それでも、僕は月を見ているわけにはいかない。
「あぁ、今日は少し長居してしまいましたね。そろそろ、おいとましなくては」
「もう、そんな時間か」
外を監視するモニターを見れば、日は沈みかけ暗闇が空を染め始めていた。
「森の入り口まで送るよ」
僕は彼女を見送るために外着をまとう。
本当は彼女の家まで送り届けたいのだが、僕の外行きの姿は街中では悪目立ちする。彼女に従うゴーレムか何かだと思われるのならいいのだが、食事や持っていける酸素量の問題もあり、僕は常に彼女の側にいるわけにはいかない。
森から来て、そして森に帰るだけのゴーレム。迷いの森で、何かをしているゴーレム。これに不審を感じる者が出て、彼女に何か迷惑がかかるのは避けたいのだ。
僕は彼女の見送りさえ満足にできないこの体を憎い思いを抱きながら、彼女の待つ地上へと向かう。
僕の姿を認めた彼女は笑顔で駆け寄ってくる。そんな彼女がとてもとても愛おしい。僕は彼女の手を取って、外へ出た。
彼女の手の温もりを感じなくとも、手を繋いでいると言う事実だけで、僕は幸せだった。
森の木々のすき間から覗く空に輝くのは青く大きな星。青い月。
「……今日は満月か」
森の合間から差し込む青い月光は、深い闇夜の世界に導を示す。
「……導師。実はね、僕はあの月に行きたいんだ」
僕はポツリと漏らした。
「月に? それで転移実験を?」
「いや、それとは関係ない。これは非常に個人的な夢で……僕はあの月の上で、月の大地に抱かれて死ぬのが夢なんだ」
決して不可能ではない淡い夢。しかし、決して叶えるつもりもない語るだけの悲しい願い。
「何を言うのですか! あなたはまだ若いではありませんか。死に場所を選ぶには早すぎます」
彼女は声を荒げ、僕を見上げる。彼女の青い眼に映るのは、防護服の凹凸の全くない無機質な頭だ。これが僕なのだ。彼女の側にいるには、この硬く醜い姿であるしかないのだ。
「僕は君に会うまでは、あの月で死にたいと、本気でそう思っていたんだ。こんな場所でただ一人生きていても仕方ないだろう? それならば、あの青い月に……ほんの少し、僕の思い描いた淡い希望と共に……あの月へ行って、そして死のうと思っていたんだ。でも、今は違う。たったひとりで死ぬのが怖いんだ。でも、あの月に行きたい気持ちは揺らがない。……僕は迷っている」
あの青い星もまた、僕が生きるには厳しい環境であるのは調査済みだった。しかし、僕の知る地球とは環境が異なっているのだが、あの青い星が非常に恋しいのだ。
「どうしたのです? 今日は」
「きっと月がこんなにも綺麗だから……」
「そういえば、あなたと月を見るのは初めてですね」
空はもうすっかり紺色で、青の月が丸くあった。森の草影で虫たちが涼しい声で唄っている。その虫の唄は草木の揺れる音と共に風に乗って、夜の訪れを告げている。
僕の隣で同じく月を見上げる彼女。月光に照らされた彼女の頬。夜の色に耀く髪。月の光のような彼女の青い瞳。何もかもが淡い光を帯びて、月の色に染められていて。
こんなにも美しい夜を僕は知らない。こんなにも青い煌めきを魅せる月を僕は見たことはない。僕が月に想う遠い憧憬を、今、この瞬間に確かにつかみ取った。心の中に、深く深く刻みつけた。
「……君と見る月は格別だ」
「そうですね。あなたと二人で、月が美しいという感情を共有できるのは嬉しいことです」
そう言って彼女は笑む。その笑顔を僕はこの厚い防護服越しでしか見ることができない、現実とは非常に残酷だ。
今すぐ、この閉ざされた世界から飛び出して、彼女を抱きしめたい。解放された想いを達成したその瞬間、はかなく命が散ってしまおうとも。
「……僕が昔読んだ物語の逸話なんだけれど、異国の言葉で書かれた『I love you』を『今夜は月が綺麗ですね』と訳した人がいたんだよ。その言葉を発する前に、告白には最高の雰囲気が描かれているんだけれど素敵だろう?」
「それは素敵ですね」
「……君と月を見ていたら、ふと、そういう話もあったなぁと思い出した。……ただそれだけだ」
僕らには月が綺麗だという事実以外の意味はない。あってはならない。
「……たとえ、一晩の夢だったとしても幸せを得られるのならば、私は命を差し出してもいいと思うことがあります」
「だめだよ、君が死ぬのは僕は耐えられない」
「それは私も分かっています……」
僕も彼女も、叶わぬ夢を抱いている。何も言わなくとも、お互いに、それだけは分かっている。
「……今夜のような月光は人の心を惑わします。これ以上の光は、お互いに毒にしかなりません。私はもう行きます。……また近いうちに……おやすみなさい」
彼女はそう言って、僕の唇があるであろう場所にそっと口付けをして去っていく。
夜の作る闇に消えてゆく彼女の姿を見送って、僕は目をつぶる。彼女と見る月は美しかった。しかし、月に秘めたその夢を叶えることはどちらかの死を意味する。
彼女にもそれが分かっている。
だから、僕のこの中途半端な愛の囁きを受け止め、そして流してくれる。
「何も問題がなければ、プロポーズしていたのになぁ……」
さらに言えば――これは彼女は知らないことだが、僕と彼女とは外見は似ているが、種として遺伝子的に離れすぎている。この星の人間と僕は、子孫を残すという生物において重要な事柄ができない。僕と彼女は身分も生物としても、何もかもが釣り合わない、噛み合わない。
遺伝子操作やクローンの技術を使えば、僕と彼女の遺伝情報を持った人型の生物は人工的に作れる。そこで作られた二人の子供は、僕とは異なり外の世界で生活できるように作ることも可能である。それを実行できる施設はある。
しかし……その生命を操る技術を、彼女はどう思うだろう。彼女の胎内で育まれないにもかかわらず、生まれてくる二人の遺伝子を継ぐ子供を彼女はどう思うだろう。果たして僕と彼女の血を引く子供だと認識してくれるだろうか。この世界の価値観、倫理観、宗教観。あまりにも知らないことが多すぎて、どのようなことになるのか未知数すぎる。
僕は慎重であり、優柔不断であり、そして、非常に臆病なのだ。
「僕では、君を幸せになんかできない」
父と母と子とが一つの屋根の下で団欒する。一般的な家庭で当たり前に行われている普通の関係を築くことさえも、不可能に近いのだ。
仮に僕がいなくなれば、彼女は僕など忘れて幸せを手に入れてくれるだろうか。
――わかっている、この考えが愚かだということは。僕の勝手なエゴであることは。




