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世界樹の傍の、Ⅳ  作者: 葉未
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旅人にして黄金の獣:ブロンディアス

誰しも生まれを選べない。

種族を選べず、親を選べず、環境を選べず、貧富を選べず、容姿を選べず、血液を選べない。

そうして、時代も選べない。

今のあなたも、きっとそうだろう。

あなたが神であれ魔神であれ人間であれ植物であれ、一体何を選んで生まれて来れたというのだろうか。

それとも、輪廻の輪を遊べる高貴なる誰かと約束を交わし、選んで生まれてこれたのだろうか。

可愛らしい全ての小さき人格たちは、一部の約束された者以外、何を選ぶことなく生まれてくるものだ。

雨を凌いで眠る場所と、明日の食事と身に着けるいくつかの装飾品。

それらを持っているのなら、あなたは今回、とても恵まれた環境に当たったものだ。

“今回”は……という話だが。

次回はどうなるか、それは誰にも分からない。

次回の特権を願うなら、あなたは今すぐにでも高貴なる誰かに会いに行き、気に入られる必要があるだろう。

若しくは、死に瀕した際に猛烈に何かを願うことだ。

心の奥から湧き出る、命を賭した呪いにも似た願い。

周囲のありとあらゆるものを犠牲にしてでも叶えたいと死に物狂いで願えるのは、結局、どんな者でも死に瀕したその一瞬だけである――。






若い男と女の兄妹がいた。

彼らが存在するからには両親と呼ばれるべき存在もあっただろうが、早々とゴミ捨て場に捨てられた彼らはその顔を知らないし、文字を覚えるまではその単語すら知らなかった。

何度か天国への門を見ながらも、二人は支え合って生きてきた。

幼い頃から他者と騙し騙されを繰り返してきた彼らは、人を拒んで森の外れに家を構えた。

男はやがて強盗や窃盗、死体漁りをするようになり、女は傷を作って帰ってくることもある男のために薬学を学んでいった。

成長した二人に特記すべきこと、それは美貌。

流れる金の髪、白い陶器のような肌。

陰の落ちる睫に細い四肢…。

仮に、男が財を漁ろうと死体の傍に立っていたとしても、その姿を見た近くの村の者は神の使いが死者を迎えに来たのだろうと噂され、女が水辺で薬草を採っている姿を見れば、水の精霊が表れたたと噂される程だった。

村の人々は彼らの姿を見かけた場所に、誰ともなく貢ぎ物を置くようになる。

主に装飾品と食物が多く、彼らの生活は貧しかったが市場になどは行かず物を売るという考えも乏しかった為、与えられた装飾品は使う以外に無く、赤貧の中で不釣り合いな装飾品により彼らはますます美しくなっていった。

男は女を愛していたし、女も男を愛していた。

幼い頃から互いしか信用できず、お互いがお互いをまるで我が事のように案じて大切にしていた。

彼らが人を愛するとしたらお互いしか考えられないような、辛い人生であったせいだろう。

今、彼らは幸せだった。

そんな日が何日か続いて、けれどやがて彼らがただの人間であることを村人が知ると、事態は一変する。

雨の少ない今年の村。

戦に負け続きの今年の村。

その地の豊作の神と戦の神は、どちらも女神だった。

「女神のお傍に使いを送り、慈悲を乞おう」

「女巫が御言葉を頂いたようだ」

「お気に召すような女を一人捧げるならばと。だが、先の贄で村の女は…」

「占では村の外れの方角が…」

――…。





ある日、愛する妹であり妻である女が待つ家に帰ると、中に迎える人影はなく、酷く荒らされていた。

顔面蒼白になって女を捜す男。

いよいよ暗くなり、村に助力を求めようと駆ける先……村のひとつ奥に見える高台、女神を奉る神殿に灯りが灯っていたことに気付いた。

村が近づくにつれ、太鼓の音が響く。

その音に男は全てを察し、全身で咆哮し、疾走した。

空気を震わすその怒声を聞き、祭に盛り上がっていた村の人々が振り返ればその胸に矢が刺さり、次々と倒れていった。

狩猟用の弓矢を手に、村を疾走して真っ直ぐ神殿に向かう男の四肢の装飾がシャラシャラと鳴り響く。

互いに当たる音が、まるで鈴の音のように死者の耳に残った。

金色の髪が後ろへ流れる。

男は奔った。

奔って奔って、山道を登り、祭壇を昇り、幾人も殺して矢が無くなれば死者から奪い、矢も尽きれば剣で斬りつけ、奔って奔って……。





「――プシュケロア!!」

悲鳴のような咆哮と共に、祭殿の扉は開かれた。

神官共がざわつく中、やはり幾人か殺し、男……ブロンディアスは拘束されている妹にして妻であるプシュケロアの左右にいた男たちを払い除けた。

彼女を縛る縄を切り、彼女の手を取って走り出す。

十数人が後を追ってはきたが、命からがら、二人は神殿より逃げ出せた。

家には戻れない。

彼らは手に手を取り合って、そのまま旅に出た。

どこまで行こうと構わない。

ただ、プシュケロアが無事で傍にいるだけで、ブロンディアスは幸せだった。

別の森に行き着き、その場所で再び暮らし始めることにした。

あの体から溢れ出るような怒りや他者から持ち込まれた一方的な悲劇を忘れられる程、穏やかに時は過ぎ、瞬く間に三十年の月日が過ぎた。

三十年経ち、若かった男は逞しい中年へとなろうとしていたが、女はいつまでも若々しく美しく、少女と呼べる姿と声だった。あの日助け出したその姿のまま。

ある夜、いよいよ、ブロンディアスは問うてみた。


「プシュケ…。君は、どうしていつまでも若く美しくいられるんだい?」

「あら、ブロン」


ベッドへ腰掛け、横たわるブロンディアスを穏やかに見下ろし、美しいプシュケロアは生まれたままの姿で愉快そうにくすくすと微笑しながら、手の甲でするりと彼の頬を撫でた。

そして――。




「「…ズイブンお目覚めが早いノね」」




「…!?」


男性女性複数の声が折り重なった響きが、よく知ったその笑顔から発せられる。

ぞっと双眸を見開いた瞬間、鳥肌を立てる間もなくベッドに横たわっていたはずのブロンディアスは落下をした。

がらがらと風景が下から崩れていく。

彼は太い悲鳴をあげながら、どこまでもどこまでも落ちていった――…。








【旅人にして黄金の獣:ブロンディアス】








「ひっ――!?」


びくっと全身が痙攣し、ブロンディアスの意識は一気に覚醒した。

跳ねた指先が再びシーツの上に落ちれば、直前の痙攣が夢であったことを察することができた。

絹シーツの手触り、柔らかなベッドと枕。

豪華な天蓋付きのベッドに周囲を取り囲む垂れる赤い麻布……を背に、一糸纏わぬ一人の美女。


「ふふふ。お目覚めかしら?」

「…!」


黒く長い髪に小さな顔、細い四肢と妖艶な肉体美。

そしてルビーのように赤い瞳。

傍に座る全裸の美女にブロンディアスはぎょっとして慌てて肘を着いて背を浮かせた。

丸みのある白い皮膚の上を、まるで水が流れるように黒髪が流れている。

現状を把握しようと反射的に右を向き、ここが大理石でできた広い部屋で、自分が寝ているこのベッドが見たことのないような広いベッドであることを知る。

まるで覚えのない王族の寝室のような部屋に驚いて再び無意識に美女へ視線を戻すと、そこにいた彼女は全裸ではなく露出の多い黒いナイトドレスを身に纏っていた。


「…っは! ……はあ、…は…あっ」


ブロンディアスは動悸が収まらぬまま、今見た彼女の裸体が自分の幻であったのだろうと慌てて顔を覆うつもりで、自分の両手を視界に収めた。

そうすることで彼自身の体も視界に収まる。

裸体であったのは彼の方だった。

腹と腰にかけ布が一枚かかっているだけで、自分の白く細い手足が見える。

若い肉体だ。

当然だ。成人はしたとはいえ、彼はまだ十代なのだから。

ブロンディアスはゆっくりと息を吐いた。

全身から脱力し、今度こそ顔を覆う。


「はあ…」

「ご気分はいかが?」


美女が彼を気遣う。

深呼吸を二度ほどして、ブロンディアスは顔を上げた。


「ああ…。大丈夫…です…」


夢に見た男性的な声は所詮夢だったようだ。

若くて張りのある美声が、彼の口から零れる。

ブロンディアスの礼に、美女は柔らかく微笑んだ。包容力に満ちた柔らかい微笑みに、一気に危機感が拭われていく。

敵意など全くないその言動に、自分は彼女に助けられたのであろうと彼は考えた。直前の記憶を思い出すよりも先に、直感でそれが理解できた。

改めて、部屋を見回す。

自分には全く縁のない、宮殿のような一室。

奴隷こそいないものの、例えばここに何人かの奴隷や召使いが並んでいたとしたならば、間違いなく目の前の美女は権力ある者に違いなかった。


「まだ日は昇っていません。どうぞまた横になっていてください。無理はよくありませんよ」


美女は優しく言うと、ブロンディアスの肩に手を置いてその体を横たえた。

されるがままに横たわり、ぼんやりと、彼は瞬きをする。


「僕は――…」

「貴方は、森で倒れていたんです。私はレーニアと申します。何も心配しなくていいのですよ。起きたらお話を聞きますから、まずはゆっくりお休みなさいな」

「――…」


睡魔を与える声でレーニアが告げると、ブロンディアスの瞼はじわじわと重くなっていき、ついには彼の琥珀色した瞳を塞いだ。

規則的な寝息が聞こえると、レーニアは膝立ちになりベッドの端へと腰掛け整った両足を下ろしてヒールへと通した。


<三十年かあ…。思ったよりも採れなかったじゃねえか>


ポン…!と、軽やかな音を立ててレーニアの目の前に黒い兎のマーヤが現れる。


「そうですねえ。人間の雄ですから、できれば生殖機能が終わり果てるまでは搾り取りたかったところですけれど…。仕方ありませんね。どうせ終わり頃は渋みが強くて生命は殆ど含まれていませんもの。まあ味が良かったので、良しといたしましょう。やはり生命は存在した直後が鮮度もいいですし一度に食せて楽ですからね」

<生命の種もいいけどね、俺は肉がいいよ>

「皆さんは肉が好きですねえ。効率が悪いと思うのですけど。生気と精子の方が美味に感じます」

「趣味悪っ!」

「おやおや。大人の味覚ですよ。それに、人間の女性も、生命の種を食すことがお好きな方もいるんですよ」

「うえ。…つーかウソだね。そんなんもう魔神じゃねーか」

「んー。確かに肉塊も召し上がりますし、そう言われると…」

「気色悪ぃ」


両耳を愛らしく動かす使い魔の様子に微笑して、レーニアは立ち上がった。

両腕を軽く開くと、どこからともなく黒い布が飛んできては女体である主の丁度良いサイズを取ってその腕に絡む。

黒い布を羽織った腕の先を宙に向ける。

優雅な彼女の指先に誘われて、唐突にその場所へ空の小瓶が現れた。

そのままレーニアが指先でその小瓶を示していると、まるで瓶の底から泉が沸きだしたかのように、こぽこぽと白い液体が溜まっていき、やがて瓶は一度も蓋を開けることなくいっぱいになった。

手で瓶の底を撫でるようにすれば、小瓶は言い付けを守る可愛い飼い犬のように律儀に主人の部屋から消えて地下の倉庫へと戻る。


「さて、それにしても…」


挙げていた片腕を下げ、レーニアは部屋を見回す。

大理石の四面と床に天井…。

少々冷たい感じがするが、石造りの建物に好感を持っている彼女はとても気に入った。

彼女が経営する宿屋の部屋には、宿屋である以上勿論ランクがある。

だが、その部屋が常に同じとは限らない。

泊まる人物によって部屋の家具や雰囲気は全て変ってくる。宿泊客のイメージと本来の部屋のランクによって夜毎に構築されるのである。

それについてレーニアが意図的に変更をすることもできるが、結局、人は使い慣れていたり住み慣れていたり見慣れている部屋や環境でこそ寛げるものなので、彼らのイメージを尊重することにしていた。

例えば、今当にブロンディアスが横たわっているこの部屋は“一等室”だ。

ブロンディアスがイメージする“最も良い部屋”の構造を取っていることになる。

彼女にとって、宿泊客は皆愛する恋人である。

愛しい人に接するようにが基本だが、時には求められるまま母のように、弟のようにも振る舞える。宿泊客の求める心の安らぎがどこにあるかという話だ。


「懐かしい感じがしますね。昔住んでいた場所の建築物にそっくりです」

<何処のことだい、そりゃ。あちこち移り住んでるくせによ。何処だってこの城を持ってってるじゃねえか。それが今は宿屋だっつーんだから…。…ったく。“魔城タキオン”がしょぼくれちまってよ。城も主がクソだと哀れなもんだぜ>

「タキオンだからこそ、最上級の宿が営めるのですよ。私が出会った中で最も素晴らしい城が、このお城ですもの。…ねえ、タキオン?」


城主……もとい、この大それた宿の主は合わせた両手を可愛らしく頬の傍へ添え、にこりと天上を見上げて微笑んだ。

勿論、何ら反応は無い。マーヤは時々この上司を本気でドアホなんじゃないかと思う時がある。


「私の住まいはここですけれど、風景として見てきた建物があるじゃないですか。この石造り。素敵ですねえ」


赤く染まった爪先で、うっとりとレーニアはベッドの傍にある金の水差しを撫でた。

そのまま持ち上げ、横にあったグラスに水を注ぐと優雅に手にし、宙を漂うマーヤを振り返る。


「この方は本当に美しい方ですね。人間の雄では珍しい姿形です。奥様もとても愛らしかったですから、可能でしたらどちらも頂きたかったものですね」

<女は殺されてたじゃねーか>


マーヤが愛くるしい無表情のまま告げる。

レーニアは水を一口飲むと、そうですね…と頷いた。

夢を見る種族というものは限られているが、レーニアは他者の夢の中を訪れることができる。

人の夢というものはまるで異空間のようなもので、常識が一切通じない。

突然シーンが切り替わることもあれば、そもそもぐねぐねと蠢いて定まらないこともある。支離滅裂なことをしたりされたりすることもあれば、理論整然と日常生活と変わりないこともある。

“夢の中に入る”ことを能力的にできる者はそれなりにいるのだろうが、大抵はふわふわと滑り込むだけで、そんな定まらない環境を平然とハイヒールで実物質をそうするようにカツカツ歩けるような者はなかなかいない。彼女は変わり者に属する。

そんな彼女は支離滅裂で安定しない他者の夢の中であっても、本来の力を発揮して影響を与え、自由に夢の内容を書き換えることもできる。

先にも述べたが、彼女にとって、宿泊客は皆愛する恋人である。

この町の者は別として、宿に泊まった者には心安らぐ一夜を約束したいと思っている。

つまり、理想的な夢を見せることを積極的に行っているということだ。

金持ちになる夢、満腹になる夢、潔く死ぬ夢、愛する人やそうでない後腐れ無い理想の相手と絡み合う夢(因みに、同時に食事もできる為、レーニアはこれを最も好んでいる)…。

宿泊客は毎晩数人訪れる。目の前に横たわるブロンディアスのように肉体をもって訪れる者は実は希で、精神だけで泊まる者も多く、肉体共々訪れたとしても直接部屋に現れることが多い。最も多いのは、精神だけで客室にやってくる者だ。大部分がこれに属する。

レーニアは宿に泊まる全ての客の人格に片手を差し伸べては相手の理想を読み取り、実際に客が見ている夢を把握して、よりよく創り直すことを繰り返していた。

この作業を同時に複数手抜き無く完璧に…しかも、彼女自身がその場にいなくても的確に行える――というだけで、使い魔たるマーヤが日頃苛々している理由が何となく分かりそうなものだ。

この事実から、彼女の有り余る力と魔族としては残念なその性格を見抜いて欲しい。

今夜、一等スイートに泊まるブロンディアスの夢も、レーニアは創り上げていた。

「あの時、助け出して二人で逃げて、美しい妻と幸せに暮らす」…という彼の理想を創り上げるのは彼女には朝飯前であるが、その願いの中にある“美しい妻”というものがいつまでも若々しく美しい方がいいだろうと考えてしまうのは、年齢とは無縁で生きている種族たちの悪癖ともいえる。

人間という種族に限れば、「美しい伴侶と幸せに暮らす」という願いはよく見かけるが、「伴侶と共に幸せに老いる」という願いはその実あまり見かけない。

彼らに年齢が無いわけではないのだが、老いに対する感覚が乏しいのでどうにもズレが生じるのだ。愛する者は若々しい方が良かろうと思っており、実行できてしまう。

ブロンディアスが見ていた本来の夢では、駆け込んだ祭壇には妻の生首があった。

血は抜かれて器に盛られ、体は心臓を取り出され、首の横に飾られていた。そこで彼は絶叫し、寝汗で濡れた身体を起こす……というものが予め決められていた彼の悪夢なのだが、レーニアはそれを軽やかに変じた。

そんな悪夢は哀れでならない。この宿に泊まるからには、ゆっくりと夢や理想を楽しんでもらいたい。

変じる前の悪夢を知っているマーヤは、女はその通り殺されたのだろうと考えている。

つまり、ブロンディアスの見聞きした記憶を基にした悪夢を見ていたのだろうという話だ。実際、夢を見る者たちはその時間を記憶の整理に当てていることが多いため、本人が知っている景色や知識でイメージできる映像しか流れない。

希に全く知らない知識や情景が夢に現れることもあるだろうが、だとしたらそれは脳が持っている記憶でなく魂の方の記憶かもしれない。とにかく、“何かしら覚えがあるもの”のはずだ。

マーヤの意見を聞き、レーニアは静かに頷いた。


「確かに、そうかもしれませんね。奥様を無くされてしまうなんて、可哀想に。…まあ、起きたらお話を聞きましょう。迷い込んでしまったのなら無事に戻れるようにしてあげなければいけませんし、この町にご用があるのなら相応しい方にお通ししてあげないと」

<腹減ったよぉ~!>

「おや…。言ってくれればさっきあげましたのに」


後ろ足を前に突き出して宙で丸くなるマーヤの様子を見て、レーニアは再び片手を上げた。

壁や床といった障害を無視してキッチンがある方角へ向け人差し指で招くと、音もなく彼女の指先に小さな平皿と先程詰めた白い液体の入った瓶が現れる。

独りでに皿に注がれるミルクのようなその液体から顔を背け、レーニアは可愛い使い魔を振り返った。


「どうぞ、マーヤ。お飲み」

<あのな、何度も言うが俺はお前と違って生命の種よりゃ肉が好物なんだよ>


呆れた声でマーヤ。

ベッドに横たわっているブロンディアスの上へと飛んでいくと、その場でくるくる円を描くように飛び始める。


<コレ!コレが喰いてえの、俺は!>

「本人の希望も聞かずに食べるなんていけませんよ。マーヤはそんな不良ではないでしょう? 我々の最低限のマナーですよ、それは。品格を落としたら位が落ちてしまいますよ。いずれはマーヤも爵位を頂いて立派な魔獣になるかもしれませんから」

<爵位なんざいらないね!どーせもうもらえねえし!>

「まあねえ。確かに今は私たちには不要ですけれど。例え無くても、立派な心構えは欲しいところですね、魔神として。…さ、おいで」


わあわあと主張する黒い兎に軽く腕を伸ばすと、ぶうっと兎の声で鳴いてみたり舌打ちしてみたりするが、何だかんだと言いつつマーヤは催促を諦めて主人の腕の中に収まった。

赤子を抱えるように丁寧に抱かれた黒い兎は、レーニアの白く大きな胸にぺたりと前足を置いて耳を上下させる。


<番が死んだんなら、死ぬだろきっと。自殺しようとしていたから森にいて馬野郎に轢かれたんだろ。きっとそうだ、そうに違いねえ。だから俺はコイツを喰うぜ!>

「はいはい。そうだといいですねー」

<俺に喰われた方が痛くねーし、いいだろ>

「はいはい。そうですねー」


兎を抱いたままレーニアはドアへ向かい、白い液体を湛えた小皿がそれに続く。

彼女がドアを開ける必要はない。手で開けることもあるが、それは彼女の気分の問題だ。

大体の物体は彼女を遮る力を持たない。今は可愛い使い魔を抱いているので、彼女の両手は塞がっている。

宿泊客のイメージが創りだした、開けるのに重そうな石の扉の向こうへ、まるで水を通るように彼女と小皿は消えていった。








ブロンディアスが目を覚まし、空腹に気付いて部屋を出ようとした時間が正確にはいつ頃だったのか、それは誰にも分からない。

レーニアが朝を招けば、従順なこの元魔城は窓から差し込む光を受け入れる。

一階のロビー横にあるバーカウンターでグラスを磨いていたレーニアは、気にかけている宿泊客の美しい少年がいつ起きてきてもいいようにと、町の朝市に出てわざわざ複数の町人に、世間話序でに人間の体に良い食べ物について聞いて回ってきた。

まずその種族が人間らしいということで主に人間である町人に聞いてみると、お粥やハーブティ、パン、ワイン、スープと様々な返答が返ってきたので、言われるがままに購入して言われるがままに調理をしてみた。

基本的に細かい作業が嫌いではなく、しかもセンスの良いレーニアは、初めて聞いたレシピでも特に問題なく作ることができた……が、いつまで経ってもブロンディアスが降りてこない。

どうしたのだろう、けれど体調が優れないうちに無理に起こしては……と首を捻りつつ玄関前の花壇に水をあげていると、たまたま宿の前を音楽家の一人が通りかかった。

朝の挨拶の後、「最近の宿の景気はどうか?」という世間話を受けたので、ぼちぼちですねと答えた後に昨夜倒れていた少年を介抱して宿屋に泊まらせていることを伝えた。

宿屋を営むレーニアがどんな種族に対しても友好的で面倒見が良く、困っている様子であればすぐに自分の宿に連れてしまうのは町人の中では有名な話なので音楽家も驚くことはなかったが、「そろそろ起きてもいい頃なのに部屋から出てこない」という話を伝えれば、彼は困惑気味に恐る恐るとう調子でレーニアへ告げた。


「失礼だがレーニア。君は今、“石造りの部屋”と言ったね」

「ええ。彼の部屋はそうでしたねえ」

「扉も石でできているのでは?」

「まあ、詳しいですね。その通りです。とても厚みがあって大きくて、立派な扉でしたよ。彫り細工もとても素敵で細かくて…」

「それで、だ…。それは、人間の少年に開けられるものだったのかい?」

「…開けられるもの?」


レーニアはジョウロを手にしたまま、首を捻った。

彼の言っていることが分からなかったのだろう。

音楽家は続ける。


「つまり、だ。私の故郷ではね、石の扉とは美術品の一つだったのだよ。腕力のある大男がそういった扉の左右に控えていたものでね…。扉を開けるという役割の召使いがいたのだよ。子供や女は元より、力のない男でも重い扉は開けられないからね。もしも、私の故郷と似たような建造物であるのなら…」

「…。あら…」


漸く察したレーニアが、とても女性的に指先を口元に添えて瞬いた。

傍で聞いていたマーヤが、半眼で脱力する。


<まさか出られねえとかいうんじゃねェよなあ…?>


その可能性はとても高い。

レーニアはジョウロをぽいと宙へ捨てて、ついと指先を動かし用具入れの方角へ送った。


「大変。ありがとうございます、音楽家さん。たまにはお泊まりにいらしてくださいね。貴方のことを、いつだってお待ちしていますよ。ご一緒に良い夢を愉しみたいものです」


アドバイスをくれた音楽家に投げキスをし、彼が真っ赤になる顔を見る前に、レーニアは急いで宿の中へ戻ると腿に張り付くナイトドレスの裾を片手で持ち上げ、階段を上がっていった。マーヤがそれに続く。

ブロンディアスが泊まった部屋は上階に位置するが、忠実なこの元魔城は、階段を上がるといういかにも一般生活らしい動作を好む主人の気持ちを尊重しつつ、フロアを一階登るだけで目的の階の廊下へ繋がるよう配慮した。

実際に自分が何階登ったかではなく、その階に敷いている絨毯の色で階を見分けているレーニアは、たった一つの階段を登っただけで目的の階であることを察し、そのまま急ぎ足で突き当たりの部屋へ進む。

宿の部屋は、外から見れば極々普通の木造のドアだ。

金のノブを握って引くと、木造らしからぬゴゴゴゴ…!とそれはそれは重い音を立てて、石造りの感触でもって扉は開いた。

開いた隙間から細い体を滑り込ませると、中は勿論外見に不釣り合いな広い豪華な一室。

奥のベッドに項垂れるようにして頭を抱えて座っていた少年の姿を見て、レーニアは申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。

片手でドレスの裾を持ちながら、ベッドへ近づく。


「ああ…。ごめんなさい、ブロンディアス。私ったら、察しが悪くて」

「…! 貴女は昨日の…!」


レーニアの姿を見た途端、ブロンディアスは安心したように両手を顔から離した。

自由になった彼の両手を、レーニアが優しく握る。ブロンディアスもそれに応えるように彼女の手を握り返すとベッドから立ち上がった。

長い金の髪がさらりと流れ、両手両足の金の飾りがシャラリと鳴る。

だがその表情は些か陰っており、喜びと悲しみが同席していた。


「扉が開かなかったのですね。鍵はかけていないので、貴方の気持ちが落ち着けば出てきてくれるだろうとばかり…。本当にすみません」

「ああ…。僕は貴女を昨晩夢に見た…。では、あれは夢ではなく現実だったのですね。それならば、僕はやはり生きてい――…」


昨晩、自分を介抱してくれた女主人。

包容力と気品に溢れたその姿を見ただけでほっと安堵し現状を把握しかけたブロンディアスだが、彼女の後ろで少しばかり開いた部屋の扉を――…。


<こんくらいの扉、開け閉めできなくてどーすんだっつーの!>


――空飛ぶ黒い兎が、小さな小さな前足でべしっと石造りの扉を叩いて閉めた。

ガンッ…!と勢いよく扉が閉まる。

自分が押しても引いても叩いても斬りつけてもびくともしなかったあの扉を、黒い兎が前足で……。


「…」

「どうしたのです?」


瞬きも忘れ、双眸を見開いてレーニアの肩越しに扉の方を見ていたブロンディアスの顔から、またさっと血の気が引いていく。

ここはどこで、今見たものは現実か否か。

それまで彼が見知っていた常識とあまりにも懸け離れていたため、どうやら心のブレーカーが落ちてしまったらしい。

この町に来る旅人は、どこかのタイミングで大体そういった経験を一度はするものである。


「…! ブロンディアス…!?」


ふわ…と花が一片花弁を落とすかのような儚さで、美しい少年は再びベッドへ倒れ込んだ。








再びブロンディアスが目を覚ますと、今度こそ扉は開いていた。

部屋の扉をくぐれば、一気に見慣れぬ木造の建物でたじろいだが、自分を捕らえようとする奴隷や兵士の気配がないと分かれば、恐る恐る廊下へと足を踏み出した。

周囲を伺いながら歩を進め、階段に足を掛ける。

主人がこの若い宿泊客の目覚を待っていることを承知しているので、魔城は階段をショートカットし、すぐに一階フロアへと空間を繋げた。

一階フロアへ降りれば、横にあるカウンター内側にレーニアがいた。

何か書きものをしていたようだが、階段をゆっくり降りてきたブロンディアスに気付けばペンを置いて前屈みになっていた背を正す。


「あら。お目覚めになったようですね」

「すみません…。さっきは…」


シャラン…と足首の金飾りを鳴らせ、階段を降りきったところでブロンディアスは足を止めた。

歩み止めた彼の代わりに、レーニアがカウンターの横から外へと出てくる。


「いいえ、気にしていませんわ。疲れていたのでしょう。魘されていましたからね」

「…。あの…助けていただいて、ありがとうございました。僕、ブロンディアスといいます」


夢の中で三十年共に連れ添ったレーニアからすれば彼の名前は既に身に馴染んでいる。

しかし、初めて聞くような様子で、彼女はふふと微笑した。


「響きが素敵なお名前ですね。少し豪華過ぎる気がしますけれど」

「あ…はい。不釣り合いなのは分かるのですが…。両親の顔は知りませんが、名だけは僕も妻も、両親からもらったものだそうで…」

「まあ、素敵。私は…」

「覚えています。レーニア様」


少年は精一杯という様子で、控えめに名を覚えていることを主張した。

名前を覚えていることを告げると、義務は果たしたとばかりに身を乗り出してレーニアに問いかける。


「あの、僕はどこで貴女に助けられたんでしょう。記憶が曖昧で…。あれから…あれから何日経っていますか?」

「貴方を助けたのは森の中。貴方を助けてから一晩経っています」

「ひ、とば…。…ああ。やっぱり」

「どうぞお座りになって」


青い顔を両手で覆うブロンディアスに、レーニアがゆったりとフロアに広がるソファの一つを促す。

片腕でソファを示し、もう片方の腕で少年の後ろ腰を取り、導かれて少年は座ったことのない革製のソファへ腰を下ろした。

革製のソファ、見たことのない細工の木工テーブル、ステンドグラス、高い天井…。

周囲を見回し、やはりここはただ場所ではないと思ったブロンディアスは、全身に緊張を奔らせながら隣に腰掛ける黒衣の美女を見詰めた。

彼の妻はとても美しかったが、黄金色だった。それと対照的な黒き美しさ。

そもそも、少年は“黒色”という色に馴染みがなかった。彼の文化では布をこれ程深く染める技術は明けていない。

突然見慣れない場所で介抱され、見慣れない光景をいくつも目にした。

だからこそ、神の御殿に招かれたのだと素直に信じられるくらいに、少年の時代には神々や精霊が身近に存在していたのだろう。当初レーニアが予想していたよりも随分落ち着いて、少年は腰掛けた。


「貴女は……女神様ですか?」


素直にそんなことを尋ねるものだから、レーニアは口元に片手を添えてくすくすと微笑する。


「女神ではありませんよ。私は宿屋を営んでいる宿の主ですよ」

「…宿屋?」

「ええ。貴方を見つけたのも、実は私ではありません。ですが、ここにはベッドがたくさんあります。介抱には打って付けというお話で、私の宿に運び込んだというわけです」

「宿屋…。そう、ですか…。女神でない…――」


一呼吸置くと、ブロンディアスは安堵半分落胆半分という複雑な顔で頷いた。

一気にその顔を憂いが曇らせる。

彼らにとって、“神”は万能だ。仮に目の前の美女が女神であるのなら、きっと自分は気に入られて助けられ、お気に召してくださったのであれば願い事も叶えてくれるだろうと当たり前のように思う程に。実際、そういった人間は彼の時代に何人もいた。

だが、“女神ではない”と言われてしまえば、それはつまり自分の願いが叶わないという話になってくる。落胆したのはそれで、安堵したのは神という高貴な者に対する緊張が解れたことだろう。

女神ではないらしいが、どのみち目の前にいる女性はただの富豪というわけではなさそうだ。精霊なのか何なのか分からないが、とにかく普通の人間ではない。彼にしてみればほぼほぼ“女神”だ。

レーニアも苦笑する。


「まあ、貴方にとっては女神みたいなものかもしれませんけれどね」

「…」


ブロンディアスは相手の正体を探りつつも、直感的に自分に害を為す者ではなさそうだと知れ、ひとまずは安心した。

安心すれば、後は後悔だ。

一晩経ってしまっているのならば、儀式は終わり、妻はもうこの世にいないだろう。

…いや。もう手遅れであったことは分かっている。けれどせめて亡骸だけでも奪い去りたかった。情のない村の連中に葬られるくらいなら、その前に、何としても救い出してあげたかった。

耐えていた涙が、ぽろり…と彼の目からクリスタルのような輝きで溢れ出る。

彼は再び両手を顔で覆って背中を丸めた。


「…っ、ごめんなさい、僕…っ」

「構いませんよ」


俯く少年の視界に、折り畳まれた黒い清潔なハンカチが差し出される。

少年は有難くそれを受け取って目元に押し当てた。

だが、少年の視界に入らないよう、彼の背後に気配なく浮いているマーヤが妙に鋭い双眸で少年を見据えている。


「何かお飲みになりますか? まずは落ち着いて、それから話を伺いましょう」

「……はい」


この宿屋の中にある物を従わせるのに指先一本で事足りはするものの、流石に宿泊客の前で万能を見せつけるつもりはなく、また“無駄な日常運動”というものを尊く思うレーニアは、優雅に席を立ってフロアの端にあるバーカウンターの方へ向かおうと背を向けた。

途端に、少年が顔から布を外し、ソファから勢いよく動いた。


「――っ」


細い皮のベルト。その腰に提げられていた鉄の小さな剣。

細い枝を切る時や火を起こす時、または小動物を開く時に使用するだけのそんな小さな刃物でも、斬る気になれば勿論人は斬れる。

いや、刺せる。

爪先に力を入れ弾かれたように動いた少年は、涙の残る目を見開き、何の躊躇いもなく剣を構えるとレーニアの背中へぶつかった。


「っ…!」


どんっ…!と体当たりのような当たり前の衝撃。

衝撃に息を詰まらせるレーニア。不意打ちだった。

刺されて一二秒は、寧ろ体当たりの衝撃を強く感じ、刺された右脇腹に痛みは無かった。

やがてじわじわと、レーニアが表情を曇らせる。ちくりとした痛みの後で、じんじんと体中に痛みと熱が広がっていく。

驚愕した瞳で振り返り、背中にぶつかってきた金髪の少年を見据えた。


「貴方…。どう、して…?」

「黙れ!朽ちろ、血で濡れた天災が!!」


先程の汐らしい様子とは別人のように鬼気迫る気迫で叫ぶと、少年は剣を抜いた。

刺された場所へ片手を添え、レーニアが苦悶に表情を歪めて床に膝を付く。


「っ…。く…」

「…っ」


顔を顰めて蹲るレーニアの姿に、少年はよろりと一歩後退した。

人を刺したことが無いとは言わない。だが、無抵抗の相手の、しかも女の不意を突いたのは初めてだった。

そのことを考えまいとするかのように苦しむ彼女の姿を凝視しながら、口を一文字に結んで自らを守るお守りのように凶器である剣を握りしめる。


「どうせお前だ!お前なんだろう!? お前が人間だなんて嘘だ!例え違ったとしても、金持ちなんて死んでしまえばいい!!金持ちも神も、全員滅びてしまえ!!プシュケの…妻のかた――!?」


剣を握りしめながら叫ぶブロンディアスの目の前に、弾丸の速さでヒュッ…と黒い塊がどこからか飛んできた。


<こぉんのっ……クソ野郎ォッ!!>

「っ…!」


一瞬、深紅の双眸と目があったが、その塊がくるんっと回転したかと思う間もなく次の瞬間には小さな後ろ足に蹴飛ばされ、ブロンディアスの体はフロア端まで真横に吹っ飛ばされた。

バンッ…!と酷い音を立てて軽い少年の体は石造りの壁に背中を強く打ち付け、膝が彼の体重を支えきれずにずるずるとその場にへたり込む。

黒い塊…勿論、マーヤである…は小さな体で勝者の吐く荒い鼻息を一度吐くと、ちらりと後ろを振り返った。


<なぁにが“く…”だよ。ぶわぁかか!>

「あら…。だってせっかく、私のことを殺したそうでしたから、一度くらいはと…」


使い魔の悪態に、苦しんでいたはずのレーニアは何事もなく素直に身を起こした。

赤いマニキュアの映える手で、するりと傷口であるはずの脇腹を撫でる。剣は確かに彼女の体を刺したが、その傷はもう無い。

一瞬服を汚した血の色も漆黒のドレスに見えなくなってしまうのだから、もう彼女が傷を負ったという事実は殆ど見えなくなってしまった。目視で確認できないことはどんなに理論整然としていようとも、その瞬間を抜け出してしまえば、結局本当の意味で事実とは認められないものだ。

彼女を肉体的に傷付けることは簡単だが、ダメージを与えるとなるとその実とても難しい。


<付き合ってやる義理はねえだろうが!いいか、剣を向けるってのァ敵意の表れなんだよ。喉噛み切って殺しちまえ!>


マーヤはレーニアの周りを一周すると、左の肩に前足を置いた。

表情は無いが、カチカチと歯を鳴らし、全身の毛を逆立てて随分距離の開いた場所で力なく横たわっているブロンディアスを見据える。


<どうだ。もういいだろう。あのクソガキを俺に喰わせろ!>

「まったく。どうしてマーヤはそう血気盛んなのでしょうねえ…。いいじゃないですか、ちょっと剣で刺すくらい。元気なことが分かって安心しました」


ふ…と踊るようにレーニアが黒いヒールを履く足を進ませる。

深く入ったスリットから、見惚れる程白い腿が艶めかしい。

一歩一歩、確かめるように近づいてくる音に、横たわるブロンディアスは恐怖で震えていた。

気絶をしそこねてしまった。遠いが、意識があるせいで全身に響く痛みも分かるし己がたった今何をしたのか、何を相手取ったのか、分かってしまっていた。

嘘泣きの涙の後、吹き飛ばされた際の衝撃で飛び出た生理的な涙。そこに恐怖で零れる涙が混ざる。

殺される。

殺される…!

唯一愛した妻の復讐も出来ぬまま、殺される…!!

全身に鳥肌が立ち、痺れが奔る。

――この瞬間。

この瞬間、ブロンディアスという少年の切願が、彼を取り巻くように一挙に広がった。

死に直面した意思ある生物が唯一無二の強さで願える瞬間。

視覚に捉えられない後悔、未練、嘆き、絶望…。そういったイメージの気が、まるで呪詛のように少年の体を中心に積乱雲のように膨れあがって取り巻く。

言葉を持つ動物たちは既に相互の意思疎通に言葉を選んでしまったため失ってしまった能力であるが、こういった形無きイメージは本来他者に伝わるものである。

勿論、神魔などは容易く、しかも鮮明に感知する。


「…へえ?」


傍まできたレーニアは、それらを感知して急に歩みを止めた。

“心からの願い”というものはとても珍しいもので、良いものであれ悪いものであれ、それらは本物であればそれだけ強く神魔の人格へと訴えかける。何故なら、本来彼らもまた気にて相手を知る種族であり、また人間相手ともなればその分見返りが大きいことが予想される。

動植物が繁殖をその存在の意義とするように、神魔や精霊もまた力ある眷属を増やすことが本能だ。性行為という確かな繁殖で子を成すことが希である以上、目の前に強く願う者があり、己の因子が合いそうならば、助けてやらない手はない。

もっとも、レーニアの場合はそんな下心なく普通に人助けのことが多いのだが、初対面ではそんな優しさなど分かろうはずもない。

背中を打ち付け動けないブロンディアスは、荒い息を吐きながら怯えた双眸でレーニアを見上げている。

そんな彼の目先に、ひょいと彼女は屈み込んで膝を抱えた。


「貴方、女神がお嫌いなのね?」

「…っ」


無邪気にそう問いかけ、ブロンディアスは唇を噛み締めた。

嫌いにならないはずがない。憎まないはずがない。

この宿に招かれ、自分に優しくしたところで、そう短時間に女神になんてほいほい会うはずもない。ブロンディアスは目の前のこの黒衣の女こそが、神殿に奉られている女神であろうと考えたのだ。

たまたま妻は贄とされ、自分のことは気に入ったのであろうと。

妻と自分の関係性など、この女は知らぬのであろうと。油断したところを殺してしまえと思った。

だが…。


「女神が嫌いなら…」


面白そうに力ないブロンディアスを見下ろしていたレーニアの黒いショールが、それまでの大きさを無視して不意に左右に巨大な蝙蝠の翼の如く広がる。

マーヤが巻き込まれぬよう一度彼女の体から離れた直後、大布はバサリと音を立てて屈んでいたレーニアの体を包んだ。

だがそれも一瞬で、彼女の周囲を包んだかと思いきや、すぐに布は左右に開く。

そして、開いた布の中にいたのは――。


「男神なら…仲良くなれますかね?」


そう言って、黒衣の美しい青年は朗らかに微笑した。

女体の時に胸に隠れていた銀のネックレスが、高い金属音を立てて左右に揺れる。

途端に男性の姿に転じた目の前の存在を、ブロンディアスは驚愕の瞳で見据えた。黒衣の青年は実に耳に優しいテノールで穏やかに言葉を紡ぐ。


「貴方は寝てばかりですね。…さあ、起きて」

「ひ…!」


男性の姿をした宿の主人が軽く腕を上げながら立ち上がると、ブロンディアスの体はまるで何かにつままれるように宙へと浮いた。フロア上空から上等の椅子が飛んできて、その宙浮く椅子に丁寧に腰掛けられる。

いくつか骨が折れているらしい少年を気遣うような優しい滞空を維持したまま、レーニアは片手を腰に添えた。


「マーヤ。契約書はありますか?」

<ヒハハハッ!準備はいつだってできてんぜェ!!>


ぽんっ…!とやはり軽やかな音を立て、マーヤの左右に羊皮紙とペンが表れる。

姿だけなら前足で鼻先を押さえる仕草の愛らしい兎の隣で、レーニアは少年へ尋ねた。


「ブロンディアス。貴方は、どうやらある女神を殺したい程恨んでいるようですね。私の宿に一泊してくださったのも何かのご縁…。良かったら、私が貴方の復讐のお手伝いをいたしましょう」

「て、てつ…だい…?」

「今さっき、貴方は死を覚悟したでしょう? 願いも果たさず死ぬなんて、そんなの損だと思いませんか? どうです。その覚悟、私が買いましょう。どうせ捨てるのならばその煌めき、私に見せていただけませんか。散り際は華やかな方がいいでしょう? その代わり――」


マーヤの左右に浮いていた羊皮紙とペンが、ブロンディアスの目の前に流れてくる。

羊皮紙の向こうに、赤い目をした黒い兎と、赤い目をした美青年が優しく穏やかに彼を見ていた。


「貴方がご希望の女神殺し…。及ばずながら私も助力いたしましょう」












一休みして午後になり、レーニアはブロンディアスを連れて街に出た。

宿の門から噴水前の広場を見ただけでも口を開けて呆けていたブロンディアスだ。あれこれと見せては彼の頭がオーバーヒートしてしまいそうに感じたレーニアが馬車のベルを鳴らし、いつもはあまり呼ばない御者の馬車へと彼を乗せた。

ガラガラと引かれる小綺麗だが小さな馬車は、それでもブロンディアスの興味を惹くものであったらしい。ぎくしゃくと緊張を崩さない面持ちで始終強張っていた。

見慣れないものに抱くのはまず恐怖心。

彼の反応はいたって普通だろう。


「レーニア様…。ここは、神の園なのでしょうか…」

「ん?」


ブロンディアスの斜め前に擦れ違うようにして座っていたレーニアが、端整な顔でにこりと微笑する。

ブロンディアスも相当な美貌であるが、隣にレーニアがいてしまえばその美しさは些か色を落として特別なことでもないように見える。

男性の姿を取ったことで一気に身長も高く見上げるようになった黒く美しい魔神を、彼は畏れながら尋ねる。

「女神殺しに協力する」という話の流れになってから、ブロンディアスはレーニアに多少気を許すようになったらしい。

少なくとも、自分が殺したい女神とは別の者だということが分かったのだろう。

それから、他の神に会ったことがないとはいえ、目の前の黒い魔神が“変わり者”の部類であることにも何となく気付いたはずだ。

神々からの好意は有り余る恩恵だ。受けるに限る。

そう判断したのかもしれないし、目的の為ならば手段を選ばないと決めたのかもしれない。

マーヤに蹴り飛ばされ、体内の骨も筋肉もボロボロだったブロンディアスだが、その細く脆い体は契約書にサインをしたと同時にまるで嘘のように健常に戻った。

簡単に壊れるということは…できばえはさておき…簡単に直せるということだ。

今残っている肉体に傷一つ無い以上、さっきの一騒動はまるで幻だ。

だが、それを幻と思えない恐怖心が、今も強くブロンディアスの中に残っている。

故に、彼は目の前の宿屋を敬い、付き従うことにした。

ブロンディアスの質問に、レーニアは緩く腕を組んで応える。


「神の園というと語弊がありますが…貴方からはそう見えるかもしれませんね。ですが、様々な方がお住まいですよ」

「例の女神もここにいるのでしょうか…!?」

「いるかもしれませんし、いないかもしれません。まずは貴方の探す女神を特定しないことには、どうにも動けませんね。世の中の全ての女神に牙を立てるなんて、あまりに無謀ですからね。逆にいえば、名前さえ分かればいいわけです」

「髪の長い女神です。丘の神殿に奉られていて、時折その場に降りては巫女に神託を…」


ブロンディアスは彼なりに必死に女神の特徴を述べようとするが、生憎どれもあまり役に立つものではなさそうだ。

彼を落ち着かせ、レーニアは甘く諭す。

立てた人差し指を口元に添え、悪戯っぽく微笑んだ。


「そういう調べ物をするのに、打って付けの場所があるのです。何事も、プロフェッショナルにお任せするのが一番ですよね」


ガラガラと馬車は晴れた町中を進んでいく。

大した距離でもない。

目的の場所は、外れとはいえ町中なのだから。

穏やかな町を暫く歩き、二人は目的の場所へ出た。

目の前に建つ壮大な白亜の建物は、ブロンディアスには神殿にしか見えなかった。

故に、到着した場所は彼の想像通りの外装をしていた。

厳かな大理石の白い建物。町の建物はレーニアの営む宿のように…実際にその内部がどうかはともかく…そこまで大きな建築物は少ないのだが、町の中でも特に大きく威厳があるような気がした。

入口に至るには左右対称に開いている石段を登らねばならず、当に雲の上の神殿へ至るように見えた。

ブロンディアスは狼狽したが、レーニアは彼のことを待たずに石段を登っていく。女体の時と比べれば主張の控えめな腰の黒布が、風と彼の動きに合わせて揺れる。

随分離されてしまい、追わなければと思うのだが足が竦んで動けない。

そんなブロンディアスの背後に、ぽんっ!とマーヤが現れると、まるで狼のような呻り声を喉から出した。

グルルル…と命の危機を感じるその声に跳ね上がったブロンディアスは、その声の正体を見ぬまま逃げるようにようやく石段を駆け上った。

数段登ったところで振り返れば、黒くて小さな赤目の兎が、読めない表情のまま、けれど露骨にふんと鼻を鳴らして再び消え失せた。

一瞬呆けたものの、追っていけと言われているようで、彼は急いでレーニアの後を追って再び駆け出した。

階段を登り切ると、大きな木造の扉があった。

両開きのそれは真上を見上げるほど高く、繊細な彫刻がされている。

その扉の右下には、二メートル程の人が出入りできる実用的な扉が小さく縁取られていたが、レーニアはそれを無視して、女体の時とは違う黒いマニキュアのある指先で、つ…と巨大な扉の合わせ目に触れた。

軽く押せば、ギィ…と若干の軋みを響かせ、木造とはいえ重さのある巨大な扉が難無く開く。


「着いてきてください」


中へと踏み込むレーニアに続いて、ブロンディアスも建物の中へと足を踏み入れた。

何があるのかと怖々としていたが、そんなのは扉を越えるまでであり、踏み込んだ先に広がる光景への驚愕が恐怖を軽々と飛び越えた。薄く口を開け、呆けて建物の内部を見上げる。

床から天井まで、壁という壁が本棚になっており、サイズの等しい書物がびっしりと建物内部を覆っている。どっちを向いても、本、本、本…。

レーニアの宿と違い、神殿のように見えた外観と実際の内部にさして差はなさそうだ。建物内は相当に広く、天井は高い。天井にはエデンを模した西洋画とエキゾチックな格子細工が組み合わされており、その下には巨大なシャンデリアが煌々と建物内を照らしている。

中央部は吹き抜けになっているが本がびっしりの壁際は三階建てになっているようで、端に螺旋階段があり、本だなの前には人が二人通れる程のスペースが二階部三階部の本棚前に回廊のように突き出ている。

こうして遠目に見れば、様々な色をした本の背表紙はまるでモザイクの壁紙のようだ。

玄関から入った彼らの目の前には、まるで王を守る騎士たちのように左右に分かれて均等の間隔を置いて茶色いアンティーク調の机と椅子が並んでおり、それらの間にできあがった道の先には円形のカウンターらしきものがある。


「ブロンディアス、こちらですよ。見慣れないのは分かりますが、はぐれないでくださいね」


立ち呆けるブロンディアスに、肩越しに振り返ったレーニアがそう告げて微笑む。

慌てて後を追って足を進めた。

机と椅子が見守る中を、先に見えるカウンターを目指して真っ直ぐ進む。


「…ここは?」

「“図書館”という場所です。知識の森ですね。…おや。ご婦人がいらっしゃいませんね」


見れば分かるどころか気配でも分かるだろうに、わざわざカウンターの傍にやってくるとようやくレーニアは小首を傾げてそう判断した。

無人の円形カウンターの内側にはいくつかの文具と飾り気のないこの建物の玉座があるだけだ。

片手をカウンターに乗せて残念そうに告げたレーニアの言葉に、ブロンディアスは背後からそっと尋ねる。


「…ご婦人とは?」

「“建物”には“主”がいるものです。どこにでもね。いないとしたら、可哀想なことです」


そう言ってウインクをすれば、レーニアはカウンターにあった銀のベルを押した。

チーン…!と涼やかな金属の音が、静かな図書館の中に水紋のように広がる。

ブロンディアスは改めて顎を上げて見上げたが、人の気配はない。

これだけ広い建物だ。いくら響きがいいとはいえ、こんな小さなベルで気付けるものなのだろうか。今の所、足音もなければ人の気配もなかった。


「…不在でしょうか」

「開館時間ですから、そんなことはありませんよ。主殿はすぐにいらっしゃいますから、少し待ちましょう。…ですが、もっと早くお越し頂きたいならば…こうすれば」


そう言って、レーニアは近くの本棚の一つを優雅に示した。

彼の腰に巻いてあった布がひとりでにするりと解け、まるで従順な蛇のように伸ばされたその腕を手首まで進んでいくと、その手を離れて示された本棚へと向かった。

シュル…と本棚の端を上まで登っていったかと思うと、上の方の金具へ細長い片方を巻き付け、次の瞬間には――。



――ガターン!! バサバサバサー!!



情け容赦なく本棚が手前に倒れた。

驚くブロンディアスを気にもせず、役目を終えた布は鳥のようにばさばさと羽ばたいて主人の腰へと戻ってくる。


「もっと早く来てくださいますよ」


何事もないような穏やかな顔をしているレーニアたちの耳に、足音が聞こえてきた。

忙しない足音は当然だろう。

ブロンディアスがはっとしてその場に膝を折ると、相手の姿が見える前に頭を床に添えて平伏した。

やがて、血相を変えた一人の女性が顔を出す。

長い黒髪にタートルネックに足首までのロングスカート。レーニアと同じく全体的に暗色の女性だが、同じ黒でもこちらは挑発的でもなければ幻惑的でもなく、誠実さや生真面目さを主張している。

そのスカートではさぞ走りにくかったであろうが、空を飛べない彼女は彼女なりに必死に駆けつけてきたようだ。二人の姿を見て、少々ずれていた眼鏡を指先で支え直した。

片腕に二冊の本を抱えているところを見ると、作業中であったのだろう。


「一体何事だっ……!レーニアか!?」


レーニアの姿を見るなり、図書館の主にしてこの町の“司書”であるアレクは即断で彼が犯人であると決めつけた。

大変良い勘だ。…いや、経験上培われた判断かもしれないが。

やってきた司書の姿を見て、レーニアは嬉しそうに笑顔を見せた。


「ほら、いらっしゃいました。アレクを呼ぶにはベルよりこちらの方がよっぽど速い。こんにちは、アレク。お久し振りですね。貴女はなかなか私の宿にも酒場にもお越しにならないので、今日はお会いできて嬉しいです」

「呑気に挨拶をしている場合か!ベルを鳴らせばいいだけだろうが!」


悲惨なことになっている本と本棚を見て、司書は憤りを隠せない。

元々穏やかな性分であるが、管理を任されたものを不用意に乱されれば憤って当然だろう。


「おや、鳴らしましたよ。けれど、一秒でも早く貴女にお会いしたくて」


微笑しながら徐に近づくと、レーニアは男性的な仕草で恭しく司書の手を取ると甲へと口付けた。


「よくもまあぬけぬけと…。ちゃんと元に戻してもらうぞ!」

「勿論ですよ」


立ち上がると同時に再びレーニアの腰から黒い布が、今度は数枚離れていく。

大きくなったり細くなったり、変幻自在に姿を変えては、それら数枚の布はせっせと崩れた本棚を元に戻し始めた。…が、迷い無く並べていく本の順番が正しいかどうかは怪しいものだ。

司書は遠い目でそれを見ていたが、妥協したらしい。

溜息を一つ吐いてから改めて目の前の男を見た。


「…まあ、確かに久しぶりだな、レーニア。そちらの方は?」


ちらり、と床に平伏しているブロンディアスを見下ろす。

少なくとも町人でないのは明らかであるし、第一宿屋であるレーニアが連れてきたのであるから宿泊客の可能性が高い。

レーニアは人好きで親切な質ではあるが、宿泊客を宿から出て共に町を歩くことは希なので不思議に思ったのだろう。

彼女の質問に、レーニアは掌でブロンディアスを示した。


「ああ…。ご紹介します。こちらはブロンディアス。今、私の宿にお泊まりになっているお客様です。…ブロンディアス。こちら、この建物と知識の主、我が町の司書、アレクです」


こちら、と言われても勿論ブロンディアスには見えない。

びくりと肩を震わせ、ますます頭を床に擦り付けるだけだ。どうやら司書のことを、この荘厳な神殿にお住まいの位高き神であると思っているらしい。

司書は跪いている美しい少年の前まで歩み寄ると、膝を抱えるようにしてその場にしゃがみ込んだ。ますますブロンディアスが萎縮したのが分かったので、ゆっくりと優しい声色で告げた。


「初めまして、ブロンディアス。私はアレクシア=マドック。この図書館の司書を務めている」

「……に、西の…森の、ブロンディアスと申します…。天にお住まいの方にお会いできて、光栄に思います…」

「ははは。ブロンディアス、安心してください。アレクは貴女の嫌いな女神ではありませんよ」

「女神? とんでもない!」


レーニアの言葉に驚いて、司書は親しくブロンディアスの肩に片手を添えた。


「ブロンディアス、顔を上げてくれ。私はただここを任されているだけの人間にすぎないんだ」

「人、間…?」


その言葉に今度はブロンディアスの方が驚き、恐る恐るという様子でそっと頭を浮かせた。

目の前にいるのは、彼から見れば奇妙な髪と目の色であり奇抜な衣をまとっているが、確かに神々しいさや威厳からくる圧力のようなものはレーニア程感じられない。

司書の視線を避けるように、彼は傍で立っているレーニアを見上げた。


「…あの、レーニア様。この町には神々や精霊だけではなく、人も暮らしているのですか?」

「あら。私も“人”のつもりですけれどね。…ふふ。ええ、そうですよ」

「君は神話の時代から来たのか。ならば間違えるのも無理はないが……こんなガサツな女を捕まえて女神はないだろう」

「おやおや。ガサツだなんて。少し大らかなだけですよ。貴女の実に良き長所だ」


冗談めいて言う司書の言葉を、素早く軟派めいた言葉でフォローするレーニア。

慣れた彼の言動を、司書は呆れた様子で見た。


「物は言いようだが、まあいい…。ブロンディアス。君はここに何を求めに? レーニアが客を表に出すことなど、滅多にないぞ」

「え、あ…」

「資料捜しですよ。…ねえ?」


レーニアが座しているブロンディアスに片手を差し伸べ、やんわりと立ち上がらせながら言う。

立ってみても、さほど身長が高くはない彼は司書と同じくらいだった。

憎しみを向けてぎらぎらとしていた当初よりは随分と落ち着いたようで、ぐっと幼さが際だってきている。そしてそれは、面倒見の良い司書と向き合うには良い材料となっている。


「は、はい…。神の名を知りたくて」

「神の名を調べに来たのか。それならば確かに私の領分だ」


司書は頷き、ロングスカートの中から小さなメモ帳とペンを取り出した。


「それはどのような神なのか教えてくれるか?」

「女神らしいですよ。美しいようで」

「お前に言わせれば、殆どの人物は美しくなってしまうだろうさ」


ブロンディアスの背後に立って、保護者気取りで肩に手を置いているレーニアの発言を、司書は歯牙にもかけない。

改めて本人に優しく問いかけた。


「君はその女神が嫌いなようだが」

「…」


司書の言葉に、ぐ…とブロンディアスが唇を噛み締め、その表情には影が差した。

目に見える変化をすぐに察し、司書は軽く制する。


「ああ、すまない。無理に答える必要はないよ」

「ブロンディアス。神々に対して悪態を付くのを気にしなくていいのですよ。彼女は信頼のおける人物ですから」

「……。嫌い、です。…いえ、憎んでいます!」


にこにこと背後からの言葉を得て、漸くブロンディアスが口を開いた。

悲痛な声で断言し、ぐっと拳を握って俯く。


「あいつは、私の妻を殺した!それだけじゃない、女子供を次々と…。極悪非道な…血も涙もない奴だ!」

「…なるほど。辛い思いをしたんだな。…ふむ」


辛そうなブロンディアスの様子に、それ以上司書は問わないことにした。

その代わり、ペンを持った片手の指を顎に添え、改めて目の前の少年を観察する。髪と瞳、肌の色、身に着けている衣や装飾品、指の爪の形から素足まで。

身に着けているものや今までの喋り方などから、漠然とした時代や地域を検討付ける。

人間がその短い一生の間に動ける範囲など、高々知れている。例え世界中を行き来できる時代から来たとしても、現に世界中行き来してあらゆる土地の文化を身に着けている者などいない。

どんな種族も、自分とは違う文化を知ってそれを自らの生活に取り込むのには時間がかかるし、完全には取り込めない。その人物が身に着けている衣や言動は物言わぬ判断材料。

まして彼の生きていた時代なら比較的簡単に検討付けられそうだ。

…とはいえ、彼の生きていた時代は動ける範囲は狭いが、神や魔神たちも随分堂々と活動していた頃であるし、知識が豊富な分、司書の頭の中には多くの神々の名がリスト化されてしまっている。

もう少し絞る必要がある。


「思い出すのは辛いことかと思う。しかし情報が足りない。その女神のことをもっと教えてくれるか? 名前は?」

「その名が分からないというのです。彼の住んでいたところでは、神は“神”とだけで、お名前まではあまり広まらないのが普通のようで」


失礼極まりないとばかりに小さく息を吐き、レーニアが軽く片手をあげる。


「情報といえば、女神であることと、美しいこと。あとは…奉りごとが際だつのは謝肉祭の時だと言っていましたね。獣の生け贄がお好きらしいですよ」

「はい…。私は集落にいたわけではないので分かりかねますが、特に猟師に崇められていたようです。奉りごとの際、神官と一緒に神殿に必ず参列していましたから…」

「美しい女神…謝肉祭…。猟師にあがめられている……とすると“アルテミス”だろうか」


話を聞いていた司書は、ペンを走らせる手を止めて早速候補の名前を出した。

出された名前で反応があるかと思ったが、ブロンディアスもレーニアも反応はぼんやりしている。


「アルテミス…」

「うーん? 何だか聞いたことがあるような気がしますねえ…」

「かなり有名な女神だ。狩猟と貞潔を司る。後に月の女神とも呼ばれるようになった」


司書は呆れ半分で主にレーニアに告げた。

どう考えても彼が知らないはずがないのだが、どうやら覚えが無いようだ。

他人事のように軽く頷いて、レーニアは頷いた。


「そうですか。もしかしたら、会ったことがあるのかもしれませんね。…ブロンディアス、どうしますか。ひとまず彼女に会いに行ってみましょうか?」

「…! できるのですか!?」

「神に会いに行くのは、人間よりも楽なのですよ。絞りが簡単なのでね。会えば貴方が探している女神かどうかは分かりますからね。違っていたら、また探せばいいだけの話です…アレク、因みに彼女の絵などはありますか? 姿形が分かると彼の判断材料になるかもしれません」

「今持って来よう。少しだけ待ってくれ」

「助かります。よかったですね、ブロンディアス」

「は、はい…!」


司書がその場を離れて、どこぞへと姿を消す。

この膨大過ぎる知識の杜を把握できているのは彼女だけなのだ。任せるのが一番良い。適材適所が根付いているからこそ、この町は恙なく営んでいける。

間もなくして、再び司書は二人の前に現れた。

一抱えする大きな本を抱えている。

レーニアは手伝おうと腕を差し出したが、彼女に拒まれた。ベル代わりに本棚一つを倒すような輩に、必要以上に本に触れて欲しくないのだろう。

彼女はそれをカウンターへ置くと、ゆっくりと厚い表紙を開いた。

どこかで見たような見てないような古今東西の神々の姿が収められている。それらの殆どは、画材は違えど絵であった。


「この図版が最も一般的な彼女の姿を表しているな。少々大きいのが難点だが」


そう言って、司書はあるページで指を止め、改めて本を開いた。

左右のページにはそれぞれ女神が描かれているが、彼女が示すのは右のページの女神だ。

足を組んだ半裸の姿だ。青と白を敷いた大きめの石に腰掛けており、背後には繁った太い木が彼女の玉座を飾るように生えている。小鳥が数羽、従うように傍の枝に留まっており、足下に薄い灰色の毛並みを持った狼もいる。

半裸の女神の足下に狼というのが妙に不釣り合いな気がしたが、よく見れば木の幹には弓矢が立てかけられていることに気付けるだろう。

色の薄い金髪は結い上げられており、キャラメルを薄めたような瞳の色は一見穏やかそうに見えるが眼差しは強く、好奇心旺盛な猫を思わせた。


「…私の知っている姿とは少し違いますが、似ているような気もします」


飛びつくように図版に近寄ったブロンディアスだが、結果といえば思案顔だ。

似ているような気がするし、似ていないような気もする。

当然だ。万物は常に化ける。勿論、神々も同様だ。

尤も、動植物程化けることは少ないが。人間や動物などは、生まれた姿形と死ぬ時のそれはまるで違う。神々などよりよっぽど姿が定まらない。

必死に凝視するブロンディアスと、彼によく見てもらおうとする司書。

二人の後ろで、レーニアが興味深そうに片手を顎に添えて、司書の肩から図版を覗き込んだ。


「おや…。綺麗な方ですねえ」

「何しろ愛と美の女神と美しさを競ったくらいだからな。…一応、ほかにそのような女神がいないか調べておこう。もし違ったのなら次に当たれるように」


そう言って、司書は本の傍を離れるとカウンターの内側に入る為に、カウンターをぐるりと回った。


「ありがとうございます。…しかし、あまり血はお得意でないような気もしますけれど、本当に彼女なのでしょうか」


そんな彼女を視線で追ってから、レーニアは改めて図版の女神を見下ろした。

豊満な肉体を惜しげもなく晒している。きっちりと結い上げた髪は美しく、優雅に座って従える動物に囲まれ木の陰で休んでいる様子はいかにも“お嬢様”という感じだ。

レーニアは首を傾げる。


「ブロンディアスの話を聞いていましたから、狩猟好きの血に飢えた闘技の女神とばかり」

「いや、この女神は苛烈だぞ」


不思議そうなレーニアの言葉に、カウンターの内側から機械を操作しながら司書が応える。

どこか呆れたような顔には「何故知らない?」という文字がありありと浮かんでいた。全知全能の者など世の中には数えるほどだ。神でも魔神でも全知でも全能でもない。

来館者の知識の幅が狭いからといって馬鹿にするようなことを司書は本来その使命に賭して行わないが、今回のケース、仮に対象がアルテミスだと仮定するとレーニアの元々の存在時期と重なっているはずである。

時期が重なっているのであれば、こんなにも有名な女神を知らないでいられるはずがないのだ。本来は。

しかし、現実にレーニアの方で覚えは薄いらしい。整った美顔と優しい目元で、彼は司書の方を見た。


「そうなんですか?」

「別に見ようとして見たわけではない男を鹿に変えた。彼はその後アルテミスの連れていた猟犬に食い殺されたそうだ。相当な男嫌いで、万が一男に裸なぞ見られようなものならそれはもう大変な報復を与えていたからな」

「…! はい、僕の知っているその女神も、いつも狼のような犬と女たちを従えております…!」

「男嫌い?」


今まで図版に齧り付いていたブロンディアスが、司書の言葉で勢いよく顔を上げる。レーニアもその横で少し驚いたような顔をしていた。

ひとまず旅人優先で、司書も機械を操作していた手を止めた。


「ああ、それならばほぼ間違いなさそうだ。彼女は猟犬と処女のニュンフェたちを従えているそうだからな」

「なるほど、処女神ですか。それは強い女神のはずですね。しかし男嫌いとは……おかわいそうに」


彼にしては辛そうな顔で、レーニアは図版の女神を指先で撫でた。


「それでも、猟犬と乙女を従えている方々は他にもたくさんいるような気がしますけれど…」

「だが、ブロンディアスがいる地域を支配している女神で、猟犬とニュンフェを連れ、猟師たちが特に崇めているというのは彼女だ。可能性の高いところから当たるというのなら、私としては、やはりまずアルテミスを推しておくよ」

「なるほど。それならば決まりですね。ひとまず、この方から当たってみましょうか」

「アルテミス……か」


ブロンディアスの双眸に、暗い影が灯る。

彼の周辺の空気が、ゆらりと蜃気楼のように一瞬揺らいだが、人間である司書はそれに気付くことはできない性質だ。

揺らいでいる空気に、レーニアが腕を伸ばす。

背後からぽんっと陽気に両肩を叩かれ、ブロンディアスは驚いて前屈みになっていた背筋を伸ばした。瞬間、周囲を漂っていた揺らぎが霧散する。

振り返ると、美しい青年姿であるレーニアが、見つかって良かったとばかりににっこりと穏やかに微笑した。

ブロンディアス自身も相当な美少年のため、他の同性の美しさに圧倒されるということは彼の人生で殆ど無かったが、目の前の魔神は中性的な自分とはまた違う男性的な優しい魅力で溢れている。

何となく気圧されし、ブロンディアスは肩を竦めた。

彼の肩に両手を置いたまま、レーニアは再び司書へ顔を向けた。


「ところで、この女神はどの辺りにお住まいでしょう? 何となく地域は分かるのですが…。あれですよね、ほら。ぽっかり海の水が溜まっているあの丸いあたり?」

「…どこだ、そこは」


司書が眉を寄せる。

レーニアの世界地理把握は適当過ぎて全く参考にならない。

神々はその殆どがローカルの場合が多い。自分のテリトリーがしっかりしているし、生まれた場所をあまり離れてしまうと力が弱まることもある為だ。故に自分のテリトリー周辺以外の地理が弱いのが一般的である。

だが、レーニアの場合はどちらへ赴いても力が弱まることが無い。その為世界中を旅していたのだが、ワールドワイドになるとこれはこれで漠然とした地理把握になってしまうようだ。湖と海の違いがピンと来ない。どれも底があり小さいか大きいかで陸の縁がある水たまり。

結局、地理の把握にマメなのは渡り鳥と人間ということになる。町でこの関係の職業についているのは大体これらの種族だ。

地理歴史を尋ねられることもある“司書”という仕事もまた、人間である今の司書がやるのが適任なのだろう。

機械を操作し、レーニアは手元から顔を上げた。


「そうだな、彼女は山野で狩りを楽しむのが常らしいから……それに最初の狩りをしたのがオリンポス山付近らしい。確かなことは言えないが、いる確率は低くはないと思う」

「オリンポス…。ああ、何だかそれも聞いたことがありますね。地図もお借りして宜しいですか?」

「もちろん。少し時代が違うが、これがいいだろう」


司書はイスを立つと、広々としたカウンターの内側に山のように積まれている書物や巻物などから目的の周辺地図を取り出し、レーニアへ手渡した。

いそいそと広げている彼の横で、ブロンディアスが不安そうな顔で彼を見上げる。


「オリンポスは神々の山…ではないのですか? レーニア様がご存じないというのは…」

「私は親しい友人が少ないもので」


不安そうな宿泊客に、レーニアがさらりと答える。

風変わりな爵位の低い魔神など、オリンポスの神々が相手にしようはずもない。逆もまた然りだが。


「神々が坐す天上のオリンポスではないんだ。地上にもそう呼ばれる山が存在している。同じ名であるから時代時代の神も気に入り、よく赴くようだ」


司書の言葉に、ブロンディアスは納得した。

尊敬の念が生じる。このような神殿に近い立派な建物と多くの書物を司っているのは、自分より少し年上の女性なのだ。彼にとっては彼女もまた、神に似た存在に思えた。圧倒的な知識や技術を持っていれば、尊敬は自然に出てくるものだ。

レーニアと二人で話をするより、司書がいた方がぐっと自分にも理解できる範囲が広がる。違う種族よりも同じ種族の方が理解への道筋が共感しやすいものだ。人間にいきなり魔神の感覚と共感せよと言われても、土台無理な話だ。

しかし、対象の女神がよく来る場所が地上にあるというのなら……。


「私でも行ける山ということですね」

「ああ。…何をしようとしているのかは知らないが、気を付けていくといい」


絞り出すような一言に、司書は表情を引き締める。

何となく予想はつくが、協力を求められない限り、利用者のプライバシーには踏み込まない。これもまた司書の責務のひとつだ。

…が、その横でレーニアがブロンディアスとは対照的な明るい雰囲気で微笑する。


「ええ、助かりましたアレク。それじゃあ、また。貴女もたまには私の宿にお泊まりになってくださいね。お待ちしています」

「礼を申し上げます」

「ああ。またな、ブロンディアス、君に幸あらんことを」


貸し出された地図を片手に、二人は図書館を後にした。





※司書アレク嬢とのやりとりシーンでは、『世界樹の傍の、Ⅲ』の作者・結城嬢に協力して頂き、アレク嬢の受け答え発言は彼女にお考え頂きました。感謝を申し上げます。

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