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歴女作家 坂本龍馬子の奇妙な犯科録  作者: 横造正史
第九章
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告白  壱

 私がそこまで説明をすると、左の前側の戸付近に立つ永倉刑事が、徐に手を挙げた。


 横の土方警部は手を堅く握りしめ、体全体を緊張させながら直立不動で立ったままだった。


 少し前に酷く粗雑に扱われたので、ちょっとだけ気分が良い。


「えーと、ちょと質問なのですが、となりますと、あの生田という人物は何者だったのでしょうか?」


 永倉刑事は解らないといった顔を向けてくる。


「その事なのですが、その事は後でご説明させていただく予定になっておりまして、現在の考察に関しては、生田という人物は存在していないものとしてお話を進めさせて頂いております。というのもその事を搦めて説明をしていくと混乱してしまう事になりかねませんので……」


「後でですか……」


「申し訳ありませんが……」


 私は小さく頭を下げた。


「まあ、いずれにしても、いつでも所業を行える状態にしておいた後、非食を取られ、皆さんご就寝という事になられたと思われます。そして夜中、法観さんは十二時頃、喉が乾いたと麦茶を飲みに勧進所の一階に降りてこられたとの事でした。その後トイレで用を足し部屋に戻られた……」


 法観は頷く。


「戻った際入れ違いで良基さんがトイレに行かれたとの事でした。それが終ってしばらくしてから良寛さんがトイレに行かれたと仰られていました。三人ともトイレに行かれたということなので誰にでも犯行は可能かと思われますが、良弁大僧都の死亡推定時間は昨夜の午前一時頃から三時頃との事だという事や、夕方の時間に下準備をする事が可能だった事などを踏まえますと、夜中に大仏殿に赴き鋏で紐を切断した可能性がもっとも高いのは、矢張り良寛さんなのではないかと考えられます……」


 私は改めて目の前に座る良寛に視線を向けた。


 良寛は相変わらず俯き顔を上げない。ただ微かに肩口が震えているように見えた。


 私は永倉刑事の方を向いて口を開いた。


「……さて、それでは、改めまして生田さんのお話をさせて頂こうかと思います」


 永倉刑事は小さく頷く。


「この事件が内部の人間が行った場合、外部犯の可能性を残しておかなければ、内部の人間に容疑が及んでくる事になります。そうならないために生田という人間を作り上げる必要があったのではないかと考えます。ですが、生田さんの行動は先程も説明しましたが他の方と重複している部分が多くあります」


 永倉刑事は真剣な表情で聞いている。


「一番犯行を行った可能性が高い良寛さんに当て嵌めて考えてみますと、写経体験前後に生田さんと良寛さんが接触ないし近い場所に存在していた時がありました。それは部屋から退出する生田さんと部屋に講師として良寛さんが入ってきた際と、写経体験が終わった後に良寛さんが開山堂入口で我々を見送ってくれている際に、俊乗堂付近に生田さんの姿が見えた時です。その際の事は武藤京子さんや大谷正志さんも目撃していますから生田さんが俊乗堂前にいたのは間違いはありません。ですがそうなった場合、良寛さんが生田さんであるという事実は有り得なくなってしまいます……」


 大谷正志が小さく肯いた。


「因みに生田さんの服装なのですが詰襟のグレーのジャケットにスラックスという姿でした。もし良寛さんが生田さんだったと仮定すると、恐らく最初の擦れ違いに関しては、マスク、鬘、サングラスを外し、ジャケット、スラックスを脱ぎ、早着替えさながら僧の作務衣姿になったのではないかと思います。幸い今いるこの部屋の手前にも小部屋が並んでいますから、そこに服等を隠し、その場に用意してあった写経体験用の道具を持ち部屋に入って来られたのではないかと……」


「じゃあ、あの俊乗堂前にいたのはどう説明するんですか?」


 武藤京子が首を傾げ聞いてきた。


「……その事に関してなのですが…… その際だけは代役を立てていたのではないかと想像します」


「代役ですか?」


「ええ、代役です」


「で、でも一体誰が代役なんて?」


 武藤京子は解らないといった顔で質問してくる。


「もし、この寺の宿坊体験者や僧侶の中の誰かがあの時の生田に化けていたとすると、良基さんと法観さんは一緒に大仏殿にいたという事ですし、寂抄尼さんと鈴子さん、松子さんは一緒に戒檀堂に居たと聞いています。私達宿坊体験者は開山堂の前に出てきた所で、武藤さんや大谷さんはすぐ出た所に立っておられました。そして石田さんは少し先を歩かれていました。間宮さん、いえ橘さんは一番最初に開山堂を出られていたと思いますが、姿が見えませんでした。その状況から考えると、あの時生田に化けられた人物は橘さんしかいなかったのではないかと考えます」


 私の説明に武藤京子は驚いた表情で橘久雄の顔を覗き見た。橘久雄は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


 私は頭を掻き、少し考えてからもう一度口を開く。


「……良寛さんが生田さんという存在を作り上げた場合、最初に写経体験の直前に一人二役を演じ、自分が生田という人間ではないと印象付ける行為をする事になりました。ですが、それは二人が同時に同じ場所に立っているというような完全な物ではありません」


 橘からは緊張が見て取れた。


「その事をより強固な物にしたいと考え、読経体験の際に、良弁大僧都に対してや、この寺大華厳寺に対して不信感を覗かせ、調査を行っているかのような橘さんに目を付けられたのではないかと推測します。そして、提案をしたのではないかと……」


「どんな提案をですか?」


 武藤京子が首を傾げながら訊いてきた。


「そこは私にも解りませんが……」


 私は少し考えてから口を開いた。


「例えば…… 実は自分も同じような事を調査する為にこの寺に来ている。そしてある程度把握できている。あなたはこの寺に何か調査に来ているようだが、もし出来たら写経体験が終わった後、私の格好をして俊乗堂の前に座っていてもらえないだろうか? それをして貰えたなら謝礼としてあなたの欲する情報を伝えよう…… とかそんな感じの提案ではないかと思います」


「な、なるほど」


 武藤京子が納得したような声を上げる。


「橘さんは、生田さんイコール良寛さんだと把握出来ていない状態でその話を受け、その後、生田さんが消えてしまい、その上、まさか起こるなどとは思っていなかった殺人事件までもが起こってしまい生田さんがその容疑者となってしまいました。橘さんとしては自分が生田に化けてしまったのもあり、自分が容疑者になってしまう事を恐れ、その事を云い出せなくなってしまったのではないかと……」


 橘久雄は厳しい視線で良寛を睨み付ける。そして、ふ~うと息を吐きながら自虐的に顔を左右に振る。


「そういえば、夜中に私が廊下で聞いた足音は、ロープと柱を縛っていた紐を鋏で切りに行くついでに、生田の翌日の勧業の不参加を記した手紙を部屋の前に置いておく為に忍んだ時の音だったのではないかと想像します……」 


 私は顔を上げ、皆の顔を見た。


 最前列の良基は充血した目でジッと私を見据え、良寛は頭を下げ俯いたままだった。法観は腕を組み小首を傾げ何か考え込んでいる。寂抄尼と鈴子、松子は疲れたような顔で視点も定まらないまま前の壁をぼーっと見ていた。


 二列目に視線を移すと、橘久雄は良寛に対して憤りの視線を向け続け、大谷正志は頭を掻きながら上のほうを見ていた。武藤京子は相変わらず私の顔をジッと見据えている。老人も素の表情で只々私の顔を見ていた。そして中岡編集に関しては、場違いにもガッツポーズを取り、パクパク口を動かし、やったぞ! やったぞ! と無言で訴えてくる。


 そんな中岡編集に、私は顔を顰めつつ僅かに横に振り、その行為を止めるように促す。


 更に奥に並び立つ警察関係の人々に視線を向けると、皆一様に無心であるかのように感情一切が感じられなかった。ただ私の説明が始まる前の猜疑的な視線は消えてなくなり、その目の奥からは、私の自意識の所為もあるが、ほんの僅かだが敬意のようなものが感じられた気がした。


 私は説明し始めてからは、出来るだけ土方警部の方は見ないようにしていたのだが、視界の端に土方警部の姿が写った。相変わらず石のように微動だにせず直立不動の姿勢で立っていた。しかし他の警察関係者同様、もうその顔からは毒気は消えてなくなっていた……。


「……いずれにしても、生田さんの存在は置いておいて、色々な角度から見た所、良弁大僧都をあのような状態で殺害した可能性が高い人物は、やはり良寛さんなのではないかと私は考えます……」


 私はじっと良寛の方を見据える。良寛は俯いたまま動かない。


 しばし沈黙が流れた。誰も言葉を発さず。重苦しい空気がその場を支配している。


 良寛が僅かに動き、躊躇いがちに首を傾け斜め後方にいる橘久雄の方を見た。橘久雄はその視線に気付き、無言でその視線に厳しい視線を合わせる。良寛は橘と視線が合うと慌てた様子ですぐに視線を外した。


 手を顎に添えるも緊張の為か動きが恐ろしく堅い。


 何度か顔を少し上げ、下げを繰り返した後、大きな溜息を吐いた。


「……よ、よく解りましたね……」


 良寛が俯いたまま小さな声を上げた。


「何もかもが、まるで見たかのように合っていますよ、想像だと仰られていた、生田に化けていた私が橘さんに提案した話の内容までも……」


 その言葉を聞いた橘久雄は小さく肯いた。


 ただ橘久雄の目は、いまだ自分が生田に化けてしまっていた動揺と、良寛に騙されたという憤りで複雑な色を見せていた。


「良寛さん、私は自分が得られた情報の中で、誰がどのように今回の所業を行ったのかを推測していった訳ですが、ただ、どうしてそんな事をしたのかという動機の部分に関しては情報もありませんので皆目見当がつきません。差支えなければその事を教えて頂けると有難いのですが?」


 私は静かに問いかける。


 再び沈黙が流れた。皆は良寛の方をじっと注視している。


「……そ、それは復讐の為ですよ……」


 俯いたままの良寛が絞り出すように声を上げた。


「ふ、復讐ですか? そ、それは一体誰の?」


 私は少し首を傾げ質問する。


「……良弁和尚のです」


 私は理解が出来なくなり頭を掻いた。


「良弁大僧都の復讐とおっしゃいますが、その良弁大僧都の復讐の為に良弁大僧都を粛清したと言うのですか? 意味がさっぱり解りませんが……」


 私の問い掛けを聞いた良寛が薄く笑った。


「私は大僧都とは云っていませんよ」


「えっ、大僧都の事ではない?」


 私は首を傾げ質問する。


「そんな大それた官職を名乗った人間の事ではなく、私は良弁和尚の復讐と云ったのです」


 皆一様に驚いた表情をしていた。


 特に橘久雄は自分の欲していた情報に関係がありそうだと思ったのか、僅かに前のめりになった。


「そ、それは?」


 私は訝しげに問い掛けた。


「そのことを説明するには、この寺の成り立ちから説明することになりますけれど、宜しいですか?」


 良寛が声を上げる。


 私は後ろに並ぶ警察関係の人間や、横にいる土方警部の方へ視線を送った。


 土方警部は厳しい表情を浮かべたまま小さく頷いた。


「恐れ入りますが、ご、ご説明をお願いできますか?」


 私は良寛に促がす。


 良寛は小さく頷くとゆっくり口を開いた。


「実の所、この上州にある大華厳寺は、昭和二十六年四月三日に成立した宗教法人法の緩さを利用して成立をしました。この法律はある一定の条件を満たせば認証を受けられるというもので、その宗教法人法が成立した当時、新興宗教が相次いで誕生したという経緯などがあります……」


 私はその辺りの事情を良く知らないので、理解するべく真剣に耳を傾ける。


「……因みに浄土真宗などの寺があると思いますが、その寺は浄土真宗の宗派の寺院の一つとして浄土真宗という宗教法人に含まれる事になります。ただ長い歴史のある寺でも、本山との関係が上手くいかなかったり、本山の意向に従えないとなった場合、本山から破門されたり、切り離されたりする事があるようです…… ただ、そんな状況でも寺として成立し続ける事は出来るのです」


 警察関係者の中には、説明を聞くも理解しがたいのか首を捻っている者もいた。


「そういった寺は残念な事に独立系というような括りにされてしまいます。単独で成立している寺だと…… 仮に江戸時代から続く由緒正しい浄土真宗の寺だとしてもです。逆に云うと独立系のお寺ならば、伝統などを考えないのなら、後から作る作る事も可能だという事です」


 そこまで聞いて私は、段々と事情が見えてきた気がした。


「この上州の大華厳寺を建立した人物は、建立前に奈良の大華厳寺で修行をした者との事でした。ですが、戦後間もない時期だったという事と、修行を行っていた期間が短かったという事、明治政府が発令した神仏分離令で寺院が弱体化していたという状況などがあり、奈良の大華厳寺側にはその人物の記録は残っていなかったようでしたがね……」


 この寺で僧を務める良基や法観は神妙な表情を浮かべ聞いている。


「華厳宗という宗教はこの日本に仏教が入ってきた黎明期に大乗仏教から派生して作られた宗教でした。しかし、教義や教学、経典としては古すぎて理解しづらいとの事で、その後は広まっていく事は無く、真言宗、天台宗などに押され、次第に弱体化していってしまったという経緯があります。現在華厳宗の寺は幾つか残っていますが、真言宗との兼帯寺院だったり、元々東大寺の補佐寺院や子院であったものが引き継がれて現在に至っていたり、時代の流れの中で変化し、本尊は毘盧舎那仏ではなく、地蔵菩薩や薬師如来、普賢菩薩や阿弥陀如来だったりもしています……」


 良寛の声は次第に熱を帯びてきた。


「その人物は大華厳寺で教義を学び、その教学を解りやすいものにする事に取り組みました。鎌倉前期に華厳宗に密教要素を取り入れ、俗人が理解しやすいように華厳密教に変化させた明恵のように……」


「明恵ですか?」


「ええ、華厳宗の中興の祖と呼ばれる人物です。明恵は学問仏教と化していた華厳宗を浄土宗のような専修念仏を唱える形に変える事に取り込んでいたとされています。例えば南無阿弥陀仏と唱える形にね。その人物は、それを更に解りやすく受け入れやすくし、その華厳宗を多くの人々に伝えようと考えていたとの事でした……」


 奈良の華厳寺側の人間である橘久雄は真剣に耳を傾けていた。


「しかし、奈良の大華厳寺では、もう七百年代から千三百年近く低迷状態が続いていましたから、今更そのような取り組みに興味を示そうという考えは殆どありませんでした……」


 宗教上の事なので細かな事情は良く解らないが、宗派の中で、変化を望まない考えと、変化しようという考えが交錯してしまったという事だろうか。


「その男は、それから奈良から離れ、放浪の末上州の地へと辿り着いたようです。そして、奈良の華厳寺に断りもなく、この地に華厳宗の寺を建立してしまったと……」


 良寛は大きく息を吐いた。



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