伊賀へ 伍
仲の口と呼ばれる玄関先の床は板張りだった。基本的に木造建築ながらゆったりとした作りになっている。しかし外壁を土と漆喰で塗り固めているせいなのか、中に入ると外の音があまり聞こえず、まるで倉庫の中にいるような印象を受けた。
「母屋でお見せできる部分は限られていまして、書院、茶室ぐらいしかございませんけど、宜しいですか?」
「いえいえ、そこまで拝見させていただければ有難いですよ。因みになのですが掛け軸の裏に隠し通路があったりはしませんよね?」
中岡編集が探るように質問する。
「伊賀にある古い家ですが、残念ながらそのような物はありませんね……」
「それはそうですよね」
中岡編集は少しがっかりした様子で頷いた。
そのまま私と中岡編集は長めの廊下を百合子の後ろに付き従う。
「それでは、ここが書院です」
片開きの襖を開け中に入ると、そこには立派な掛け軸が飾られた床の間があった。天袋や地袋のある本格的な書院作りだ。床柱には槙の木が使われているようで、随分節くれ立っていた。
よくある書院は、障子などで仕切られ、開け放つと庭が見える場所にあったりするのだが、此処の窓は京格子のような格子が設けられている一ヶ所しかなく、他の面は砂壁で作られていた。天井から竹を編んで作った提灯型の照明下がり明かりを取っているが、どうにも薄暗く、閉鎖的に見えてならない。
「ここも昔はもっと開放的な部屋だったようですが、他の部分と同様、外壁は漆喰、内壁は砂壁で塗り固められてしまったと聞きます」
説明を聞いたとおり、確かに日本家屋の特徴である風通しの良い部屋ではなくなってしまっていた。
「いえいえ、ご立派なお部屋ですよ、欄間や、襖絵も素晴らしいです」
私は敢えてその改装された部分には触れず、残った良い部分を賞賛した。
「では、次は茶室へご案内致しますね」
百合子は、再び廊下へ出てヒタヒタと進んでいく。
私と中岡編集はその後に続いた。
すると途中、五十代と思われる女性の使用人が、部屋の前の廊下で部屋の中に何かを呼びかけているのが見えてきた。
しかし何やら様子がおかしい。
「あら、富子さんどうしました?」
百合子が声を掛ける。
「いえ、正冶郎様がまだ起きてこられないのです。声を掛けても返事もないんです。変だと思って少し戸を開けてみようと思ったら鍵が掛かっているようで……」
その富子という家政婦らしき女性は、一瞬、訝しげな顔で私と中岡編集を見るも、左程気にする様子も無く百合子の問い掛けに答えた。
「戸が開かないのですか?」
「ええ、中から錠を掛けられているみたいなんです」
その説明を聞いた百合子は、頭を傾ける。
「まだ寝ているのではないですか?」
「でも、いままで、こんな時間まで正治郎様が寝ておられた事はありませんでしたし、錠を掛けられた事もありませんよ」
腕時計に視線を送ると、時間は十二時半を少し過ぎた所だった。さすがにこんな時間まで寝ているというのは怠慢にも程があるように感じらられる。
見ると、戸の形状は引き戸式になっているようだ。戸の両脇は砂壁になっており、その壁の奥側に嵌め込まれた一枚戸になっていた。鍵は襖戸用の鍵が付いているようで、引き手の下に鍵穴が見えた。
「十時半頃に一度来たんですけど、その時も戸がしまっていて…… 仕方がないので他の場所の掃除をしてから、また来たんですけど……」
困った様子で、その富子という使用人が呟いた。
「この部屋の鍵は富子さん持っていますか?」
「え、ええ、鍵の掛かっている納戸や蔵の掃除もするので、一応鍵束を持ってきています。この中に正冶郎様の部屋の鍵もあったと思いますが……」
富子は鍵束をポケットから取り出し我々に見せた。
「なら開けてしまって下さい」
百合子は何の気なしに云った。
「えっ、勝手に開けるのですか? そんな事をしたら怒られてしまいますよ」
富子は戸惑いながら手を横に振る。
「わたしに云われてやったといえば平気ですよ、もし怒られたら、いつまで寝ているんだ! と逆に兄に文句を云ってあげますよ」
「そ、そうですか?」
百合子に促され、富子は鍵束から、その部屋の鍵を選び出す。
「百合子様、正治郎様に怒られそうになったら、ちゃんと私の事を庇って下さいね」
そう言いながら、富子は鍵束から探し出した一本の鍵を鍵穴に差した。
私と中岡編集は邪魔にならないように、少し距離を置き、壁に背を付けて待っていた。
ガチャっと鍵が解かれる音がした。
富子が恐る恐る引き戸を引く。
部屋の中は明かりが付いていないのか、私の場所からは随分暗く見えた。
「あら、明かりが付いていませんね」
怒られる事を心配してビクビクしながら富子は呟いた。
戸の傍にあるスイッチを押したのか、部屋の中からカチッという音が聞こえた。
途端、
「ひ、ひやゃあああああああああああっ!」
激しい絶叫が鳴り響いた。
「何事ですか!」
傍にいた百合子も慌てて中を覗き込んだ。
「い、一体、ど、どうされたのですか?」
そう云いながら、中岡編集は甲斐甲斐しくすぐに百合子の傍へと近付いていく。私も何事かと扉の近くまで寄ってみた。
部屋の入口では口に手を当て蒼白な顔をしている百合子の姿があった。私はそこから躊躇いがちに部屋の中を覗き込んでみた。
すると富子の立ち竦む隙間から、真っ赤に染まった布団が見えた。
私は瞬間、異様な戦慄を覚える。それと同時に気味悪い汗が全身から滲みだしてきた。
布団には縦長の人の厚み程の膨らみがあった。そして、その膨らみに突き立った一本の日本刀の姿が……。
「こ、これは……」
私は余りの光景に声を失う。
「うわああああああああああっ、大変だ! 大変だ! 血が見える、そして布団に日本刀が突き立っているぞ!」
中岡編集は激しく取り乱し叫んだ。
「な、中岡さん、ちょっと落ち着いてくださいよ」
私は騒ぐ中岡編集を制する。
「と、と、と、富子さん、ま、まさか、あっ、あの下には、あ、兄が……?」
半ば信じられないといった表情で、百合子が富子に質問する。
「いえ、分かりません。そんなの分かりませんよ……」
富子は血の気が引いた顔を激しく横に振る。
「い、いたずら……よ き、きっと、いたずらに違いないわ……」
百合子は、まるで自分にそう言い聞かせるかのようにそう呟いた。
だが私にはそれが悪戯には見えなかった。周囲には、鉄臭い匂いが漂っていた。絵の具やペンキ、塗料ならこんな匂いはしないはずである。明らかに血の匂いに思えた。そして、隙間の陰には微かに肌色が見える。その布団の下には間違いなく誰か人が居るのである。
私の心の中には、ズッシリとした不快感が襲い掛かってきた。




