索は明日から始めましょう。勿論、今晩の夕食はお出ししますが、体力と精神力の為にも、食事は本当に大切だと思いますよ。人間にとって、他者を殺めることはとても疲労する行為だと聞いたことがありますが」


人を気遣う穏やかな顔をして、さらりと物騒なことを口にする宿屋の主を、ブロンディアスはどこか怖々した瞳で見上げた。

…やはり、感覚がどこか違う。

自分が人生を賭して決意した“神殺し”でも、レーニアにとっては縁のできた人に対する“ちょっとした人助け”なのだ。“レーニア”などという神は知らないし聞いたこともないが、彼が並々ならぬ者であることは本能で分かる。

ただ少し食い違っているのは、ブロンディアスが彼のことを“神”だと思っていることだ。

実際は対となる存在の魔神なのだが、とはいえ神と魔神の境目など実際のところは曖昧であるし、地上の者たちからすれば大した違いはないのかもしれない。誤って描かれていることも多々ある。

自分にとって良いことをしてくれるものが良い神、悪しきことをするものが悪しき神、だ。

食欲は正直無いが、少しでも体力をつけておいた方がいいだろう。レーニアの言うとおり、人間が行う殺害は他生物と比べれば疲労する行為だ。体力に加え、精神力も酷く酷使する。自己が生きる上で絶対的に必要な場合以外の殺害であることが多いのがその理由だ。

家族や恋人など、自身の生存以外の為に報復を行う種族はあまり多くはなく、その中でも決意したはいいものの罪悪感を拭いきれないケースが多いのは、何故か人間であることが多い。殺人でもそうなのだから、未知の神殺しなどどれ程のものか分からない。

今すぐにでもと逸る気持ちを抑え、ブロンディアスは胸に片手を添えてゆっくり呼吸をした。

何より、レーニアの気分を害してはいけない。例え彼が気にせずともなるべく従っていなければと、無意識にそう思ってしまうのだろう。弱者の必然だ。


「あの、では…お言葉に甘えまして」

「よかった!さあ、こちらへどうぞ。美味しい料理を出すレストランがあるんだよ」


黒衣の青年は嬉しそうにブロンディアスの手を引いて、歩いていた道の先へ連れて行く。

それに黒い兎が付き従った。

通された木造建築の立派な店で、ブロンディアスは彼の味覚にあった最高の料理を提供された。

客人の時代の、客人の好みの、客人の感覚で“豪華だ”と思う料理が出される町のレストランで出てきたものといえば、次々注がれる葡萄酒、焼きたての多様なパン、山盛りの干し肉、あつあつのスープ、皿から溢れんばかりの水気たっぷりの果実と、見る人によっては“そんなものでいいのか?”と思うようなものであるが、当人は感動するばかりの豪華な食事だ。

とても一人用とは思えない食事を前に気後れしていたが、向かいに座るレーニアに勧められてブロンディアスは食事を進めた。

豪華な食事、味わったことのない美味。

しかし、亡くなった妻のことを思えば自然と食事の速度は鈍くなってくる。彼女にも食べさせたかったと、そればかりが頭に浮かんでくる。


「まずは偵察でしょうか。殺められるようでしたらすぐに殺めても宜しいですけれど、きっと難しいですね」


まるで、ただ人に会うだけの気楽さでレーニアが葡萄酒を片手に言う。

テーブルの上に乗って、一心不乱にむしゃむしゃと干し肉を食べていたマーヤも、ぱちりとした赤い目で彼を見上げた。


<勘違いで殺っちまったとあっちゃ、さすがに大義がねえぜ。まずは聞かねえとな。“オマエ、コイツの女を殺したか?”って>

「まあ、実際にブロンディアスの大切な方を…すみません、辛いでしょうが言いますね…殺めてしまったのは、村の方なのですよね?」

「…!」


一度も口に出していない言葉に、ブロンディアスは驚いてパンを千切っていた手を止めた。


「あ…。何故…」


神託により仇の女神が妻であるプシュケロアを指名したとはいえ、“女神が妻を殺した”と口にはしたが、実際に殺めたのは村の人間たちだ。首を斬って祭壇に奉った。

だが、その手を下した村人達は…。

――。

村人たちは――?

一瞬、ブロンディアスの見ている景色が村のそれに変わった気がした。

神殿に飛び込んでからの映像がすっぽりと抜けている。


「……」

「ですがまあ、贄を指名したのならば、その女神が殺めたということと同じですよ。許せませんね」

「あ、はい…」


呆けていたブロンディアスの前で、レーニアが気遣うように視線を投げた。

ブロンディアスは小さく千切ったパンを口に運ぶ…が、何か一瞬違和感のようなものを得た気がした。

何かが引っかかる。しかし、それが何なのかは分からない。

…だが、レーニアの言うとおりだ。とにかく例の女神が妻を名指ししたりしなければ、妻は殺されずに済んだ。それは間違いない。

沈痛な面持ちのブロンディアスを半眼で見詰めながら、マーヤがぼそ…とレーニアに呟く。


<んなこと言ったってよ、生け贄好きな奴はたくさんいるじゃねーか>

「その選んだ相手が私のお客様の関係者、というのが、私としても許せないのですよ。チョイスの問題です」


聞く者が聞いたら憤慨しそうな論点だが、冗談でも何でもなく、レーニアにとってはそこが重要な問題だ。

大切な宿泊客。自分と一夜の縁を得た以上は、幸福の状態で宿を出て欲しいものだ。

それを、聞けば身内を殺され悲劇のど真ん中。この後、帰った後で復讐の手立てがあれば良いが、彼の時代に相手が女神だなんて、無謀もいいところだ。少しばかりは手を貸してやらねば哀れでならない。

ましてブロンディアスは魂や精神だけで宿屋に来たわけではない。肉体をもって、この“町”の森で倒れており、レーニアが正門から受け入れた珍客だ。

こほん…と咳をひとつして、レーニアは顔を上げた。


「食後に、少し様子を見に近くまで行ってみましょうか。ブロンディアスは、例の女神との面識はありますか? 遠くから見た、というものでも構いません。存在を感じたことは?」

「…妻が捧げられた時に、一度だけ」


自信無さそうにブロンディアスが言う。

妻が家にいないと分かり、死に物狂いで村の方角に駆け出した時、彼は夜空を飛ぶ光の帯のようなものを確かに目撃した。

果たしてそれが女神かどうかの確証は無いが、裾の長い衣を夜空に引くような光の帯。それから、“あれに間に合わなければならない”と、走りながらも本能が確かに訴えていた。


「一度会っているのなら、それで十分です。きっと傍まで行けますね」


食事が終わり、代金を払って彼らは店を出た。

表は相変わらずの通りという様子だが、レーニアはそのメインストリートから横道にそれ、ぐんぐんと行くと店店や住宅が並ぶ更に後ろの森の前へ来た。

何てことはない森林だ。

町をぐるりと囲んでいる、豊かなる緑の庭。


「…さて、ブロンディアス」


レーニアは両手を腰に添え、後ろから付いてきているブロンディアスを振り返った。


「深呼吸をしてくださいな」

「…?」


突然の注文。

疑問に思ったが、彼は言われたとおり深く深呼吸した。自然と目も瞑る。

ふ…と、肩から力が抜けた。

瞼の向こうから、レーニアの甘い声が響く。


「今から私たちは、例の女神に会いに行こうと思います。会いたいでしょう?」

「…はい」

「殺めに行かなくてはいけません。愛する方の仇ですものね。…さあ、恨んでください。思い出して。なるべく鮮明に、あの時の憎悪を。少しでもあの女に近づいて。そうだ、背後がいい。後ろからあの女に躙り寄りなさいな」


次々と続けられる言葉に、自分の中の経験が引っ張り出される。

愛するプシュケ。彼女を殺したあの女。

遠くから見ただけにもかかわらず、イメージが勝手に憎き女神の後ろ姿をつくる。

朧気であるも間違いなく殺意の的であるそれに、じりじりと足音を殺して自分の中の憎悪や殺意が黒い靄となり躙り寄っていく。

後ろから、首に腕を回して、驚くその顔に、銀のナイフを振り上げ、背中ではなく、脇腹を数回――…。


「……」

「ブロンディアス」


呼吸が荒くなってきて細胞が沸々と湧いてくる直前で名前を呼ばれ、ブロンディアスは瞼を開けた。

いつの間にか、右手でぎゅっと自分の胸元を掴んでいた。

レーニアが優しく微笑する。


「さあ、行きましょう」


微笑みを投げかけ、彼は森へと歩き出す。

何が何やら分からないが、ブロンディアスもその後を追った。

荒れてはいないので歩く足場には困らないが、繁っている木々は原生林で道らしい道は無い。

それでも迷い無く歩き続けるレーニア。ブロンディアスも、いつしか“こちらで合っている”という、漠然とした確信を得始めた。








どれくらい歩いただろう……などと問いかけるほど、歩いてはいないはずだ。

にもかかわらず、空はいつしか、先程レストランを出た時とは違う色合いになっていた。

雲の形や湿気など、うまく言葉にはできないが何かが違う。まるで全く違う国の森へ入ったかのようだった。

小さかった鳥の囀りもにぎやかになり、小動物の気配もする。

きょろきょろと周囲の様子を窺うブロンディアスの前を行くレーニアは、足下の大きな倒木を跨ぎながら振り返った。


「情報が必要ですね。あまり外れてはいないと思いますが、まずは誰かにお会いしてお話を聞きましょう。アルテミスという女神の場所はこちらで合っているのかどうかを……おや?」

<げ…!>


木漏れ日の間から太陽が照らす空を、一瞬黒い影が遮った。

大きな鳥かと思って視線を上げたレーニアたちの視界に映ったのは、まぎれもなく人の形だ。相手に気付いたマーヤが、驚いた声を出して即座に姿を消す。

だが、レーニアは少しの驚愕と嬉しそうな表情をすると、ふわ…と爪先で大地を蹴って浮かび上がった。


「少々お待ちになって」

「え…?」


ぽかんとするブロンディアスの目の前で、腰に巻いてあった黒帯が一気に広がり、次に見た時は彼の姿はナイトドレスに身を包んだ蠱惑的な女性の姿になっていた。

最初に会った頃のように妖艶な姿。白い腕に黒い衣をまとい、今しがた頭上を通過した影を追って木々の上へ飛び出す。


「マステマ!」

「…ん?」


名前を呼ばれ、飛行していた男は振り返った。

背中に黒い翼のある青年は、他の同族がそうであるように理想的に引き締まった体付きで、ウールの布でできた衣を身に巻き着け、腰には革のベルトをしている。少し癖がかったふわりとした髪は黒く、遊ばせているが不思議と乱れてはいない。瞳は琥珀色。鋭さと甘さが共存している目元は、見るからに経験豊富な色男だ。

バサッ…と翼を羽ばたかせると、男は飛行を止めた。

瞳に宿った驚きが、すぐに嬉びに変わる。


「驚いたな。レーニアか!」

「お久し振りですね」


当たり前のように開いた男の両腕の中へ、女体になったレーニアがドレスの裾を指先でつまみ、風で遊ばれる髪を少しだけ気にしながら何の躊躇いもなく飛び込んでいく。

そのまま男はレーニアを抱擁すると、額や頬にキスをし、優しく髪を撫でた。まるで久し振りに会った恋人にでも接するかのようだ。

上空で繰り広げられるラブシーンにブロンディアスはきょとんとしてしまう。

…とはいえ、赤面する程のことではない。久し振りに愛しい者に会えば抱擁してキスするのは当然である。彼が呆けているのは、相手の男に翼があるせいだ。

彼の知識には無いが、分かり易く表現すれば、間違いなく“天使”というやつだ。

…が。


「本当に久しいな。元気か? 相変わらずその美貌には参る。純粋なる赤き煌めきもまた変わらず美しい。どうだ、これから前に行った丘にでも。あそこは星も綺麗だ。夜になっても楽しめる」

「まあ、嬉しいお誘いですこと」


男は慣れた様子でレーニアの腰を片腕に抱き、彼女の手を取って細い首筋に唇を寄せ、早々と口説き始める。

満更でもないレーニアだが、勿論大切な宿泊客のことを忘れてはいない。

男の胸に寄り添いながら、彼女は残念そうに応えた。


「ですが、ダメ。今は先んじる用事があるのです」

「妬けるな。俺よりも優先か。少しは仕事をする気になったか。お互いはみ出し者だからな」


質問には答えず、意味深に微笑するとレーニアは彼の手を取った。

ふわりとそのまま地面に戻ってくる。当然、男も従った。

降り立った二人を前に、ブロンディアスはまじまじとその天使を見詰めてしまう。偽りでも何でもなく、男の背には翼が生えていた。こんな人間は今まで見たことも聞いたことも無い。


「ほお、美しい形をした人間だな。お前が好きそうだ」


外見ではなく、男に魂の形を見下ろされ、ブロンディアスは無意識に一歩後退した。

驚く彼に取りなすように、レーニアが紹介する。


「ブロンディアス、ご紹介します。私の友人のひとり、マステマです。天に住まう方ですよ」

「宜しく。俺に紹介されるなんて、お前は幸運だぞ?」

「あ…。えっと、神…ですか?」

「神?」


平伏そうとしたブロンディアスに、マステマと呼ばれた翼の男は苦笑すると投げやりに片手を振るった。


「止めてくれ。全然違う。神だとか何だとか呼ばれている連中はうようよいるが、俺たち天使は別に連中に仕えているわけじゃない。俺は“主”に仕えるのだからな。混同してもらっちゃあ困る。連中に従うなんざ、考えただけで気が滅入るよ」


マステマの説明はいまいち理解できなかったが、とにかく彼もまた図書館の司書と同じく神ではないらしい。

ブロンディアスは頭を抱えたくなった。

そんな人間の少年のことは気にせず、マステマは再びレーニアの腰を抱く。バサリと翼を広げ、彼女と自分を緩く包み込み、その手を取って口付けた。


「暫くはこの辺りにいるのか? 遊びに行きたいな。または俺の所においで。歓迎するよ」

「まあ、嬉しい。けれど天へ行くのは私のような心弱き者にとっては少々難しいかも。訪問を歓迎しますわ。頑張って私の城をお探しになってね。…ところで、貴方にお尋ねしたいことがあるのですが」

「ん?」

「この辺りに“アルテミス”という女神はいらっしゃるかしら。探しているのです」

「アルテミス?」


名前を出した途端に、マステマの顔がそんなの聞いてどうするんだ?という顔になる。

聞き覚えがありそうな様子に、レーニアもブロンディアスも彼に注目した。

片手を顎に添え、マステマは不思議そうな顔をする。


「そりゃ、勿論。あのクールなお嬢さんは有名だ。彼女は間違いなく神だが…。しかし、何だってあんな女に」

「お会いしたくて」


全てを言わないが嘘ではない言葉に、マステマは好意的に笑った。

嘘を吐く者は嫌いだが、巧妙に隠す者は賢くて好ましい。


「相変わらず妙なことをする奴だ。自ら神に近づいていく気か。連中には係わらないことが一番だと思うけどな。…確かに、ここは彼女が気に入っているエリアだ。もう少し行けば、縦に長い湖がある。この辺りは彼女の狩り場で、よく降りて来て楽しんではその湖畔で休んでいるな」

「聞きましたか、ブロンディアス」


旧友の言葉に、我が事のようにレーニアは喜んだ。

彼の愛客も、ぱっと明るい顔をして頷く。

まだ日は沈みきってはいない。今日の今日で事が成せるとは思っていないが、もし機会があれば躊躇ってはいけない。チャンスは拾えれば幸運ではなく、逃せば取り返しがつかない、というものの方が多い。

時を見極める力はいつだって必要だ。


「もう一つ宜しいですか、マステマ。最近、そのアルテミスという女神、贄をご所望というのは本当ですか?」

「…ああ」


レーニアの質問に、マステマは露骨に表情を歪めた。

種族の本質として無駄な争い事や血を好めないのはどうしようもない。は…と吐き捨てるように目を伏せて息を吐いた。


「彼女だけじゃない。最近の連中の流行らしいな。お気に入りの王や都市が、自分の為にどこまで犠牲にできるかを競っているらしい。彼女は流行には疎いが、競い事には参加したがるクチだからな。しかも処女神だろう? 男を捧げられても困るっていうんで、美しい乙女が選ばれているらしい。可哀想な話だ。もっと酷いのもいるがな」

「たっ…!」


他人事のようなマステマの言葉に、ブロンディアスが肩を震わせて口を挟んだ。

レーニアとマステマが彼の方を向くが、その瞬間にはもう彼には天の住人に叫ぶような度胸はなくなってしまっていて、代わりに、叫び損ねたその一言を暗い顔で静かに尋ねた。


「助けて…くださらないの、ですか…?」

「…あー」


少年の言葉に、マステマは困ったように後ろ頭を掻いた。

レーニアから腕を離し、愛すべき地上の迷える人間に告げる。


「すまんな。俺は、俺の仕事しかできない仕様になっているんだ。主に命じられたこと以外は、手を出せない」


それは“天使”としての彼らの本質だ。

命じられたこと以外には基本的に行動できない。レールの上を走ることしかできない滑車や電車などと同じで、レール上でならばいくらでも力を発揮できるが、それ以外のことを行おうと思えば新しく主命をもらってこなければならない。

この場を同じくしている二人には当然にできる“ちょっとした手伝い”という行動が、彼にはできない。

他の種族から見れば“何故?”と思うような見えないルールが、お互いに数多く存在しているのだろう。これはその一つだ。


「今の仕事上で見聞きしたことは報告として上げる。それについて判断がされ、場合によっては御意見も伺えるだろう。だが、動くのは次の命を賜ってからだ。そして、その命を賜るのは、たぶん俺じゃない。適任者がいる」

「…」

「ブロンディアス。理解してあげてください。彼の言っていることは、嘘ではありません」


レーニアが優しくブロンディアスの背へ手を添えて宥める。

彼からすれば、神だろうが天使だろうがそこまで大きな区別は無い。人ならざる者で強大な力を持ち、好き勝手をすると同時に信じられない力で救ってもくれると信じていた。

しかし、実際にはどうにも複雑だ。

項垂れる少年に哀れみが生じたのか、マステマは彼を少しの間見詰めてから、傍へと歩み寄った。

右の掌を、す…とブロンディアスの額に添えてから、ん?と瞬く。


「何だ。お前の印があるのか。…なら俺は、ここかな」

「…!」


額に添えられていた手が、首へと下がる。


「…っ」


じゅ…と焼けたような熱を感じ、ブロンディアスは顔を顰め、咄嗟に喉を押さえた。

純白で淡い光を察する複雑な印が白く細い首に現れ、消える。感じた熱も一瞬だけで、すぐに何事も無くなった。


「俺はどうにも守り印が苦手でな。代わりに、お前に勇み気という名の矛をやろう」


喉では自分で見下ろせない。

印が宿った喉を気にしているブロンディアスの肩を随分親しい様子で叩いてから、マステマはレーニアを振り返った。


「レーニア、アルテミスに会いたいというのなら、この人間と同い年くらいの少女になった方がいいだろうな」

「これではいけない?」


自らの妖艶な姿を示し、レーニアが首を傾げる。

処女神、男嫌いというキーワードを聞いて、女体で歩いていけば男体よりは心を開いてくれるであろうと思っていた。より女性らしく、アルテミスに近づけば今のように体を変えるつもりであったが、どうやらそれだけでは足りないらしい。

白い肌をさらけ出し、包容力ある理想的な女性の姿。マステマは自らの胸を指先で突き、レーニアの豊満な胸を暗に示しながらニヒルに笑った。


「いけないな。どうも彼女は自分よりも小柄な者の方が好みのようだし、捧げられる女は赤子や少女。少なくとも、二十年経った者はいらないとかで突き返すこともあるらしい。人間は容姿が変わるのが早いからな。それに、周りの侍女精霊たちがそれこそ幼子好きだ。美男も好きだがな、彼女たちは。アルテミスに会うには、まず侍女たちを通さないことには始まらないだろう。それに、今のお前の姿は本当に美しいからな。…いいか、レーニア。よいことを教えてやろう。これは、お前と他の女たちとの決定的な違いだ」


再びレーニアの手を取って口元に運びながら、マステマは苦笑する。


「世にある女は、お前と違って自分より美しい女が好きではない。故に、美しい、ではなく、愛らしく幼く格下でないと気に入られない。実に女らしい女神だろ? 流石は処女神だ。乙女とは、より“純粋な女”のことだからな。彼女は素晴らしい処女神だとは思うな」


手の甲へ口付け、別れ際「城を探すよ」と囁いて唇へキスをしてから、マステマは雄大な翼を広げて名残惜しそうに飛び立って行った。







「…これでいかがですか?」


小振りな胸の膨らみの前に小さく細く、白い両手を添えて、レーニアは正面に座るブロンディアスに問いかけた。

マステマと別れてから森を歩き、小川を見つけてその傍で休憩を取ることにした。水場を求めて来るのは何も動物ばかりでなく、この辺り一帯は小さな花々が群生していた。

その片隅に腰を下ろしたまま、ブロンディアスは呆然とした様子で目の前の少女を見詰めた。

自らと同じ色の流れる金の髪、白い陶器のような肌。陰の落ちる睫に細い四肢…。

一回りほど小柄で似通った鼻筋。ふんわりとした花のような雰囲気。

気に入ってつけていた不釣り合いな金の装飾は無いが、その姿はまぎれもなくブロンディアスにとって最愛の姿だった。

妹にして妻。地上でただ一人愛する女性。


「…。プシュケ…」


ぽつ…と放たれた呟きに、プシュケロアの姿を取ったレーニアは柔らかく微笑した。

いつもの黒い姿からは想像もできない。小柄で清楚で、世の中の辛さに折れることなく優しさで克服し、兄であり夫である男性と必死に十数年を生きてきた少女の姿。

この容姿には、今休んでいるような、こんな清らかな場所が何より似合う。

風が吹いて、身にまとっている衣の裾を揺らす。

その風とレーニアの笑みにぎくりとして、ブロンディアスは我に返った。


「あ、えっと…。いいのではないかと思います…!」

「ふふ。可愛らしいですか? 見惚れてしまいます?」

<ハイハイ、似てる似てる。だってコイツん中でホンモノ見たもんなー>


マステマと別れてから出て来たマーヤが、ふよふよ浮きながら当然だろうとばかりに小さく息を吐いてぼそりと口にした。

愛らしい少女が接触しやすいという情報を得て、レーニアは贄にされたブロンディアスの妻、プシュケロアの姿を取ろうと考えた。

これならば、旧友の助言に従う外見であるし、アルテミスが本当に彼女を贄にした張本人であるならば、死者が再び目の前にやってきたことになる。何かしらの反応はするだろう、という話だ。

また姿を見られた懐かしさと守れなかった哀しみと、揺れ動く心でブロンディアスは複雑な表情をしている。

誰もが振り向く可憐な少女の姿で、レーニアは楽しげにその場でくるりと一度回った。


「では、ブロンディアス。私はこれから偵察に行って参りますから、ここにいらしてくださいね。すぐに戻ります。マーヤ、大切なお客様をしっかり守ってさしあげて」

<チ…>


露骨な舌打ちをして、マーヤはブロンディアスの傍へやる気無く移動した。


<はーぁ…やれやれ。何だかすんげーフクザツになっちまったな。俺はお前が喰えればそれで良かったのに>


カチカチと歯を鳴らすマーヤに、ブロンディアスがびくりとする。


「お待ちになっている間、ナイフの腕でも磨いておいたらいかがでしょう。その瞬間の為にね」


二人に笑みを向けてから、レーニアは一人、白い素足のまま森の奥へと移動を始めた。











――ひっく…。う、うう……。ふ…っ。


忍びながら森に響くその泣き声に、ざわざわと木々や花々が揺れる。

人里とは距離のある聖なる森の中。突如現れた高い声に、森の動植物たちは何事であろうと声の主に興味を持つ。

人など滅多に入り込んで来ないこの森に、長い髪の少女が紛れ込んで来ていた。

汚れた髪とあちこちに擦り傷を負った肌。粗末な服を身に着け、歩きにくい根の張った大地を一歩一歩弱々しく歩き、ともすれば危なげに転ぶ。何も履いていない汚れて傷付いた足。

新しく擦ってできた傷から血が滲み、ああ、こうしてこの少女は転びながら随分歩いているのだ…と見ている者は悟る。


――…迷い子かしら。こんなところに人間が来るなんて。

――幼子ならば入る気になれば、入れてしまうわ。けれど、あの歳の少女が一人でなんて、変ね。

――ぼろぼろだわ…。


少女の歩く周囲から、距離を取りつつも包囲するかたちで肉声ではない声が響く。

一人がぽつりと哀れみを含んで呟いたことで、ざわりと空気が揺らいだ。

まだ明るい午後とはいえ、すぐに日は落ちる。日が落ちれば、獣も出る。

この森は清く気高き主の狩り場。彼女が愉しむ為にも、足の速い獣はたくさん放ってあり、獲物たる野犬も猪も狐もいる。


――本当に他の者はいない?

――いないわ。いないわよね?

――あの歳で私たちのところへ来られるのよ? きっと幼子のような穢れなき娘なんだわ。

――そんな娘をむざむざ目の届くところで見殺しになんてしてごらんなさいな。アルテミス様が何て仰るか。すぐに……あ!


ふらついて歩いていた少女が倒れる。

その瞬間、ぶわっ…!と何もなかったはずの周囲の空気から、浮き出すように両腕を広げた数人の娘たちが彼女を取り囲んだ。

髪の形や布地の少ない、ほぼ半裸に近い衣は微妙に違うが、皆春の枝のような明るい茶の髪色をしている。瞳の色は様々だ。一様に若い娘たちで、ある者は髪に花を挿し、ある者は長い羽衣を腕にかけている。

正面に回った娘が、倒れかけた少女を抱き留めた。

他の娘たちも、心配そうに気を失った少女の顔を覗き込む。少女は顔面蒼白で体は軽く、やはり手足に傷があり、汚れも酷かった。

彼女たちは何事かを話し合い、そうして少女を連れるとその場を移動した。







自らに意識喪失の魔術を施し、たっぷりと時間を取ってから――レーニアはゆっくり目を開けた。


「…」

「あら…。気付いたようね」


レーニアの頭上から、娘の一人が逆向きに顔を覗かせる。

碧眼のその娘はレーニアに膝枕をし、片手でその髪をゆっくりと慈しみながら撫でていた。

まるで寝起きのようなぼんやりとした呪いの余韻を残しながら、周りを見回す。場所はどこかの泉で、浮島のようだ。四方を水がたゆたい、現にレーニアの腹部から下は水の中に沈んでいる。ゆらゆらと身に着けている服の裾が水中で揺れていた。

レーニアを見守っていたのは一人ではなく、見れば右に左に足下にと、数人の娘たちがそれぞれ傍にいてそれぞれ彼女を介抱していた。

ある者は力の無いレーニアの腕に香油を塗り込んでおり、またある者は髪を丁寧に梳かしている。ある者は足の傷に薬を塗っており、ある者は傍で気付け効果の香りを持つ花を並べていた。

彼女たち数人の他にも、少し離れた場所で違う娘たちが楽しそうに談笑している。

露出の多い数人の娘たちに侍られ…。


(ああ…。幸せ)


レーニアがうっとり目を伏せ、感動に浸る。

夢のようなシチュエーションである。気持ちは分かるが、ここにマーヤがいたら憤慨もいいところだ。


「気分はどう?」

「無理して動かなくていいのよ。もう少しで傷も塞がるわ」

「髪も衣も、すぐに汚れが流れるし…。とても綺麗な髪色ね」

「瞳の色もいいわ。ねえ、どこから来たの?」

「お腹は空いている? 果物ならあるわよ」

「…」

「もしかして、喋れないのかもしれないわ。さっき聞いたのは泣き声といっても嗚咽だけだったわ」

「心配しないで。貴女を悪いようにはしないわ。ここは女神様のお庭。誰でも助けるわけではないけれど、貴女のことは放ってはおけないわ。迷い込んだのがこの森でよかったわね」


木霊のようにあちこちから響いてくる声に対しレーニアが黙っていると、頭を撫でる娘が優しい声でそう付け足した。

彼女の顔を見詰め、それから今一度周りを見回す。

アルテミスの森の中、不意に現れた女の集団。

間違いない。“ニュンフェ”だ。

自然界に存在するものの精霊。どの娘も、この森に古くからある“何か”の化身のはずだ。

マステマの言った通りだ。彼女たちは傷付いた少女の振りをしているレーニアを放っておけず、介抱をしてくれたらしい。献身的な言動はあたたかみのあるものばかりだ。どれもこれも“乙女”の特権。

ニュンフェが全員幼子好きというわけではないが、彼女たちの好みは従う神の好みに添っている。マステマの言ったとおりで釣れたニュンフェならば、彼女らの従う神は間違いなくアルテミスだろう。

体中を清められ、香油を塗られて泉から上がる頃には、レーニアはもうぼろぼろでも不潔でもなかった。

着ていた服は脱がされたが、プシュケロアの姿はこれ以上ない程に整えられた。白く幼い体に、ニュンフェたちは我先にとケープを体に巻いたり花を飾ったり髪を結い上げたりと、まるで白い画用紙を与えられた子供のように各々が更に整えようとする。

控えめな自然の装飾と生まれたままの白く未成熟の裸体。

これ以上に愛らしいものはなかなか無い。

薄汚れていたレーニアが見間違える程清くなり、ほう…とニュンフェたちは感嘆の声を溢した。

礼儀を弁えているレーニアは、一言も喋らない代わりに彼女たちに微笑んでみせ、それがより一層彼女たちの好意を掴む。


「可愛らしいわ」

「このまま私たちと暮らしましょう。歌えないのは残念だけれど、他にも楽しいことはたくさんあるわ」

「待って。お伺いはしなきゃいけないわ。人間の娘ですもの。男とは違うわ。すぐダメになってしまったらいけないもの。気を付けることがきっとあるはずよ」

「そうね。でも、アルテミス様が拒むことはないと思うわ」


レーニアはまたにこりと微笑む。

ニュンフェたちに手を引かれ、そのまま水辺で彼女たちと時間を過ごした。何をするというわけではないが、彼女たちの話や歌を聴いたり、踊りを見たり、噂をしたり…。

そんな楽しい時間を過ごしていると、やがて日は傾いていく。

空が赤く染まった頃、いよいよ彼女がやってきた。


「…随分、賑やかだこと」


一言声がして、その場にいた誰もが、皆揃って首を上げた。

空を見上げたレーニアの視線の先で、数人のニュンフェを連れた女神がゆっくりと地上へ降りてくる。

緩み無く結い上げた栗色の髪。その下では白いうなじは目を惹く。ニュンフェたちよりも少し背が高く、何より背筋が伸びている。髪色と同じく明るい瞳は珍しくないが、きりっとした目元には鋭ささえあった。ニュンフェたち程露出は高くはないものの、体に巻いている衣は薄く少なく、胸は辛うじて乳頭が隠れているくらいには開いており、裾も腿丈と短い。その代わり、動物の皮で作った履き物は膝下まであり紐で留めている。腰にはウールの衣を留める豪華な金のベルトをしていた。

色香が無いとは言わないが、肌が出ている割には女性的色香が薄い。さっぱりとした印象を受ける。

意外だ。レーニアは少々瞬いた。勿論、図版で見たよりも生気がある分より魅力的には感じるが、予想していた雰囲気と懸け離れている。

“女神”と聞いてイメージしていたよりも中性的な女性だ。また、同時に近寄りがたい空気もある。お堅い女神であることは対峙した瞬間に察することができた。

と…と、アルテミスは爪先で大地を踏む。

地上へ降りてきた主人たる女神に、周囲にいたニュンフェたちが集い出した。


「アルテミス様」

「ご機嫌良うございますわ、アルテミス様」

「このような時間にいらっしゃるなんて、お珍しいこともあるものだわ」

「どうなさったのですか」

「何かお忘れものでも?」

「明日、朝狩りをするわ。弓と矢と、それから私の犬たちの準備をしておいて。今夜はここで休むわ」


侍る娘たちの間を歩きながら、つんとした物言いでアルテミスは告げた。

ますますイメージと違う。このニュンフェたちの主人なのだから、狩りを趣味にしてもいかにも女らしい、もっと大人しく汐らしい女神とばかり思っていた。


――「いや、この女神は苛烈だぞ」


今更になって司書の言っていた特徴を思い出す。

アルテミスは、地上へ降り立った瞬間から他の娘たちには一瞥もくれず、ニュンフェたちの間で佇んで様子を眺めていたレーニアを真っ直ぐ見詰めていた。

目の前までやってくると、アルテミスは足を止める。じっとレーニアを見詰め、レーニアもまた彼女を見上げた。

まとう雰囲気に包容力が無い。いつもの黒い淑女でいる時のレーニアと、対照的な女性だ。


「…この娘はどうしたの?」

「行き倒れておりました。傷だらけでしたので、薬を塗り介抱いたしました」

「口が利けないようです」

「どうかお慈悲を。愛らしくか弱い乙女ですわ」


ニュンフェたちが口々にレーニアを庇う。どうやらすっかり“愛し子”らしい。

手をかけたらかけただけ、情が移る。彼女たちにはありがちな話だ。

彼女たちの言葉を受けて尚、数秒間アルテミスはレーニアを見詰めていた。やがて、ふ…と微笑する。


「尊ぶべき神に会っても瞳すら反らさないというのは珍しいわね。私たちに会ったことが無いのでしょう。敬い方を知らないのね。教えてあげるわ。膝を着きなさい」


それらしいものを見たことはあるが、当然レーニアが他の神へ祈りを捧げたことなどはない。

恐らく、最近見ているブロンディアスのあの地面に平伏すやつだろうと思い、レーニアは地面に膝を着こうと屈み込んだ。彼女のことを気に入っているニュンフェたちが、膝が痛く無いようにと布を敷いてくれる。

その上に座ると、見よう見まねで両手を前に深々と頭を下げて額を地面に着けた。

他の魔神なら死んでもやらないようなこんな行為も、レーニアにはさほど抵抗が無い。こういうところが変わり者なのだろう。これもまたマーヤが見たら、それこそ大暴れする行為である。主人の伏した姿なんて、相手と刺し違えてでも妨害したいだろう。いなくて幸運だ。

自主的に頭を下げたレーニアを、アルテミスは少し意外そうな顔で見下ろした。


「一応は分かっているようね。では何故すぐに伏さなかったのかという話だけれど」

「初めて女神様にお会いして、驚かれたのですよ、きっと」

「無理もありませんわ」


傍にいた娘たちが好意的にそう足してくれたので、アルテミスはそれ以上追求してはこなかった。それもそうかと思ったようだ。

プシュケロアの姿をしたレーニアを見ても、今の所彼女に特別な反応は無い。もしかして全く関係が無く、プシュケロアを指名した女神は別の女神なのかもしれない。

ハズレの可能性が高い。そんなことを考えていると、頭上から声が降ってきた。


「頭を上げなさい」

「…」

「付いていらっしゃい」


レーニアが顔を上げると、アルテミスはすぐに歩き出した。

娘たちに促され、レーニアも立ち上がると彼女の後を追う。泉から離れていくアルテミスは、歩きながら娘たちに命じた。


「娘にもっと衣を与えなさい。人間は時に夜の寒さでも死ぬものよ。それとも、香油を与えたの?」

「塗り込みましたわ」

「そう。ならいいわ」


振り返りもせず歩いていくアルテミス。レーニアは周囲をニュンフェたちに囲まれながらも彼女へ付いていった。

ほんの僅か離れた場所に大樹があり、乙女たちは止まり木を見つけた小鳥の如くその足下に腰を下ろした。黄昏の中、大樹の傍で休む娘たちはそれこそ絵に描いたような何とも言えない聖域を思わせる。

地中から巨大な蛇が僅かに胴体を晒しているかのような、そんな玉座代わりにしている決められた木の根のひとつに娘たちが布を敷き、アルテミスが腰を下ろして足を組む。近寄りがたい雰囲気だが、娘たちに促されてレーニアは傍へ寄っていった。

元々、レーニア自体が社交的なので、促されなくても空気も読まず寄っていった気もするが…。

傍にやってきた少女へ大した興味も無さそうに、アルテミスは娘たちに片腕を出し香油を塗り込ませていた。足下にも他の娘たちが侍る。そんな女神を興味深そうに、一切の敵意なく澄んだ瞳でレーニアは見つめている。

こちらにそんな気は無くとも、魔神というだけで神たちは嫌うものだから、いないわけではないが神族に知り合いは少ない。彼らの生活や社会に興味は尽きない。

初めは無視していたアルテミスだが、傍でじっと見詰められ、ちらりとレーニアを一瞥した。だが、すぐにまたふいと顔を背けてしまう。


「迷い子なのか捨てられたのか知らないけれど、お前は運がいいわね。…生まれはどこなの? 帰りたければ送ってあげてもいいし、捨てられたのならばここにいればいいわ。少なくとも、人間たちの世界より煩わしいものなどないわよ」


レーニアは口元に指先を添え、少しの間考えた。

確かブロンディアスは名乗る際に「西の森の」と告げていた。辛うじて覚えていた記憶を思い出し、レーニアは沈んでいく西日の方を指差した。

合っているかどうかは博打もいいところだったが、細い指が示した方向を見てニュンフェたちが少々ざわついた。どうやらその方角に、何かしら思い当たるものがあるらしい。


「まさか、あそこの村から?」

「そんな。変よ。だって…」


口々に隣の者と語らってから、誰ともなしに座しているアルテミスを不安そうに見上げる。

彼女はレーニアの指先を見詰めてから、冷たく唇を開いた。


「何故まだあの村に、こんなに若く美しい娘がいるというのかしら。若く美しい娘はみな捧げよと告げたというのに」


アルテミスの言葉に、娘たちはまるで自分たちが叱られたかのように縮こまる。

日が沈む方角にある集落は間違いなくブロンディアスたちの小屋に最も近い村だった。

愛する人間たちが自分たちの為にどこまで犠牲にできるか、何処に住まう誰が最も忠誠を持っているのかを比べる為、この辺りに住まう神々の間ではマステマの言った通り贄を出させるのが逸っていた。

「美しく若い乙女を差し出せ」という神託が下ったのは何もその村だけではない。アルテミスが気に入っている地域、または彼女を崇めている地域に同じように神託を下し、自分が抱えている人間たちの中で何処に住まう者が最も犠牲を払うのかを比較していた。後で他の女神たちとのいい話題になる。

彼女は贄が欲しいというより、勝負事が好きなのだ。そして、参加をするからには負けたくない。

だが、他の女神たちのように男の犠牲も含めて欲しいわけではない。男など、捧げられても困る。美貌があれば観葉植物のように眺めもするが、世話が続かない。せいぜい侍女たちニュンフェの玩具にするくらいだ。

人間たちはその殆どが素直に贄を出した。“若く美しい乙女”に該当する者は、贄として神殿や聖域の入口で祈りながら首を斬られて血を杯に注がれ、髪と生殖器を捧げられた。或いは、冷たい水中や熱い火の中へ祈りながらに身を投げたり、投げ入れられたりした。

斯くして、この森周辺の土地では、今現在“美しく若い乙女”は希な存在になった。

美しいと表現する程でなかったり醜女は残っているため生殖活動に問題は無いだろうが、今堂々とこの辺りでそれが生存しているとすれば、アルテミスから見て裏切りの種に他ならない。言い付けに背いて乙女を隠し、差し出さなかった土地があるのだ。それが、ここより西の集落だという。

話を聞いていた娘が、少しでも主人の機嫌を取りなそうと頬に片手を添え、やんわりと困惑顔で唇を開く。


「ですが…あの村は特にアルテミス様を敬愛していらっしゃいますわ。乙女たちを捧げるのも早うございました」

「あら。けれど後々には、隣の集落の娘も攫ってそれを捧げてもいたわ。自分たちの村の一番良い娘は最後に取っておくつもりだったのかもしれなくてよ」

「なら、本当にいなくなっていたのかもしれませんわね。数が尽きてしまったとか」

「そう言えば、最後の娘は随分泣き喚いていましたものね。アルテミス様はご覧にならなかったやも知れませんが、周りも手荒に扱っておりましたのよ。妙な感じはしました。今思えば、余所者であったのかも。…そうよ、確かこの娘と同じ年頃の」


ニュンフェの一人が、レーニアを掌で示す。

さわさわと娘たちは小さく笑った。うち何人かは、何かに気付いてレーニアの顔を覗き込む。


「そういえば、とても似ているかもしれないわ。近く見たわけではないけれど」

「では、あの娘はこの娘の身代わりにされてしまった余所者だったのかも」

「まあ…!アルテミス様が村の者を差し出せと仰ったのに、代わりを用意したというの? 村に乙女がいなくなってしまったのなら、そりゃあ他所の娘でもいいけれど、己のところにあるうちはそれを差し出すものだわ」

「そうね。だとしたらお怒りになって当然だわ。けれど咎めようにもあそこはもう…」

「あの集落にはもう行かぬ」


落胆や怒りを露わにする娘たちの中心で、アルテミスは目を伏せてきっぱりと告げた。

西の森の村。

今のレーニアとよく似た姿…プシュケロアを捧げられた祭壇は、彼女が捧げられた後で数人の男たちが殺されている。当時祭壇に来ていた男たちは神官や村の代表らであり、彼らのうち数名が殺害されたことによって村は統率者不在の状態になっている。

新しい統率者がいずれ立つであろうが、どのみち男の死体が横たわった祭壇になど、清められたとしてもアルテミスは二度と近寄りたくなかった。それほど重要な土地でもない。彼女の好きな場所は他にいくらでもある。

男の血が流れるのは嫌いではないが、少なくとも自分を奉る祭壇を汚されてはうんざりする。


「あの様に男の血で穢れた祭壇、誰が行こうか。たかが村一つ。捨ておきなさい」

「…」


レーニアは困ったような顔でアルテミスを見詰めた。

彼女の祭壇を汚したのはブロンディアスだ。妻を攫われ、捧げられ、助けに走ったが後の祭り。激昂した彼はそのままその場にいた数人に食って掛かった……のだろう、おそらく。

人間の少年であるブロンディアスには難しい行為のように思うが、人間、発狂すれば獣の如き力が出ることもある。レーニアはそれを過去に何度か見たことがあった。きっとそういうことなのだろう。


(しかし、困りましたね…。なら私は、贄だった少女、ということになってしまいます)


両手を前で組んで、レーニアが首を傾げ思案する。

もしかしたら、本来贄にされるべきだったからといって、自分を殺めようとしてくるのかもしれない。そうなっては流石に本来の姿を晒すしかなくなってしまう。死んだふりをしてもいいが、彼女たちには通じないだろう。

「私を殺しますか?」という心の中の問いかけが、察しのいい、神という種族のアルテミスにはすぐに気付けたらしい。ふ…と口元を緩めた。


「案ずることはないわ。出会い方というのもまた運命の一つ。お前の首を落とせとは言わないわ。座りなさい」


どこへ、とは言わなかったが、座る場所といえば彼女の隣に僅かに空いているスペースだろう。

殺めるつもりがないようなので、レーニアはぱっと表情を綻ばせて堂々と彼女の隣に座った。ついつい癖で、ぺっとりと隣に座る者の腕に両手を絡め、親しげに寄り添う。

レーニアの行動が意外だったのか、アルテミスはぱちりと瞬いた。それから、苦笑気味に笑う。

凜とした美貌から鉄仮面のような印象だったが、はにかんだように笑うととても愛らしい。

その笑顔に、レーニアはぴんと閃くものがあった。

図版で見ても実際に会ってみても、今まで彼女は知らない女神であった。けれど、この笑顔には見覚えがある気がする。


「無礼な娘だこと」


アルテミスの口から出る言葉はそんなものだったが、満更でも無さそうだ。

周りのニュンフェたちも意外だったのか、一瞬呆けた後で嬉しそうに周りを囲む。


「あの村ならば、もう戻らない方がいいわ。貴女はここで過ごすべきよ」

「アルテミス様が人間の娘を持て成すなんて、滅多にないことなのよ。感謝なさいな」

「でも本当にあの最後の娘に似ている気がいたしますわ」

「そうなの」


娘たちの言葉を聞いて、アルテミスはやはり興味なさそうに足を組み替えた。


「けど、捧げられた娘の顔なんて、一々覚えてなどいないし興味も無いわ。数だけ分かればいいのよ。私が競っているのは、乙女の数なのだから」

「…」


アルテミスの腕にうっとりと寄り添いながらも、レーニアは目を伏せた。

可哀想なブロンディアス…。

心の中でしみじみと思う。

他者を拒みはしないレーニアにとっては、相手が誰であろうとどんな者であろうと、まずは接して話を聞き、受け入れてから余程でない限り見捨てない。化けた自分に優しいニュンフェたちを嫌えるはずもなく、アルテミスという女神は想像していたよりも冷たい美貌の持ち主だが抱き締めたくなるくらいには愛らしい。その一方で、贄を定められた村の近くに住んでいたというだけで攫われ、不本意のうちに泣きながら捧げられたプシュケロアも哀れに思う。

だが、贄という制度があちらこちらにある以上、アルテミスだけが悪いという話ではないのでそこまで彼女を悪く思えもしない。

考え出したら切りがなさそうだが、そもそもレーニアの判断基準はそこではない。

“私の宿にお泊まりになったブロンディアスが可哀想”、だ。

レーニアにとっては全て二の次。宿屋を営む彼女の喜びは、宿泊客の心の安らぎ。

世には、縁というものがある。

誰に会ったか、いつ会ったか、何をしたか。偶然に見えて全てには何かしらの意味があるものだ。それが良い方へ向くのかどうかはまた別だが、無限の確率の中で、そのタイミングであったことにより、未来が動いていく。

自分の宿に泊まったのがアルテミスでもプシュケロアでもなくブロンディアスである以上、レーニアは彼の心を詰まらせているものを取り除くことが最優先だ。

宿の扉を直接開き一晩泊まるだけならば、夢の中で如何様にも理想を見せよう。だが、彼の場合は門の外で拾ってしまった。町の周辺で迎え入れた以上、特別客に違いない。宝石屋の時もそうだったが、誠心誠意、レーニアは特別客に寄り添う。

兎にも角にも情報は得られた。

ブロンディアスの妻であるプシュケロアは贄にされ、それを命じたのは間違いなく女神アルテミス。

しかし、彼女にとっては数こそが大事であって、捧げられた贄の個体などには何の興味も無い。気にも留められない“1”という数の為に、ブロンディアスは妻を殺されたのだ。彼の言う“指名”は無かった。であれば、恐らくその指名は村の者たちのでっち上げなのだろう。神託を受けた神官が歪めたのかもしれないし、話し合って決定されたのかもしれない。

例え直接見聞きしたと思っていることも、実際は情報というものは個人の元に届くまでに歪曲していることが多い。出来事の初めから終わりまで、目の前で起きていれば話は別だが、そんなものは数少ない。

つまり、他者と交わることの多い社会的生物たちは、本当の意味で信じられる事実など、世の中に殆ど無い。手元に来る事実は既に誰かの手垢付き。

複数の意思が複雑に絡み合い、悪意やら善意やらでぐちゃぐちゃに捏ね直されてそのくせ事実のような顔で目や耳に入り込んでくる。

どこまでが嘘でどこまでが真実なのか。そもそも真実とはどこまで遡れば真実なのか。

そんなことはとても考えていられない。疲れてしまう。

故にレーニアは、優先順位を設けた。自分の宿に泊まった方が最優先。その人物を助ける過程で、彼女は良いことも悪いこともするだろう。人が一人幸せになるということは、どこかで誰かも共に幸せになり、また、どこかで誰かを不幸にするということだ。

見渡せない全体を見るよりも、力になりたい一人を決めその者に寄り添う方がどんなに現実的か。

己の力を過信していない彼女は、自分の見渡せる範囲など一部であると思っている。一介の魔神が見渡せる世界など、高が知れている。であれば、腕の届く、見渡せる範囲を見ればいいのだ。

アルテミスやニュンフェの傍はとても居心地が良く、本来の目的も達成できたことだし、レーニアは楽しく時を過ごした。

それでいいのかと思わなくもないが、夜の帷が降りて乙女たちが少しずつ姿を消し、数人の侍女たちとアルテミスも休んだ頃に、彼女は大変機嫌良くふわりと宙へ浮き、悟られぬようその場から離れた。






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