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世界樹の傍の、Ⅳ  作者: 葉未
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宿屋:レーニア・レイン=ソムニュムー

貴方が幼児期を脱し、肉体と精神の成長が顕著になった頃か、若しくは魂の伴侶に出会うことなく肉体の愛を持て余していか、はたまた理想とは程遠い愛のない日々を送っているのなら、夜は秘めやかな時間である。

ごっそりと欠けた何かを補修しようと、夢や幻が動き出す。

他者を排したその時間に独り色事や想像に耽ることがあるのならば、貴方の属する種族に雌雄があり、単体で快楽を得ることよりも二者や複数で快楽を得ることが通常である場合、夜分に独り色事へ耽るには常に少なからずの想像が必要となる。

貴方にその経験があるのなら、貴方は彼に会ったことがあるはずだ。

瞼の裏に、若しくは脳裏に、恋い慕う者の姿を写したその相手は、誰であったのか。

本当に恋い慕う者であったのか、今一度思い出すべきだ。

貴方の想像の中に生まれた相手は、貴方の理想通りに動き、言葉を掛け、現実に存在している恋い慕う者以上に、貴方へ微笑んでくれはしなかっただろうか。

貴方は彼に会ったことがあるはずだ。

そう、淫らな想像を得た以上、貴方は彼と抱き合ったことがあるのだろう。理想を抱いてイメージした以上、貴方は彼女と時を過ごしたはずだ。

否定するのもいいだろう。

だが一個人の主張など、事実の前では意味を成さない。

貴方は彼と会ったことがあるだろう。






いつの頃からか、彼は“淫魔”と呼ばれ始めた。

夢魔とも呼ばれることがあったが、そのうちに淫魔で固定してしまった。

一体何故なのだろうと、彼は陽気に考えた。

色事が好きなのは、何も自分だけではない。

快楽を良きこととして楽しめ、余計な道徳が他の意思ある生物社会より少ない分、神や魔は殆どが自らに素直だ。

本来、彼は淫魔と呼ばれる程特別に色事が好きな訳ではないが、とは言え人並みに趣味としていたし、彼の古き血の性質上、気を吸収しなければ餓死してしまう。

だが気の中で発情中のものに甘みがあり単純に好みで、必然的に回数は多くなるというだけだ。それも珍しいことではない。味でいうのならば、死を間近に控えた生物の死気が好みという方が、よっぽどの悪食である。

好みあるというだけで、それでなければいけないわけではない。空腹が過ぎればそこを歩いている通行人からで吸い尽くせる。

そもそも“食欲”という必須行動が興味深く見過ごせない。

地上の動植物も神魔族も精霊も、基本的にはわざわざ自ら生成できずに栄養を体外生物や体外物質から取り入れる。そうしてどうあっても他の種族との関係をつくらせる。

ああ、そんなことがなければ、万物は争いもなく己のみで他者など、他物など必要とせずに生きていけたのに。

生命とは本当に面白い。彼は万物を愛しているし、万物を成り立たせている万理を敬愛している。

であるのに、ついた通り名は“淫魔”。

何故そう呼ばれ始めたのか、彼自身は長い間考えていたが、ある日友人になった時計屋に一言、こう言われた。

「それは君、君が殊更に温厚であるからだと思うよ」

彼はこれが実に気に入った。

そう、魔であるはずの彼は、魔族…若しくは魔神族…の中で殊更に温厚であった。

殆どのことに興味が薄かったといってもいい。変わり者の部類であった。

しかし、結果的にそれが破壊や悪徳に繋がることを避け、実に温厚な、そして実に下等な魔としての地位を安定させた。

彼の陽気さと風を流すような飄々とした態度には他のどの魔も呆れてしまって、もっとしっかりと役割を果たしなさいと注意に来た同胞も上司も、結局は強く伝えられないうちに帰っていった。

彼は魔であるが、花を愛して太陽を愛し、夢と理想を慈しみ、性愛と情愛を明確に区別しながらもそれらを適度に愛した。ついでに少し食事を嗜んだ。

それ故に、特に地上に住まう人間が、親子であったり兄妹であったり主従であったりと、社会的に愛し合いうことを許されない関係である者たちが自分の名を利用することに対して、特別腹を立ててもいなかった。

相愛者たちの力になるのならそれも良い。

だが、狼藉者による強姦にまで名を利用されるのは些か不愉快だったため、その時ばかりはその地に恥は残すまいと、強姦した者もされた者も殺してしまうことが多かったが、それ以外は温かくもなく冷たくもなく、興味もそこそこに傍観していた。



“淫魔”は謂わば通り名だ。

では本来、彼は何を司る魔であったのか。本当に彼は今のままでよいのか。

それは貴方が心配することではない。

他者がいくら忘れても、彼自身は自らが司るべきものを明確に覚えている。

しかし彼は殊更に温厚であるから、司るその力を発揮するよりも、晴れた日に庭で、経営している宿の全ての部屋のシーツを一斉に洗って、横一列にぶわーっと干したり、客が如何にリラックスして過ごせるかを考えることの方が好みというだけだ。

貴方が一生に一度入れるかどうかの高級な店でマナーを気にしながら緊張して食べる一流シェフの味よりも、最寄りのラーメン屋で食べるラーメンや餃子の方が好きであったりする、それと何ら変わりなく、一つの好みとして彼は宿の仕事の方が好みなのだ。



だから例えば、貴方がその宿に泊まったとして、出迎えた彼…或いは彼女…が宙に浮いて足を組んでいたり、彼女…若しくは彼…の影に角らしきシルエットがあったとしても、何も怯えることはない。

彼…或いは彼女…は、貴方に最高の慈愛を与えてくれる。

貴方は彼女…若しくは彼…にそれはそれは持て成される。これは本来、有り得ないことだ。

その宿で眠れば、貴方が余程の悪人でもない限り、必ず良い夢が見られる。

目を伏せて、何もかも忘れて理想的な夢を見るのがいいだろう。

ゆっくりと、心を休めるのがいいだろう。

愛することは決して悪ではないし、愛されたいと願うこともまた同じだ。

たった一人よりも、可能であれば多くの者を愛し愛されたいものだ。

それでは何故、多くの者との愛の営みは多くの土地で悪しきものとされるのか。

あながたこの問いに明確に答えられる者を知っているというのならば、彼…又は彼女…の元へ連れるのがいいだろう。




【宿屋:レーニア】




真の欲望は、常に夢の中に現れる。

例え悪心を持たずとも、道徳や良心などという束縛がなければ、貴方はもっと自由であれたはずだ。

貴方が卑猥と呼ぶ夢が見たくなったら、いつでもそこを訪れるといい。

理想的に乱れ、理想的に堕ちなさい。

適度な淫乱や想像は寧ろ健康的である。

貴方はいったい、誰に、いつから、そんな重々しい鎖をつけられているのだろうか。

目の前に開く宿の扉を開けなさい。

貴方に権利があるのなら、何も難しいことではない。

ポケットから金の鍵を取りだし、穴に差し込み回すだけだ――。




挿絵(By みてみん)




「ああ…。良い天気…」

朝の風に長い髪を遊ばせて、レーニアはゆったりと呟くと目を伏せた。

黒く長い髪と同じように、黒く長い睫に影が落ちる。

数秒間目を伏せて呼吸を繰り返すと、正面に広がる、今さっき干したばかりのシーツの壁から洗剤の香りが鼻孔を擽る。

穏やかな春の空。快晴の朝の下に広がる白いシーツたちを遊び道具に、風たちは彼女の周囲を流れていく。

それらを感じてから、彼女はゆっくりと目を開けた。

妙齢の女性だ。熟女と呼ぶには若さが残り、若いと表現するには躊躇い、少女と呼ぶには幼さが足りない。“女性”という表現が最もしっくりくるだろう。

黒い髪に真紅の瞳。左目下の小さな黒子。長身で豊満な肉体を隠したいのか晒したいのか、袖は長いが、酷く襟の開いた黒い服を着ている。ワンピースともドレスとも決めかねる服の裾は確かに長いのだが、左の恥骨までスリットが入っている。不思議とそこから下着の一部が見えない。

首から提げている谷間の間に銀細工のネックレスが埋もれており、トップはどんなものなのか分からない。嫌が応でも対峙する者はそこに目が行く。

服の布と同色の大きなショールも腕にかけ、黒の強い彼女の形容の中でその分彼女自身の白い肌は真珠のように輝いて見えた。

実に颯爽とした朝の風景を前に、その正面に立つ彼女はというと朝よりは寧ろ夜に似合う女だ。彼女が酒場に飲みに行くと、他の客たちには酒場の主人よりも彼女を主人だろうとよく推測される。

「風も気持ちいいし…。こんな日は洗濯と掃除に限りますね。素敵な日になりそう」

自らの細い顎に片手を添えて赤い唇から言葉を発し、くるりと踵を返した。

紅茶でも淹れようかと裏庭から宿の正面へと戻ると、丁度門の向こうを、宝石屋を営む老紳士と愛犬が通った。

朝早いというのに、いつものようにぴしりとスーツを着こなし、外出の際によくかけている帽子を被り、ステッキを片手にしている。そして足下には首に紅い宝石を下げた黒い大型犬。

レーニアは彼に気づき、すぐに門へ足早に寄ると格子の手前から呼びかけた。

「メルヴィン。おはようございます」

「ああ。これは、宿屋さん。おはようございます」

「いやですね。なんて他人行儀な方でしょう。レーニアとお呼びください。私と貴方の仲じゃありませんか」

妖艶に微笑んで見せるが、宝石屋はにこりと微笑み、ありがとうとごく自然に返した。

平素の今でこそ理想的な紳士に見えるが、宝石となる原石を見つけようと採掘体勢に入ると、まるで考古学者のように自らの身なりを顧みなくなる彼の世話を手伝ったのは、面倒見の良い宿屋の親切心にプラスアルファの下心があったからなのだが、宝石屋の方はというと、眼前の白い胸元へ一切視線を下ろすことなく、彼女の紅い瞳を柔らかく見詰めた。

「流石に朝がお早いですね。今日は、宿泊客はいらっしゃるのかな?」

「泊まられた方はおりましたが、朝になると皆それぞれの生活に戻りましたよ。皆様ときたら、本当に忙しないわ。生き急ぐ方々ばかり。ですから一晩などというのは、本当に一瞬です。ええ本当に。きっと無かったことにしてもいいくらい、一瞬なのでしょうね。ですから皆、過ちを犯せるものですわ」

「仰るとおりだ」

色気の多分に含まれた言葉を、どうやら少々違う方向性で受け取ったらしい宝石屋は、ゆっくり頷いて同意した。

投げた釣り糸の先に獲物はかかってくれなそうなので、下心のある宿屋はもう一押しすることにする。

「お茶でも如何です? 今は私一人なので、よかったら中に」

「ありがとう。ですが、今から人形師さんの家へ行く用がありましてね」

「おや。それは残念なこと。また立ち寄ってくださいね」

「ええ。貴女も、たまには遊びにいらしてください。きっと貴女にお似合いの宝石たちが、首を長くしてお待ちですよ。…それでは」

帽子を軽く持ち上げて微笑む紳士の足下で、愛犬が一吠えする。

彼と愛犬に手を振り、レーニアはその背を見送った。

…見送り切ると、格子に項垂れかかり、残念そうに指を鳴らす。

美しい赤いマニキュアの塗られた爪の先のうち人差し指を、品のある唇に添える。

「困った。やはり難しいかなぁ…。どう思います、マーヤ」

<ぶわぁかだと思うよ>

レーニアの問いかけに、彼女の左上に実に陽気な軽い音を立てて小さな黒い兎が現れた。

宙に浮いていること以外は何てことはない、どちらかといえば小振りの兎は、主人の服の色彩と同じ毛色、同じ紅目をしている。

<あんなジジイ喰えないじゃん。いつから老け専になったのさ、レーニア。精液も出ないよ。きっとカラカラさ>

「失礼だなぁ。食事用じゃありませんよ。恋ですよ」

<恋!>

レーニアの発言に、ぶはっとマーヤは吹いた。

しかし兎であるが故に表情は変わらない。耳の先を上下に素早く動かし、爆笑を示す。

<そんな下らない感情がお前にあるわけないね。それは食的な欲情さ。愛とか恋とか、反吐が出るね。相手の精気と肉が喰いたいだけだろ。ジジイもあと五十年若かったら美味しかったんだろうにね。ジジババは嫌だよ。渋みが強すぎてまずいからね>

「その通り。食欲ならばもう少し若い肉と気に限ります。メルヴィンは今でも素敵ですよ。宝石を見る時の澄んだ目は本当に美しい。何かに夢中になっている者は皆美しいし美味だけれど、人間があのお歳で純粋と情熱を継続しているところが何よりも素晴らしい」

髪の色が薄くなっている老紳士の消えた方を見詰めながら真面目な顔をして語るレーニアの相手を、マーヤは諦めた。

鼻で嘲笑ってぴこぴこと耳を上下させる。

<洗濯物干し終わったなら、買い物でも行こうぜ。肉が喰いたいね>

「いいえ、結構。私の今日の気分はお掃除なんです」

空中に漂う兎の正面に左掌を真っ直ぐ壁をつくるように置いて、レーニアは断言した。

本格的にマーヤが呆れ、かーっ、と随分オヤジくさいため息を吐く。

やはり表情は変わらない…が、その後に吐き捨てるようにツバを地面に吐いた。素行が悪い。

<ぶわぁーか。死ね!>

吐き捨てると、登場時と同じ軽い音を立ててマーヤは消えた。

従者のあまりな物言いに激怒することもなく、レーニアは両手を腰に添え、可愛いものでも見るように苦笑しつつため息を吐くだけだった。

「ひどい子だなぁ。…さて。掃除となると、乳房が邪魔ですかね。女は旨く美しいが、力仕事には決して適しません」

顎を引き、眼下の豊満な白い両の乳房を見下ろす。

上から見下ろすと、その陰に隠れて細いウエストは全く見えない。

「着替えましょう」

さらりと宣言した直後、腕に掛けていた大きな漆黒の布が、独りでにそれまでの大きさを無視してレーニアの左右に一気に広がった。

そのまま彼女を外気から包み込んだかと思いきや、瞬く間にばさりと横に払われる。

中から現れたのは、先程の絵に描いたような肉体的魅力に富んだ女性ではなく、右腕を真横に上げている長身で細身の若い青年だった。

左目下の黒子以外はがらりと変じ、衣類も随分ラフになっているが、やはり色は黒だ。

周囲で踊る黒い布によって生じた風が落ち着くと、邪魔な乳房が消え去り、カランと音を立ててネックレスが胸元に落ちる。

トップは小さな鍵と逆十字。

悪徳をこれといって愛する気はないが、それでも自分は魔神族の末席に属しているのだというせめてもの主張としていた。

でないと時々神と間違われることがあるし、実際旅の途中で立ち寄ったいくつかの国では聖なる神として描かれてしまったこともある。流石にそれはプライドが傷つく。

包むように漂う黒布はいつの間にかハンカチほどの大きさへ縮み、自らレーニアの腰のベルトへと巻き付く。

掃除をする時は男体に限る。女体は脂肪が多いし、筋肉が少なくて動きにくい。視点も低い。身体的にどうしても劣る。

「さあ。まずはリビングですよ」

腕まくりをしながら、嬉々として彼女もとい彼は、家の中へと入っていた。








レーニアが営む宿の部屋数は多くはないが、それでも一人でその全ての部屋を、しかもできるだけぴかぴかに掃除しようとすると午前中から始まり夕方までかかる。

彼自身に、朝食、夕食という概念がないのでそもそも日が高いうちに食事をすることは少ないのだが、夕方になると無性に一休みしたくなり、そうしてティタイムを用意する。

感覚としてはティタイムだが、正しく言うと彼の場合、アルコールタイムと呼べるだろう。

「掃除の後の蒸留酒は幸せですね…。そうは思わないかい、マーヤ」

気紛れな使い魔に声をかけてみるが、さすが気紛れな使い魔は出てこなかった。

使い魔がこの態度。彼の一族の常識で考えれば、通常は打ち首レベルの気紛れさである。魔族は、その多くが効率主義且つ実力主義であるが故に、他の種族に比べればとても確立され規律され厳守された上下関係と主従関係の上に社会が成り立っている。彼らには位があり、爵位がある。

勿論実力主義であるので、下剋上は許容されているし決闘も多い。下剋上は他種族と比べれば不名誉な行為ではなく、英雄的行為である。

…だが、それはもう昔の話。

血で血を流す争いを繰り返し、何度も挑み挑まれ殺し殺され、続けていけば明確な力関係が分かってくる。揺らぎ無い天才や実力者というものが明白になってくるのだ。そうして彼らには地位が与えられる。

上位の者には逆らわない。寧ろ仕える。逆らうというのであれば、それは自分の命を賭して下剋上を挑む時だ。故に、魔族の使い魔や下僕はイメージに反して忠実であり、往々にして主人には従順だ。

…が、この兎はどうだ。

本来なら魂核の消滅を受けてもおかしくない使い魔の無礼を軽く流し、レーニアは再び度の強いアルコールの入ったグラスに薄い唇を着けた。

大粒の氷が琥珀色の液体の中で高貴な音を立てる。

場所は宿の一階だ。

新しくはないが古びてもいないこの宿は、理想的に歴史を感じさせる懐古趣味な宿だ。

元々は彼の居城であり、広い庭を抱えて湖畔に建っていた美しい城だった。

しかし、嘗て治めていたその地域が彼のやる気の無さによってあまりにも平和過ぎてしまい、対となっている神とのバランスが全く取れないという理由で別の魔神が配置されることが決まった。

悪がなければ善は輝けない。それは人間の視点での話ではなく、万理としての天秤だ。

自己陶酔が強めな対の神から苦言が届き、彼は降格ついでにその地を追い出されることとなった。

その際、些かの後ろ髪も引かれなかったが、長年暮らしたこの城だけは愛着があるし使い勝手が良く、何より美しいからという理由で、古よりその地を治める魔神が代々所有する資産のはずであったそれを、黒布に包んで持ち運んでしまった。

入れ替わりで次にやってきた魔神が、広い庭に囲まれた場所にぽっかり空いた空の土地を見てどういう反応をしたのか、彼は知らないし興味もないが、とにかく晩毎に持ち歩いていた城を空き地にでんと出し置き、悠々と旅をしていた記憶も、今は遠い昔話だ。

この町に出会ってから、彼は他種族との快適な交流に魅入られ、多くの人々と出会いたいと、土地を買って城を置き、宿屋に改築した。

町の中央に位置する噴水傍の一等地の為、土地は比較的高いが、それでもこの町の土地代はその地を司る一族との同意を得られれば、外と比べると冗談のように安価だ。

逆に、その地を司る者に拒否をされると、これもまた外と比べると冗談のように高価になり、いかに資金を持っていようとも、購入も借りることもまずできない。

礼儀と常識が無かったり本質を見抜く力が無かったり、生存本能や危機回避能力が退化してしまった輩はこの辺一帯を占めている不動産屋に力での喧嘩をふっかけるが、結論から言って不動産屋が喧嘩負けしたことは過去一度としてない。そもそも力量差からいっても喧嘩にならない。相手にすらされない。

無礼を働いたが最期、次の瞬間に謝罪の余地無くその者に足場は無い。若しくは、歩く事に足の裏を焼かれるかもしれないし、突如天変地異が起きて津波のような土砂が襲うかもしれない。

翌日からその礼儀と常識のない輩が、この町のみならず、複数の世界という総合された歴史からそのタイミングで忽然と消え去ったとしても、いたはずの存在ひとつが消えてしまうことは大事そうに見えてそうでもない。

しかし、それでも町人達が最も行き来する場所であるので他の場所よりも一筆一筆が狭めであり、この宿も例外ではなく外形はこぢんまりとした縦長の、マンションのような外観をしていた。

しかし、外観外形などというのはそのものの実質に比例しない。

他の種族がどうかは知らないが、彼の種族からすれば常識中の常識だ。寧ろ、外形と実質が釣り合うものの方が断然に珍しい。

町のメインストリートに面している趣味の良い門を潜り、数段の階段を上がって小さなステンドグラスの組まれた両開きの玄関ドアをあけると、可憐な鈴が鳴って外形からは想像できない広さのフロアが目の前に広がる。

それだけで外形の二階三階分まで使ってしまいそうな高い天井。

正面には、後に突き当たりで左右に分かれる緩いカーブを描いた階段。

左手にはよくよく磨かれた、彫刻の美しい木造のカウンター、右手には暖炉がある広いフリースペースがあり、いくつかのアンティーク調のソファが行儀良く並んでいた。ロビーといったところだろう。

暖炉は夕方から深夜に掛けてのこの時間は、季節に関係なく煌々と燃えているし、何なら時々喋り出す。薪の爆ぜる音が心地良い。

宿屋の主であるレーニアがアルコールを楽しんでいるのは、ロビーの方だった。

本来ならカウンターの内側にいるべきだろうが、彼は客が来る時間帯を把握しているし、誰かが宿に意識を向ければすぐに気付ける。

来客のない今の時間は完全にプライベートとしているようで、暖炉の前に並ぶソファセットを眼下に、天井付近に用意されている彼個人のイスに腰掛けていた。

高い天井の宙に浮く、一人掛けの優雅なソファ。

高低差さえなければ、丁度暖炉の斜め前にあたる良い位置に、他のソファよりも少々丹誠込めて造られているようなソファがあり、その隣には小さな丸テーブルもあった。テーブルの上にはウイスキー瓶の隣に薔薇の花が一輪、一輪挿しに入って飾られている。

まるで透明な床でもあるかのように安定しているそのイスとテーブルに、レーニアは足を組んでグラス片手に腰掛けていた。

フロアを照らすシャンデリアが天井から下げられているが、それよりも高い位置にイスとテーブルがある為、その場所を照らす用に、もっと小さい照明ランプが傍に下がっている。

下から輝くシャンデリアの煌めきにグラスの中のウイスキーが底から照らされ、何ともいえない琥珀色した水面の輝きを、天井に反映させていた。

町の酒場で友人達と語り合いながら飲むアルコールも勿論美味しいが、その一方で時折こうして独りで飲む時間も恋しくなる。

「ああ…。今日も日が沈む」

縦に細長いデザイン窓の向こうで、ゆっくりと日が沈んでいくのが見えた。

橙色の夕焼けは瞬く間に終わり、次いで夜が訪れるだろう。

日が沈んだからと行ってすぐに彼の客は来ないが、それでもその時間に近づくのは確かだ。

愉しい他者との交流は、夜毎行われるパーティのように彼の心を弾ませた。

さて、今宵はどうしようかと考えているところに、正面で、ぽんっ!と軽い音がした。

姿を見せなかったマーヤが目線の高さに表れる。

「やあ、マーヤ。お帰り」

<獣が来るぜ>

微笑んで迎える主の言葉を無視し、マーヤは吐き捨てるように言った。

耳先を動かしながら不愉快を露わにする。

「獣? …おや。御者さんの天馬ですね」

マーヤの言葉に聞き返す途中でこの宿に向けられている他者の意識を察し、レーニアはグラスをテーブルに置いた。

腰浮かせると、そのままふわりと宙を降下する。

シャンデリアの下まで下がると、爪先で空気を軽く蹴って玄関の方へ向かう。

良く磨かれている革靴の爪先が厚い絨毯の上に着くと同時に金のドアノブを握り、彼はドアを引いた。

「やあ。こんにちは、天馬さん」

ドアが開くと、丁度玄関前の数段の階段へペガソスが右足をかけたタイミングだった。

長い睫の下にある彼の丸い瞳が、驚いたように開かれたドアの向こうに立つレーニアを捕らえて一瞬上げた足を強張らせたが、すぐに我に返ったようでその場で忙しなく前足で階段を踏み、尾と左右の白い翼を動かし、鼻息荒く首を振った。

何かを訴えているようだ。少なくとも、寝に来たのではない。

「おやまあ。落ち着いて落ち着いて。どうしました? 御者さんに何かありましたか?」

<このクソ馬、人を撥ねたんだとさ>

対峙する生物の意識は多少理解ができるが、はっきりまでは把握できない主に代わり、傍で浮いているマーヤが通訳を買って出た。

「人を撥ねた…? 彼がですか?」

使い魔の通訳にレーニアは瞬いた。

彼の脳裏に、脆い人間の少女がペガソスにタックルされ、吹っ飛ぶ映像が絵本のイラストのような可愛らしいタッチで浮かぶ。

その後、脳裏の少女は不運にも吹っ飛んだ先にあった木の枝に首を貫かれ、赤い潰れたトマトのように転がった。

そんな想像をして相槌の声を零していると、ペガソスは階段に掛けていた前足を引き、背を向けて肩越しに振り返り、翼を広げた。

<こっち来いとよ。テメェ何様だ。ふざけんな。誰が行くか童貞野郎。テメェの飼い主に頼みゃいいだろ。あの訛り汚ぇ濁声のガニ股女にな>

「ああ。死体を葬儀屋に運ぶんですね。手伝いましょう」

<オイコラ!>

マーヤの拒否を完全に無視し、レーニアはすぐに頷くと一旦カウンターの内側へ入り、『Not in Right Now』の銀プレートを持ってくると、玄関のドアノブにかけた。

彼が玄関前の階段を下るのを見てペガソスが翼を羽ばたかせて門前へ飛び出ると、煉瓦の舗道を蹴り飛ぶ。

レーニアも門を出る。振り返って右手を門へ伸ばした。それから、ついと腕を低く上げ、ゆっくりと指を鳴らすような仕草で振るった。

すると、腰に巻いている黒い布から、全く同じ布が左右に三枚ずつ飛びだして段構えで広がったと思うと、途端に各々面積を広げた。

そこまで風はないのに、一枚一枚がレーニアの腰より低い位置で彼に垂直に並ぶ。

ペガソスと同じく道を蹴ろうと一度膝を曲げた彼の動きに合わせて、左右でそれらの布がばさりと体から離れた六枚の翼のようにはためいた。

そのまま飛び立つ彼の背後でひとりでに格子の門が閉まり、錠が掛かる。

マーヤは少しの間閉め切った門の前で滞空してきたが、彼ら一人と一匹が遠くなると舌打ちし、突然弾丸のような速さで、周囲に布を広げて空を行く主人へ追いついてきた。

<テメェ!このぶわぁか!!客はどうすんだよ!メシは!?>

「すぐ戻りますよ」

<鍵かけちまったら誰も来れねェよ!>

「仮に一晩くらい食事しなくても、死にはしないでしょう」

のほほんと穏やかに微笑するレーニアの言葉に、マーヤは愕然とし両耳を引きつらせた。丸い赤目が驚愕する。

数秒後、小さな使い魔はレーニアの耳元へ彼の速度に合わせて移動すると、洞穴に鬱憤を吐き出す童話の中の男のように、キンキン声で叫いた。

餓死をする、極悪非道め、悪漢畜生など、あらゆる罵詈がレーニアの耳を突いたが、彼は耳元で叫く使い魔の頭部に手を掛けて頭など撫でるゆとりを持っていた。

叫いて暴れるマーヤに多少引っかかれながらもそのまま腕に抱き、彼は改めて正面を向いた。

背を向けて両翼で飛ぶ白馬は、背後から見ると馬というよりは白鳥に見えた。








町の中央にある噴水前から駆け上がったペガソスは町の上空を北へ向かって駆け、周囲を囲む樹海へと足を伸ばした。

どうやら人を撥ねた現場は森の中のようだ。

一度レーニアたちを振り返り付いてきていることを確認すると、高い声で嘶いて斜め下へと降りていく。

犠牲者が近いと見えて、彼は上機嫌で微笑んだ。

「どんなトマトでしょうね。せめて首だけでも美しいといいですが」

<あん? トマト?>

マーヤにしてみれた唐突な単語に、彼は小さく耳を動かした。

しかし、森の中へ降りてみると、そこにレーニアが予想したトマトが潰れたような光景は広がってはいなかった。

確かに少々小枝が折れたり草が踏み荒らされたりしているが、惨事と表現するには全く要素が足りない。

覆い茂った森の中、丈の短い草と木々たちが良く日光を分かち合い共存しているようなその場所に、美しい人間が一人、横向きに倒れていた。

その者の顔が美しいかどうかは顔を伏せていたので分からなかったが、例え顔が分からずとも、身につけている白く裾の長い衣類が草の上に広がる光景は、それだけで美しく見えた。

靴は履いて居らず、両手両足に金の装飾もいくつか付けている。身長から見て大人ではなさそうだ。

当然、この人間が、ペガソスが轢いたという相手なのだろう。倒れている者へ歩み寄ると、天馬は心配そうに人間に鼻先を寄せた。

左右に広げていた布の翼を腰に集約し、元の一枚の布にした後で、彼に続いて近くへ歩み寄ろうとしたが、一定距離に近づくとあることに気付き、レーニアは足を止めた。

「おっと…」

倒れている相手を見詰めたまま足を止めた彼に、空かさずマーヤがその腕から抜け出し、彼の左の肩に前足を添えるようにして浮上すると耳打ちする。

<…若い男だ>

性別の違いから放たれる独特の香りが高いことをかぎ分け、嬉しそうに小さな従者は告げた。

彼に合わせるようにして、小声でレーニアも僅かに頭を寄せて返す。

「ですね」

<ヒヒヒ!>

「ほらご覧。人助けもいいだろう? …いえ、勿論ペガソス君も素敵だけれどね。まだ少し幼いですからね」

<クソ馬はまだ勃たねーよ。ガキなんざ用無しだ>

くつくつと喉で笑うマーヤがふわりと浮いてレーニアから僅かに離れる。

そのタイミングで、彼は指を鳴らした。

早朝、シーツ干しが終わった後に女体から男体へ変じたように、腰に巻き付けていた布が瞬時に広がり、瞬く間に彼を包み込んだ。

直後、ばさりと片腕で布を払い除けると、そこには豊満な体つきをした、女という性別を強調した、ナイトドレスを纏った女体となってそこに立っていた。

重くなった胸があまり晒されすぎないよう、肩にかかるドレスの紐を真っ赤なマニキュアの塗られた細い指先で一度持ち上げ、レーニアは軽く両手を広げた。

白い彼女の両腕に、周囲を漂っていた黒布が、適度な大きさのショールを気取って絡みつく。

町の住人であるペガソスはそれを見慣れているため、さして驚くことなく、改めて倒れている少年に歩み寄るレーニアに道を譲るように、数歩後退した。

倒れている少年の傍へ屈み込むと、彼女は優しく声をかけた。

「もし。貴方。…大丈夫?」

「……う」

伏せている顔へ、滑り込ませるようにして頬へ片手を添えると、少年が小さく呻いた。

そのまま伏せている上半身を軽く持ち上げるように細腕を差し込んで浮かせると、漸く陰っていた少年の顔が日の下に明らかになった。少年は案の定、大変に美しかった。

頭の金飾りから左右へ垂れ下がっている薄いヴェールの中では、中世的な面立ちが目を伏せている。

癖があるもふわりとした金の髪に長い睫。誰もが目を見張る程だ。

レーニアだからこそ瞬時に匂いを察したが、外見だけでは雌雄の判断が難しいくらいの見栄えは、人間にしてはかなりの上玉だろう。

…とは言え、流石にこうして抱き起こせば体付きで判断がつく。

如何に華奢でも、それは男として華奢なだけだ。骨格がまるで違う。

彼は小さく呻いたが、目を覚ますかと思えばそうでもなかった。

そのまま再びくたりと力なく項垂れる様子に、レーニアは小さく肩を竦めた。

「起きませんね。生きているのならば、私の宿へお連れしましょう」

<イヤッハーッ!!>

奇妙な黄色い声で、マーヤがレーニアの肩周辺でくるくるとバク転してみせる。

黒いウサギがはね回る様子は見ていて大変愛らしかったが、明らかに食欲に押されて出たであろうその声にレーニアが困った顔をして振り返った。

「駄目ですよ。食べて良いのは、ちゃんと本人の意思を伺ってからですからね。…さて」

軽く使い魔に注意した後、レーニアは一度少年から両手を離し、傍らで立ち上がった。

パチン、と短く指を鳴らすと、肩に羽織っている黒布の表面を滑るようにそれと同じ物が宙を泳ぐと、草の植えに横たわる少年の下へ独りでに滑り込んだ。

数秒後、彼の身体の下で、その身長よりも些か大きく伸び広がると、黒布は魔法の絨毯の如く、少年の身体を乗せゆっくりと上へ浮き始めた。

レーニアの胸の辺りまで持ち上がると、彼(今は彼女であるが)は満足げに柔らかく微笑した。

「さあ、マーヤ。今晩のお客様が一名追加ですよ」

<あいよ!>

ぽんっ!とやはり可愛らしく愉快な音を立て、マーヤの正面に羊皮紙が現れる。

小さな爪で“雄・人間・十代”と、かなりの殴り書きでカカカカッとリズミカルに自分以上に大きなその羊皮紙を引っ掻き、ひっかき傷は一瞬金色に輝いてからボッ…!と音を立て着火したように揺れた後、黒いインク字になった。

マーヤの傍らで、レーニアがペガソスの鼻先を優しく撫でる。

「安心してくださいね、ペガソス君。彼は私の宿で預かりますよ。目が覚めたら事情を聞いて、然るべき町人の元へ案内しますからね」

ペガソスは微妙に不安そうにその場で数回足踏みをしたが、やがて尾を揺らしてレーニアの手を軽く押し返すと、南の空へ、まさしく神話の美しさで飛び立って行った。

<へ…!ようやく乳臭さが消えたぜ>

「そういうことを言わないの。幼獣の精気だって甘くて美味しんですよ? 単に私が好みではないという、それだけの話で」

幼い天馬が立ち去ってから一呼吸置いて、胸の重さでまたずれていた肩ひもを指で直しながら、レーニアはうっとりと少年の頬に手を添えた。

「特別なお部屋にしましょう。体付きは心から歓迎しなければ。…今宵のファーストは貴方のものよ、坊や」

<そうさ。何もかもが貴方ものよ~!…ぷっ、ブハッ!ギャハハハハ!!>

下品な笑いで爆笑するマーヤの声にくすりと笑い、レーニアはとん…とヒールで地を蹴った。

幾重にも漆黒の布を侍らせる姿は、例えその場がどんなに爽やかな森の中であろうと、どんなに輝かしい宮殿であろうと、突如現れた黒夜を連想させた。





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