1回裏
プップー!突然、警笛が響き、我に返らされた。見ると私の車は対向車に激突する寸前であった。考えに浸っていて、全く気付かない間に蛇行していたのだ。これからの事どころか、今、危うく死ぬところだった。選手引退の日に死亡なんて、恥ずかしい事この上ない。
対向車のドライバーは車から降りて、こちらへ向かって来ていた。これはまずい、と思った私はすぐさま運転席から出て、相手に頭を下げた。
「どうもすみませんでした。ついボーッとしておりまして……」
「ボーッとしてたぁ?そんな理由で済むと思ってんのか、コラ!」
相手の怒りは相当なもので、猛然と詰め寄ってきた。そして私の胸ぐらを掴み、
「どら、面見せて見ろ」
と言って髪を引っ張り顔を覗き込んできた。すると、
「あわわ……」
途端に相手は恐れたような顔つきをして、慌て出した。
「あの、どうかしましたか?」
「お、王嶋選手……ですよね?ぶ、無礼な真似をして申し訳ありません」
と言うと彼は土下座して謝してきた。どうやら私がスターズの王嶋であることが、豹変の理由らしい。
「とにかく頭を上げて下さい。悪いのは私なんですから」
私は伏したまま顔を地面に擦り付けている彼の手を取ってとりあえず起こした。
「本当にすいませんでした」
「もう謝るのは止めて下さい。こっちの方がボケっとしていたんですから」 「は、はあ。どうも……」
「こちらこそご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「い、いえ。あのう……王嶋さん、今日は本当に感動しました。引退試合にサヨナラホームランを打つなんて。さすがミスタースターズです」
彼はもはや事故の事など頭から消え去ったかのように私を褒めちぎった。
「ありがとうございます。でも、もう私は選手じゃありません」
そうだ、今日をもってプロ野球選手ではなくなるのだ。そうなった私は何者でもない。
「ええ、でも貴方はみんなの英雄です。絶対、監督としてスターズに戻ってきて下さい。みんな待っていますから」
彼はそう言って私の手を両手で包み込むように握ると、深々と頭を下げて、自分の車に乗り込み去って行った。
彼が去った後、私は自分の車に戻って、またしばらく放心していた。今までは先程のように周りにもてはやされていたが、これから何の肩書きも持たなくなればどうなるのだろう。監督になると言っても、実現できるのは何年先のことか。「騒がれている内が花」とはよく言ったものだ。私も間もなく世間から忘れ去られていくのだろうか。そう考えると、今の事故未遂は不安を増殖させた。
自宅に辿り着いた時は夜の十二時を回っていたが、家族は全員起きて、帰りを待っていてくれた。私は湿っぽいのは苦手なので、皆を球場へは呼ばなかったのである。
「パパ、御苦労様」
五歳になる次男の克典が花を持って玄関まで駆け寄ってきた。
「おお克典、まだ起きていたのか?ありがとう」
私は花を受け取ると克典の手を引き居間へ向かった。
「あなた、長い間お疲れ様でした」
妻の亜紀子をはじめ、長男の一茂、長女の美奈が出迎え、私の労をねぎらってくれた。皆、今日のサヨナラホームランに感動したらしく、帰ってくるまでその話で持ちきりだったらしい。
「それにしてもあの監督宣言はカッコ良かったね」
中学二年の長男一茂がはやし立てる。
「パパ、まだ辞めなくてもいいじゃない。私、パパが有名人で友達にも鼻が高かったのにさ」
小学校でいつも私の自慢話をしている美奈は引退を残念がっていた。
「ハハハ、そうかそうか。みんなわざわざパパが帰ってくるのを待っていてくれてありがとう。もう遅いからベッドに入って寝なさい」
「はーい」
三人の子供達は返事をすると寝室へ向かった。
居間には私と妻の二人になった。
「あなた、何か浮かない顔をしているわね。引退したから……?」
「ああ、不安なんだ。これからどうなっていくかが。今までのように野球をして生活する訳じゃないからさ」
私は妻に胸の内を正直に吐露した。すると彼女は寄り添ってきて
「大丈夫よ、あなたなら何だって出来るわ。今までだってずっと成功してきたじゃない。スターズの監督にだってきっとなれるわ」
と励ましてくれた。
「ああ。そうだな……。きっと、なってみせるさ」
妻は私にとってかけがえのない理解者である。その言葉を聞いて、少しばかりの自信を心に復活出来た。
翌日から私の元にはスポーツ紙やTV局が評論家としての就任要請を行なってきた。ギャラは各社そう変わりがなく、こちらの気持ち一つで何処でも雇って貰えそうだった。まずは第一候補として将来の為にもスターズの親会社、読日グループの新聞やTV局に所属する事が考えられた。しかし正直なところ、それは遠慮したかった。何故なら読日グループ入りは、いかにもそのコネを使って将来を見据えているようで、世間体的にも嫌だった。どうせなら実力でスターズ監督の座を手にしてみたかった。
そんな間にも引退した事でTV出演を繰り返していた。各局のニュース番組のスポーツコーナーなどが毎日のように私を呼んだのだ。
「引退を意識されたのはいつ頃だったのですか?」
「最後のホームランを打った瞬間、どんな気持ちになりましたか?」
「ズバリ、将来は監督として戻って来られますか?」
などと、同じような質問を何処の局でもされて、受ける側のこちらは食傷気味になっていた。そして終了後は解説者としての勧誘。マスコミ各社の代わり映えのしない態度にうんざりする程だった。ただ思った以上に自分への注目度が高く、少し安心したのもまた事実だったが。
結局、私はMHKの解説者になる道を選択した。最も歴史の深い放送局であるMHKは一番中立的なイメージがあったし、派手な民放各局に比べて余計な煩わしさから解放されると思えたのだ。何にせよ、職にありつけてようやく安心出来た。
私は解説者になる上で、改めて野球を勉強し直す事にした。今までの私はどちらかと言えば肉体を鍛えて、感覚で打ったり守ったりしていた。目が良かった為に相手ピッチャーの投げる球種がリリースポイントでわかったりする事はあったが、あとは独特の第六感のようなもので打撃や守備をこなしていた。自分で言うのも何だが、才能に頼った選手生活であったと思う(当然、それに伴う努力は欠かさなかったが)。
実際、「来た球を打つ」という言葉が当て嵌まるような打撃をしていた。下川さんのサイン見破りなどはあったが、基本的には配球を読んだりはしなかった(勿論、前述のように相手の握りで球種がわかる事はあったが)。とにかく自分の打てる地点に球が来た瞬間に(それがストライクであろうとボールであろうと)、居合い抜きのようにバットを振り切る。それは投げ込まれるボールという点と、バットの真心という点を結ぶようなイメージである。その為、人並外れたスイングスピードをしていたと思う。これを他の選手に説明しろと言っても難しい。
従って確たる理論がないのだ。今後、解説を行う為に、恥ずかしくないだけの理論で武装する必要があった。それはひいては将来の指導者への絶対条件でもある。
私はルールブックを紐解き、まず野球のルールを再度頭に叩き込んだ。それからバッティング・ピッチング・守備のメカニズムを知り合いの体育大教授と共に研究し始めた。こうしてみると、如何に自分が感覚だけでプレーしていたかがよくわかった。勿論、プロにもなればある程度そういうものは必要だろうが、何の理論にも裏打ちされておらず薄っぺらな野球頭だった事が後悔される程だった。現役時にこれだけの知識があれば、不調時にどんなに役に立ったことか。もっと成績を伸ばす事だって出来たかもしれない。
それと、栄養学や肉体作りの為のトレーニング方法も自ら実践して学んだ。食事一つ取っても筋肉をつけるのに必要なタンパク質量の摂取など、全然考えてこなかった事が思い知らされた。それでなくとも選手時代は栄養の偏りなども気にせずに焼き肉やすき焼き、ステーキなどを好んで食べていたのが情けなく思われる。私は腰を痛めた事で引退を決意したが、もう少ししっかりした生活やケアを行なっていれば、それを未然に防げたかもしれない。
そうこうしている内に年が明けた。同時に、本格的に解説者として活動する時がやってきた。各球団のキャンプが始まるからである。スポーツ新聞にも連載記事を持ち、現役時代の回顧などを書いていたが、ついに二十年振りに現役以外の境遇でキャンプを迎えることになり身の引き締まる思いがした。
私は一路、宮崎へ向かった。ここで東京スターズがキャンプを行なっているのだ。ただ先に行ったのは同じく宮崎県西都市の新潟フェニックスのキャンプだった。まずこちらの様子を見てからお望みのスターズキャンプへ足を運ぶつもりであった。
「よお」
フェニックスの練習グラウンドに足を踏み入れた途端、声が掛かった。
「やあ、久しぶり。キャンプのリポートをさせてもらうので、よろしく頼みます」
と言って私が頭を下げた男は、自分と同期にプロ入りした星本浩一だった。彼は入団からずっとフェニックス一筋の男で、二年前に現役を退いてからも投手コーチとしてチームに残っていた。特にスターズに対するライバル意識は並々ならぬもので、私や下川さんに対しては鬼のような形相で投げ込んでくる投手だった。
「あんたも引退して解説者か。お互いに年を取ったものだ……。もっとも俺がコーチだもんなあ」
「全くだ。ついこの前、入団したばかりみたいなのにね。今回は勉強させてもらうんでよろしく」
「ああ。好きなだけ見ていってくれ。批判があるならハッキリ言ってくれた方がいいし。ただし、スターズに情報を横流ししたりするなよ」
「そんな事はしないよ。ひどい言い草だなあ」
「冗談、冗談。未だ対抗意識が抜けないのだよ、あんたもスターズだったからさ」
「そうだったな。君はスターズ戦となると凄い対抗心を燃やしていたもんな。何度、その気迫に呑まれそうになったことか……」
「実を言うとな、俺はスターズファンだったんだ。だから俺じゃなくてあんたを指名したスターズを根に持っていたのさ」
「そうか。それであれ程までの気合いが篭もっていたんだな」
「おいおい、そうは言うが対戦成績はそっちの圧倒的勝利じゃねえか。俺は毎回、ベンチ裏で悔しがったものさ」
「はは、そういう君のような好敵手がいたから、こちらも燃えていい成績を収める事が出来たんだよ」
これは決してお世辞ではなく本当の事だった。『名打者が名投手を育てる』なる格言があるが、その逆もまた真なり。星本のような好投手を打ち込もうと練習を積み重ねたお陰で、今の私があるのだ。
「ぬかせ。まあいいや、あんたのいなくなったスターズなら勝てそうだしな。仕返しは今年ウチのチームを躍進させることで済ますとしよう。何せ球団創立以来、優勝経験がないのはウチだけだからな……」
星本の言う通り、新潟フェニックスは超弱小球団で、唯一優勝を味わっていないチームだった。彼の全盛期に我らスターズと何度か優勝争いを繰り広げた事はあったが、結局それは全部スターズが勝利したのだった。
「頑張ってくれよ。公平な目で見させてもらうので」
「おう、それじゃまた後でな」
手を振って星本はブルペンの方へ駆けて行った。
新潟フェニックスのキャンプには正直驚かされた。私が最近勉強した事をいくつか実践しており、それが選手に浸透している様子がうかがえた。例えばノック一つとっても真正面のゴロ中心に行なわれていた。大リーグでは主にこの方法が採用されており、基本を徹底的に鍛えている。基本が出来上がればあとはダッシュ力をつける事で、左右に散らそうが、ファインプレーだろうが、いくらでも可能だという考えである。フェニックスではまさにその通り、コーチが真正面の優しいゴロをみっちりと野手に打っていた。話を聞いてみると、この練習の狙いはまさに私の考えと一致していた。
食事にも驚いた。牛・豚肉は余分な脂肪がつきやすいので、選手のメニューは鳥肉中心だという。選手も勝つ為に我慢して、受け入れているとの事だ。さらに個人個人の身体の状態に合わせたメニューが採用されているという。新人・若手・ベテランでは必要な栄養素の量も違う。そこに目をつけた球団は、個人的な体力測定や健康診断を通した上で個々のメニューを作成することにした訳だ。
「やあ、どうですかな?今年のウチはいけそうですかね?」
フェニックスの姿勢に一人感嘆している私に声が掛かった。
「や、これはオーナー、ご無沙汰しております」
相手はフェニックスのオーナー、熊沢氏だった。この方は根っからの野球好きで、私も何度かお話させていただき、頼まれてサインをした事などもあった。
「球界の至宝とも言えるあなたに来ていただけるとは光栄ですぞ」
「いえ、お邪魔させていただいております」
「で、どうです、今年のウチは?」
「正直驚きました。まだ他球団を見ていないので何とも言えませんが、かなり質の高い練習を行なっていますね。誰かいいブレーンでもお入れになったのですか?」
「いやあ、お恥ずかしい…。私の入れ知恵ですわ。一度でいいから優勝して欲しいという願いから、ちょっと大リーグを始め、運動生理学や栄養学などを独自に研究しましてな。その成果をシーズン終了後、監督やコーチに伝えたんですわ。その中で即使えそうなものをこのキャンプから導入している次第です。まあ結果が出るかはわかりませんが」
「そうだったんですか。オーナー自らとは凄い……」
「本当にいい加減優勝して欲しいですからな。私ももう七十歳、生きている内に一度でいいから、優勝をこの目に焼き付けておきたいんですわ」
そう、熊沢オーナーは自分の球団がただの一度も優勝していない事をいつも悔しそうに語っていた。現役時代、「王嶋さんのような選手がいたらウチも優勝出来るんだがなあ。来年あたり来てくれませんか?」などと冗談混じりに言われた事をよく覚えている。
「今年はいいとこまで食い込むんじゃないでしょうか?今の状態を維持出来れば台風の目になるかもしれませんよ」
「まあ正直、優勝はスターズかナンバーズじゃないかと思っとります。今年はAクラス入りが出来れば万万歳ですな。勿論、選手にそんな事は言いませんが……。本当の勝負は来年だと思っていますよ。今年は土台作りということで……。一年で優勝なんてさすがに甘くはない筈です」
この発言にも驚かされた。本音を言えば私も同じように思っていたのだ。オーナーの何と眼力の鋭い事か……。
「さすがですね」
「いやいや。それより王嶋さん、その勝負の来年、ウチの監督をやってくれませんか?」
「えっ?」
「私は敵味方を越えてあなたという選手が大好きだった。あんなに物凄いスター性を持った選手はもう出ないかもしれん。あの最後のサヨナラホームランなんて感動しました。ウチのチームを盛り上げるに充分過ぎる存在だ。あなたが率いるフェニックスなんて想像しただけでも胸が騒ぐ。そして最近のあなたを見る限りでは、相当指導者への修練を積んでおられる御様子……」
「そんな、買い被り過ぎですよ」
「本当を言えば今年お招きしたかったくらいなのだ。ただ、現監督の任期もあるし彼は育成には定評がある。だからその後釜としてあなたを招き、優勝して欲しいのですよ」
「あ、ありがとうございます。そこまで言っていただけて光栄です」
「勿論、あなたがスターズの監督をしたいと思われているのは承知しております。ですが、ウチで監督をして経験を積むというのもよろしいのでは?それからスターズに戻られても遅くはなかろうて」
「は、はあ……」
私は困惑していた。ここまで自分を買ってくれていたとは思いもよらなかった。
「はっはっは。まだ今年のペナントも開幕していないのに、気の早い話でしたな。ただ私は本気でそう思っているのですよ。あなたの心の中にでも留めておいて下さればありがたいのだが」
「はい」
「ごゆっくり見て行って下さいよ。悪い所があれば遠慮なく書いていただいてよろしいですからな。はっはっは。それでは来年待っていますぞ」
オーナーは言うだけ言うと去って行った。私は呆然としてそれを見送った。冗談でも他球団の監督を要請されるなど、全然頭にない事だった。何処まで本気かはわからないが、ありがたい申し出ではある。ただ「フェニックスの監督か……」という気がしないでもなかった。