松島へ 伍
船に乗った場所から遠ざかっていくのと同時に、沖に見えていた灰色の島影が次第に鮮明になってくる。船はその島へと向かってゆっくり進んで行く。
「あの島が今回の目的の島だ」
島に視線を送りつつ中岡編集が呟いた。
「中岡さん、あの島の上の方にも瓦屋根が見えますね」
「ああ、多分あれが円海寺なのだろう。松島湾の五大堂や掛かる橋は華やかさがあったが、こちらは松島湾の裏側だけあって、静かで落ち着いた感があるな……」
「地獄のイメージだからですかね?」
「そうかもしれないな…… そうだ知っているか? 地獄の色というのがあるが、それは黒なんだそうだぞ」
徐に中岡編集が言及する。
「どうして地獄の色は黒なのですか? 閻魔大王とかその居場所とかは赤っぽい気がしますが」
「確か道教でそうされたらしい。畜生界が黄色、餓鬼界が赤になるのだ。この地獄界、畜生界、餓鬼界が死後に行く六道の下位とされ、その中でも地獄界が最も重い罪を犯した者が行く事になっている。よく勘違いをしている者が多いが、閻魔大王は地獄の主ではない。天界、修羅界、人間界、地獄界、畜生界、餓鬼界の何処に行くかの審議をする者なのだ。だから閻魔大王がいる場所はまだ地獄ではないのだぞ」
「そうか、確かにそうですね。私も地獄と閻魔大王はセットという印象になっていました。まだ審議前なので地獄にいる訳ではないですものね」
私は自分の先入観による勘違いを改めて感じ入る。
「おっ、随分島に近づいて来たな……」
中岡編集が島の上の方を見ながら声を上げる。
島は中央がこんもりとした富士山のような形をした島だった。裾野の部分が海に漬かり海岸となっているような感じだ。船はゆっくりその岸に向かって進んで行った。
「結構、距離がありましたね。でもこれだけの距離で三百円なら良心的かもしれませんね」
私は島の岸を見ながら言及する。
「なぬ? 三百円だと? 三百六十円だろ支払ったのは?」
「いえ、私は三百円で支払いましたけど…… だって一文が十円から五十円なら、六文は六十円から三百円じゃないですか、私は上限で払ってみただけですけど、それを渡したらすんなり通してもらえましたよ……」
「ぼ、僕の方が多く払っているじゃないか!」
「まあ、大して変わらないじゃないですか、たった六十円ばかしですよ」
「いや、不公平だぞ。そうだ降りる時にお釣りを貰おう」
「えっ、お、お釣りですか! い、いや、良いじゃないですか、それ位は……」
「駄目だ。不公平はいかん!」
本物ではないにしても、三途の川の渡し賃でお釣りを貰うって…… そんなの初めて聞いたぞ。
私は呆れ気味に中岡編集を見た。
船は真っ直ぐに海岸に突き進む。船底が小石に当たっているのか、ずりずりと音を立てながら速度を緩めていく。船が止まると、船頭は浜に降りたち、舳先に付いていた紐を浜に建てられた柱に結びつけ、船が流されないようにした。
そして、船頭は手を広げ、私達に降りるように促してくる。
「降りて良いのか……」
中岡編集は舳先まで進み、恐る恐るといった体で浜に降り立った。私もそれに続いて浜に降りる。
その浜は扇のような形で、左右が岩場になっていた。浜の中央から傾斜を進むと、中央の山方向に向かう細い道がある。船頭はその道を指差し促してくる。
「あっちに進めば良いのですかな?」
船頭は小さく頷いた。
「ここまで乗せて頂き有り難うございました」
中岡編集は小さく頭を下げる。その上で船頭に対して手を差し伸べた。
「済みません、お釣りを……」
ほ、本当に要求しやがったぞ。
船頭は驚いたような顔付きで中岡編集を見詰める。
「お釣り?」
掠れる様な声で船頭が再び声を上げた。少し声色が震えている。
「いや、連れは三百円で、僕は三百六十円支払っていますので、六十円のお釣りがあるはずだと……」
「お釣り……」
「ええ、お釣りです」
中岡編集は憂う事無く要求する。
「…………」
船頭は無言のまま、懐に手を入れると、そこから六十円を選び出し、それを中岡編集の掌の上に乗せ返した。
「恐れ入ります」
中岡編集が小さく頭を下げる。
そんな中岡編集を冷たい視線で見ながら、船頭は擦れる声で呟いた。
「守銭奴が過ぎると、強欲で等活地獄行き……」
「えっ?」
そして船頭は不貞腐れ気味に背を向けて柱に向かい、紐を解き始めた。
「ほ、ほら、怒っていますよ、お釣りなんて要求するから…… お布施なんかと同じでお釣りはないのですよ、きっと……」
「で、でも、君と僕の運賃が違うのは気に入らないぞ」
「運賃は気持ちなんですよ、ケチな事を云うから……」
私は頭を掻く。
「わ、解ったよ、六十円は要らないよ、船頭さんに渡すよ」
中岡編集は船に乗り込もうとしている船頭の傍に近づく。
「やっぱり、これもお支払いします」
中岡編集は六十円を差し出しながら云った。
「…………」
船頭は蔑んだような顔で中岡編集を見ると、その顔を横に振り、背を向けて船を押し出し、そのまま一人で海へと出て行ってしまった。
「地獄行き~ 地獄行き~」
海に出た船頭は、徐に擦れる様な声で歌のようなものを口ずさむ。
「行っちゃったぞ…… それに嫌な歌を歌っているぞ」
中岡編集は沖に向かう船を見ながら呟いた。
「早々に不吉な事を云われちゃいましたね」
私は大きく息を吐いた。