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あなたの心をわたしにください19


◇◇◇


 デイヴィッドがいつものように帰宅をすると、常のように出迎えてくれるはずのアウラの姿が見当たらない。

 彼女はよほどのことがない限りデイヴィッドよりも帰宅が遅くなることはない。

彼女の澄んだ声で「おかえりなさい」が聞けないのもさみしいが、夕食時までどこへ出かけているのだろう。

 デイヴィッドは鞄と上着を自室に置いてファーカー夫人の元へ赴いた。

 料理番と一緒に夕食の準備をしていたファーカー夫人は「お嬢様は午後過ぎにお出かけになられましたよ。お友達のお使いが来ましたので」と告げた。

「友達?」

「ええ。プロイセさんところのお嬢さんでしょう。お使いの方が家の名前を名乗りましたので」

「ああ、なるほど」

 ファーカー夫人は特に心配した様子もない。彼女はもう十七歳なのだ。友人と話し込んで時間を忘れることだってあるだろう。

「お嬢様もお年頃ですからね。話に花が咲いて時間を忘れることくらい、あのくらいの年齢にはよくあることですよ」

 ファーカー夫人がしたり顔で頷いた。

 それはそうだがデイヴィッドとしてはつい心配をしてしまうのだ。

 デイヴィッドはそれから居間でアウラを待つことにした。貸本屋で借りてきた歴史書を広げてみるが、時計の針の音の方が気になってしまう。

彼女の交友関係について、デイヴィッドは特に口やかましくはしていない。一人の女性として尊重するようにしている。

 しかし、日の長い夏とはいえすでに夜の七時を回っている。いくらなんでも遅いのではないか。

 デイヴィッドは上着を取ってきて、家の近所を歩こうか思案する。

 もう少し待った方がよいか、と逡巡しているところでアウラが帰宅をした。

 デイヴィッドはまっすぐに玄関へと向かった。

「アウラ、遅かったですね」

「デイヴィッド、ごめんなさい」

 アウラは顔を下向きにしたままだ。

 デイヴィッドは違和感を持った。彼女はいつもデイヴィッドの目を見て話すのに、今日に限っては目を合わそうとしない。

「別に謝ることではないですよ。あなたも大人な年ですし、友人と積もる話もあるでしょう。ただ、遅くなる時は知らせてください。心配しました」

「ごめんなさい。ちょっと、シモーネのところに寄ったの。そうしたら思いのほか会話が弾んでしまって」

「あれ? クラリス嬢と会っていたんじゃないですか?」

「え、ええと。そうよ、そのあとにシモーネのところにも寄ったの」

 アウラは慌てて言い添えた。

 どうにも歯切れが悪い。デイヴィッドはもう少し尋問をしたかったが、アウラは、「お腹すいちゃったわ。わたし、荷物を置いてくるわね」と言ってデイヴィッドの脇をすり抜けて階段を駆け上がった。

 デイヴィッドは先に食堂へ移動することにする。

 着席をしてしばらく待っているとアウラが席へとやってきた。

「おいしそうね」

 平然とした声だが、デイヴィッドはアウラの顔を注視してしまった。

 瞳が赤かったのだ。

 泣いたのだろう。本人はけろりとしているが、一体何があったというのか。

 デイヴィッドがその場で固まってしまったというのに、アウラは何事もなかったかのように食事を進めていく。

「どうしたの? デイヴィッド」

 途中アウラが手を休めて尋ねてきた。

「アウラ、クラリス嬢となにかありました?」

 デイヴィッドはつい聞いてしまった。

「どうして?」

「瞳が少し赤いので……」

 デイヴィッドがそう指摘をすると、アウラは気まずそうに目をさまよわせた。

「なんでもないのよ。本当、なんでも」

 アウラはこれ以上は聞いてほしくないとばかりに明るい声を出す。

「ですが……。喧嘩でもしたんですか? 彼女と」

 泣くほどの何かがクラリスとの間にあったのか。デイヴィッドは気になってしまい、ついその先を促してしまう。

「まあ、似たようなものかしら」

 アウラは言葉を濁した。これ以上言うつもりはないらしい。

「仲直りはできそうですか?」

「……ほんとうに、なんでもないのよ。大丈夫。クラリスとはこれからもいい友達よ」

 アウラは努めて明るい声を出す。

 このあたりでこの話題からは立ち去った方がよさそうだ。気になるが仕方ない。

「わかりました。もう何も聞きません。あなたももう十七歳ですしね。色々とあるでしょうから」

「そうよ。わたしだってもう十七よ。あなたに知られたくないことの一つや二つあるもの。とくに年頃の女の子はね、秘密ごとがたくさんあるんだから。駄目よ、詮索したら」

 アウラは饒舌に語った。

 言外に女の子の秘密を暴いてくれるなと言われて、確かにその通りでデイヴィッドは降参することにした。寂しさが喉元までせりあがる。昔はわりとなんでも話してくれたのに、とか年寄りじみたことを考えてしまう。

「それでシモーネのところに行っていたのですか?」

 と、このくらい聞くのは勘弁願いたい。

「えっと、まあ。そんなところね。ちょっと話を聞いてもらいたくて」

「僕だってあなたの悩みなら何でも聞きますよ」

「男の人には話せないことだってあるもの」

 アウラはため息交じりの微笑みを見たデイヴィッドは息をのんだ。

 彼女が知らない女性に見えたからだ。

 いつから、アウラはあんなにも大人っぽい顔をするようになったのだろうか。デイヴィッドの知らない間に彼女はたくさんの顔をするようになった。

「辛いところですね」

 アウラがどんどん遠いところにいってしまう気がしてデイヴィッドは胸の奥が痛くなった。


◇◇◇


 しかし後日、デイヴィッドはホテル『ラ・メラート』の従業員から先日アウラが喫茶室に男性を伴って現れたことと、彼女がその男性と口論になり、しまいには瞳に涙を浮かべていたことを聞かされた。

 従業員、いや、喫茶室を任されている店長は念のため、ということでデイヴィッドに知らせてくれたのだ。

 デイヴィッドはこの報告に衝撃を受けた。

 アウラが自分に隠し事をしたことと、彼女が泣いていたということについて。

 あの日はプロイセ家の従僕がアウラに言付けを持ってきたとファーカー夫人は言っていた。

 それを聞いたデイヴィッドはクラリスを思い浮かべたのだが、真実は彼女の兄であるクレイだったということか。

 彼はアウラに執心している。その彼がアウラを呼び出した。内容については簡単に想像がつく。

 デイヴィッドはどうにも消化できないもやもやを胸の内に抱えたままシモーネの住まいを訪れた。

 彼女はとっくにメンブラート邸から出ていっていて、現在ではダガスランドでも高級住宅街とされる区画の一軒家に住んでいる。

 この数年でアウラが少女から淑女に成長したように、シモーネの生活もずいぶんと様変わりをしたのだ。

 デイヴィッドを招き入れたシモーネはあからさまに嫌な顔をした。

 女優としての確かな地位を確立しようと、結婚しようと彼女はデイヴィッドのことが気に食わないらしい。

「それで、わざわざ何の用かしら」

 一応応接間に通してくれ、コーヒーを出してくれるくらいには彼女は常識人だ。

 顔には早く帰れと書かれているけれど。

「先日、アウラが遅くまでお邪魔をしていたようで。お世話になりましたとご挨拶です」

 デイヴィッドはにこやかに切り出した。

「ああ、そのこと。別に遅くまで、って時間でもないわよ。夕食に誘ったのに、家で用意されているからって帰ったもの」

 シモーネは気のない返事をする。

 彼女にとってはまだ宵も宵すぎる時間だったのだろう。

「僕は随分と心配しましたけれどね」

「ああそう。相変わらず過保護ね」

「当たり前です。アウラとあなたは違いますし」

 シモーネの眉がぴくりと持ち上がった。

「あっそ。それで、一体何の用なの? あんたがわざわざうちに尋ねてくるなんて。本題にさっさと入ったら?」

 シモーネは冷たいコーヒーに口をつけて尊大に言い放った。

「そんな偉そうな態度でよく旦那さんに愛想を尽かされませんね」

「いちいちうるさいわね。嫌味言いに来たら追い出すわよ」

 デイヴィッドは少しだけ切り出しにくい話題の前にとりあえず食前酒代わりにシモーネをつつくことにしただけのことだ。

「いえ。心配しているんです。あなた、女優といっても色物ですし」

「ほんっと失礼な男ね! 幅広い演技ができる大人の女優って言われているんだから!」

「いえ、それに騙されて旦那さん捕まえるんだから大したものですよ。銀行家の旦那さんなんて大物捕まえましたね。僕はあなたはてっきり独身を貫き通すものだと思っていたので」

「あら、とことん惚れさせてこっちの優位な条件で結婚してくれるって言うんだからいいじゃない」

 シモーネは口を弧のように持ち上げた。

 二十代中頃になり、妖艶な色気が加わったその笑みは多くの人を魅了する。

 悲しいかなデイヴィッドにはさっぱりその良さがわからないのだが。


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