あなたの心をわたしにください6
◇◇◇
「あんた、あの男に気を許しちゃだめよ」
ある日そんなことを言ってきたのはシモーネだ。
バステライド・メンブラートというのがこの屋敷の持ち主の名前で、あれからアウラはこの無人の屋敷へと通っている。
「デイヴィッドのこと?」
「それ以外にいないでしょう」
デイヴィッドはビアノの教師をアウラにつけてくれた。久しぶりで勘がにぶっているでしょう、と余計な気をまわしてくれたのだが確かに以前よりも指が動かなくなっていたから彼の推測は正しかった。
十二月も中頃に近づき、たまに小雪が舞う。
ピアノの練習の日にはアウラが先にメンブラート邸へ行く。女中も一緒に行って火を起こして部屋を暖めておいてからピアノ教師を招き入れる。そういう日はデイヴィッドはあらかじめ菓子を女中に渡しておいてくれる。
ファーカー夫人ではなくて、アウラの看病をしてくれた女中である。彼女はチャコン夫人といって、アルンレイヒ系アルメート人。彼女は素性も知れないアウラに対していまだに素っ気ない態度だ。
けれどアウラにしたらそちらのほうが逆にありがたい。
「あの男は質が悪いわよ。利用こそすれ、情を移さない方がいいわよ。それがあんたのためってもんよ」
現在アウラはシモーネと二人台所の隣の小さな食堂でお茶をしている。使用人用の区画である。
クッキーをかじったシモーネはしたり顔でアウラに諭してきた。
「利用するの?」
「せっかくいい生活させてもらっているんだから利用してやる、くらいの気持ちでいた方がいいわよ。あ、でも愛人になったらだめよ」
「あい……じん?」
「そう」
シモーネの言葉は難しい。
十四歳のアウラにはよくわからない大人の事情が混じっていて、アウラはどこまで聞いていいのか分からなくなる。
彼女は最初こそアウラを観察していたが、お互いに少しずつ素性を明かしていった今ではかなり打ち解けてきたと思う。
お互いに生まれはディルディーア大陸で、縁あってダガスランドへと流れついた。
たぶんそういうところで似たなにかを感じ取ったのかもしれない。
「あいじんってなに?」
「そこからか」
そんな言葉アウラの人生では一度も耳に入ってきたことはなかった。
「愛人って言うのは……むずかしいわね。要するに生活させてもらった見返りにデイヴィッドと寝るなってことよ」
「一緒の寝台で寝るの?」
「あーもうっ。そこからか」
シモーネは天を仰ぎ見た。実際に見えるのは天井だが。
「今はあの男、あんたの後見人ってことになっているんでしょう」
シモーネの言葉にアウラはこくんと頷いた。
デイヴィッドは仕事が早い。
『僕はあなたの後見人ということにします。僕がかつてリューベルンの大学で研究発表に行った際意気投合した教授の娘がアウラ、あなたです。あなたはダガスランドで僕と偶然出会った。そして持っていた手紙からあなたの素性を知った僕は縁あった教授の娘さんであるアウラの後見人となることを申し出た、こんなところでしょうかね』
とある日彼は書類をそろえて言ったのだ。
要するにアルメートでのアウラの身辺監護をする人間になるということで、ダガスランドの住民登録まで済ませてきた。
住民登録をして、一定期間問題なく過ごすとアルメート共和国の国籍を申しこめる権利を得ることができるらしい。
移民国家であるアルメートには大勢の移住希望者が海を渡ってやってきており、そういう人たちのために政府は移民制度を整えている。
デイヴィッドはほかにもアルメートの歴史や政治に社会制度など色々と教えてくれたけど、アウラにとってはまだ難しい。
「だから、後見人とその養い子の範囲を逸脱しなきゃいいのよ。あいつと……ちがうな。あいつにそれ以上の感情を持ったらだめってこと」
「それ以上の感情?」
「好きになるなってこと」
「シモーネはデイヴィッドのことを好きなの?」
「はあっ? 違うわよ。なんでわたしがあんな胡散臭い奴」
シモーネは心外そうに大きな声を出す。
「だって。いきなりそんなこと言うから」
アウラは最初シモーネがやきもちを焼いてアウラに釘を刺したのだと思った。
「ごめん。わたしにはあの男の相手は無理」
「そのわりには仲良しさんにみえる」
アウラは平素からぽんぽんと言いたいことを言い合う二人を頭の中で再生する。
「それはわたしとあいつは同じ人物、バステライド様にお仕えしていたからよ。ま、元同僚って間柄ね」
「同僚」
それからシモーネはかつて一緒に働いていたときのことを少しだけ話してくれた。
内容は主に、そのときのデイヴィッドがどれだけ嫌味で鼻持ちならない男だったかということで、アウラも話のいくつかには同意を示した。
たまに彼は人を食った言い方をするし、本心を見せないところがある。
「あいつ人の所属する劇団員の女二人同時に手を出したのよ。信じられなくない? 普通同じ場所で同時に手を出す? いくら向こうから誘われたからって。ばっかじゃないの、って思うわよね」
「ええと……うん」
手を出すとかいまいち意味が分からなかったけれどシモーネの気迫に押されたアウラはとりあえず頷いた。
「とにかくさ、わたしは一応あんたの心配をしてあげてんのよ。あんたみたいな子供があいつにころっと騙されるのはさすがに、ね」
「だまされるの?」
アウラはきょとんとする。
もしかして今優しくしておいてあとでアウラを売り渡すのだろうか。などと聞いてみたら「さすがにそれはないわよ。たぶん」という答えが返ってきた。
「と、とにかくわたしがいいたいのは、あいつに情を移さないで踏み台にしてやれって話よ」
シモーネの話はそこで終わった。
◇◇◇
シモーネとの会話は難しいことばかりでアウラにはいささか消化不良なことが多い。
彼女はアウラを対等とみなしているようで、言葉を真綿に包んだりしない。
けれど今日の言葉はいつもよりも歯切れが悪かった。
アウラはデイヴィッドの帰りを待っていた。
こういう時に限って彼の帰宅は遅い。
アウラは律儀に待っていたのだが、さすがに遅くって、ファーカー夫人が先に夕食を食べるように促してきた。
夕食を食べ終わって、居間で根気強く待っていた。結局彼が帰ってきたのは夜も十時を回ったころのことだった。
ようやく帰宅をしたデイヴィッドは少し酔っているようだった。
「おかえりなさい、デイヴィッド」
「ただいま、アウラ」
デイヴィッドはぽんっと頭の上に手のひらを乗せてきた。
初めての仕草にアウラは少しだけ驚いた。
彼はアウラの横をすり抜けて階段を上がっていった。
ふわりと香水の匂いが漂ってきたのは彼がアウラのすぐ横を通ったとき。
いつもとは違う香りを身にまとわせた彼にアウラは素早く反応した。
反応したが、彼に何を言っていいのか分からなくてそのままそこに立ったままになった。
よほど香水のきつい女性と一緒だったのだろう。
それにしてもこんなにも遅くまで?
これも仕事の内なのだろうか。
わからないけれどアウラの心はざわめいた。
アウラはどうして香水一つにこんなにも反応してしまうのか、自分の気持ちもよくわからなくてその日はそのまま自室へと引き上げた。
結局香水のことは聞けないまま日にちだけが過ぎて行った。
そのことがあってアウラは気が付いた。
アウラがこの家に拾われてからも、彼が普段よりも少しだけ帰りが遅かった時が何度かあった。
そんなとき、彼はアウラの「おかえりなさい」という言葉に対して少しだけ素っ気なかった。
香水のことまでは覚えていないが、誰をも近寄らせない独特の雰囲気を漂わせていた。あのときも、もしかして……。
アウラの中で悶々とした感情だけが育っていく。
どうしてもデイヴィッドに聞くことができなくてアウラはシモーネを頼ることにした。
そろそろ年も終わろうかという頃で、ピアノ教師も今年の営業は終いとのことで、アウラはデイヴィッドから買ってもらったお菓子を持ってメンブラート邸へ訪れた。
女優をしているシモーネの生活は決まったサイクルにはないらしく、今日はどうかな、と思ったが彼女は果たして自室にいた。
ただしひどく眠そうだったけれど。
「どうしたの? こんな年暮れに」
「わたし一人じゃ解決しなくて」
アウラは部屋に置かれた椅子に腰を下ろした。
「なにが?」
「あのね……デイヴィッドから……その……たまに香水の香りがするの」
「あいつだって香水の一つくらいつけるでしょ」
「そういうのじゃなくて……」
アウラはきゅっと膝の上で手を握った。
「たまに、女性がつけそうな甘い匂い。させて帰ってくる」
気になるのに彼には聞くことができない。
でも、直感が告げている。
これはとても嫌なことだと。
「あー、そっちか。あいつめ」
だから子供なんて拾うからとシモーネは口の中でぶつぶつとつぶやいている。
「ねえ、どういうことだと思う?」
「どういうことって……」
シモーネは視線を左右に彷徨わせる。
言いよどむ様に唇を何度か湿らせている。いつも明快な彼女からはおよそ遠い態度だ。
「シモーネなら答えわかる?」
「あー、まあね」
シモーネは乾いた声を出した。
「教えて」
「教えてって」
「だって。デイヴィッドに聞いても絶対にはぐらかされる」
「でしょうね」
「だからシモーネのところに来た」
「わたしなら教えてくれると」
「うん」
シモーネはしばしの間黙り込んだ。
「ま、いいか。いずれ知ることになるんだし、あいつの側にいるんならちゃんと知っておいた方がいいわよね、うん」
シモーネは一人で勝手に納得したようだ。
とりあえずアウラの望み通りデイヴィッドの行動について教えてくれる気になったらしい。
「あいつが女物の香水の香りを移されているってことは要するに、あいつが女と一緒に過ごしていたってことでしょう」
「過ごすと香りってつくの?」
「ま、たっぷり香水つけていたら一緒に食事しただけでもつくでしょうね。でも、レストランでそんなんつけまくっていたらマナー上よくないわよね」
だからもっと親しい距離で男女が過ごしていたってことでしょう、と彼女は続けた。
親しい距離というところでアウラは反応した。




