4回裏
年末に差し掛ったある日、自宅で家族と共に静養していた私の元に一本の電話が掛かってきた。それは
「シゲ、これから会えないか?監督として相対する前に、どうしても話したい事があるんだよ」
と言う下川さんの誘いだった。そういえば日本シリーズ前に監督就任を電話で伝えた際、「話したい事がある」とおっしゃっていたのを思い出した。もはや敵対チームの監督同士となった二人が仲良く会食している姿を見られる訳にもいかないので、わざわざ変装までして、とある料亭に向かった。
座敷に通された時、既に下川さんは胡坐を掻いて待っていた。酒や料理も運ばれていたが、一切手を付けている様子はなく、いつになく厳しい表情でじっと座っていた。
「来たか、シゲ」
「遅くなりました」
「いや、俺が早く来たんだ。まあ座れよ」
「はい、失礼します」
と言って私は下川さんの正面に座った。
「改めて監督就任おめでとう」
「ありがとうございます。一生懸命やるつもりです」
「とりあえず食べるとしようぜ、ほれ」
下川さんが徳利を持ち、勧めてくる。言われるまま、お猪口に注いだ酒を飲み、料理に箸を延ばす。同様に下川さんも飲食を始める。が、それからは押し黙って一言も発しなくなった。私は何とも言えない重苦しい雰囲気を感じていた。下川さんが人を呼んでおいて何も言わないなんて珍しい。そんなに大事な話なのだろうか?
かといって自ら切り出す気にもなれなかった。沈黙の下川さんはペナントレースを戦っている時のような迫力があり、口を出すのも憚られた。二人向かい合って黙々と料理を食べるしかなかった。
「なあ、シゲ」
料理も半ば、不意に下川さんが呼び掛けてきた。
「は、はい」
「お前、まだスターズの監督をやりたいと思っているか?」
「はい、思っています」
唐突な質問に驚かされたものの、正直な胸の内を答えた。しかし次の質問はもっと驚くものだった。
「じゃあこれからフェニックスの監督をやるのと、将来スターズの監督になるのとではどちらが大事だ?」
真剣な顔でこちらの表情をうかがう下川さん。返答次第では切られかねない侍のような迫力がそこにはあった。
「そ、それはどちらも大事です。当面はフェニックスを監督として率いる訳ですし、スターズの監督になるのは最終的な目標です」
「ふん、そんなのはわかっている。俺はお前にとってどちらが大事かと聞いているんだ」
「そ、そんな……、比べようがありません……」
「本気でそう言ってるのか?それじゃ俺が死ぬまでスターズ永久監督でもいい訳だな?」「そ、それは……」
何故こんな事を尋ねられるのか合点がいかないが、何となく下川さんが私に「スターズの監督をしたい」と言わせたいのはわかった。この密室裁判の如き状況から逃れるにはそう答えるしかないようにも思えた。
「どうなんだ?」
「それは困ります。私もスターズの監督になりたいです」
「だろう。今日呼んだのはその事についてだ。お前が将来、俺の跡を継いでスターズの監督になれるかどうかのな……」
下川さんの不可解な一言。私が将来スターズの監督になる為に何か条件があるというような口振りである。
「お前、ウチの球団が何故フェニックスに入るのを許したと思う?」
「将来的な指導者としての勉強の為だと……」
「それは勿論そうだが、他にもあるんだぜ」
「そ、それは……」
「その前にもう一度聞く。お前、本気で将来はスターズの監督になりたいと思っているんだな?」
下川さんが何度もこの問いを繰り返す理由が解せない。まるでスターズへの忠誠心でも確かめているような……
瞬間、閃いた。下川さんが何を話そうとしているかが。信じられない事だが、今までの話振りだと、そうとしか思えない。
「下川さん……」
「どうした?」
「私にスパイをしろと、言うんですか?」
私は思いついた事をそのまま言い放った。
「ぬ……」
下川さんの顔が曇る。
「そうなんですか?」
「ふっ。ふはははは」
「下川さん!」
「ふはははは。シゲ、大した洞察力だな。スパイとは聞こえが悪いが、まあそんな所だ。ウチとの試合に負けろとまでは言わんが、サインだけ全て教えろという事だ」
あっさりと企みを曝け出す下川さん。しかし私にはそう簡単に受け取れる事態でもなかった。
「そ、そんな……」
「ウチの球団は最初からその腹積りだったのさ。お前をフェニックスに送り込んで、指導者として育成すると同時に、チームを丸裸にするってな」
「ほ、本気で言ってらっしゃるんですか?」
「ああ、本気も本気。冗談でこんな事を言うか?」
「球団がそんな事を考えていたなんて……」
「気持ちはわかる。もしお前が拒否するならそれはそれでいい。この話はご破算になる。その代わり、お前はスターズの監督にはなれなくなるという訳だ」
何という目茶苦茶な話であろう。憧れだった監督の座を掴む為に、フェニックスに対して背信行為を働かせようとは……
私は迷った。超満員のファンに引退式で誓った監督宣言、幼い頃からのチームへの愛着(こんな事をする球団でも、試合をするチームは違うと私は思っていた)、目の前の下川さんの異様な迫力、などに心は揺れに揺れた。何より、再びスターズのユニフォームに袖を通して大観衆の前で試合をしたい気持ちは何物にも代えられなかった。だが、
「たとえスターズの監督になれなくとも、不正には手を貸せません」
ときっぱり申し出を拒絶した。
「そうか……」
「下川さん……」
黙りこくった下川さんの様子を見て、私はこの話はこれで終わるものと思っていた。だが、
「ところでシゲ、亜紀子さんは元気か?」
と突拍子もない発言が飛び出してきた。
「な、何を……」
「子供は三人だったか?可愛い盛りだろうなあ?家庭も円満だろうに……」
と言って下川さんはにやりと笑った。そして指を鳴らすと、襖を開いて三人の黒服の男が姿を現した。奴らの手に何かが黒光りしている。銃だ。
「そ、そんな……」
私は唖然とした。そして同時に恐怖した。下川さん、いやスターズは家族の命を人質にしようと言うのか。
「シゲ、どうするよ?本当にやらないのか?」
この時ばかりは下川さんの顔が悪魔のように見えた。もう十年以上も付き合っているのに、今まで一度も見た事のない姿だった。
返事を待ってくれそうな気配はない。場合によっては本日中に私や家族の命すら危ぶまれる状況に、Noという選択肢は残っていないようにも思えた。
「わかりました……、やります」
私は恐怖に負けた。止むを得ず承諾するしかなかった。SO対決はこの時点で早くも決着が着いてしまったと言っても過言ではなかろう。一瞬、熊沢オーナーや星本の顔が頭をよぎったが、それを振り払って要求を飲んだ。
「おお、そうか。そう言ってくれると思っていたぞ」
喜ぶ下川さんは、早速合図をして黒服を部屋から下げた。それを見てようやく私も安堵した。
「いやあ、めでたい。よし乾杯だ」
下川さんは上機嫌になってかなりの勢いで酒を呷っていた。対称的に私はいくら飲んでも酔えず、自己嫌悪に陥ったのだった。
十一時頃、料亭にタクシーを呼んでもらって、私達は別々に帰った。自宅へ向かう車に揺られながら、私は今夜の事を頭の中で整理していた。スターズ球団が八百長にも等しいスパイ行為を推奨していた事は少なからずショックであった。同時に過去の勝利の数々も疑わしいものになってくる。下川さんは「サイン破りの達人」と言われているが、ひょっとして同じような方法によって、あらかじめ相手チームのサインを知っていたのではないだろうか?そう思うと、今までの栄光が皆偽りのように色褪せてくる。引退試合でのサヨナラホームランでさえ、下川さんの助言から出たものだ。己れの所業の全てが否定される気がして、沈んでいくばかりであった。
あの脅迫行為を訴えるという手段もあるだろう。ただし、同時に私の過去の栄光が全て崩れ去るのは間違いない。下川さんやスターズのやり方が明るみに出れば、今までの私の活躍だって正当な行為の上の成績ではなかったとみなされるだろう。そこまでして正道を貫く勇気はなかった。
それ以前に証拠もない以上、脅迫の事実を信じてもらう事すら出来ないかもしれない。テープに録音でもしてあれば別だが、当然そんな用意はしていない。一番良いのは熊沢オーナーに話す事だろう。だがその方法も、先に言ったように自分の過去に大きな傷跡を刻むのは間違いない。どう足掻いても八方塞がりだ。
それからの数日間は何をするにも気力が湧かず、家で自堕落的に過ごした。さすがに家族は様子がおかしいのに気付き、妻を始めとして皆で心配してくれたが、理由を話す訳にもいかず、空元気を出して誤魔化す他なかった。フェニックスの監督就任を決めてからはやる気に溢れていたのに、突然元気がなくなれば周りが変に思うのも当たり前である。
「パパ、元気ないね」
などと五歳の克典に言われた時はさすがに堪えた。
だが勿論、自分の選択が間違っているとも思わなかった。何といっても愛する家族の命を犠牲には出来ない。スターズの監督をやりたいという願望も少なからずある。ただ、道徳的に反する行為をしてまで将来のスターズ監督の座を選び、フェニックスを裏切ってしまった自分が嫌になるのだった。かと言ってあの状況下で選択を避けられるものでもなかった。しばらくは悶々として過ごさざるを得ないだろう。
そして十二月三十一日、大晦日の晩、近くの寺で突く除夜の鐘が我が家にも響いてきていた。子供達は「いーち、にーい、さーん」などと数を数えてはしゃぎ回っていたが、私はそれを重苦しい気分で聞いていた。ゴーンという音が一回鳴る度、自分の身体が鐘突きに突かれている気がした。いっその事、百八回叩かれて罪を清算出来るのならどんなに楽な事か……。重く見えない十字架を背負いながら、私は年を越した。