安房八行院 肆
私達は玄関部分まで赴く、そして、場所がよく解らないので受付で女人堂の場所を聞く事にした。
「あの、女人堂というのはどちらの方に?」
中岡編集が受付に佇む女性に声を掛ける。
「ああ、女人堂で御座いますね。この玄関を出られまして、本堂の左斜め後方に向かって頂きますと、中くらいの大きさのお堂が御座いますので、そちらになります」
仲居さんのような女性は手を差し伸べて説明してくれる。
「本堂の斜め後ろですね。解りました。行ってみます」
中岡編集は頷いた。
そうして中岡編集と私は連れ立って、女人堂があるという場所へと向かっていった。本堂の脇を抜け、少し進んで行くと大きくも小さくもないお堂が姿を見せた。
「あそこみたいですね」
「そのようだな」
その女人堂の前まで至ると、お堂に踏みあがる手前に幾つもの靴が脱ぎ並べられているのが見えた。
「ここで靴を脱いて上がるようですね…… それと結構人が来ているようですよ」
「皆、安房比丘尼に興味があるのだろうな……」
そうして私と中岡編集は靴を脱ぎ、お堂の内部へと入り込んでみた。
中には、いかにも観光客風の男女のグループ。五十代程の夫婦、そして、近所に住んでいそうなラフな格好のお年寄り数人が正座をして座っていた。
「こんにちは……」
私は取り合えず声を掛けてみる。皆は私たちには興味が無さそうな顔をしつつ軽く頭を下げてくる。私達は遠慮がちに後ろの方に陣取って座ってみた。お堂の奥には仏像が飾られ、その手前には緋色の座布団が置かれてあった。
「地蔵菩薩の立像が祭られているのか……」
中岡編集が呟く。
しばらくすると、横の戸が開き、白衣を羽織った白い髪の女性が姿を現した。あれが安房比丘尼らしい。
その女性は静々と私達の前へと進み、緋色の座布団の上に腰を下ろした。剃髪をしていない所をみると正式な尼という訳では無さそうだ。
そんな安房比丘尼を改めて見てみると、髪が白髪だから老婆のような女性なのかと思いきやもっと若かった。しかし若すぎるという訳でもなく、髪が白い事を除けば四十代程の細身な女性といった感じだった。髪は根元から毛先まで真っ白で、黒い部分が一切無かった。良く見ると目尻には僅かな皺があるものの、肌も真っ白で染みのようなくすんだ部分は全く見受けられなかった。何かとても神秘的な気配を滲ませている。よく白い蛇や白い狐などを神の使いだとか云ったりする事を聞くが、安房比丘尼も神の使いといった雰囲気が漂っている。
「では、本日の説法、いえ、説法と云うほどの大げさなものでは御座いませんが、お話をさせて頂きます」
白髪の安房比丘尼は優しそうに微笑む。
「え~、人には寿命というものがございます。どんなに死ぬ事が嫌でも年老い、死んでしまうのです。ですが、その寿命があるからこそ人の一生は光輝く訳です。そして、限りある寿命を大切に使い怠惰な日々を過ごす事無く生きていかなければなりません。兼好法師も徒然草の中で一日一日を大切に生かし生きていく事の重要さを語っておられます」
皆は小さく頷いた。
「しかしながら矢張り、死にたくない、ずっと歳を取らず、長生きしたいと願う人の心というものはどうしても存在します。特に全ての権力を手中に収めた人間が最後に欲するものも不老不死だとも云われています。かの秦の始皇帝も不老不死を求め、不老不死の妙薬だと信じ込んで水銀を飲み寿命を縮めてしまいました。また楊貴妃やクレオパトラなども不老不死を望んでいたとも云われています。しかし、自分一人のみが不老不死になったとしたら、それはとても虚しく寂しいものであるということも確かで御座います。若し子供を作る能力を持っていたら、自分の生んだ子供が自分より先に死ぬのを見なければなりません、また妻や夫が老いていく姿を見る事になるでしょう。そして、可愛がってた孫の死すらも……。つまり自分のみが世間から取り残されて孤独になっていってしまうこと意味しているとも云えるのです。八百比丘尼の逸話のように何人もの夫に先立たれ無情を感じたり、浦島太郎のように竜宮城で過ごした数日が実は世間では五十年程の年月が経っていて、時代の流れに取り残され途方に暮れるといった状態に陥ってしまう事もしばしばなのです」
浦島太郎は不老不死ではないから少し違うが、確かに不老不死になったが故の苦悩を謳った逸話が多いのも確かだ。
「結局、人が不老不死の体を得てもそれほど幸せにはなれない事が多いのではないかと私は考えます。不老不死というのは矢張り神々のみぞ得るに値するのではないかと……。その神々が何故不老不死でも苦悩する事がないかといえば、そんな寂しいなどという次元を超越しているとも云えますが、神々は揃って不老不死だから苦悩する事がないとも云えます。神の子供や神の妻もまた神であり死ぬ事がない永遠の存在だから虚しさを感じたり苦慮する事がないのだと考えます。ギリシャ神話に登場する神々も皆不老不死であり、その子供達も当然不老不死です。ネクタルやアンブロシアなどの不老不死を司る飲み物や食べ物を食べ、オリュンポスで永遠の存在として暮らしています」
確かに神々は不老不死の存在だ。傍に存在するのも不老不死なら悲しくはないだろう。
「そんな神々の姿に憧れ古代中国では神仙思想というものが持て囃されました。それは不老の人間である仙人という存在を信じ憧れ、自らも仙人になりたいと思う思想です。仙人は悟りきった人物ですから寂しさも左程感じないようですが、仙人達が多く住む仙境や桃源郷、崑崙山などといった清浄な地もあります。其処には仙人たちが沢山暮らしていますから寂しくなれば交流を得る事もできるようです。そんな仙人になる為に修行を行っている道士や方士は色々な事を試しました。秦の始皇帝に水銀を勧めた方士のように仙丹を飲むという事や、呼吸法で気を練るといった事、五穀断ちをする事、様々な事を行いました。因みに仙人の体は実体がなく空気のようなものだと考えられていました。その為に肉体を捨て気になるという方法で仙人になるという術も考えられました。しかしながら厭くまでも伝説的なものであり、実際に現代の世には仙人は存在していません。改めて考えますると、肉体を捨て仙境に至るという事は、下手をしたら死して天界へ至ると同義なのかもしれないと思える程で御座います。仙人になることも矢張り叶わないと。そして、不老不死など望むべきではないと。なので人は限りある人生を生き、そしてその中で怠惰な事無く精一杯生き全うする事が大事であり、それが幸せなのだと私は感じるのです……」
また安房比丘尼は優しく微笑んだ。
「そんな所で取り留めないですが、本日のお話は終わりとさせて頂きたく存じます」
安房比丘尼は頭を深く下げた。




