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10/65

旅立ちの日

 カテリーナがモンタニェスカ領から帰ってきた年の冬。

 アルンレイヒとザイエンの戦争が始まった。

 王太子自らが戦地へ赴き指揮を執ることになった戦はなんだかんだと長引き春が終わり初夏に差し掛かろうというころ終わりを迎えた。徹底抗戦を構えたザイエン王家だったが、持久戦ではあっけなかった。

 リューベルン連邦の皇帝が連邦軍を出撃させなかったからだ。そんなことをすればフラデニアやその他周辺諸国も黙っていない。またアルンレイヒにちょっかいをかけているうちに今度は内部で反乱がおこらないともかぎらないからだ。

 政治とはなかなかややこしい。

 どうしてカテリーナが遠い北の国境沿いで起こった戦のことを気にするかといえば、彼女の仕えるオートリエの義理の息子がモンタニェスカ領に駐屯する部隊の指揮官として赴任しているからだ。

 それとは別のところで。

 カテリーナはモンタニェス領で久方ぶりに旧知の人間と一瞬だけ邂逅した。

 カテリーナの中ではもう終わった話なのに。

(どうして死んだ人間から手紙が来るの?)

 パニアグア侯爵家宛てに届いた郵便の中に、懐かしい人物からの手紙が紛れ込んでいてオートリエが届けてくれた。それが今朝のことだった。彼女の中でこれをカテリーナに渡すかどうか悩んだらしい。一晩考えて、『やっぱりあなたに渡して、あなたが読むかどうか決めた方がいいと思って』という結論に達したらしくオートリエの朝食が済んだあとに渡された。

 カテリーナは封筒の差し出し人の名前を読んで突っ込みを入れた。心の中でだ。

 封筒の差し出し人の名前はジョルシュ・ホッフマン。リューベニア系フラデニア人で、カテリーナの恋人でしんでしまった相手。

 どうやらジョルシュ改めアウグストはカテリーナの所在をつかんだらしい。

 手紙には『天国からこんにちは』と書きだされていて読んだ時に思わず脱力した。

 天国からってなんなんだ。勝手に死んだことにした嫌味だろうか。

 アウグストからの手紙には彼の近況報告と、きみの娘さんきみに似て美人さんだね。変な虫が付いているようだけど、彼とダイラはいったいどこまで進んでいるのか。若い娘さんの親としてきみがもっと特大の箒を持って追い払わないと云々……という言葉が続いていた。

 カテリーナとしてはあんたが言うか、といった心境だった。

 変な虫とは二十年ほど前のあんたのことだろう。あれだけ女々しくしつこくまとわりついてきて。

 と心の中で毒づいても、その変な虫にほだされて最終的には愛してしまって子供まで生んだ。

 ダイラもそういうところがカテリーナと似ていると思う。

 おもにしつこくアプローチを重ねてくる男に陥落してしまうところが。陥落したら一途に一直線なのだ。

 そんな手紙が届いたあともカテリーナの生活は相変わらずで。

 その後も不定期だけけれど、ぽつりぽつりと手紙が届いた。

 ある時は詩が送られてきて、『題名 愛について』とあり、白い便せんにびっしり愛の言葉がつづられていたときだけはとっさにびりっと破ってしまった。

 びっしり愛してるなんて書かれると、怖い。

 そういえば昔も似たような手紙をもらった気がする。あのときは『怖いわ!』と叫んで咄嗟に暖炉の中に放り投げてしまった。昔から情緒のかけらもない詩を送りつけるような男なのだ。

 カテリーナは一切返信を書かないのに一方的な手紙はその後も続いた。

 季節は戦争が終わり、秋になり、冬が近づいていた。



「もう! フレンたらせっかくわたくしが段取りをしたお見合いをすっぽかしたのよ! わたくしは彼のことを思ってお相手のお嬢さんを探しているのに! ちっともわたくしの甥への愛をわかってくれないのよ」

 オートリエは今日も屋敷に到着するなり癇癪を起した。

 いや、帰りの馬車の中でもぷりぷりと怒っていた。

 理由は簡単だ。彼女の兄の息子、ディートフレン・ファレンストにご令嬢を紹介しようと張り切っていたのに肝心のフレンが会場に姿を現さなかった。

 一対一の席ではなく、オートリエが懇意にしている画家の作品展で二人を引き合わせようともくろんだのに、急にフレンがキャンセルした。招待客はほかにもいたから令嬢に恥はかかせていない。ただオートリエが先走っただけの話だ。

「奥さまったら、張り切り過ぎなのです」

「カテリーナ。ことは重大よ。フレンはもう二十五なのよ。あっというまに三十になるわ。それなのにいまだに独身街道をまっしぐら。お兄様ったらすっかり諦めたのか最近は本人の自由にさせておけなんておっしゃるし」

 オートリエは外套を脱がせてもらいつつ元気よく論を立てる。

 カテリーナは適当なところで相槌を打つにとどめている。

「大体あの子には母親がいませんからね。わたくしがしっかりして、ちゃんといいお相手を見つくろってこなければいけないのよ。今日のお嬢さんはね、男爵家の娘さんなのだけれど、元は商家の出でしょう。きっとフレンとも気が合うと思うのよ。一度話せばあとはほら、婚約をするだけでしょう」

「一度話しただけで婚約に持っていくのはさすがに乱暴ですよ」

 カテリーナはやんわりとオートリエの暴走をなだめる。

 さすがにそれはフレンにしてみればいい迷惑だ。

「奥様だって昔そうやって男性に引きあわされてぷりぷり怒っていたじゃないですか」

 カテリーナがオートリエの少女時代のことを引き合いに出せば、途端に彼女は思い当たる節があるのか居心地悪そうに肩を揺らした。

「だってぇ……。あの子ったらちっとも自分でお相手を探してこないじゃない。どこかのお嬢さんをエスコートしても、それきり。一度だけなことが何回あったことか。」

 しかしオートリエはまだ唇をとがらせている。

 オートリエもさびしいのだ。娘が結婚し家庭を持って、しかもお相手が王太子だからひるんでしまう。王家相手だと嫁の実家で主導権を握って孫の世話だってできない。

「それにエリセオ様だって独身じゃないですか」

「それはそうなんだけど。エリセオってばいつもこの話題になるとにこりと笑ってだんまりをきめこむんだもの」

 義理の息子へはあまり強くも出れないらしく、そのせいもありオートリエは血のつながった甥に向かって有り余る暇と労力をぶつけるのだ。

「そのうちきっといいお相手を見つけてきますよ」

 カテリーナはそう言ってこの話題を閉じる。

 オートリエの私室には年若い侍女が控えており、彼女に外套を手渡す。

 侍女は外套を受け取ってブラシをかける。

 侍女の名前はミレーネ・ヒョルスナー。オートリエが知人の紹介を受け雇い入れた少女だ。年のころはダイラと同じくらい。赤みがかった金髪の少女は快活で物おじしない頼もしい後輩だ。

 ふとした気まぐれのようにオートリエはミネーレを雇った。

 彼女は執事から接客についても学んでおりゆくゆくは客用使用人も兼用していくのだろう。両親ともに貴族の家で使われていたという典型的な使用人一家に生まれ育った彼女はパニアグア侯爵家に溶け込むのも早かった。

 カテリーナとしては頼もしいと思う反面少しさびしくもある。

 そろそろお役目ごめんってことかしら、と。

 若さには勝てないのである。

「そういえば、最近りんご商人から手紙が来ていないようだけれど」

 オートリエは室内着に着替えながらふいに聞いてきた。

 りんご商人とアウグストの通り名だ。オートリエはジョルシュの由来を知っている。カテリーナとオートリエは主と使用人という間柄だが、それとは別に強いきずながあった。

 ともに若いころから一緒にいるから、苦難を共にしてきたから固いきずなで結ばれているのだ。

「そうですね。もともと、文通しているというわけでもないですし。一方的に送ってきているだけですし」

 カテリーナはそっけなく返した。

 手紙はパニアグア侯爵家宛てに届くから、オートリエの耳にも入っているのだ。

「そうなの」

 オートリエはとくになにも聞いてこなかった。




 次に手紙が届いたのは、冬も終わり春が訪れたころの話だった。

 戦争が終わってそろそろ一年経とうかという頃のことだった。

 カテリーナは、彼からの手紙を待っていたのだろうか。よくわからない。

 好きか嫌いか問われれば。好きと答える。でなければ子供なんて産まない。女が一人で子供を産み育てていくのは決して楽なことではない。カテリーナは運が良かったからなんとかなった。娘もしっかり育ち学を身につけ独り立ちをした。もしも、あのとき。身ごもったカテリーナをオートリエが見捨てていたら。カテリーナもダイラも今頃はどうなっていたかわからない。

 カテリーナとしてはダイラを与えてくれただけで十分で。愛しているけれど、それとこれとは違うということをちゃんと理解している。お互いの人生、この先交わることがないことくらい承知しているのだ。だから会おうと思わないし返事だって返さない。なのに、こんな風に便りがくるとカテリーナのなけなしの決心が鈍ってしまいそうでつらくなる。

 それなのに手紙を開封せずに暖炉にくべるなんてこともできなくて、結局は開けてしまう。

 封筒の中には手紙と一緒に切符が入っていた。


『カテリーナへ。

 しばらくぶりだね。実はこの冬、いや、秋ごろから父の体調が思わしくなくてね。先日ついに天に召された。ゲルニー公国最後の大公が亡くなったんだ。私の進退をめぐっての調整が難航して手紙を出すことができなかった。待っていてくれたらなら、申し訳なかったね。ゲルニー公国はアウスバーグに吸収されることになった。反対がなかったわけでもないし、うっかり暗殺されかけたこともあったけど正式に調印に署名もしたし、財産分与などの手続きも済んだ。母は実家に身を寄せることになったよ。私はただのアウグストになった。これから私はアルメート共和国に行こうと思う。最近多くの人間が新たな人生を賭けて彼の大陸に渡っているね。こちらの大陸の、どこか適当な国に亡命してもいいんだけれど、いろいろと厄介事に巻き込まれないも限らないし、いっそのこと海を渡ってみることにしたよ。王様のいない国って面白そうだろう? それで、ここからが本題なんだけど。

 カテリーナ、一緒に来てくれないか?

 これからはただのアウグスト・モルテゲルニーだ。身分だって持っていない私だけど、残りの余生をきみと一緒に過ごしたい。もちろん、きみにだってきみの人生があることくらいわかっている。ダイラと一緒にアルンレイヒで過ごしてきた時間もある。いまさら大陸を渡ってくれとか、都合のいいことくらいわかっている。きみになにもかも捨てされるなんて、傲慢な考えだってことも承知の上だ。それでも私はきみと一緒に新しい生活を切り開いていきたい。本音を言えばダイラも一緒に。家族になりたいんだ。

 いまでもきみのことを愛している』


 手紙を読み終わってカテリーナは茫然とした。

 大陸を渡る?

 手の中にある切符は確かにアルメート大陸行きの船の切符だ。

 フラデニアから出航するものだ。

 彼はおそらく、アルメート大陸を終の棲家とするのだろう。

 カテリーナは顔をゆがめた。

 自分も年を取り過ぎた。

 故郷を捨てて身重の体でアルンレイヒにわたってきて二十年が過ぎていた。お嬢様について隣国へと渡った。オートリエ以外見知らぬ人ばかりだったミュシャレンだけれど、二十年のうちにたくさんの知り合いや友人ができていた。お屋敷に勤める使用人の同僚たち。出入りの商人やオートリエの友人らに仕える他家の使用人。カテリーナにとってミュシャレンはいつの間にか第二の故郷になっていた。

 フラデニアとアルンレイヒは同じ言葉を話す。けれどアルメート大陸では主にロルテーム語が話されているという。ダイラは語学が堪能だが、カテリーナはかろうじて文字が読めて簡単な単語を理解するくらいだ。

 カテリーナは泣きそうになった。

 彼は旅立つ。

 もう帰ってこない。

 一緒に来るか分かれるか。今度こそ本当に選択の時だった。




 母から手紙の話を聞いたダイラは仕事の休みの日街へとやってきた。

 これまでカテリーナはダイラに泣き言なんて一つも言わかなった。泣き言どころか悩みの一つだって打ち明けられたことなどない。その母が、ダイラにさりげなくではあるけれど「アルメート大陸についてどう思う?」と漏らして、何かと尋ねれば何も答えなくて。そのくせそわそわして、何度かお茶を飲んで。最終的に手紙を見せてくれた。

 ああ迷っているのだな、とダイラは感じた。

 それはそうだ。

 大陸続きとは違う。アルメート大陸へは船で約ひと月。

 移住は決死の覚悟を伴う、と思う。そうダイラが思うのは周りに経験者がいないから。

 海に面しているフラデニアやロルテームでは移住者が多くいるという。労働者の若者が一発逆転を狙って金を買い集め船の切符を買う。それも船底の三等切符。それならまだいいほうで、金がない者は下働きとして雇ってもらう。それで目的地で下ろしてもらうのだ。

 ダイラは書店でアルメート大陸に関する書籍を買った。

 新聞には移住商売をする事務所の広告が掲載されていて、その広告を便りに事務所に寄った。アルンレイヒでも移住に興味を持つ人はいるらしく、やはりというかそういう人たちは労働者階級の人間が多いようだった。

 別の日に母と面会した時、ダイラはさりげなく聞かれた。

 あなたはどうする? と。カテリーナも不安なのだろう。

 四十を超えて、まったく頼る当てもない未知の国への移住。命の危険があるのなら勢いでできてしまうけれど、昔好きだった男についていくにはリスクが高すぎる。

 そうやって止めることだってダイラにはできた。

 何をいまさら熱くなっているのか。相手は一度カテリーナのことを捨てた男なのだ。そんな男の甘言にいまさら乗ってどうする。大体、アウグストには妻だって子どもだっていたのだ。

 ここはきっぱり袂を分かつ時だ。

 そんな風に以前のダイラなら厳しく諭しただろう。実の親だどうと、そういうときは遠慮なんてしない。

 けれど、いまのダイラには頭ごなしに母を叱ることはできそうもなかった。

 カテリーナの胸の中にくすぶる情熱の熱の一部がわかるから。

 ダイラも知ってしまった。

 人間、理性ではどうしようもない、制御できない感情があるということを。

 ずっとずっと、一方的に恋われていた相手のいいところを知っていった。仕事に真面目な姿勢で取り組むところとか、軽薄そうに見えて主と決めた男性にひたむきに忠誠を誓うところとか。

 少しずつ知っていった彼の人となりと、彼から受ける愛情。そういうものを積み重ねて、彼が死にそうになった時ダイラは彼の想いを受け入れた。

 だから、なんとなくわかる。

 カテリーナがどうしてアウグストを受け入れたのか。

 そして今も悩んでいるということを。

 カテリーナがアウグストについていくかいかないか。

 切符に記載された日付は刻一刻と迫ってきている。結局ダイラも母のことが気になって、アルメート大陸についての情報をあさってしまう。

 オートリエからそれとなく言われたのだ。

 賛成も反対もしないでほしい。これはカテリーナが結論を出さないといけないことだから、と。

 おせっかいの世話やきのオートリエにしては珍しい言葉だと思った。

 しかし心の中で、これまで傍らでカテリーナが苦しんできたのを知っているから彼女は今回何も口を出さないことにしたのだな、とも思った。

 カテリーナに口を出さないと決めたオートリエはそれでもやっぱり気になりすぎるらしくことあるごとにダイラにそれについての話を振ってきた。

 季節は初夏に差し掛かろうとしていた。母がどんな答えを出そうと、ダイラはそれを受け入れるつもりだった。




「お母さん。これあげるわ」

「なあに?」

 娘が差し出してきたのは紙の束だった。カテリーナは差し出された束を受け取ってぱらぱらとめくった。

 そこにはダイラが書いた精緻な文字の羅列。読むと、アルメート共和国の主だった都市の名前と名産品や社会制度などが書かれている。

「これは……?」

「ちょっと暇だったから調べたの。法律とか制度とか風習とか。ちょっと、時間があったのよ」

 ダイラはいつもの調子で淡々としゃべった。

 カテリーナは顔をくしゃりとゆがめた。

 この娘は昔から敏い。カテリーナの心の機微を読んで先回りをする。

「大きな大陸だから気候は地域によってだいぶ違うみたい。もちろん王様のいる国だってあるし」

 カテリーナはダイラの書いた文字を目で追う。この街にはアルンレイヒ人が比較的多く住んでいるとか、原住民との軋轢が近年社会問題化しているから、これこれの地域は移住先としないこと、など細かい。

「あなた、ね。わたしまだ行くなんて一言も」

 カテリーナは熱いものがこみあげてきて、それを必死でおさせた。

「だから、暇だったのよ」

「あなた、そんなにお母さんを追い出したいの?」

「そんなことはない」

「だったら……」

「ただ、わたしがいるからお母さんが迷っているなら背中を押してあげないとと思ったから」

 カテリーナは目を見開いた。

 それは、ダイラとカテリーナが決別をするという意味も同じだった。

 カテリーナは目に涙を浮かべた。

 こみあげてくる涙を抑えることができない。

「わたしのことは心配しないで。もう十分育ててもらったし。お母さんは自分のしたいことをすればいいと思う」

「ダイラ……」

「一緒に行きたいんでしょう。わたし……わかるから……」

 ダイラはぽつりとつぶやいた。

 わかるって、何をだろう。そんなことをぼんやり考えるけれど、カテリーナだってわかっている。

 好きな人のそばにいたい。

 そういう想いを娘も誰かに感じるようになったのだろう。長い時間だった。生んだ赤ん坊がいつの間にかこんなにも大きくなった。一人で大きくなったかのように母を諭してくる。

 カテリーナは涙をぬぐった。

「なによ、ちょっと前まで。ちょっと前まで、わたしは結婚なんてしないわとかそっけなかったくせに」

「それは今も同じ。わたしは結婚はしない」

 ダイラはぷいっと横を向いた。

 カテリーナは涙を引っ込めた。

「しないの?」

 つい確認してしまう。ダイラが王宮勤めの近衛騎士と想いを通わせているという話はもちろんカテリーナの耳にも入ってきている。二年くらい前にカフェであいさつを交わした金髪の青年だということも知っている。

「身分が違うから……。一緒に働けるだけでいいのよ」

 ダイラが少しだけ頬を赤くして気持ちを吐露すればカテリーナの胸中は少しざわついた。

 この親にしてこの娘まで面倒な相手を好きになったものだ。伯爵家の次男とはまた微妙にややこしいお相手だ。

「あなた……、親を安心させたいのかさせたくないのか。よくわからない子ね」

 カテリーナは呆れてしまった。

 娘が独り身宣言をしたら心配で心残りができてしまうではないか。

「わたしは仕事にもついているし寝るところだってあるもの。そういう意味ではお母さんはわたしのこと、安心してくれていいと思う」

 なるほど。ダイラらしい理屈だと思った。




 愛する人と残りの人生を歩む。

 語学も生活の不安もたくさんあるけれど。わたしはアウグストのことを愛している。

 もうずっと、一緒になるのはだめだと思っていた。

 それなのに。

 さんざん巡り巡って運命がカテリーナへとやってきた。

 好きか嫌いか。そんなこと聞かれたら答えなんて一つだけだった。

 今度こそあなたに寄り添いたい。それが彼女の本心だった。

 カテリーナの意思とは別の何かに操られるように、彼女は強い衝動に突き動かされた。

 そして。

 カテリーナがアルンレイヒを出発する数日前。

 アウグストが迎えにきた。

 待ち合わせはフラデニアの港だったのに、彼は最後の説得に来たらしくふらりとパニアグア侯爵家を訪れた。なんの身分も持たない、アウグストが目の前に現れると我慢が出来なかった。カテリーナは周りの目を気にする余裕もなく彼の腕の中に飛び込んだ。ずっと、ずっと焦がれていた腕だった。

 カテリーナはオートリエからいくつかの選別をもらった。

 彼女が着なくなった旅行着や上着、日傘に手袋、ブローチなどなど。かばんに詰めたのは身の回りの物すべてオートリエの私物だった。雇い主は長年仕えてくれた侍女が職場を離れるとき、自分の持ち物を譲ることがあるのだ。彼女なりの想いが詰まった品物でカテリーナの旅行かばんはぱんぱんになった。

 カテリーナが屋敷を離れるとき、二人は長い抱擁を交わした。どちらともなく涙を流して、鼻をすする音が聞こえてくる。

 オートリエに仕えて二十年以上が経っていた。

「あなたと過ごした日々楽しかったわ。わたくしとてもうれしかったのよ。あなたがアルンレイヒについてきてくれて。わたくし一人じゃなかったから耐えられた。あなたがいなかったら、わたくしきっとフラデニアに逃げかえっていたかもしれないわ」

「お嬢様……」

 涙を流すオートリエにカテリーナは懐かしい呼び方をした。

 ずっと昔はお嬢様と呼んでいた。それが結婚をして奥様になった。オートリエ様。

 カテリーナの大好きなお嬢様。それは今でも変わらない。カテリーナにとって生涯の仕えるべき相手で、信頼できる大好きな人。

「あなたにあげたいくつかの品、どうしても生活に困ったら売ってしまいなさい。あの人、いままでずっと苦労知らずで育ったお坊ちゃんだもの。絶対に怪しい壺などを買ってくるに決まっているわ。そういうときはあなたがしっかり返却するのよ。あと、変な人に騙されないようにカテリーナ、あなたがしっかり張り付かないとだめよ」

「はい。お嬢様。わたしがしっかりあの人の面倒をみます」

 オートリエはカテリーナに真珠の首飾りをくれた。

 最初は分不相応だと突っぱねたが、オートリエに勝てるはずもなく結局かばんの奥底に入れられた。

 なるほど、高価すぎる選別にはそういう意図もあったようだ。

 大丈夫。壺を買わされそうになったらカテリーナがしっかりと反対するから。伊達に侯爵家の侍女を長年務めていないのだ。この家で戦ってきた日々の成果を見せてあげようではないか。

「手紙書いてね。大陸間だって今じゃ郵便も届く時代なんだから」

「はい。必ず書きます」

「それと、ダイラのことは心配しないで。わたくしがしっかり後見を務めますから」

「何から何までありがとうございます」

 カテリーナは再度頭を下げた。

 オートリエはかぶりを振った。

「あの子はわたくしにとってももう一人の娘も同じですからね。大丈夫よ。安心してちょうだい」

 出発前オートリエはカテリーナにある相談をした。

 ダイラをファレンスト家の、自分の両親の養子にしたい、と。さすがにパニアグア侯爵家の養子にすることはできないがファレンスト家の養子にするなら問題はない。そうすれば多少は当たりは弱くなるだろう、と。

 カテリーナは感謝してもし足りない。

 娘のことだけが唯一の気がかりだった。

 娘を残して行く後ろめたさ。ダイラは気にするなとは言うけれど。それでも。

「大丈夫。あの子は強い子よ。お互い、それぞれの人生を歩む時よ」

「ありがとうございます」

 カテリーナは鞄を持ち上げた。

 長い間お世話になった屋敷にさよならを告げる。

 使用人用の勝手口ではなく、正面の入口から大勢の人たちに見送られた。

 オートリエの横には彼女の夫である侯爵もいる。カテリーナがやってきたときには執事だった男は今はもう侯爵家の家令を務めている。台所番のハンス夫人とは戦友だった。従僕たちや御者などなど。

 ミネーレも涙を浮かべて見送ってくれた。

 過ごした期間は短くて、あまりお互いのことを知る時間もなかったけれど。それでも大事な同僚だ。

 カテリーナは笑顔を作ってみんなに手を振った。

 さようなら。

 まぎれもなく、ここはカテリーナにとって第二の故郷とも言える場所だった。

 第二の青春の詰まった場所。

 いつか、いつかまた。

 さようなら。




 フラデニアの港は大勢の人でごった返していた。

 アルメート大陸行きの大型客船が出航するからだ。

 あたりは別れを惜しむ人、荷物を運びいれる人、物を売る人などであふれている。

 雲ひとつない晴天で、旅立ちの日ぴったりな空だなと思った。

 ダイラは休暇を取って母を見送りに来た。道中母の実家に初めて連れて行かれた。初めて祖父に会った。祖父は二十年ぶりに姿を見せたカテリーナに驚き、娘そっくりの孫にさらに驚き、ついでにこれから移住してきます、と宣言をした娘の爆弾発言に腰を抜かしそうになった。隣でお嬢さんは私が今度こそ幸せにします、と大きく宣言をしたアウグストに目をやって口をパクパクとさせて、呼吸ができなくなったのかそのまま倒れた。同居するカテリーナの弟があわててやってきて、どうにか引きずって部屋へと運び入れたくらいだった。

 久しぶりに再会をした父は未練たっぷりにダイラも一緒に来ないかと口説き落とそうとしたがダイラはやんわりと断った。

 五年前ならダイラもきっと、迷った末に移住をする決心をしたかもしれない。

 けれど、今は。

 アルンレイヒに大切なものができすぎた。

 わたしの居場所は、アルンレイヒだから。それがダイラの素直な気持ちだ。

 それでもこれで母と別れとなると、普段は塩のダイラと宮殿でこっそり揶揄されているダイラの胸の内にも込み上げてくるものがあるわけで。ダイラは名残惜しそうにカテリーナの手を握っている。

 今港に停泊している船はフラデニアの先にある半島といくつかの島を有するインデルクの港町を経由してアルメート大陸へと向かう。

 これに乗って二人は遠い国へと渡ってしまう。

 二人の持っている切符は二等客室のものだ。アウグストは公国の継承権を放棄する代わりにいくらかの恩給と彼の家に伝わっているいくつかの財産を受け取ったと聞いている。国宝級の品々はアウスバーグ王室に接収をされ、そのほかの品々を親族で形見分けをしたとのことだった。

 恩給は彼が死ぬまで支払われるという。質素に暮らせば生活には困らない額だと聞いている。今後上流階級の人間とかかわるつもりがない、ときっぱりと言ったアウグストは二等客室を予約した。

 アウグストとカテリーナの傍らにはリカロがいる。

 彼だけは頑としてアウグストから離れることを固辞したらしい。結局彼も一緒についてくることになった。

「そろそろ、時間だから」

 カテリーナが名残惜しそうにつぶやいた。

 今日のカテリーナはオートリエからもらった上着を身につけ、帽子と手袋をしている。中間階級の奥様といったいでたちをしている。華美ではない上着はオートリエがお忍びで支援先の学校などを訪問するのに使っていたものだった。

「うん」

 ダイラはカテリーナから離れた。

 乗客が次々に船へと吸い込まれていく。

 わかっている。

 これが永遠の別れではないことくらい。それでも……。

 やっぱりアルメート大陸は遠い。

「これからは私がきみに代わってカテリーナを守っていくと約束するよ」

 アウグストはダイラの目をみて大きくうなずいた。

「よろしくたのみます。ずっと仕事をしてきた厳しい母ですが、末永くよろしくお願いします。……お父さん」

「ダイラ……」

 この旅でダイラは今初めてアウグストのことを父と呼んだ。

 アウグストはダイラを抱きしめた。

 抱きしめられたのはこれで二度目だった。

 アウグストとの抱擁のあとはカテリーナと抱き合った。

 別れの時が近づいてきている。

 リカロは三人から少し離れたところで見守っている。

 やがて体を離したダイラとカテリーナはどちらともなく小さく笑った。

「いってきます」

「いってらっしゃい。お母さん。元気で」

「あなたも、元気でね。変な意地……張らないのよ」

 最後はそんなことを言われた。

 船の中に吸い込まれていった三人をダイラはいつまでも見送った。

 気をつけて。

 いってらっしゃい。



「ダイラちゃん!」

 船が出航する間際。

 耳になじんだ声が飛び込んできて、ダイラは後ろから抱きしめられた。

「あなた……どうして……?」

 彼には何も言わなかったのに。

「行くなって言おうと思って。追いかけてきた。俺のエゴでも何でもいい。ダイラちゃん俺のそばにいてって言いたくて追いかけた」

 ぎゅっとたくましい腕に包まれたダイラは身動きができなくなる。近衛隊の制服を着ているとわからないけれど、カルロスの体はたくましい。彼から抱きしめられてダイラはそんなどうでもいいことを感じた。

「わたしは行かないわ。五年前ならわからなかったけど」

「ええぇっ? そうなの? 五年前なら移住してたの?」

 カルロスはあわててダイラの前に回り込んで、紫色の瞳をのぞきこんできた。

「そうね」

「ちょっと待って。そうしたら俺たち出会わなかったじゃないか。それは困る! 俺一生結婚できない」

 青い瞳を困惑させるカルロスが少しだけおかしく感じてダイラは横を向いた。

「そもそも出会わないのだから、あなたは違う誰かと結婚をしていたんじゃないの?」

「ダイラ……」

 絶句をしたカルロスにダイラは、いまのはかわいくなかったかもと反省した。

「今だってわたしはあなたと結婚するなんて一言も言っていないし」

 それでも言葉が出てくるのだからダイラの塩対応は筋金入りだ。好きな男にまで冷たい対応をしてしまう。

「そう! それ。口づけだって許してくれた仲なのにどうしてそこで待ったをかけるかな」

 カルロスは途方にくれた声を出した。

「うるさい。船が出航するのに、あなたが隣にいるとしんみりできない」

 ダイラは隣の男を無視することにした。

 船が大きな音を出した。

 ボォォォーという音があたりに響き渡る。一等客らが見送りに来た人間たちに手を振っている。

 あの中に両親はいないけれど、二人もきっと同じ音を聞いているのだろう。

 やがて船がゆっくりと動き始めた。

 ついに。行ってしまう。ダイラを育ててくれた母が。

 いなくなってしまう。

 わたしはひとりきりになってしまった。

「お母さん……」

 ダイラは誰にでもなくつぶやいた。

 さみしい。

 本当は……本当は……。

 知らずに涙が流れる。

「お母さん!」

 ダイラは今度は大きな声を出した。

 船はダイラの感傷などお構いなしに速度を出していく。

 涙はとどまることを知らずにあふれ出てくる。

 母に抱きあげられたことが昨日のように思いだされる。お茶の入れ方を教えてくれた母。ドレスの手入れの方法を楽しそうに伝授してくれた。ダイラがうまくできると頭をなでてくれた。上級学校の成績表を見せたら『あなたって本当に頭がいいのね』と喜んでくれた。初めて下宿屋に一人で引っ越ししした日。夜ひとりぼっちがさみしくてさみしくて。何度も母からの手紙を読んだ。それだって同じ街にいたのに。これからは違う。遠いところに行ってしまう。独り立ちしたから大丈夫だなんて見栄を張って。

「う……」

 涙が止まらない。

 母が大好きだった。

「俺がいるから」

 いつの間にかカルロスに手を握られていた。

「これからは俺がずっとそばにいる。俺がきみを支えるし、ダイラの力になりたい。きみをずっと大切にする。家族になろう? 結婚しよう、ダイラ」

 ダイラは涙を流しながら、こくんとうなずいた。

「ほんとうに……? ダイラ結婚してくれるの?」

 となりで信じられない、といった声を出すカルロスにダイラはあわてて彼を見上げた。

「ちょっと。何言っているのよ?」

 結婚なんて不穏な言葉にダイラはあわてた。正直なところ、カルロスの言葉はほぼ耳に入ってきておらず、適当に相槌を打っただけだった。

「や、だって今。今俺の求婚のあとにうなずいたじゃないか」

 その言葉にダイラはあわてた。

 え、あれ求婚していたの。ダイラは彼のここ一番の言葉にうなずいてしまったらしい。

「あなたの言葉なんて、この忙しいときに聞いているわけないでしょう」

「いいや。絶対に耳に届いていた。だって、俺の声だよ?」

「なにその、わけのわからない自信!」

「とにかく、ダイラはもう俺の求婚に返事したも同然なんだから潔く俺のお嫁さんになること!」

 せっかくの母の旅立ちの余韻もどこへやら。

 ダイラはカルロスのことを思い切り睨みつけた。

「あなたとなんて、絶対に結婚しないわよ!」




 と啖呵を切ったのに、外堀を完全に埋められてダイラがカルロスに屈したのはそう遠くない日の出来事だった。 

 ファレンスト家の養女となり、カルロスが彼女との結婚の報告をベルナルドにすれば王太子は彼にダイラの出生について公言しないことを条件に仔細を伝えることとなる。


 カテリーナとアウグストが旅立って、その年が明けた頃のことである。



 また新しい季節がめぐってくる。



 

 


 

 

 

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