伊賀へ 壱
車窓には駿河湾が広がっている。日差しが強いせいか海がとても青くみえた。また海面に照り返す陽光がキラキラと輝き、とても美しい景色を作り上げている。
ふと、座っている席から通路を挟んだ反対側の車窓に目線を移すと、視界に頂上付近に白い冠雪がのる富士山の雄大な姿が飛び込んできた。
「あっ、え~、たごぉ~ のうらに~ うちい~でてみればぁ~ しろ~たえのぅぅ~ ふじの~たかねぇーに~ゆきはふりつつ~」
いきなり横から妙な声が聞こえてきた。
「な、なんですか一体?」
私は怪訝な顔で質問する。
「何って、句だよ。万葉集や百人一首に出てくる山部赤人の和歌だぞ」
そう云われて私は気が付く。
「あ、ああ、和歌でしたか…… いきなりなんで、とうとうイカれちゃったかと思いましたよ……」
「何を云っているんだ君は、いきなりなんかじゃないぞ、今こそ絶好のタイミングじゃないか、今の句の意味をちゃんと知っているのか? 富士市の海岸、田子の浦に出て仰ぎ見ると、真っ白な富士の高嶺に雪が降り続いているというもので、富士山の美しさを歌ったものだぞ、君も丁度そう考えていただろう」
……確かに考えていた……。エスパーかこいつは。
「そして、今、僕の事を凄いと思っただろう。だがな、これは全然凄くないのだ。それはだな、奈良の昔から今日に至るまで、富士山の美しく感慨深い姿は殆ど変わっていないからだ。つまり昔の人も君も富士山を見て自然と同じような境地に至っただけなのだよ」
なんだか面倒くさい奴だ……。
「因みに、特に凄いとは思いませんでしたけど……」
私は一言云う。
「あれ、そ、そうか? おかしいな……」
「しかしなんで妙な節調を加えて歌うんですか? 余計解りませんし、それにちょっと恥かしいですよ」
私は周囲の乗客をチラチラみながら云った。
「だってそれが本式じゃないか」
「いや、本式かもしれませんが…… 場違いですよ。なんだか声もデカいし……」
私は小声で苦言を云う。
「いや別に場違いじゃないぞ、和歌とはそう読むものなのだ。折角だから別の句も吟じよう。君に送ってやろう」
「えっ、私に送る?」
「ああ、君に送る句だ…… あ~ あわれとも~ いうべきひとはおもほえて~ みのいたずらになりぬべきかな~」
今度は少しだけ声のトーンを落として棒読みになった。
「今ぐらいなら、まあギリギリ許される所ですかね、ところで今の句はどういう意味なのですか?」
私は気になり質問する。
「これは恋の歌だ。そして意味は、自分の事を可哀相だと哀しんでくれそうな人が思い浮かばなくて、きっと自分は一人で恋に恋して虚しく死んでいくに違いないだろうな…… と自虐的に云っている振られた男の可哀相な句なのだ。龍馬子君は余りモテなさそうなので捧げてみた。そうなってしまっては駄目だぞ、ははははは」
な、なんだと! なんと失礼な!
「う、煩いわ! だから龍馬子って云うなって云ってるだろ! それに余計なお世話だぞ! もう黙れ、歌も歌うな、一言もしゃべるなよ!」
私は叫んだ。
「あの~ すみませんが、さっきから凄くうるさいんですけど……」
斜め隣のボックスシートに座っていた青年が眉根を寄せつつ注意してきた。
「ほ、ほら、中岡さん注意されちゃったじゃないですか、もう静かにしてください」
私は厳しめな顔で注意する。
「いや、貴方が」
「えっ」
「いや、貴方が……」
「えっ」
「だから龍馬子さんが……」
こ、こ、こ、こいつ龍馬子って…… 他人だぞ…… っていうか私なのかよ!
私は改まって若者を見た。若者は小さく頷く。自分を指差しつつ周囲を見た。周囲の人々も小さく頷く。
「……し、失礼しました…… た、大変、も、申し訳ございませんでした。以後気を付けます……」
私は仕方がなしに深く頭を下げる。そして周囲にもペコペコと。なんで私がこんな目に……。
そんな私を横で中岡編集が鬼の首を取ったような顔で見ながらニヤリと笑った。
今、私は東海道本線で名古屋を目指していた。
例の如く怪しげな出版編集である中岡編集と取材先に向っているのだ。なんでも今回は忍者や忍者屋敷を題材にして推理小説を書いて欲しいという。その為に伊賀の町に赴き、忍者屋敷を取材する事になっているのだ。
しかし、なんだか先が思いやられずにはいられない。