6回裏
二日目、事件が起こった。朝の自主練を終え全体の練習が始まると、私はグラウンド狭しと動き回る野手を眺めていた。昨日と同様、選手の動きはきびきびとして悪くない。腕を組んで、球を追う選手を見つめていた時だった。
「か、監督、大変です」
とても慌てた調子の声が私を呼んだ。見るとブルペン捕手の一人が息を切らして走って、こちらへ向かって来ていた。
「どうした?」
「ウ、ウイルソンが……」
「ウイルソン?」
新外国人のウイルソンがどうかしたのか?気になった私は彼を追い越し走ってブルペンへ向かった。
中に入った時、ブルペンは騒然としていた。数名の投手と捕手が輪を作って群がっていた。
「どうしたんだ?」
人の群れを掻き分けて、皆の視線の焦点を探し当てた。そこにはキャッチャーが一人うずくまっていた。
「ガッデム!」
視線の真後ろから英語の叫びが聞こえた。事件に関係あると思われる、ウイルソンが腕を組んで仁王立ちしていた。日本人選手よりも一回り大きな体格をしている為、そびえる山のような迫力がある。その山が火山噴火にも等しい怒りを示していた。
話はこういう事だった。ウイルソンのブルペン投球が始まり、最初はストレートも走って順調に進んでいた。ところが彼の宝刀ナックルを放り始めた途端、キャッチャーが捕れなくなってしまった。それどころか、捕球し損なって既に三名がケガをする始末。この状況に彼は「まともなキャッチャーはいないのか?」と怒りを露わにしていたのだった。
「私が受けます」
と言って、ミットを構えて出てきたのは二番手キャッチャーの中西だった。打撃はともかく、キャッチングには定評がある男だ。いつも西沢ばかりが注目を浴びており、陰に隠れている彼には絶好のアピールの場と思ったのかもしれない。
「Can you catch my ball?」
と言って、訝しげな表情をするウイルソン。まるで「お前に捕れるのか?」とでも言いたげな表情だ。
「カモン!」
中西は挑発するように右手で手招きし、構えた。
「OK!」
豪快なフォームでウイルソンが投げ込む。重そうなストレートが派手な音を立ててミットに突き刺さった。ストレートだけでも充分に武器になりそうな威力である。145km/hは間違いなく出ている。現役大リーガーの名はダテじゃない。彼はそのまま数球ストレートを投げた。
「Next knuckle」
次球を自ら宣言して、さらにわざわざ握りまで見せてウイルソンが投げた。指から離れたボールがゆらゆらと揺れてキャッチャーまで飛んでいく。私にはまるで空中で局部地震が起こったかのように球が揺れて見えた。
「ぐあっ……」
次の瞬間、ボールは中西のアゴを直撃していた。その場にうずくまる中西。
「One more?」
ウイルソンは白々しく尋ねる。もう中西は受けられないのがわかっているのにだ。
そして中西はダメージが大きくて、他の捕手に肩を支えられて出て行った。それを見て何やらまくしたてるウイルソン。誰も捕れない事実が、かなり腹立たしいらしい。そしてしまいには私に詰め寄って来た。
「Hey boss!」
と言った後、さらに早口で英語を次々に吐き出す。
「な、何て言っているんだ?」
たまらず私は通訳に尋ねた。
「そ、それは……」
「いいから、訳すんだ」
「このチームはどうなっているんだ。まともに捕れるキャッチャーがいないなんてアマチュアみたいな話だ。ふざけるんじゃない……と」
通訳は恐る恐る訳した。恐らくウイルソンはもっとひどい言い方をしているのだろう、彼の訳は妙に簡潔でまとまり過ぎていた。
「ふむ」
素直な選手ばかりだと思っていたフェニックスにとんでもない問題児が出現したものだ。どうしたものか、思案しようとした。そこへ
「バカにするのもいい加減にしろ。メジャーだか何だか知らないが、お前の球くらい俺が捕ってやる!」
現われたのは西沢だった。正捕手がミットを携え、ブルペンへやって来たのだった。
「Are you reguler catcher?」
ウイルソンは通訳の説明を聞いて、西沢に声を掛けた。
「イエース。来い!」
西沢は早速構えた。その姿を見たウイルソンはボールを大きな手で鷲掴みにし、ミット目掛けて投げ付けた。ストレートは威力を失う事無くミットを響かせる。おそらく、初速と終速にほとんど差がないジャイロボールと呼ばれる類のストレートであろう。ウチのチームでは吉田や酒井がこれに近い直球を投げている。西沢はそれを難なく捕る。これを見た限りでは、酒井の球は重さにさえ慣れれば大丈夫そうでまずは安心した。そして今の関心事ウイルソンのナックルは果たして……
「Next Knuckle」
先程同様宣言して、握りまで見せてウイルソンは投げた。何処へ行くのか、どんな変化をするのか、投げた者にもわからないという魔球が、西沢を試すようにふらふらと揺れて向かっていく。
かすっ、という音を立てて、ボールは西沢の後ろに行っていた。ミットには触ったが、捕球までは出来なかったのだ。
「One more!」
ウイルソンももう一球様子を見ようと、再びナックルを投げてきた。
結果は同じだった。ミットには触れるものの、捕球には到らず。その後、数球放ったが結局西沢は一球もキャッチ出来なかった。
「ガッデム!」
苛立たしい表情で、マウンドに唾を吐くウイルソン。同様に西沢も己れの不甲斐なさに腹を立てているようだった。他のキャッチャーのようにミスしてケガをする事はないが、捕球出来ないのだ。捕れそうで捕れない、まるで箸で豆を掴むようなイメージであろう。
カッカしてブツブツと何やら吐き続けているウイルソンに突っ掛かった男がいた。星本だ。現役時代さながらの闘志剥き出しの顔付きで突進する。
「おい通訳、何て言ってるんだ?」
「こ、このキャッチャーはなかなかだ。期待できる、と」
「嘘を吐け。こんなに怒ってそんな事言うか?怒らんから正直に訳せよ」
「は、はい……。な、何とレベルの低い野球か、い、今までロクなピッチャーの球を受けてないんだろう、と」
通訳は星本の剣幕に怯えながら答えた。
「そうかい」
すると星本はウイルソンに歩み寄り、いきなりユニフォームの首根っ子を鷲掴みにした。「てめえ、ふざけんなよ。ナメんのも大概にしやがれ!」
ところが次の瞬間、状況は逆転した。ウイルソンが星本の首根っ子を掴んで片手で持ち上げたのだ。
「ぐ……っ……」
見る見る内に星本の顔色が青紫色に染まっていく。ウイルソンに締められたまま持ち上げられ、さながら絞首刑のようだ。このままでは窒息しかねない。
「止めるんだ」
私は止めに入った。それでも放そうとしないウイルソン。私は意を決して星本を持ち上げている彼の腕を叩き落とした。
「ううっ……」
拷問から解放された星本は、まだ苦しそうだった。
「Boss!」
星本から離れたウイルソンは、今度はこちらに向かってがなり立ててくる。
「何と言っているんだ?」
私は傍らで怖気付いている通訳に尋ねた。
「こ、こんなチームでやってられるか。キャッチャーが捕れないんだったら試合に出る気もないぞ、と」
「正論だが、結構カッカする奴だな。さあ、訳してくれ」
「え?いいんですか?」
「構わんよ。短気な奴だ、お前は。そう言ってくれ」
私の言う通りの言葉を通訳が伝える。それを聞いたウイルソンはさらなる怒りを示し、吠え始めた。
「何と言っている?」
「こ、これは言えません……」
「いいんだ。全部包み隠さず聞かせてくれ。それが君の仕事だろう」
「こ、こんなレベルの低いチームの監督にそんな事言われるとは心外だ。怒らない奴の方がおかしい。日本の野球なんて……」
「どうした?」
「ク、クズの集まりだと……」
「ほう、それはさすがに聞き捨てならないな」
私の闘志に火が点いた。確かにウイルソンは現役バリバリの大リーガーでその実力も凄いが、日本野球までバカにされて黙っている訳にはいかない。
「よし、こう言ってくれ」
私はある事を通訳に耳打ちした。
「え?き、危険です、それは……」
「いいから」
「は、はい……」
私に押されて通訳はこちらの意志を伝えにいった。
「What!Do you know what you're saying?」
ウイルソンはさらに頭に血を昇らせたようで、真っ赤になって吠え叫んだ。しかし、すぐに笑みを浮かべて
「OK」
と返事をした。