5回裏
一月三十一日、我ら新潟フェニックスはキャンプ地である宮崎県宮崎市入りした。驚いたのは市民の歓迎振りだ。後で聞いた話だが、例年にない騒ぎで昨年の三倍以上の二千人近い人が来たらしい。
「王嶋監督フィーバーですな」
宮崎市長にそう言われ、恐縮した。とはいえ確かに私への声援は多く、やたらと名前を叫ばれ、周囲を囲まれ触られた。嬉しくない事はないが、私が選手以上に注目を浴びるのは何か間違っているようにも思えた。これで球界が盛り上がってくれるのであれば、それに越したことはないが。
歓迎を受けた後は宮崎神宮へ行き、必勝祈願をした。代表として神の御前に立った時、己れの罪深さに気まずい思いがした。必勝祈願といいながら、それに反する行為をしている自分が恥ずかしかった。神だけは全て見透かしている筈で、それを思うとこの場にいる事すら辛い。そして私や家族を救って欲しいと祈るしかなかった。
そんな姿を報道陣に取材されるのがまた堪えた。私はインタビューの一切を断り、
「結果はグラウンドで見せます」
とだけ言った。傍らでは口の重い私に代わって、星本や他のコーチが意気込みを語っていた。
宿舎に入った我々は、早速全体ミーティングを開いた。まず私が全員の前に立って、意気込みを述べた。
「改めて紹介させてもらいます。今季よりこのチームを率いる王嶋です。よろしく」
「よろしくお願いします」
秋季練習時の息の合った様子は変わっていない。私は安心して言葉を続けた。
「今年の目標は勿論、優勝です。選手諸君にはそのつもりでいて欲しいし、その力はあると私は思っている。だから当然その目標達成の為の練習をする。厳しくなるとは思うが、くらいついてきて欲しい。私は監督としては未熟だが、諸君より優勝という経験は知っている。是非、あの気分をみんなにも味わってもらいたい」
「はいっ」
それから練習時間や練習内容を全員の前で説明した。メジャー式の自主性尊重姿勢は選手も概ね歓迎のようで、称賛の声が揚がっていた。その後もコーチから諸注意や心構えなどの話が続いた。約三十分の後、
「じゃあ本日はこれで解散。明日から頑張っていこう」
「オッス」
私の解散の号令で、選手が散り散りに部屋を出て行った。
ここで私は驚かされた。主力選手のほとんどが、キャンプ前日にもかかわらず練習場へ向かったのだ。自覚を促したいとは言ったが、心配する迄もなかった。選手は私の掲げた目標、ひいては自分達の夢である優勝を本気で目指そうとしている。最低限必要不可欠な気持ちや意志は、昨年から充分に養われていたのだ。特に気分屋のエース吉田がブルペン入りして五十一球投げ込んだ事には、やる気を感じてグッとくるものがあった。
そして二月一日、監督として初の春季キャンプが始まった。宣言通り、早朝から十時までは練習を強制しない。しかし全ての選手が八時にはグラウンドに出て、ウォーミングアップを開始していた。私とて当然寝ている筈もなく、グラウンドへ出た。ユニフォームを着ると、やはりじっとしていられない。選手に混じってランニングや体操を一緒にこなした。
「監督、おはようございます」
相変わらず選手の統率は取れている。皆が自然と集まり一礼してきた。
「いいから、自分のメニューを続けたまえ。私も一緒に身体を動かそうと思っただけだから、気にせず自分のペースでやってくれ。全体練習までは何も口は出さないからね。もし何か聞きたければ、遠慮なく聞いてくれ」
私の言葉を聞いて、選手は各々ランニングする者、体操する者、キャッチボールを始める者、と分かれていった。私はゆっくり走りながら選手の動きをちらちらと見た。皆、なかなかいい動きをしている。自主トレ期間中に実戦に入れる身体を作ってきている事がうかがえた。
「監督っ」
そんな時、一人の選手から声が掛かった。
「やあ、酒井」
「これからよろしくお願いします」
酒井はランニングを止め、私の元へ来た。
「ああ、期待しているからな、頼むぞ」
見たところ、酒井は入団発表会見の時からまた一回り大きくなったような気がした。太ったのではなく、より筋肉質になった感じだ。
「頑張ります。監督と野球が出来るなんて夢みたいですから」
「くすぐったくなるような事を言うなあ。でも実際にプレイするのは君達選手だからな。私は指揮する立場に回ってベンチにいるだけだ」
親子ほども年の違う青年に憧憬の念を抱かれて嬉しくない筈がない。私は内心照れていた。
「でも、監督に教えていただけるだけで嬉しいんです。ずっとファンでしたから」
「ふふ、しかし今や監督と選手という立場だ。私は君の見ていた、いい面だけの人間じゃないかもしれないぞ」
「監督は結構意地悪ですね。けど、監督がどんな人であれ、ファンだという事に変わりはないですから」
「ありがとな。じゃあキャッチボールでもするか?アップは済んだのか?」
「ええっ、キャッチボール?やりますやります。すぐにアップを済ませるんでお願いします」
慌ててランニングを続ける酒井。私は彼の相手をする為にグローブを取りにベンチに戻った。
「監督よろしくお願いします」
十分もすると酒井はウォーミングアップを終え、グラブを携えて私の前に立っていた。
「よし、まずは軽くいくぞ」
私は久しぶりのボールの感触を確かめるように直球の握りをすると、軽く放った。ランニングや水泳など、身体を鍛える事はしていたが、ボールを握ったのは十月に長男一茂とキャッチボールをして以来だった。
「感激です、王嶋選手とキャッチボールできるなんて……」
私の投げた球を楽々捕球しながら酒井が言う。そして力を抜いたような柔らかいフォームで投げ返してくる。
「バカ言うな、もう選手じゃない監督……」
言い掛けた言葉を噤む程、大きな衝撃が手から全身に走った。軽く投げたであろう酒井の球が、砲丸投げの鉄球のような響きでもってグローブに飛び込んできたのだ。
「さ、酒井、お前軽く投げているんだよな、今は?」
「え、ええ……」
「ならいいんだ……。続けるぞ」
私は何事もなかったようにキャッチボールを続けた。いたずらに球質が重いなどと言って、彼を調子に乗らせても困るからだ。それに朝から詰め掛けている報道陣の注目を浴びるのもマイナスだ。それでなくてもゴールデンルーキー酒井と私のキャッチボール姿は、望遠ながらカメラを向けられていた。余計な情報をわざわざ他球団に流す事はない。
このキャッチボールを経て、今まで以上に酒井のローテーション入りを真剣に考えるようになった。軽く投げてこの球威ならば、本気で投げ込めばバッターが外野へ飛ばす事さえ難儀な球になると予測出来る。少なくとも過去にキャッチボールをした投手でここまでの球質を持つ者は、二人といなかった。高校生レベルでは打てない訳である。星本が何と言うかはわからないが、私は赤く腫れた自分の手を見て、順調に調整が進みさえすれば酒井をローテーションの一角として推していく決心が固まった。
十時になり、ようやく全体練習開始の時刻となった。選手は既に汗を流し、いつでも練習に入れる状態となっていた。見ていた限りでは、誰一人手を抜く事無く自らを鍛えていた。
「よーし、集合」
私は一度全員をグラウンドの真ん中に召集した。そして皆が集まってきたのを見て口を開いた。
「今日からキャンプを始める訳ですが、前々から言っているように、今季の目標は優勝です。それを踏まえて各自自覚を持ってプレイに取り組んで欲しい。それだけです」
「はいっ」
「それじゃ、まず全員でバント練習から始める。投手も一緒だ」
まずは全体練習らしく、チームプレーの代表格といえるバントから始める事にした。戦法的にあまり好きではないが、勝つ為に必要な技術である。投手も入れたのは、連帯感を煽るのと、昨年ランナーがいながら投手のバント失敗機会が多かったからだ。この時、毎日練習の始めはバントから行うと皆に通達した。
確かに下手な選手が多い。ラスト四球連続成功で終わるやり方にしたが、なかなか抜けられない選手が十名以上もいた。残った選手には、直々にキャンプ中での上達を目指すようにと勧告した。
約一時間、バントをした後は投手はブルペン、野手は内外野のメンバーに分かれてティーやフリー打撃か守備練習。私も早速ブルペンに足を運んだ。
ネットの外側にまで、ミットが鳴り響いていた。エース吉田が昨日に続き早くも投げ込んでいた。自主トレ中から投げていたそうで、既に80%近い出来であった。何より速球の伸びが素晴らしい。実際後ろに立って見たが、ブルペン捕手のミットが浮き上がりそうになる程だ。
「いい感じだな」
私は六十球を投げ込んだ彼に声を掛けた。
「いえ、まだまだです」
汗を拭いながら吉田が言う。
「まだいい球と悪い球がはっきりしていますよ。その差が少なくなってこないと」
「いや、しかしこの時期にしてはいいだろう」
「それはそうですが、優勝するならこんなもんじゃ……。俺が二十勝近くは勝たないと。現役から憧れていた監督に恥かかせられませんから」
「吉田……」
驚いた。気分屋の吉田がこれ程までに明確な意思表示を示すとは。勿論、今日の姿も明日になればどうなっているかわからないのが気分屋の特性だが。しかしこの分なら精神面での指導など必要ないくらいだ。
「監督、俺って現役時代打ち易かったですか?」
「何を唐突に……」
「いや、監督の目から見て、どんなピッチャーだったのかなあって思って……」
「そうだなあ、ストレートが滅法速い奴だとは思ったよ。いつも真っ向から勝負してくるしな」
「監督には得意な相手でしたか?」
「うーん、力と力で勝負出来るんで、やりやすい相手ではあったな。ただ、そっちの調子がいい時は手も足も出なかったが……」
吉田との対戦成績は、確か私の方が分が良かったように思われる。ホームランも何本か打っている。ただ、彼の球のキレがいい時には三打席連続三振をくらった事などもよく記憶している。タイプ的にも現役時代の星本を彷彿させる男だった。いつも燃える星本、気分屋の吉田という違いはあったが。
「俺、プロ入って監督を抑える事が一つの目標だったんです。だからその人と同じチームになって優勝目指せるなんて、こんなにやり甲斐のある仕事はないですよ」
「嬉しい事言ってくれるじゃないか。期待しているからな、頼むぞ」
「はい、頑張ります」
模範的な回答だ。本気で言っているらしかった。この気分屋がその気になってくれれば(実際その気になった時の力は凄いものがある)、優勝も近付いてくる。
吉田がブルペンから上がると、今度は酒井が投げ始めようとしていた。私も、自分が最も注目する男の投球に、その場を動かずじっと見入っていた。
長身から投げ下ろされる速球は、先程まで投げていた吉田に優るとも劣らない勢いを示していた。しかもまだ力を抜いている感じだ。
「さすがですね」
酒井の投球に目を奪われていた私に、突如背後から声が掛かった。
「オ、オーナー……」
振り向くと、熊沢オーナーが立っていた。
「彼はすぐにでも使えそうですか?」
「私はそのつもりです。ストレートだけでも充分に通用しますよ。実は今日の朝、キャッチボールをしたんですが、軽く投げた球に重さがあるんですよ。まともに投げたらかなりの球威でしょうね」
「それは良かった。あれだけ期待されている選手だ、活躍して欲しいですからな」
「このまま順調に行ってくれれば、確実にローテーション入りです」
話しながら私達は再び酒井のピッチングを眺めた。相変わらずストレートが強烈な音を発してミットに吸い込まれていく。
「ち、ちょっとタイム……」
突然キャッチャーが立ち上がる。突き指、それとも骨折か、酒井の剛球に手を痛めてしまったらしい。
「わかりますよ、生半可な捕球の仕方では手を痛める、それだけの球です」
「となると、西沢君が捕れるかどうかが大きな問題になりますな」
相変わらずオーナーの指摘は鋭い。大の野球好きの事はある。
「ええ、早くからブルペンに入って酒井の球を捕ってもらいます。それだけじゃなく、彼には打撃面でも今年期待していますから」
「ところでどうです?まだ初日ですけど、フェニックスというチームの印象は?」
酒井の投球が中断した為か、オーナーの話はチーム全体の事に及んだ。
「みんな、こちらが驚くくらいのやる気を見せてくれていて、期待出来ますよ」
「そうでしょう。王嶋さんに憧れているのがたくさんいますから、ウチの選手達は。その憧れの人の為にも優勝したい気持ちが強い筈です」
「そんな、照れますね。私なんかそれ程でもないのに……」
「いやいや、このキャンプの観衆一つとっても全然昨年までとは違います。あなたが監督になっただけで、三倍近く増えておりますから。それだけでも感謝したいくらいです。選手も大きな注目を浴びる事が出来て、幸せに思っとる筈ですよ」
「そう言っていただけると嬉しいです。私自身、まだ戸惑っている状態ですから。勝手に周りが騒いでいる感じです」
「でしょうな。しかし、それもあなたなら仕方のない事だ。それだけのニュースですよ、王嶋茂治が監督をするという事は」
「期待に応えられるよう、頑張ります」
「お願いしますよ、今年は昨年の二位を受けての勝負の年だ、スターズを倒して優勝といきたいですからな」
「え、ええ……」
スターズという言葉が耳に入った途端、動悸がした。そして自分が熊沢オーナーの目の前にいる事がとても申し訳なく思えてきた。全身に汗が滲み出てきて身体が縮むような緊張感すら覚えた。
「頼みますよ。おっ、酒井君が投球再開するようですよ」
オーナーの言う通り酒井が再び投げ始めて、話はそこで途切れた。だが私にはスターズとの密約が頭をよぎり続け、彼の投球に集中する事が出来なかった。バスーン、バスーンと鳴るキャッチャーミットの音だけが、身体を貫くかのように響いていた。
「それじゃ王嶋さん、よろしく頼みましたぞ。また来ますから」
オーナーは酒井の投球を見終えると、仕事があるそうで帰って行った。ようやく心が落ち着いた私もそれと同時にブルペンを出た。
私はこの初日に、主将であり、四番であり、キャッチャーである西沢をよく見ておきたかった。彼は今日はまだブルペンに入らずに、打撃練習に従事していた。
「いい感じじゃないか」
「あ、監督」
黙々とティーバッティングに取り組み、いい当たりを連発している西沢に後ろから声を掛けた。
「気にせず続けてくれ」
私の言葉に反応し、手を休めようとする彼を制し、練習を続けさせた。まずはじっくりと見てみたかった。
「はい」
私はまた打ち続ける西沢をじっと見ていた。下半身の筋肉の付き方がいい。昨年末に見た時よりも盛り上がっているようだ。ツボにはまった時は軽くスタンドに持っていく馬力がある。
だが脆さも同居していた。特に緩急を付けた投球には弱い印象がある。速球とスローカーブもしくはチェンジアップを得意とするピッチャーには滅法抑えられている。それは何故か?
私が見た限りでは、彼のバッティングフォームは軸がブレ易いのだ。自分のいいタイミングで打てれば綺麗なスイングで球を捕らえられるが、少しでもそれが狂わされると身体がブレて芯から外れた所に当たってしまうのだ。勿論、誰だってタイミングをズラされればフォームもおかしくなる。しかし西沢の場合はそれが顕著に表れているのだ。
それは元々身体が突っ込むような姿勢で球を待っているからだと思われる。パワーもあるのだから、球を迎えにいくのではなくて呼び込む構えに修正出来る筈だ。ティー打撃を見ていても、身体が前方に突っ込むようなフォームになっている。今は自分のいい位置、いいタイミングで打てているから良いものの、実戦に入ってからではこうはいかなくなるだろう。
「ちょっとストップ」
「はい」
「もうスイングする身体は出来ているか?」
「はい、大丈夫です」
「よし、じゃあフリー打撃だ、いいかな?」
「はい」
私は西沢にゲージに入るように命じると、打撃投手の元へ駆け寄り、投球に関する指示をした。
「よーし、やるぞ。それも実戦形式でだ。十球程ストレート打ったら、いろいろ混ぜていくぞ」
「はい」
二、三度素振りをした後、西沢はボックスに入って投手に相対した。それを開始の合図と見た投手は投げ始める。
バットとボールがぶつかり合い、快音を発して心地よく響く。ストレートだけと言った最初の数球、西沢は完璧に球を捕らえ、三本の柵越えを放った。確かに大したパワーだ。しっかりとしたスイングで当たった時は、ボールがピンポン玉のように飛んでいく。
「よし、ここから実戦形式だ」
ある程度、気持ち良く打たせたと見た私は実戦形式開始を宣言した。
しばらくは先程同様の快打が続いた。ところがそれが突然鈍い当たりに変わったかと思うと、いつのまにか音が止んだ。しまいには空振りすら連発する始末。西沢の表情にも焦りの色がありありと浮かんでいた。
「ちくしょう……」
苛立ちのセリフが飛び出す程、当たりは湿っていった。打撃投手は何の遠慮もなく投げ続け、まるで機械のようだった。そう、私がちょっとその機械を調節しただけで、あっという間に西沢の調子はおかしくなってしまったのである。