ユーディッテ 冬の休暇4
ユーディッテは大きく息を吸い込んだ。
おなかに力をこめる。
口を開くと空気が振動した。
ユーディッテは、豊穣を祝い大地へ感謝をささげる歌を歌う。
豊かな実りに感謝をし、次の年も変わらぬ豊穣を願う、フラデニアに伝わる歌で、昔リエラに教えてもらった。
ユーディッテは目をつむって、ただただ歌う。
この声が、大地へ空へ響き渡りますように。
恵みに感謝を。
実り豊かな年を願う。
ユーディッテは一曲を歌いきる。
ほうっと息を最後に吐ききって、瞳を開いた。
いつの間にか、ユーディッテを囲むように人の輪が出来上がっていた。
人々は動かない。みんなの注目を浴びているユーディッテは、自分を囲む人々に視線を巡らせる。
そして。優雅に一礼をした。
人々は、まだ微動だにしない。
動かない人々の合間を縫うように、ぱちぱちと拍手の音が鳴り響いた。
リシィルだ。
「すごいね。なんていうか、空気が震えた。これは、フラデニアの歌?」
リシィルだけがいつもの通り、よく通る声を出す。
にっこりと愛嬌のある笑顔でユーディッテに質問をする。
「ええ。フラデニアに伝わる、大地への感謝の歌。なんとなく、今の場に相応しいかな、なんて思って」
フラデニアもアルンレイヒも同じフランデール語を話す。聞きなじみのない歌でも、共通言語を話すから意味は分かってもらえると思った。
「うん。なんかいいね。心にしみた」
「ありがとう。こんなことしかできないけれど。喜んでもらえればいいなって思ったの」
ユーディッテは肩をすくめた。
「い……いやあ。素晴らしい!」
最初に声を出したのは村長だった。
村長が拍手をしたのに合わせてようやく村人たちは動きを取り戻したかのように、それぞれが拍手をする。「すごかった」「生まれて初めてこんな素晴らしい歌声を聞いたよ」「冥土の土産にいいものを聞かせてもらった」「お姉ちゃん、すごい」とか、みんな口々に感想を述べる。
最初の衝撃から立ち直った住民たちはわっとユーディッテに駆け寄ってきた。
「さすがリシィルお嬢様のお友達だ。とても歌がお上手だ」
「おねえちゃん、ほかのお歌は歌える?」
「こんな田舎までよくお越しになりました」
口々に話しかけられ、ユーディッテは丁寧に受け応えていった。
「皆さん。ありがとうございます。わたしこそ、今日はとてもおいしいお酒をごちそうになって、お土産までもたせてくださって、わたし本当にうれしくって。だから、その……わたしにできることは、歌を歌うことくらいしか思いつかなくて……その……」
「ユーディはフラデニアでも一二位を争うくらい有名な女優さんなんだ」
と、ここでリシィルがユーディッテの正体を明かした。
「僕女優なんて初めて会った!」
「そうか。せっかくだから頭でも撫でてもらったら」
リシィルがそんなことを言うものだから、少年は顔を真っ赤にして母親と思わしき女性にしがみつく。
「本当に、本当にいい歌を聞かせてもらいました」
「女優さんの歌なんて、こんな田舎じゃ滅多に聞けるものでもないので」
女将たちは口々に言う。
「でもその。わたしアルンレイヒの歌をあまり知らなくて。せっかくなのに、もっと皆さんがなじんでいる歌じゃなくて申し訳ありません」
「いやいや。知らない曲だったけれど、大地への感謝をささげる歌だろう。とてもよかった」
「ああ。来年もきっと豊作になる」
今度は村の旦那衆がしみじみと頷く。
「そうだねえ。大地への願いの歌だしね」
と、女たちも同意をする。
「ねえねえ。わたしにもお歌教えて」
今度は小さな女の子がユーディッテのスカートのすそをくいっと引っ張る。
「もちろんよ」
ユーディッテはにこりと笑った。
「悪いね。時間を取らせちゃって」
帰りの馬車の中。リシィルの言葉にユーディッテはゆっくりと頭を振った。
「いいのよ。わたしこそお礼を言わせて。わたし、とても……とても楽しかったわ。もうずいぶんと味わってこなかった。こういう気持ち」
「こういう気持ち?」
リシィルは意味を図りかねたらしくて、ユーディッテの最後の言葉を復唱した。
「職業で歌を歌っていると、いつの間にか歌うことになれてしまうの。もちろん、毎回誠心誠意、気持ちを込めて歌っているわ。だけれど、それでも慣れっていうのがあるのね。それでなくてもここ最近少し考えることが多くて、頭がいっぱいだったの」
ユーディッテは自分の気持ちを整理しつつ言葉を紡ぐ。
リシィルは何も言わずに耳を傾けている。
だからユーディッテはそのまま続けた。
「わたし、そろそろお役目ごめんらしいの。もちろん運営本部からそういう話を受けたわけではないけれど、なんとなく感じるのよね。そろそろ、おまえも次の進路を考える時なんじゃないかって」
「次の進路?」
「うん。娘役を長く続けて来たけれど、リエラが退団をしてウルリーケが男役トップになって、娘役も世代交代かなっていう雰囲気がね、どうしても起こるのよ」
長くトップを張り続けることは誰にでもできることではない。
ユーディッテは確かに実力も人気もあるけれど、やはり年齢的にそろそろ、などという意見が出るとどうしようもない。
「ユーディはどうしたいの?」
「わからないの。だからなんだか居心地が悪くて」
ユーディッテは肩をすくめた。
娘役をずっとやりたいか、と言われれば答えは否だ。女優としていろいろな役を経験してみたい。
メーデルリッヒ女子歌劇団はファン層が限られている。女性の夢を具現化した劇団だから、おのずと公演の内容も毎回テーマが似通る。
悪役も面白そうだし、母親役もやってみたい。悪女ってどう演じたら深みが増すのだろう、などと考えるのも面白いと思う。
けれど、ここで女組を退団した後のことを考えるところで足踏みをしてしまう。
「結局わたしは怖いのね。メーデルリッヒ歌劇団、男女ともに在籍する通常組に移って、そこで居場所をつくっていくのが。女組は特殊だから。色々と言われるのよ。演技が狭すぎるとか、同じ演技しかしたことがないくせに、とか」
「誰だって未知の世界に飛び込むのは怖いさ」
「あなたもそういう思いをすることがある?」
「まあね」
「例えば?」
「内緒」
「ずるいわ」
「ユーディは自分から話したじゃないか」
「それは、そうだけれど」
ユーディッテはぷうっと頬を膨らませた。
その顔を見たリシィルはふっと口元をほころばす。
考えるように、馬車の窓から外を眺める。
それから、口を開いた。
「わたしはトルデイリャス領から出ていくことが怖い。ここ以外で生活をする自分が想像できない。わたしはずっと領地で育ってきた。旅に行くとかそういうのじゃなくて、故郷から出て行って別の土地で新しい生活を始めるっていうことが、わたしには想像できないんだ」
「でもあなた。ルーヴェにいるときも楽しそうにしていたわよ」
「あれは短期滞在だったから。帰る場所があるから楽しめた」
「他の土地に行っても、ここがあなたの故郷であることには変わりはないわ」
「うん。そうだろうね。リュオンが大きくなってお嫁さんをもらって、そうしたらわたしの役目は終わるだろうね。そのときわたしはどうしているんだろう」
リシィルは寂しそうに外を眺める。
その横顔が、頼りなげな幼子のそれと重なった。
「あなたも、不安なのね」
ユーディッテはぽつりとつぶやいた。
ユーディッテも窓の外を見やる。冬の日暮れは早い。そろそろ太陽は西の地平線に隠れようとしている。
今日は楽しかった。
ああして直接歌の感想を言われるのは久しぶりだった。
舞台と客席の距離はどうしても一定に開いていて、歌った直後に素直な感想をもらうということがあまりない。もちろん支援者のサロンに招かれればそこで歌う。
けれど、そのときとも違う高揚感がユーディッテの体の中に沸き起こっていた。
(なんて新鮮なのかしら)
ユーディッテは知らずに笑みを浮かべる。
嬉しそうに笑った少女の顔が忘れられない。
歌い方を教えてあげたら「わたしも将来はお姉ちゃんのようにお歌を歌える人になるかな?」とはにかみながら聞いてきた。
ユーディッテの両親は共に舞台に携わる人間で、物心ついたころから歌や舞踊の練習をしてきた。
だから、ああいう風に歌を歌う人になりたい、なんて思ってことがなかった。
歌うことがユーディッテの日常では当たり前だったから。
(わたし、歌いたいわ。たくさん!)
結局、将来の不安とかそういうものを抱えていても、最後に残るのはこの気持ちだった。




