宿坊体験 肆
それから四十分程で、私達は精進料理による夕食を滞りなく済ました。
横を見るとカップルは満足したのか、目を瞑り食べ終わった膳に手を合わせている。反対側に視線を送ると、笑顔の老人は満たされたような顔をしていた。中岡編集と顔の長い男は少し物足りないといった顔で膳を眺めている。
食事が終わるのを見計らっていたのか、皆が箸を置くと寂抄尼が声を上げた。
「それではお夕食の方もお済みのようですので、お部屋の方へご案内したいと思います。どうぞ廊下までお出になってくださいませ」
私達は寂抄尼の指示に従い、おずおずと廊下まで出る。
「これで本日の行程は終了と相成ります。後はお部屋にてお寛ぎ頂ければと思います。明日は、六時より大仏殿にて朝の勤行を執り行いますので、五時半に起床となります。寝過ごさないようにお願い致します」
寂抄尼は少しだけ厳しめな表情で説明をした。
「それでは、まず間宮様、間宮正治様、宜しいでしょうか?」
寂抄尼の問い掛けに、あの顔の長い男が一歩前に出た。ここへ来てようやく、私はあの男が間宮という名前だという事を知った。
「こちらの廊下のすぐ向かい側が宿泊用の客間となっております。それで一番奥の部屋は、生田様がお休みになられていますから、間宮様は奥から二番目のお部屋をご使用下さい」
寂抄尼は部屋の戸を、そう言いながら手で指し示した。
間宮という男は、示された戸の方まで歩き進み、部屋の引き戸を引き中へと入っていった。
「続いて武藤京子様と大谷正志様、宜しいでしょうか?」
呼ばれた二人は一歩前に出た。
「お二人は恋人同士ということですが、お部屋は宿坊なので別々という事に相成ります。行き来は当然して頂いて結構ですが、十時以降はあまり出歩かないようにお願い致します」
二人は納得の面持ちで頷いた。
「それでは、間宮様の隣りの部屋を大谷様、その隣りを武藤様の方でご使用願えればと思います」
寂抄尼が部屋の方へ手を指し示す。
武藤京子と大谷正志は私と中岡編集に向かって小さく頭を下げてから、おずおずと進み部屋に入室していった。
「続きまして、石田源吉郎様、宜しいでしょうか?」
「はい、私ですな」
寂抄尼の問い掛けに、あの笑顔の老人がにこやかに手を上げる。
「それでは石田様は武藤京子様のお隣の部屋をご利用下さいませ」
寂抄尼はそう言いながら部屋の戸を引き開けた。
「相解りましたぞ」
そう云いながら老人は、笑顔のまま指示された戸の方まで歩き進み中へと入っていった。
「それでは中岡様、中岡慎一様」
「お、おお、僕の番か……」
中岡編集は一歩前に出る。
「中岡様は石田様のお隣の部屋をご利用下さい」
「は、はい。それじゃあお先に」
中岡編集は私に声を掛けてから部屋へと入り込んでいった。
「それでは最後に坂本様、坂本亮子様」
「はい」
「では、坂本様は中岡様のお隣の部屋をご利用下さいませ。中岡様とお知り合いとの事ですので行き来して頂いても構いませんが、矢張り十時以降はあまり出歩かないようにお願い致します……」
「ええ、解りました」
寂抄尼が部屋の方へ手を指し示したので、私はその部屋の入口となる襖戸を引き開けおずおずと入室した。
部屋は六畳程の和室で、すでに布団が敷かれてあった。部屋の奥側には腰高窓があり、そこには障子が嵌め込まれていた。
私は寂抄尼に小さく頭を下げてから部屋の襖戸を閉じ、中程まで進み部屋の側面に用意されていた棚に荷物を置いた。
宿坊というと道場みたい部屋で、足の踏み場もないほどに布団を敷き詰め雑魚寝をするのかと思っていたのだが、随分趣が違っている。個室でもあるし普通の旅館といっても差し支えがないような印象だ。
座布団に腰を下ろし、しばらく落ち着いていると、襖の向こう側から声が聞こえてきた。
「おい、僕だが。入って良いかな?」
「ええ、どうぞ」
襖が開き、早くも浴衣姿になった中岡編集が入室してきた。
「中々、良い部屋だな。ちょっと狭いが和旅館然として気分が良いぞ」
「そうですね、部屋内に一応トイレとお風呂もあるようですしね」
私も相槌を打つ。
「風呂なし宿坊かと思っていたが、これで汗も流せるな、散々歩いて汗臭くなってしまった君も汗臭いの解消だ」
こ、こいつ、余計なことを云いやがったぞ。汗臭いだと!
「ちょっと待って下さい。わ、私はそんなにすぐ汗臭くなんてなりませんよ!」
即座に私は言い返す。
「でも、龍馬は風呂嫌いでいつも汗臭かったらしいぞ」
「そ、それは龍馬であって、私じゃないでしょ! 私は一日ぐらいお風呂に入らなくったって良いにおいのままですよ」
でも、ってのは何だよ! 龍馬は関係ねーだろ!
「ん? 良いにおい? 僕は今まで君を良いにおいだと思った事は一度もなかったが…… いつも龍脳っぽいにおいがしていたような……」
「龍脳っぽいにおい?」
どんな匂いだよ。
「ああ、白檀のような…… 桐箪笥の中の匂いのような…… とにかく和っぽく古臭いにおいだよ」
「そ、それって私がいつも使っているアロマの香りですよ! な、中岡さん、失礼ですよ、失礼すぎますよ! 私は和っぽい古臭い匂いなんかしません! 私はアロマの匂いよ、良い匂いだわよ!」
アロマを龍脳って、どんな鼻してるんだ?
「そうかな…… 別に今までそんな良い香りだと思った事もなかったけどな……」
中岡編集はしれっと云った。
こ、このやろう! そもそも、な、な、何なんだ、態々私を侮辱する為に此処に来たのか?
私はキレた。
「ふ、古臭い匂いの私なんかと一緒に居たくないでしょ、汗臭い私なんかと…… もう出て行け! 早く私の部屋から出て行けっ!」
「お、おい…… 古臭い匂いとは云ったし、良い香りだと思った事もないとも云ったが、嫌な匂いだとは別に云っていないぞ、僕は少し君と話でもしようと……」
「ええい黙れ黙れ! 早々に出て行け!」
私は中岡編集の最中を押し、無理やり部屋から追い出す。そして簡単な鍵が付いていたのでそれを廻して開かないようにした。
もう、何なんだ一体。汗臭いだの、和っぽく古臭いだとか……。一々失礼極まりない奴だ!
私は少し気になり自分の腕や袖を嗅いでみる。
ほら、全然、臭くなんかないわよ。
そうはいってもなんだか気分が悪いので、すぐに風呂に入ることにした。
汗臭く無いが一応だ。
私は風呂に入り汗を流しすっきりする。そして風呂上りには枕元に用意されていた浴衣を羽織ってみた。なんだかとても良い感じだ。
その後、私は入浴後に布団の上に横になり、力の抜けた体勢で今回の旅の資料などに目を通し始める。中岡編集の再訪の気配は感じられない。再訪されても入れるつもりは全くないが……。
そんなリラックスした状態というのもあってか、すぐに睡魔が襲ってきた。私は、明日五時半になければならない事を思い出し、竹で編んだ電灯の紐を引き明りを消す事にした。
散々歩いた疲れもあり爆睡してしまった私なのだが、電灯を消してからどのくらい時間が経ったのか定かではないが、ふと夜中に目を覚ました。部屋の外に何か気配を感じたのだ
中岡さん? 夜這い? まさか夜這いなの? 夜這いなどされた事は一度もないが、私は瞬間的に考えた。
まあ風呂に入ったし、夜這いされても平気な状態ではあるが、こんな宿坊でとは不謹慎極まりないぞ。
私はその気配を感じ取ろうと聞き耳を立てていると、私の部屋の外にある廊下部分から怪しげな足音が聞こえてきた。
隣からじゃない。もっと離れた所からだ。
足音は恐らく玄関のある方向からで、少しずつ音が近づいてきている。
ひたっ、ひたっ、ひたっ……。
足音を忍ばせてているような感じで、数歩進むと止まり、また数歩進むと止まりと、周囲の様子を窺いながら奥の部屋側に向かっているように感じられた。
一体何だ?
それに気付いた私は何ともいえない不快感、胸の奥底から何かどす黒いものが滲み出してくるような感覚に襲われる。
ちょっと怖い。
布団に入っていて暖かい筈なのに、全身に鳥肌が立っていく。しかしながら恐ろしいので確認する勇気も無い。私は只々布団の中で様子を窺うしかなかった。
ひたっ、ひたっ、ひたっ……。
その足音は私の部屋の前を通過し、次第に奥の部屋側へと遠ざかっていって聞こえなくなった。
私は夢だと思う事にした。失礼な目に合わされた事で、変な夢を見ているのだと……。
しかし、それから一分程すると、今度は奥の部屋側からまた先程のような足音がこちらに近づいて来るのが聞こえた。
ひたっ、ひたっ、ひたっ……。
なんなの一体?
その足音は先程と同じように、足音を忍ばせてているような感じで、数歩進むと止まり、また数歩進むと止まりと、周囲の様子を窺いながら玄関側に向かっているようだった。
そして私の部屋の前を通過すると、また段々と聞こえなくなっていった。
それ以降、音は無くなった……。
何が何だか良く解らないままだったが、少し安心出来たのか、私は再び眠りに堕ちていった。




