松島へ 壱
「車内販売でございます。お菓子、コーヒーに缶ビール、お弁当、お土産はいかがですか?」
列車内に移動販売員の声がこだまする。
「あっ、すみません。僕に仙台の牛タン弁当を貰えますか?」
私の横に座る固太りの男が手を挙げ声を上げる。すでに私の斜め前には駅弁の空箱が三つ積み上げられていた。
「牛タン弁当でございますね、畏まりました」
販売員が笑顔で応える。
こ、こいつ、ま、まだ食べる気なのかよ……。
横の男を私は呆れたような顔で覗き見た。
「ん? 何だ? 君も何か食べたいのかね? だったら君も頼めば良いじゃないか」
その固太りの男が気が付いたような顔で聞いてくる。
「えっ、私ですか…… じゃ、じゃあ、私はアイスクリームを……」
別に食べたかった訳ではないが、私は流れで注文してしまう。
「畏まりました。奥のお客様が牛タン弁当で、手前のお客様がアイスクリームでございますね」
移動販売員は手際よく牛タン弁当とアイスクリームを差し出してくる。私はアイスクリームを受け取った。
そして固太りの男は弁当を受け取り、嬉しそうに開封したかと思うと、すぐさま牛タン弁当を食べ始めた。とうとう四つ目の駅弁だ。おいおい、また痛風発作が出るんじゃないのか……。
そんな訳で私と中岡編集は、実はまたまた取材旅行に来ていた。いつも鈍行列車ばかりなのだが、今回はリッチに新幹線に乗って移動している。前回書いた私の小説が少し売れてくれたようで、予算が少し多めに出たとの事だった。
新幹線とくれば車内販売がある。花の蜜に誘われる蝶の如く中岡編集は駅弁を買い漁り平らげていく。いや、蝶の如くは良く云い過ぎだな、中岡ホイホイの方がしっくりくるかもしれないが……。
「いやいや、しかしながら良いな新幹線は。席も広いし、傾くし、乗り心地は良いし、車内販売はあるしで、まるで天国のようだよ」
中顔編集が嬉しそうに言及する。
「まあ、確かに良いですね。いつもの鈍行は、席もほぼ直角ですし、前に誰か来ると膝が当たりますし、遅いし、車内販売はないですしで、結構退屈で疲れましたからね……」
私はアイスクリームの上蓋を開け、スプーンをアイスに突き立ててながら云った。しかしアイスが妙に硬すぎて上手く掬えない。
「まあ、僕は鈍行のあれはあれで結構好きなのだが、比較してしまうと随分差があるな、特に車内販売は素晴らしい、欲しい駅弁がすぐ手に入るというのが最高だ。ついつい食べ過ぎてしまうよ、ふふふふふ」
「だからと云って、これ以上は食べない方が良いですよ、もう腹が信楽焼きの狸みたいになっているじゃないですか、おっさん体型に輪を掛けたおっさん体型になっていまから……」
私は非難する。
「……輪を掛けたおっさん体型だと……」
中岡編集は苦虫を噛み潰したような顔で私を見詰め返す。
「……と、ところで、君、いつもと装いが違うな……」
不意に中岡編集が私の足元に視線を送りつつ聞いてきた。
「ふふっ、気が付きましたか? 実は今日はスカートじゃないのですよ。いつも、いつも、袴みたいなスカートだ。それが龍馬たらしめていると失礼な事を云われ続けたので、とうとうイメージチェンジをする事にしました。今回はパンツタイプにしたのですよ」
私は軽く足を組みなおす。
「……で、でも、それ、色と縦に入った襞の感じはいつもと同じようだが……」
「まあ、地味な色が好きなんで似た様な色にしてしまいました。自信がないから細いのは履けませんので、裾はゆったりめです、確かガウチョパンツとかなんとか云う代物です」
中岡編集は眉根を寄せる。
「……そうは云っても印象は変わっていないような気が……」
「そ、そんな事ありませんって、スカートからパンツタイプに変わっているじゃないですか!」
言及する私を見ながら中岡編集はふうと大きく息を吐いた。
「君は袴がどうなっているかも知らないのかね?」
「えっ?」
「袴は正確には中で二つに分かれているのだぞ、スカートみたいにはなってはいないんだ。それに裾が短ければまだしも、いつもの如く踝が隠れる位のその丈じゃ、より袴たらしめているぞ!」
「えっ、よ、より袴!」
想定外の返しに私は戸惑い聞き返す。
「ああ、君は意図せずズボンタイプを選択して、してやったりとばかりにズボンだと云うが、結果的にはより袴らしい履き物を履き、より龍馬になってしまっているのだよ、もう君は本能で龍馬の姿を追い求め、似た姿になろうなろうとしてしまっているのだよ、きっと……」
……そ、そんな馬鹿な! 私はいつもと違えようと工夫していたのに、より龍馬風になっていたと……。
「で、でも前よりは龍馬ではなくなっていませんか?」
「なくなっていないな…… より龍馬だね」
「……」
ほ、本当かよ!
「まあ、色々ちょこちょこやっているようだが諦めたまえ。そもそも地顔が似ているのだからどうにもならない。そしてその天然パーマのボサボサの髪の所といい、君は龍馬、そして坂本龍馬子という所からはもう離れられない運命なんだよ」
中岡編集は諦めろと云わんばかりにふうと息を吐きながら云った。
わ、私はやっちまったのか……。
私は激しい憤りの為に手が激しく震えた。と、その時、私が掬っていたアイスクリームが余りに硬かったせいで、プラスチックのスプーンに弾かれてピンと跳ねとんだ。
「あっ!」
小指の爪程のアイスクリームの破片は弧を描き、前の席へと消えていく。
「ああああああっ」
や、やばい! こ、これは、とんでもない事になった……。震える手がとんだ事を仕出かしてしまった。あれは今は固体だが、徐々に液体に変わっていってしまう代物だ。
私の頭の中からは瞬間的に、先ほどまでどうこう云っていた袴がどうしたとかの事は消えて無くなった。もう、それどころではないのだ。
「あ~あ、これは不味いな…… 僕は知らないぞ……」
他人事のように中岡編集が云う。
「な、中岡さんが失礼な事を云うから、私の手が震えてしまって……」
「ん? 僕が原因だと云うのかね?」
中岡編集が憮然と聞いてくる。
「…………いえ、わ、私の不注意ですけど……」
言い訳は出来ない。これはどう云おうとも私の過失である。
兎に角、これは早いうちに謝って、急いでアイスクリームの破片をティッシュか何かで摘み取らねばならない。
まだ取材先に到着すらしていないのに、早くも私に試練が訪れていた。
「わ、私、ちょっと行ってきます」
私は恐ず恐ずと立ち上がり、ポケットからティッシュを取り出し通路を前へと踏み出した。
ぁあああああああああああああああっ
前の座席を覗き見た私の心に絶望が襲い掛かってくる。
あ、あんな所に! そ、それに、あれじゃあ声が掛けられない…… 一体、どうすれば……。
私はどうにも出来ないまま前の座席を通過しててしまった。そして、車両の前方にある自動ドアを抜けてしまう。
嗚呼、ほ、本当にどうしたら良いのだろう……。
途方に暮れるとはこの事だ。
私は車両と車両の間の空間で少し考えた後、自動ドアを再び開け、恐ず恐ずと自分の席へと戻っていく。傍から見たら出たり入ったり何をしているのだろうと思われているかもしれない。
「な、何をしているのだ君は! それでどうだったのだ?」
席に戻ると中岡編集が聞いてきた。
「こ、困った事に寝ています。そしてお一人様です」
「寝ているのか…… それで例のあれは?」
「そ、それが…… 髪の毛に!」
「か、髪の毛っ!」
中岡編集が腕を組んで考え始める。
「こ、困った状況だな……」
「ええ、とても……」
私が余りに蒼白な顔をしているので、少し協力してくれる気になったらしい。
「本当に困っています……」
私は肩を落として呟いた。
「因みに男か?」
「ええ、男です。まあまあ年配の男性です。指定のせいか通路側に座っています」
中岡編集がハッと思いついたような顔をした。
「そうだ! 風で落ちるような事はないかな?」
「風ですか?」
「ああ、例えば、さり気無く団扇で自分を仰いでる振りでもして、風で落とすのだ。幸い隣の席には誰も居ないのだろう?」
「ええ、居ませんでしたね」
「隣の席側に落ちれば、兎に角言い訳は立つだろう。運よく床まで落ちたらもう何が何だか解らない筈だ。髪の毛に付いているから問題なのだから」
「でも、私は団扇なんて持っていませんよ」
「座席に用意されていた土産のカタログでもなんでもいいから、それに見立てればいいじゃないか」
「あっ、な、なるほど……」
中岡編集は改まって説明をし始めた。
「現在の状況から云うと、僕達は車両の後ろの方に座っている。そして、僕等から連絡扉までの間には幸いな事に人は座っていない……」
「ええ」
「僕等の一つ前には問題の人物は乗っているが、その横や、僕達の横には人は居ない。ターゲットの五列先に家族連れが乗っているが、彼等には気が付きにくい状態だと云える。つまり人目につかず事を起すには偶然都合が良い状況になっているという事だ」
「な、なんだかトレインミステリーの犯人みたいな感じになってきましたね」
私は緊迫した状況ながら思わず呟く。
「それに近い状況かもしれない。如何にして気が付かれずに、事を遂行しなければならない所は同じだろう…… 兎に角、アイスが溶けたら終わりだ。時間との勝負になる。また販売員さんが来たら拙い、さっさとやりたまえ」
「それ、わ、私がやるのですよね?」
「あ、当たり前だろ、君の過失じゃないか」
「わ、解ってますよ……」
私は恐ず恐ずと立ち上がった。
「ほら、これ」
中岡編集がカタログを差し出してくる。
「は、はい」
私は受け取った。そして、大きく息を吐く。
よく解らない緊張感が私を襲う。呼吸が浅くなり、鼓動が激しくなってきた。自然に自然に振舞わないと……。
私は一歩前に出た。
「あ~あ、今日は暑いな~」
ばたばたばたばたばたばたばたばたばたばた、私は物凄くカタログを仰いだ。
自分の顔の横を上手く通過させ、やや下方にまでその風力が及ぶように仰ぐ。
う、う、う、動かない。
困った事に、アイスは動いてはくれない。
「あ~あ、今日は暑いなあ~」
ばたばたばたばたばたばたばたばたばたばたばたばたばた、私は更に激しくカタログを仰いだ。前髪が浮き上がる程に風はいってくれているのにアイスは離れてくれない。
なんでだよ!
涙目になりながら中岡編集見ると、激しく手招きして私を呼んでいた。
「き、君、仰ぎすぎだぞ、あれじゃあ如何にも不自然だ!」
「だ、だって、吹き飛ばさなければいけませんから……」
「それで、どこまで飛んだ? 床まで行ったか?」
「い、いえ、それが、離れてくれません……」
「えっ、あれで駄目なのか?」
驚き顔で中岡編集が私を見た。私は小さく頷く。
「となると、も、もう溶け始めているのかもしれないな……」
中岡編集が絶望的な事を云った。
「まあ、いい、君では力が弱くて駄目だ。僕がやってやろう」
「えっ、やってくれるんですか!」
私は地獄で仏に会ったような気持ちになった。
「とにかく僕の瞬間最大風力で何とか噴き飛ばしてみよう」
そう云いつつ、私をどかして通路に出た。何だか頼もしい感じだ。駅弁で膨らんだ腹がより頼もしく見えてくる。
そして、さり気無く一歩前に出た。その手にはカタログが握られている。
「ふう、ふう、ふう、今日は、暑いなあああああっ! ふん」
ばたばたばたばたばたばたばた、物凄い勢いでカタログが振られた。
「くっ!」
中岡編集の口惜しそうな声が聞こえてくる。と思ったら、
「……うっ、うーん」
前から中岡編集の声ではない呻き声が聞こえてくる。
「…………っ!」
拙いと思ったのか中岡編集が慌てた様子で逃げ帰ってきた。
「も、もう駄目だ。動いたには動いたが髪の下に入ってしまったぞ……」
「ほ、本当ですか!」
「それに、顔が動いて横を向いてしまったので、何処にいったかもう良く解らない……」
「…………」
中岡編集が大きく息を吐いた。
「……も、もう起して、正直に云って謝ろう。僕も一緒に謝ってやるから……」
「も、もう、それしかないですね……」
私は小さく頷いた。
中岡編集に諭されて私は立ち上がる。何だか自首する犯人みたいだ。でも一緒に中岡編集が謝ってくれるのは少し心強かった。
真摯な心持で私は一歩前にでる。中岡編集はその横に並んで立ってくれた。
そして手を伸ばし肩に手を掛けようとした時、前の座席の男性のこめかみの辺りから、白い液体が流れ落ち、つーっと頬を伝った。
「あ、ああっ」
その白い液体はそのまま口角辺りまで流れて落ちていく。
と思ったら男性の口が開き、舌がその白い液体をぺろりと舐め取った。
「えっ……」
「う~ん、甘いなあ…… むにゃむにゃ……」
「…………っ!」
私と中岡編集は目を引ん剥いたまま、何事も無かったかのように通路を前に進み、隣の車両の扉を抜けた。
兎に角、無事に解決したらしい。そんな私達の珍事件簿をよそに、新幹線は北に向かってひた走っていく。