高崎の夜 肆
再び廊下に出た私は、丁髷を結った男のような顔をして廊下を進む。男らしく大股開きで歩いてみる。手には靴べらを持っているが、変に思われないように背中掻き棒のようにして肩辺りを掻いてみる。
「ふう、背中も痒ゆいし、風呂でも入りに行くぜよ」
低めの声色で私は独り言を呟きながら歩いていく。なんとか自然な装いだ。
再びやってきた大浴場で、今度は男湯の暖簾を潜り、中へと入り込む。女湯の方はがらがらだったくせに意外と混んでやがる。
脱衣所には老人と若者の二人が着替えており、脱衣籠は三つ程使用中の様相だった。
「御免つかーさい、つかーさい、ちょっくら連れを探してましてな……」
私はキョロキョロと周囲を見回しながら進んで行く。
「あれ、あいつ、居なねえな~」
私は服を脱がず、そのまま内湯の方へと入り込み奥へと進んで行く。偶に薄手の作務衣を着た人が湯の温度を測りに入って来る事があるが、そんな感じにちかい筈だ。
湯には入って居なさそうなので洗い場の方へと行ってみると、固太りな体が見えてきた。
い、居たぞ! ま、まだ無事だったようだ。
体を洗い流す湯に当たらないように気を付けながら私は傍へとにじり寄った。
「おう、中岡! 探したぞ」
私は低い声で呼びかける。
「へっ」
中岡編集は顔の湯を拭い私を見上げた。
「お、お、お、お、おい、き、君っ、何をしているんだ、こんな所で!」
中岡編集は驚いた表情で私を見る。そして、そそくさと手拭で粗品を隠した。ふん態々隠すほどのものでもなかろうに……。
私はその動きをちょっと鼻で笑う。
「中岡、ちょっと良いか」
私は顎をしゃくり端の方へ促す。
「えっ、ああ……」
そうして私達は連れ立ち端の方へと赴く。
「一体、男湯で君は何をしているんだ! 痴女だぞ! やっている事は痴女そのものだぞ!」
手拭で粗品を隠し前屈みになりながら中岡編集は声を上げる。
「わ、私だって、こんな所に来たくはありませんでしたよ! でも、さっき風呂に入っていたら外の男湯の方から、中岡を始末するだとかという不穏な声が聞こえてきたんですよ! だから危機を伝えにと、武器を持ってきたんです!」
「えっ、僕を始末するって云っていただと……」
「ええ、外湯の垣根の向こうから聞こえてきたんですよ……」
中岡編集は眉根を寄せつつ、少し考え込む様子を見せる。
「……それって、さっき学生さんが、文化祭で坂本龍馬の芝居をするんだって練習していたけど…… それじゃないかな」
「えっ、芝居の練習だと?」
私は驚いて聞き返す。
「ああ、確か外湯でちょっとやっていたよ、それと風呂場に怪しげな人間などは特に居なかったように思うが……」
芝居の練習って、紛らわし過ぎるだろ! じゃあ、は、早とちりだったのかよ……!
「…………」
私は自分の失態に言葉を失った。
「態々すまんな…… 龍馬……」
中岡編集はちょっと鼻で笑い返してきた。
「因みに武器というのはそれかね?」
中岡編集が私の手に持たれている靴べらに視線を送ってくる。
「あ、ああ、中岡、武器だぜよ……」
私は低い声で返し、差し出した。
「頼り無さそうな武器だが恩に着るよ…… が、必要なさそうだから、済まんが持って帰ってくれないかな……」
無下な一言だ。
「あ、ああ、中岡よ、無事で何よりじゃ……」
私は肩を落として去ってゆく。
「お、おや、あんたさん、あんたさんの持ってるのは、若しかして垢掻き棒かい?」
ふと、洗い場にいた老人が私に声を掛けてきた。
「え、えっ?」
私は戸惑う。靴べらだ。
「とすると、あんたさんは垢を掻いてくれるんかいのう?」
「えっ、いやっ」
戸惑っている所で中岡編集が声を上げた。
「えっ、ええ、垢掻き女です」
お、おい! 女は拙いだろ!
「えっ、女?」
「い、いや、違った。垢掻き龍馬です」
ば、馬鹿野郎!
「あ、垢掻き龍馬? ここが寺田屋だから?」
老人は私の顔を見上げる。
「え、ええ……」
私は風呂内に於ける自分の存在理由を見出せず、頷くしかなかった。
「そうしたら済まんが、わしの背中の垢を掻いてくれんかいのう」
老人は背中を向けてくる。
「えっ、ええ……」
や、やるしかないのか……。
私は靴べらを使いがりがりと老人の背中の垢を掻いていく。
「龍馬さん、終わったら、わしの背中も頼むよ」
別の老人からも声が掛かる。
「つかーさい」
なんでこんな目に……。垢掻き龍馬はがりがりと老人の背を掻いていく……。




