あなたの心をわたしにください9
◇◇◇
朝起きたアウラは階下へと降りて行った。
「デイヴィッドは?」
ファーカー夫人に問えば、「旦那様は夜分遅くにお戻りになりましたけれど、まだ眠っておられるようですよ」と帰ってきた。
昨日は待っていたのにアウラの起きている時間には結局帰って来なかった。
夜は冷えるから眠ってくださいとファーカー夫人に諭されてしぶしぶ寝台へともぐった。
アウラに与えられた仕事のうちの一つ。
それは彼におかえりなさいということで、アウラがデイヴィッドに与えることのできる言葉の一つ。仕事を取り上げないでほしい。
アウラは二階へと舞い戻った。
昨日も女性と一緒だったのだろうか。
自問してからアウラは自分で答えを導き出す。たぶんそういうことなのだ。
アウラは気持ちが沈むのを自覚した。
自分は駄目でよその誰かはいいなんて、意味がわからない。
アウラはデイヴィッドの寝室の扉をそおっと開けた。
デイヴィッドはまだ夢の中ということか。
もう少し寝かせてあげた方がいいのかな、それとも起こしたほうがいい?
今日もきっと仕事だろう。
だったら起こしたほうがいいかもしれない。
アウラは寝台の傍らに立ってデイヴィッドを覗き込んだ。
「ねえ、デイヴィッド起きて。朝、朝」
アウラは声をかけた。
デイヴィッドはうんともすんとも言わない。眠りこけたままだ。
今度は体を揺することにする。
屈んで彼の体に近づくと、ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐった。
心臓がどきりとした。
(やっぱり女性といっしょんだったんだ)
嫌なことには目をつむることにしてアウラはデイヴィッドの肩を揺すった。
「デイヴィッド起きて。お仕事でしょう。朝食ファーカー夫人が用意したし、もう準備できている」
彼の耳元で長い台詞を吐けば彼はくぐもった声を出した。
「起きた?」
「うーん……」
デイヴィッドは薄眼を開いた。
アウラは嬉しくなって彼の顔を覗き込んだ。
「……オーリィ?」
彼が女の名前をつぶやいた次の瞬間。
デイヴィッドはおもむろに腕を伸ばしてきてアウラを引き寄せた。
「あ……」
アウラはデイヴィッドの胸の上に倒れこむ。
デイヴィッドはもう片方の腕をアウラの背中に回した。
寝ぼけているのだろう、そのままアウラの首筋に顔をうずめてきた。
アウラは緊張して動けなくなる。
いつかの状況が頭の中に渦巻いた。
違う、彼はおばの息子じゃない。デイヴィッドはただ寝ぼけているだけ。
アウラは必死に自分に言い聞かせる。
「オーリィ……好き……です」
彼の吐息交じりの言葉を耳が拾ったとき。アウラの心臓が凍り付いた。
嫌だ、と思った。アウラを抱きしめているのに、別の女の名前を彼はつぶやいた。
動きを止めたのは一瞬で、すぐにアウラは強い力でもがいた。
「やっ……」
アウラはどうにかしてデイヴィッドの腕から逃れた。
「デイヴィッドの馬鹿!」
アウラは思い切り叫んでそのまま部屋を飛び出した。
◇◇◇
なにかまずいことをしてしまった気がするとデイヴィッドは一応自覚をしている。
なにしろ朝一番に聞こえた声が「デイヴィッドの馬鹿」である。
寝ぼけたデイヴィッドがアウラに何かをしたに違いない。というかそうに決まっている。
酒を飲んで眠りこけた男の部屋に勝手に入ってきたアウラもアウラだと思うが、ここは全面的に自分が悪かったと謝るところだろう。
デイヴィッドは帰りの馬車の中で何度も帰宅後のシミュレーションを脳内で繰り広げた。
結局朝はそれどころじゃなかったのだ。
完全に寝坊だったデイヴィッドは身支度を整えるや否や家から飛び出した。
そういえば今日は銀行家と会合の予定が入っていた。
まずいまずい、あやうく遅れるところだったと行きの馬車の中で安堵のため息を吐いて、それからアウラのことを思い出したくらいだ。
デイヴィッドは憂鬱な気持ちで自宅の扉を開いた。
「おかえりなさい」
アウラは今日もきちんと出迎えてくれた。
背中に垂らしたままの銀色の髪は、同じ年頃の少女らに比べると少し短い。
長い移動生活の最中邪魔だから少し切ったと言っていた。
丁寧に梳かされた髪は玄関広間の明かりを反射して光り輝いている。頬には赤みが戻っており、出会った頃よりもだいぶふっくらと健康的になった。
「……ただ、いま」
中紅花色の室内着には裾に花模様が刺繍されている。オルフェリアほどではないが、アウラも整った顔立ちをしている。
というか、メンブラート家の娘たちは皆それぞれ世間の基準よりもだいぶきれいな顔造りなのだが。
アウラはじっとデイヴィッドを見つめて、それから何を思ったのか突然にデイヴィッドに抱き着いてきた。
「えっ……と。アウラ?」
さすがに意味が分からなくてデイヴィッドはアウラの名前を呼んだ。
アウラは応えない。
そのままじっと両腕をデイヴィッドの背中に回したままだ。
「アウラ何をしているんです?」
二回目の問いかけでアウラはあデイヴィッドから離れた。
「実験」
彼女の口からでた返事はデイヴィッドの予想を超えたものだった。
「意味が分かりませんが」
「分からなくていいことだから」
「はあ」
生返事をするしかない。
(さすがに十四歳の考えることにはついていけませんね。これが年を取るってやつですか)
デイヴィッドは今年二十七になる。
目の前の少女とはだいぶ年が離れている。
「今日は早かったのね」
「え、ええまあ」
微妙にあてこすられているらしい。
「ええと、アウラ。今朝のこと謝らせてください。寝ぼけていたとはいえ、僕はあなたに失礼なことをしたのでしょう?」
デイヴィッドは自分の用事を済ませることにした。謝らないことにはどうにもすっきりしない。
デイヴィッドの謝罪の言葉を聞いたアウラはしばしのあいだ黙り込む。
「デイヴィッド、もしかして……覚えていない?」
「面目有りません」
デイヴィッドは項垂れた。
実はなんにも覚えていない。
馬鹿と言われた前のことは記憶にないのだ。だから相当酷いことをやらかしたのだろう。
「そう。ならいい。別にそこまで酷いことじゃなかったし」
「そこまでって、それ聞かされるとあのときの自分を殴りたくなるので、とりあえずアウラ、一発僕を殴ってください」
「どうして?」
「寝ぼけていたとはいえ、あなたが馬鹿と言うくらいには最低なことをしたのでしょう?」
アウラは首を横にした。
「わたしはあなたを殴らない。この件はこれで終わり。わかったら上着を脱いできて。夕飯できている」
「あ、はい……」
結局主導権を握られたままこの会話は強制的に終了となった。
◇◇◇
もちろんアウラの中ではまったくもって消化不良だ。
けれど覚えていないデイヴィッドに何かをしてほしいわけではない。謝罪もいらない。だって、アウラは特に嫌ではなかったから。最初こそ固まってしまったけれど、デイヴィッドが相手なら別に嫌悪することではない。実際にあの日の夕方に帰ってきたデイヴィッドにアウラは抱き着いてみた。結果は良好。まったく嫌な気持ちにはならなかった。
消化不良の原因は彼が口にしたオーリィという名前について。
アウラはこういうとき誰に聞けばいいのかわかっている。
「で、私のところに来たってわけ?」
「うん」
シモーネは面倒そうな声を出したが、一応部屋の中へ招き入れてくれた。
ピアノの練習の後のことだ。
最近になってアウラにはロルテーム語の家庭教師もつくようになった。
デイヴィッド曰く、普段の話し相手が自分とシモーネだけではアウラのロルテーム語能力が著しく偏るからです、とのことだった。
妙に鬼気迫った顔でずいと迫られたのでアウラはうっかり首を縦に振ってしまった。
「あのね、オーリィって誰のことか教えてほしいの」
シモーネは飲みかけていたカップから口を離した。
「誰から聞いたの?」
「デイヴィッド」
「じゃあ彼に問いただせば?」
「だって、デイヴィッド寝ぼけていたもの」
眉根を寄せたシモーネにアウラは先日の出来事を話して聞かせた。
話を進めていくとシモーネの眉間にどんどん皺が寄っていった。
「なるほど……。どうしようもないわね、あの男」
それが彼女の第一声だった。
「それで、オーリィってシモーネも知っている人? あの人、好きですって言った」
「聞いてどうするの?」
「わからない。でも、知らないのはいやなの。わたし、デイヴィッドのことなら何でも知りたい」
アウラは真摯に言い募った。
嘘じゃない。人には知られたくないことがあることくらいわかっている。
アウラだって、父を失ってからのことでまだデイヴィッドに話せていないことはたくさんある。
「あんた、デイヴィットのこと好きなの?」
アウラは考えた。
彼が帰ってくるのを出迎えるのが好き。デイヴィッドのただいまを聞くと心が温かくなるし、おかえりなさいと返した後、彼が少し嬉しそうに目を細めるとアウラも嬉しくなる。
一緒にご飯を食べるときのたわいもない会話や、アウラの好きな食べ物を自分の皿から分けてくれるときの彼の声音。
そういう小さなことがアウラにはたまらなく大切なことに思える。
「うん。わたし、彼のこと好きよ」
「わたしが前に言った言葉覚えている?」
「だって、好きになっちゃったんだもん」
アウラは素直に認めた。
深入りなら十分にしたし、たぶんシモーネの忠告は正しかった。
彼のような大人はアウラには手に負えないのも分かっている。
「あーあ、デイヴィーも酷い男よね。こんな純粋な女の子拾うんだもの。今からでも遅くないからやめておきなさい」
「無理。だって、止められない」
アウラは即答した。
認めてしまえば好きという感情はあっさりとアウラの心の中に居場所を作った。
「苦労するわよ」
「今現在しているって自覚ならある」
「それは結構なことね」
「だから、本題。オーリィって誰?」
シモーネはカップに口をつける。
そして観念したように立ち上がる。
「おいで」
アウラも続いた。
屋根裏部屋から階下へと降りていく。
シモーネが立ち止まったのはメンブラート家のお嬢様の部屋の前だった。
アウラはぎくりとした。
「察しの通り、オーリィはバステライド様の娘よ。彼の三女でオルフェリア・レイマ・メンブラートっていうの」
かつてのこの部屋の持ち主。
デイヴィッドは言っていた。彼女がこっちにもどってくることはない、と。
「わたし彼女のドレス使っていた」
「悪趣味なことすると思ったわよ。好きだった女のドレス着せて。しかも、同じ瞳の色をしたあんたに」
「同じ色?」
「そう。オルフェリアはあんたと同じ紫色の目をしていた」
開き直ったのかシモーネは色々なことをアウラに教えてくれた。
彼女がこちらへ連れてこられた理由と、彼女には婚約者がいたこと。それからデイヴィッドがオルフェリアに横恋慕をしていたこと。
恋人と別れさせられたオルフェリアはバステライドと一緒にダガスランドへとやってきた。前から彼女に懸想していたデイヴィッドはオルフェリアを口説いていた。
けれど結局はダガスランドまで追いかけてきた元婚約者の手を取った。
「最初にオルフェリアの残したものを取りに来たときはわたしが部屋の中まで入ってね。適当に見繕ったの。行き倒れた女の子を介抱して、彼女用の着替えが必要だとかなんとか言われて」
デイヴィッドがどこからか調達してきた室内着や日常着。
「ま、最初は必要に駆られてというか、再利用って意味もあったんだろうけど。あんたってばあの子と同じ目の色しているし」
「わたし、オルフェリアに似ているの?」
「うーん、正直言うと顔はオルフェリアの方がきれい。人形みたいにね、きれいな顔をしている子なのよ。あの子くらいにきれいな子、わたし前の劇団で一人知っているくらい」
シモーネははっきりと言ってくれた。
自分よりもきれいな女の子。
この部屋に住んでいたデイヴィッドの想い人。
「デイヴィッドはまだオルフェリアのことが好きなのかな」
「寝ぼけて言ったんでしょ」
「うん」
アウラは鉛球でも飲み込んだかのように体が重くなるのを自覚した。寝ぼけていたからこその本心なのだ、きっと。
「最初っから最後まであの子がデイヴィッドを相手にすることなんてなかったわよ」
「どうして? デイヴィッド優しいのに」
アウラは思わず反論した。
「あんたにとってはいいことでしょうが。それとデイヴィーのどの辺が優しいの?」
シモーネは心底理解できないといった口調だ。
「え、全部」
「すり込みってこわいわー」
オルフェリアがここに住んでいた痕跡は主に彼女の残していったドレスや宝飾品だけで、それも全部バステライドが勝手に作らせたものだけという話だった。
全部あの子がそでを通したってわけでもないはずよ、とシモーネは付け足していたけれどアウラにとって重要なのはそういうことではない。
問題は彼がまだオルフェリアを好きかどうかということ。
あんな風に寝ぼけ眼で名前を呼ぶだなんて。
まだそんなにも彼女に心を預けているのだろうか。
アウラは彼女と同じ目の色だったから彼に拾われた。そのことがショックだった。
彼にとってはアウラはオルフェリアの身代わりなのだろうか。
手に入らない女性の代わりにアウラを手元に置くことにしたのだろうか。だったら、早く手を付けてしまえばいいのに。
他の女性は抱くのに、アウラには一切手を出さないなんてそんなのあんまりだ。
アウラは暗雲たる気持ちで帰路についた。




