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歴女作家 坂本龍馬子の奇妙な犯科録  作者: 横造正史
第三章
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宿坊体験  壱

 突然ドンドンという胸に響く太鼓の音が本堂内に鳴り響く。


 御香の匂いが鼻腔を刺激する中、良弁大僧都の読経がゆっくりと始まった。


「……心如工画師 一切世界中 如心仏亦爾 心仏乃衆生 諸仏悉了知 若能如是解 心亦非是身 作一切法事 若人欲求知 応当如是観……」


 何を云っているのか、何を意味しているのかは良く解らないながらも、厳かな空気が場を支配していく。なんというか、とても心が洗われていくような感じだ。


 皆も同じような心境だろうと、チラりと横に視線を送ると、中岡編集も感慨深げな表情で大僧都の読経を見詰めていた。そして、あの笑顔を絶やさない老人は、目を開いているのか閉じているのか解らない程細くして笑顔のまま瞑想している。その奥のカップルに関しては私と同じように涼しげな表情で眼を瞑り読経に浸っていた。


 しかし、やや顔の長い訝しげな男は、相変わらず胡乱げな表情で大僧都を見つめており、更に奥のマスク男はサングラスも取らずに相変わらずな状態だった。


 その読経は二十分程続き、最後に大僧都の手元の鐘がカーンという高い音を鳴らし、その余韻を響かせたまま終了した。


 大僧都が正座をした体勢のままゆっくりと身を捩り、私達の方へ身を向ける。


「えー、本日は、当大華厳寺にようこそおいで下さいました」


 良弁大僧都は手を合わせ頭を下げる。


「それでは、説法というと堅い感じが致しますが、大華厳寺に纏わる話を少々させて頂こうかと思います」


 他の者はいざ知らず、私は軽く頭を下げてみた。


「えー、当大華厳寺は華厳宗のお寺でございます。その根本的な教えを伝える大方広佛華厳経は、時間と空間を越えた佛を説いた教えであり、偉大で、正しく、広大な理の世界を説くお経です。華厳経では佛とは毘慮遮那佛の事を指します。そして、その意味は遍しく照らし出している無限の光明そのものであり、光明遍照と訳されます……」


 良弁大僧都が大仏に視線を送った。


「この大佛さまは、お釈迦様が無限の修行を行い悟りを開き、人々を救うために蓮華蔵世界という悟りの世界の教主になられたお姿で御座います。密教の方では、同じ毘慮遮那佛が大日如来となり、真理そのものの人格化で宇宙の生命そのものと考えます。その事が華厳の考えと異なる所になっております……」


 良弁大僧都は話しをしながら我々に視線を送ってきたところで、あの顔の長い訝しげな男の視線に気付いたようだった。


 その男は相変わらず訝しげな表情をしているのだが、先程よりも印象が悪く、薄ら笑いを浮かべているように見えた。


 良弁大僧都は気付かなかったようにすぐに視線を外し、華厳経の歴史などの話を続けていった。


「さてと、それでは何か質問等はございませんかな?」


 良弁大僧都はある程度話し終えると逆に質問してきた。ただ顔の長い男の方にはあまり視線を送っていないように私には感じられた。


 その問い掛けに、カップルの女性の方がおずおずと手を挙げた。


「あ、あの、みた所、大仏様は大変ご立派で、そして、金色に光輝いていますが、お掃除とかはどうされているのでしょうか? 毎日磨かれているのですか?」


 良弁大僧都は少し微笑みながら答えた。


「大仏様のお身拭いという行がありまして、奈良の方では年に一度、当方では毎月十の日に大仏様のお体の拭き掃除を致しております」


「でも、あんなに大きいのに胸の辺りとかはどうやって磨くのか想像が出来ないのですけれど……」


 女性は大仏を見上げながら問い掛ける。


 私も思わず大仏を仰ぎ見た。


 大仏の手前側には蝋燭を灯す随分大きな燭台が置かれ、香炉、花立て一対、金色に輝く灯篭などが配されている。大仏の斜め前には朱に染められた太い柱があるのだが、その手前側に槍立てのような物が設置してあり、そこに備え付けられるように、巨大な金剛杵が天上に向かって聳え立つように飾られていた。


 その金剛杵は鈷剣型のデザインで、杵の部分が柄となり、剣の部分が上へと向いていた。剣は片刃の刀の形ではなく、剣型をしており両側が刃となり剣先の中央が尖っていた。勿論それらも綺麗に磨かれている。


「えーとですな、まず参考までお話を致しますと、奈良の方では、天井の梁に丈夫な紐を引っ掛け、一方は高砂と外壁の中間に位置しているあの赤い柱に結びつけ、もう一方には人の乗れる駕籠を結びつけ、その駕籠に乗る人間がお身を拭き、もう一方の紐を他の大勢の人間が引きつつ高さを調節していく昔ながら方法が取られています」


 良弁大僧都は大仏殿内に幾つも立ち並ぶ、太く赤い柱を手で指し示し説明する。その柱の一つは東大寺で有名な大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が空いているという柱だった。良く見ると同じ場所の柱には穴が空いていた。


「……ですが、こちらは人数が少ないので、お清めをした物ではありますが登山用の紐を天井の梁に引っ掛け、奈良の方と同様に一方は柱に、もう一方には駕籠を結びつけ、天井から大仏様の胸辺りに下りてくる時には、籠近くに設置した登山用の止め具でブレーキを掛けながら、少しずつ降りてお拭きするという方法を取っています。一応ですが駕籠は奈良と同じ形の物を使用していますがね」


 良弁大僧都は奈良と同じようにしているという部分を強調して云った。


「なるほどです」


 女性は感心したような顔で答えた。


 良弁大僧都は改めて私達を見ながら促してくる。


「さて、他に質問はございませんでしょうか?」


 すると顔の長い訝しげな表情を常に浮かべていた男が徐に手を挙げる。


 大僧都は一瞬躊躇ったような表情をしたが、すぐにその男に声を掛けた。


「では、そちらの方、どうぞ」


 顔の長い、いや良く見ると顎が長い顔をしている男が、不敵な顔をしながらゆっくりと口を開く。


「良弁和尚に質問したいのだが、この施設は奈良の方の大華厳寺…… 東大寺側などにちゃんと許可をとっているのですかね? この寺が戦後のどさくさに紛れ勝手に作られ、華厳宗の方に断りもなく勝手な事をしているという噂を聞いたのだが……」


 その男の発することを聞いた良弁大僧都は、ぎょっとした表情を浮かべた。


 が、次の瞬間には平素を取り戻し、堅い表情をしながら返事を発した。


「い、いえ、そんなことはございません。私の先代の和尚が奈良の方で修業をし、許可を取り、国分寺を建て、その後、離脱をしたのでございます」


「本当ですかねえ?」


 その男は尚訝しげな表情で良弁大僧都を仰ぎ見る。


 良弁大僧都はその視線を外しながら声を上げた。


「……これ以上は、その件の質問は終わりとさせていただきます。他に質問は?」


 良弁大僧都は、その男には視線は送らず他の者を見て問い掛ける。


「ちょっと待ってくれ、なんでその質問は終わりなんだ? 聞いているんだからちゃんと答えてくれよ」


 顔の長い男は苛立たしげに声を上げる。


「その件の答えは先程申し上げました。ちゃんと許可を取っていますので、それ以上お答えする事はありません」


 良弁大僧都はそう云い放った後、顔の長い男の問い掛けに一切返事をしなくなった。顔を向けようともしない。


「ちっ、本当に許可を取っているのかよ……」


 男は舌打ちをして良弁大僧都を見上げる。


 しかし良弁大僧都は返事をしなかった。


「他に質問はございませんでしょうか?」


 私と中岡編集、そしてカップル達も場が緊張しているのもあり、それ以上の質問が上手く出てこなかった。老人は笑顔でこそないが、相変わらず目を開いているのか閉じているのか解らない程細くして我関せずと言った表情。マスク男は表情こそ見えないが相変わらずな状態だった。


「それでは質問は無さそうなので、読経、説法の方は終了させて頂きます」


 そう云うと、良弁大僧都は背を向けるとお経を唱えていた場所に戻り、経卓の上の御香や鐘の整理をし片付け始めた。


 その背中には明らかに拒絶する空気があり、声を掛けづらいものがあった。顔の長い男は、仕方が無さそうな顔で大きく鼻から息を吐き出す。


 そうして、正味一時間程の大仏殿での勤行は終了し、太鼓の横に控えていた良基が我々の前に来て正座した。


「それでは、この大仏殿での体験は終了となります。続いて開山堂の方で写経体験を行っていただきますので、私の後について来て下さい」


 重苦しくなってきた空気を断ち切るように良基が凛とした声を上げる。


 そうして、私達は良基に付き従い大仏殿を後にして、大仏殿の東側に位置している開山堂へと向かっていった。二十代のカップルは相変わらず手を繋ぎ、老人は相変わらず笑顔だった。


 ふと、後方に視線を送ると、意外な事に目付きの鋭い四十代の男とサングラスを掛けたマスク男が何か話しながら歩いているのが見えた。顔の長い男は相変わらず顰め面ではあるが、どうやら少しずつながら打ち解けてきたらしい。 




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