検証 陸
中岡編集は頷き、別のページを開く。
「それは……、富士の裾野の天間村という村に、吉野長者と呼ばれる夫婦が住んでいたという話だ。大きな屋敷、広々とした敷地を有し、不自由の無い暮らしをしていた。ただこの夫婦は残念な事に子宝に恵まれなかった。夫婦は氏神に一心に願ったところついに可愛らしい女の子を授かった。月日が流れ、その娘が十八歳に成った年、この土地一帯が大変な日照りになった。作物は枯れ、川の水が干上がった。その土地の民は途方に暮れてしまう。そんな状況にあってか、娘も元気を失い、伏せてしまう様になった。娘は伏した床で両親に、白糸の滝の傍にある大きな池が見たい。と云い出した。たっての願いとあり、両親は籠に乗せ娘を池に連れて行った。池に到着すると娘は静止も聞かず籠から降り、そしてあろう事か池に身を投げてしまった。両親が驚き悲しんでいると、空が急に黒く陰り大雨が降り出した。池は渦を巻き始め、その池の中心から金色の竜が浮かび上がってきた。そして竜は娘の声で、自分はこの沼の主である旨、また夫婦の子供が欲しいという願いを受け娘の姿になって夫婦の元に産まれたと告白した。日照りを止めるには竜の姿に戻らなければならないと説明し、可愛がってもらったお礼と別れを告げ、竜は池に消えていってしまった。という話だ。その池は長者ヶ岳の山麓に位置している田貫湖であり、古くは長者ヶ池と呼ばれていたとの事だった」
「驚いた事にこの話も似たような部分がありますね、お金に不自由していない子宝に恵まれない夫婦が出てくる所や、池に行く所など」
私は嬉々として何度も頷く。
「いずれにしても、さすがに伝承とか伝説とかの話になってくると辻褄が合わない所は少々出てくるがね、いくら顔に痣があったとしても、呪禁師のお告げがあったとしても、天子の娘が炭焼きの男と結婚しようとは思わないだろうし、またその山に葬られたのは天子の娘だという事だが、天子自身が葬られたのであれば天子ヶ岳で良いと思われるが、天子の娘が葬られた山が天子ヶ岳と呼ばれているのは少々無理がある気がする。皇女ヶ岳が良い所だろう」
「結果として痣が消え、黄金を元手に幸せに暮らしたのであれば、話としてはハッピーエンドですけど、確かに少々無理やり感がありますね」
強引な展開に私は思わず突っ込みたくなってしまう。
「しかしながら、違う場所を指す似たような伝承……。僕はこれが同一の伝承なのではないかと思わずにはいられない」
中岡編集は少し興奮気味に云った。
「一つ七面山で、もう一つは長者ヶ岳ないし天子ヶ岳を指していますが、どちらかの伝承が先にあり、それが近くの場所に差し変えられた可能性があるかもしれませんね……」
「となって考えると、七面山に関してはその山の名前が付けられたのは恐らく鎌倉時代後期となることだろう。日蓮上人の話に伴う形で七面天女が出てきて、それ以前には池大神が祭られていて七面天女はあまり出てこない。なので日蓮上人が身延山に入山してからようやく注目されるようになった山だと言える。だとすると七面山という名称もその頃に成立したのではないかと思われる。天子山地に属する思親山に関しても日蓮が生きていた時代以降にそう名付けられたのは間違いないだろう」
「日蓮上人がそれだけの影響力があった人物だったと云う事ですね」
「一方、天子ヶ岳の名称が、あの伝説から取られているとするならば奈良時代、若しくは平安時代に命名されたのではないかと思われる。鎌倉時代に入った後は武家の時代になっている。公家や天子の影響力は随分落ちているからだ。となると七面山の名称より天子ヶ岳、長者ヶ岳の名称の方が古いという事になるだろう。名称がそうだから伝説が古いとは云い切れないが、天子ヶ岳、長者ヶ岳の伝説の方が、七面山の伝説よりも古い可能性があるとも思える」
「……似たような場所に似たような伝説がある訳ですけれど、後年、最初に伝説があった地がズレ違う場所になってしまったと考える訳ですか?」
中岡編集が云わんとしている事を云ってみる。
「そうだ。七面山の池大神の伝説に於いては、甲斐の国の波木井郷の水上に七つの池の霊山があり、という感じで紹介されている。調べた所に拠ると、波木井郷というのは現在の南巨摩郡身延町梅平辺りをいうらしい。そして波木井郷は結構広い面積を有しており、北に身延山、南に鷹取山、東に天子山、西に七面山に囲まれたところと書かれてあった。つまり天子ヶ岳の西麓も波木井郷になる訳だ」
「少しずつ近づいてきた気がしますね」
「ああ、その辺りを、もっと細かく調べてみる必要があるな」
中岡編集は天子ヶ岳の登山ガイドという本を手に取った。
「僕は天子ヶ岳に七つの池ないし竜の住む池に相当する場所が無いかを探してみようと思う」
山岳ガイドの本は普通の地図とは違い、縮尺の大きな山の地図が描かれている。そして細かな見所や、登山道に関しての紹介もされている。
「一応、天子ヶ岳と長者ヶ岳の東麓には吉野長者の伝説の際に出てきた田貫湖がありますよ。娘が龍の姿になって帰っていった訳だから竜が棲む湖ですよね」
「だが、田貫湖のある場所は波木井郷とは云えないし、山麓というよりは富士山と天子山地に挟まれた高原だ。人が分け入る事が困難な深山幽谷とも思えない……」
中岡編集は少し興奮気味に山岳ガイドの縮尺が大きな山の地図を凝視する。




