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歴女作家 坂本龍馬子の奇妙な犯科録  作者: 横造正史
第三章
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考察  参

 そんな中岡編集の説明を聞いている内に、私の中にふとした疑問が浮かび上がってきた。


「あの、しかしながら、いくら親族だからといって、どうして穴山信君だけにそこまで広い土地の領有を認めたのかがいまいち解らないのですが…… 例えば織田家なんかは、羽柴秀吉や明智光秀に土地と城を与えていましたよね、穴山梅雪が活躍しなかったとは云いませんが、もっと戦で活躍した兵達に細かく分配した方が良い気もするのですが……」


「ああ、その事か、その事は武田家の構造からくるものだから、仮に梅雪に領土を与えなかったとしても他の親族に与え、兵達に与える分は変わらなかったと思うぞ」


「えっ?」


 私は秀吉や信長がしたように、活躍した家臣に褒美として所領を与えていたと考えていたので驚いた。


「織田家は実力主義を採用していた事と、早急に天下統一を果たそうとしていたので、使える兵であった明智や羽柴に所領と軍を預けていた。また豊臣家の隆盛期に関しては、秀吉に子供が無く、親族も少なかったので福島正則などの家臣に多くの所領を与えていたという事実がある。だが武田家は、親族も多く古い体質だったから親族中心に国が動かされていたんだよ。そもそもなのだが、甲斐の国自体に関しても、国人の所領の集合体のような感じだったしね」


「えっ、そうなのですか?」


 意外な事実を聞かされ私は唖然とする。


「これは信玄の父信虎の代に遡る事なのだが、甲斐の国には有力な国人が多く住んでいたんだ。国人というのは土地を支配する豪族の事だ。国人は地域と密接な関係を持っており、その土地に対する影響力がかなり強い。信虎の時代、乱立する国人を力で押さえ込み、押さえ込めない程の大きな力を持った国人に関しては、政略結婚などを行い、身内として取り込んでいく方針を行った。その結果を以って甲斐を統一するに至ったという訳だ」


「なるほど……」


「まず信虎の代に有力国人である河内地区の穴山氏を政略結婚において傘下に入れる。信虎の娘の一人を正妻として穴山家に嫁がせたのだ。また、大井氏から正妻を向かえ入れ、都留郡を治めていた小山田氏には信虎の妹を嫁がせ、東郡栗原郷を治めていた栗原氏を傘下に入れた。そんなこんなで甲斐一国を纏め上げる。甲斐の国は、山梨郡、八代郡、巨摩郡、都留郡の四つで構成されているのだが、巨摩郡は穴山氏と大井氏、都留郡は小山田氏が治めていたとなると、武田氏の直轄領は国府があった山梨郡と八代郡だけになってしまう。ずいぶん狭い直轄地だといえる」


「小山田氏も親族なのですか……」


「続いて信玄の代になると、伊那の高遠氏を高遠領安堵の上調略し、主家である諏訪氏を攻撃させ、諏訪氏を滅ぼしてしまう。その後小笠原氏や村上氏との戦いになるも、上田原の戦い、その後、砥石崩れと敗戦が続いてしまう。困った信玄は、信濃小県郡の国人真田幸隆を仲間に引き入れ、何とか村上氏を倒すことに成功する。しかしこの時も調略を多く使い、真田氏には旧領の回復、内通に応じた大須賀氏には更級郡の安堵、同じく屋代氏には植科郡の安堵をしている」


「所領安堵が多いですね……」


「その後、川中島での戦いにて五度上杉勢と対峙しているが、決定的な戦いは第四次川中島合戦のみで、後は睨み合いで終わっている。そして、その直接的な戦いが行われた第四次川中島合戦では、君も知っている通り、武田方は上杉方より多くの被害を出して終わっている。また川中島への進軍の途中で南信濃から飛騨に掛けてを領有する木曾氏に信玄の五女を娶らせ、親族化を行い傘下に引き入れているんだ。つまり戦歴的には勝ったと呼ばれる戦いは僅かで、後は圧力を持って臣下化させるという方式を取っている事が多いという訳だ。そして、領土の殆どは旧国人支配のままになっている」


「そうなんですよね、戦が上手いとか、戦上手とか云われていますけど、戦歴的にはそうでもない気がしていたのですよね……」


 中岡編集は同意なのか頷いた。そして、少し考えてから口を開いた。


「少々脱線するが、戦国期の天下統一の手法に関して、信長風のやり方と秀吉風のやり方があると僕は考えている」


「信長風のやり方と秀吉風のやり方ですか?」


「ああ、大きく分けてだけどね。その信長のやり方というと、その土地の有力な豪族を全て滅ぼし、そこに自分の家臣を大名として送り込むというものだ。信長は近畿、中部をほぼ制圧した際、越中を柴田勝家に南近江を明智光秀に北近江を羽柴秀吉に、丹羽長秀に若狭を治めさせた。これは方面軍としての意味合いもあるが、織田家勢力下における家臣の大名化といった状況になる。そして仮に調略を用いて国人を引き込んだ場合でも上には置かず、柴田勝家や明智光秀の下に置いた。また僅かにやましい行為があった場合には即刻放逐してしまっていたのだ。更に信長は所領安堵と云いながら調略しておいても、後で難癖付けて没収してしまう事が多い。西美濃三人衆の安藤守就は武田と内通したと云われ追放されてしまった。つまり信長が気に入らなければ簡単に領土没収の上追放の対象となってしまっていたのだ」


「確かに強引な手法でしたよね」


「一方、秀吉のやり方では、滅ぼす場合もあるが調略を用いて臣下に引き込んでいくやり方が得意だった。それは美濃攻略の頃にも西美濃三人衆に対して使われ、その後毛利や伊達や上杉にも使われた。なので、天下統一後も、上杉家、伊達家、毛利家などの有力大名は一定の勢力を残したままになる」


「そうですね、人誑しと云われていた位ですからね。あの徳川家筆頭家老石川数正まで寝返らせましたしね」


 私は首肯する。


「恐らく信長が死なず、その後も天下統一に突き進んでいたら、織田家の子等や織田家の家臣団が日本中の大名と化し、上杉家、毛利家、伊達家は残されていなかったに違いない」


「確かに苛烈な信長なら遣りかねない気がします……」


「まあ、秀吉の方法が信長の方法より被害が少なく短期間で天下統一を果たしやすい事は否めない。本能寺の変後僅か七年で天下統一を果たしたことを見てもそれが窺い知れる。しかし秀吉という絶対者がいなくなれば統制はすぐに壊れてしまうという危険性を孕んでいる事も確かだ。秀吉に成熟した後継者がいたなら状況は少し違っていたかもしれないが、仮に成熟した後継者がいたとしても派閥争いが勃発していた可能性は相当高いと思われる」


 そこで中岡編集は一呼吸置いて、改めて私に云った。


「同じだろう? 武田家が国人衆を纏め所領を増やしていったやり方と秀吉の天下統一のやり方は……」


「大きさの違いはありますけど、確かにやり方は同じような気がしますね」


「よく信玄が病死しなければ織田家の隆盛はなかったと耳にする事があるが、僕は信玄は過大評価されていた嫌いがあるように思う。というのも信玄が存命中の最大領土は百二十万石だったと言われているが、当時織田家は三百万石程領していた。単純な石高に対する兵の動員数で計算しても、武田軍が三万の兵を動員できるとしたら、織田家は七万程の兵を動員できる事になる。それを踏まえて考えてみると、信玄が生きていようが死んでいようが、いずれ武田家は織田家に滅ぼされていた可能性が高いのではないかと思われる」


「ええ、私もそう考えていましたよ」


 私は歴女として持っていた自分の見解を述べた。


「それに武田家の構成において、武田が織田に負けてしまうであろう根本的な問題もある。織田家は信長という主の子飼いの家臣が兵として戦っていたのに対し、武田家は客分家臣の集合体のような状態だったからだ。勢力があるうちは良いが、それよりも敵の勢力が増せば、主家を裏切り敵に寝返るという事が簡単に起きる。それは武田家がその方法を使って百二十万石まで領土を増したからだ。一方、織田家の家臣は殆どが信長の家臣だから寝返るといっても他国との関係は薄い。また基本的に信長の兵を借りているだけなので、軍団長が裏切ったとしても部下が一緒に裏切ってくれるとは限らない。よしんば下手に謀反を察知され、裏切り者として征伐される事になれば討ち取った者に手柄を与えるだけだ。あの明智光秀に関しても、謀反が成功した背景には、本能寺に兵を向ける際、本能寺に信長がいるという事は兵達に伝えていなかった事にあるという」


「確か、一説によると、兵達は信長の命令で徳川家康を襲うものと考えていたんですよね」


「ああ、そうだ。実は武田征伐が終わった後、信長が家康を殺害しようと試みていたという嫌いがある。そもそも徳川は織田からすれば対武田の抑えであった訳であるから。武田滅亡後は徳川は用済みだ。同盟国が少ない織田からすれば徳川は唯一の同盟国にはなるが、厭くまでも部下ではない。部下ではないが故にこれ以上大きくなられても扱い辛い。そして安土城に家康と梅雪を呼び寄せた際、接待役に明智光秀を任命し、その食事に毒を盛るように指示を出したという説があるんだ」


「あの場面ですか」


 私は大河ドラマなどで良く見る光景を思い出しながら云った。


「それによると、食事を食べた家康も梅雪も何事も無い顔をしていたので、怒った信長は鯛が腐っているだの言い出したと云うのだ」


「おおっ、あの鯛が腐っていたという話にはそんな裏が?」


「飽くまで一説だけどね、そして光秀を接待役から解任し、すぐに羽柴秀吉の援軍として中国に向かうように命令を下し、家康と梅雪にはしきりに堺見学を薦めた。この時、信長は堺見学の隙をついて再度家康と梅雪を殺害するように指示を出していたというのがその説だ」


「一応辻褄は合っている気がしますね」


 私は小さく頷いた。


「そんな企みもあり、光秀はその指示を家康を殺害するから信長を殺害するに流用したのではないかという話も残されている。兵達は本能寺にいるのは家康であり、信長の名で家康を討つのだと考えていた。だからこそ疑問を持つことも少なく本能寺を襲ったのだと……。江戸初期に、本能寺の変の際明智の兵として従軍していた本城惣右衛門という人物が書いた、本城惣右衛門自筆覚書という書があるのだが、その中でも家康を討つものだと思っていたと書き記している」


「そんな物まで残っているんですか、知らなかった……」


 しかしながら、改めて思うが、こいつ歴史に詳しいな。こんな脇の知識まで知っているなんて……。


「確かに兵達が自分達が襲っている相手が自分達の主である信長だと知っていたら、本能寺を襲ったかは定かではないだろう。謀反を起こした光秀こそを成敗した可能性が高いと思われる」


「そう考えると、その時しかチャンスは無かったに等しいですね」


「ああ、そんな千載一遇の機会を物にした光秀はある意味凄いとも思えるが、基本的には裏切りを企んでも征伐される可能性の方が往々にして高い。それは柴田勝家であろうが、羽柴秀吉であろうが、丹羽長秀であろうが同じだ。そんな状況もあり織田家家臣は寝返る事も出来ずに死に物狂いで戦い続けるしかなかった。仮に信玄が生きていたとしても、織田家の勢力が増せば、木曾氏、大須賀氏など武力で臣下化させた豪族は簡単に裏切っていったと思われる。信玄の家臣は客分家臣ばかりであるから、信玄も今川義元亡き後、駿河進出においても穴山家の領土を使い兵を駿河に送ったりしたことの褒美として、駿河の二領を与える事となったのだろう。まあ、今川家の場合は調略して傘下に引き入れた訳ではないので、その土地に影響力を及ぼす事が出来、土地を上手く治められる人物が必要だという事で、隣接する土地を治めていた信君に任せたとも云える。しかし、此処まで広い土地を支配したことで、信君は自分が一人の戦国武将であるという認識を高めさせた可能性もある。そもそも先代の初期の頃は穴山氏は今川方として武田家と争っていたという経緯すらある訳だから……」


 中岡編集は少し話疲れたのか、また吸い物に口を付けた。私も大分食べ進んでいたものの、残りを片付けるべく箸を付ける。


 中岡編集は本を開き視線を落とした。


「随分脱線してしまった。梅雪の生涯の方へ話を戻そう」


「ええ」


「元亀三年頃から、武田家は三河、遠江、東美濃に同時侵攻を開始する。山県昌景を諏訪から東三河へ、秋山虎繁に高遠から東美濃へ、そして信玄率いる二万が青崖峠から遠江に侵攻した。山県昌景が長篠城を攻略し、秋山虎繁が岩村城を攻略し、信玄の本隊は二俣城を攻略した。梅雪は信玄の本隊の後詰として従軍していたらしい」


「俗に云う西上作戦ですね」


「しかしながら武田軍は三方ヶ原の戦いで徳川家に圧勝するも、続く野田城攻略の際、信玄が病から吐血してしまう。そして信玄の病状が思わしくない事もあり甲斐に引き返す事を決めるも、信玄は三河街道の道中で亡くなってしまうのだ。五十二年の生涯だった……」


「結核だとも肺癌だったとも云われていますよね」


 中岡編集は小さく頷く。


「そして、信玄亡き後は、信玄四男である勝頼が武田家の家督を相続する事になる。だが三年は死を隠せとか、勝頼嫡男である信勝が成人するまで後見人として務めろなどの遺言もあり、一度諏訪氏を継承していたという事もあってか、家中、国人衆の間では勝頼が家督を相続する事に納得していない節が強かった」


「しかし、どうして勝頼は反対されたのですかね。仕方が無いような事に思えますが……」


 結局の所、誰かが家を継がなければいけなくなる筈である。反対しても詮無い事の様に思えてならない。


「そもそも信玄嫡男である義信が健在だった頃は、勝頼は諏訪勝頼であり、梅雪や信玄の弟の子である信豊などと同列の御一門衆だったからだろう。それがいきなり自分達の主になったと云われても梅雪や信豊は面白くない。その辺りが勝頼と梅雪の不仲説に通じているのだと思われるが……」


「でも、仕方が無い事じゃないですか」


「それは国人衆の集合体のような体制だった事にも原因はあるかもしれないな。いずれにしても信玄の死後、勝頼期の武田家も、織田家とは東美濃で攻防を繰り返し、徳川家とは北遠江、東三河で攻防を繰り返した。そして天正三年、ついに進出してきた織田家、徳川家連合軍と、長篠で相まみえる事になる」


「いよいよ長篠の戦いですね」


 私は自分の好きな辺りの話なので嬉々とする。


「そういえば、君は戦いの経緯などはちゃんと知っているのか?」


「ええ、ちゃんと知っていますよ。設楽が原にも行きましたし、連吾川の土手もちゃんと歩いてみましたよ」


「ふーん、好きな部分だけは掘り下げが深いな……」


「えへへ」


「別に褒めている訳じゃないぞ」


 そして、中岡編集は少し考えてから口を開く。


「じゃあ、君から長篠合戦の説明を聞かせて貰おうかな?」


「え? ええ、構いませんよ、私の知識をふんだんに披露しましょう」


 私は自信満々に答える。


「ふふっ、楽しみだな」


 そうして私は嬉々として口を開いた。


「じゃあ説明しますよ、えーと、まず長篠の戦いに関して、武田家重鎮は撤退を進言していましたが、勝頼は決戦を選択してしまいます。この時の武田勢の数は一万五千、織田徳川連合軍は三万八千だったとされています。当初、武田軍は三河の長篠城に立て籠もる奥平信昌を攻略するべく進軍してきていました。しかし浅井朝倉軍を倒し、兵を武田に向ける事が可能になっていた信長は三万の兵を岡崎に向けて動かしていました。更に岡崎で徳川兵八千を加え、長篠城手前の設楽が原に着陣します……」


 中岡編集は黙って頷き話を聞いている。どうやら私の説明に聞き惚れているようだぞ。


「設楽が原には連吾川という川が流れているのですが、信長はこの川を掘りに見立て、その川の土手に土塁を積み上げ馬防柵を設け、野戦築城を試みました。これに対し勝頼は三千を長篠城の抑えとして残し、一万二千の軍を設楽が原に向けます。しかし、織田方は別働隊を迂回させ長篠城に差し向け、長篠城にいた抑え三千を打ち破り長篠城奪還を果たしてしまうのです。この事によって城から解放された奥平軍と迂回させた別働隊が武田軍の退路を断ってしまった訳です…… 武田軍はかなり危険な状況に陥いりました」


「……ほほう、まあ、大体合っているな……」


 むっ、失礼な! 合っているよ、私は歴女で、ちゃんと調べているんだから!


 中岡編集の一言に発奮した私は、説明に熱を帯させる。


「……しかしながら、この時の武田方には、第四次川中島合戦の際、謙信に裏を掛かれて武田本陣が脅かされた事を、今度が武田が織田に対して行おうという考えもありました。そんな考えもあり武田軍は迂闊にも馬防柵で守備を固める織田軍に攻め込んでしまうのです。ただ残念な事に状況も時代も違うのです。謙信が妻女山から一万三千の兵を迂回させ八幡原に出た時、武田の本陣には八千の兵しかいなく、武田本陣には馬防柵など当然なく、火縄銃などの用意など殆どなかったのです。車懸の陣と鶴翼の陣による。普通の野戦です。一方、長篠合戦に関しては野戦築城を行った織田方への攻城戦に近い物となっていました。そして待ち構える織田、徳川の連合軍は、川中島の合戦の際の武田本隊八千とは違い三万八千もの軍です。勝てるはずはありません。それに織田、徳川連合軍は、無理に戦いに勝つ必要もありませんでした。守りきって三河から武田軍を追い出してしまえば良かったのです。それもあり馬防柵を設け火縄銃を並べ待ち構えていたのです。決して攻め出す陣構えではありません。武田軍は愚かにも火縄銃三千丁を用意し馬防柵で守られ、入れ替わりながら火縄銃を撃つ三段撃ちの前に突撃し、当時最強と謳われた武田の騎馬隊は殲滅されてしまったのです」


 私は自信満々に話を終えた。どうだ! という気持ちが湧き上がってくる。


「以上かね?」


「ええ、以上ですとも」


「……まあ、基本的には間違ってはいないが、まだまだ浅いな」


「浅いですって、一体どこが?」


 私はムキになって聞き返す。


「通説では三千丁だと云われているが、実際の銃の運用数は千丁程度だったらしいぞ。まあ、例え千丁だったとしても当時としては相当な数だけどもね。それと入れ替わり立ち代り銃を放った様だが、通説のような三段撃ちは無かったというのが最近の見解らしい」


「えっ、そ、そうなんですか!」


 私は指摘され眼を見張る。


「ところで君に質問なのだが、騎馬と火縄銃ではどちらが戦力的に有効だと思う?」


「それは火縄銃でしょう。それもあって武田の騎馬隊は殲滅されてしまったのですから」


 私は熱く云った。


「実はそうとも云えないんだ。この戦いは、当時最新兵器ともいえる火縄銃が、それまでの戦い方でもある騎馬による突入を打ち破った画期的な戦いだと歴史教科書などでは紹介されているが、決して騎馬が火縄銃に通じないという訳ではない。当時の火縄銃は有効射程距離は百メートル程だと云われ、さらに筒に火薬を詰め球を詰めなどしていると結構な手間が掛かる物だった。初段を放ってから次弾を放つのに大凡三十秒程要してしまうとも云われている。騎馬が百メートルの距離を詰めるのに計算上では二十秒程しか掛からないので騎馬による突破や攪乱は有効な作戦なのだ」


「そうなのですか? でも昔の馬は小さくてポニーみたいな馬だったって聞いていますけど、そんな日本の馬でもそこまで足が速かったのですか?」


 私は知っている知識で対抗する。


「確かに、日本の古来馬はサラブレッドのような馬などではなく、ポニー程度の大きさの馬だったと云われている。ただポニーという言葉に惑わされ随分小さい馬を想像してしまいがちになるものの、ポニーも色々種類があるのであるんだよ」


「そうなんですか?」


「ああ、よく子供が牧場で乗せられているポニーはファラベラという種で体高が七十センチメートル程の馬だ。これは大体大型犬のグレートデン程の大きさだ。因みにポニーというのは体高百四十七センチメートル以下の馬全般を指している。日本の古来馬で有名な木曾馬は体高百三十五センチメートル程ある。動物園でモウコノウマという馬が飼育されているが、日本古来馬の種の起源はそのモウコノウマになる。そのモウコノウマは体高百二十センチメートルから百四十五センチメートルと言われており、木曽馬と略同じぐらいの大きさになる。実の所動物園で目にしてもらえば解ると思うが、モウコノウマはかなり大きい。確かに体高百六十センチメートルから百七十センチメートルだと言われるサラブレッドと並べると小さくは見えてしまうが、足は太く体形はがっちりしている」


「モウコノウマですか、一度前に見たことがあるような気がしますが……」


「木曽馬などは人を乗せて時速四十キロメートル程で走れると云われている事から考えても、かなりの機動力になった筈だ」


「じゃあ騎馬は火縄銃に劣らないと?」


「そう捉えて於いた方が間違いない。玉込めしている間に騎馬で押し迫り撹乱してしまえば鉄砲は役に立たなく事も確かだ。長篠の合戦から二十五年も後に行われた関が原の合戦に於いても、井伊隊、福島隊が宇喜多隊と睨みあっている所で、井伊直政の小隊が宇喜多隊に鉄砲を撃ちかけ合戦の火蓋は切って落とされた。そしてすぐに福島隊が突入して乱戦になっている」


「そ、そういえばそうですね」


 私は関が原合戦を想像しながら答えた。実は、関が原古戦場も散々歩き回っている。


「乱戦状態では玉込めなんてとてもしていられない。一発撃った後はすぐに引っ込み、次列に配した長槍での突き合いになってしまう。野戦に於いて鉄砲はそこまでの威力を発揮し得ない物になってしまうのだ。ただ、騎馬の機動力が優れているからと云って武田方が鉄砲の重要性を認識していなかったとかいえばそうではなく、鉄砲の重要性に関しては信玄も勝頼も十分持っていたようだ。川中島合戦時でも武田家では三百丁の鉄砲を所持していたらしい。長篠の合戦はそれから十年以上後なので、武田軍でもそれ相応の数は保持していたものと考えられる。しかし、鉄砲の重要性を認識していながらも有効性に関しては、信玄も勝頼も騎馬と同等若しくは騎馬の方が上と考えていたのではないかと推測される。馬防柵というものが無ければ、玉込めしている間に騎馬で押し迫り撹乱してしまえば鉄砲は役に立たなく事も確かだからね」


「じゃあ、勝敗を決めたのは火縄銃ではなくて馬防柵だったという事ですか」


「勝敗を決めたまでは云わないが、鍵となったのは馬防柵だと思うよ」


「なるほど……」


「まあ、そもそも火薬の原料は硝石になり、湿潤気候の日本では天然では取れない物だったんだ。当時は全て南蛮貿易で硝石を輸入して火薬を製造しなければならないから、南蛮貿易を早くから行っていた織田軍は火薬を手に入れやすい状況にあるが、近くに貿易港を持たない武田軍は火薬を手に入れにくい状況であったとも云える。火薬も織田程には有していなかったであろう武田軍は鉄砲を織田軍程有効に使えなかっただろうけどね」


 ……むむむ、こ、この男。 歴女の私より遥かに歴史に詳しいじゃないか……。


 中岡編集が想像以上に歴史に詳しいので、私は憤りを感じる。


 れ、歴男……。隠れ歴男だな……。そうだ、この男は私より上手の隠れ歴男だったのだ。取り合えずそういう事にしておこう……。


 悔しいので私は心の中で言い訳を云った。


「いずれにしても、長篠の合戦に於いては、武田軍はそもそも兵の数か少なく分が悪かったんだ。更に分が悪いのを鑑みて、鶴翼陣の中央付近にいた梅雪、武田信廉、武田信豊が相次ぎ戦線を離脱してしまった為に陣形が完全に崩壊してしまった。鶴翼陣は中央が崩れると両翼が取り残されてしまい非常に脆くなってしまう陣形だ。それもあり武田軍は総崩れになり大敗を喫してしまったんだよ。問題は武田方の野戦築城に対する無理な攻撃だ。騎馬による戦いが古い訳でも、鉄砲が凄すぎる訳でもなく行動や作戦が悪いのだ」


「ええ、私もそう思いますよ」


 私はしおらしく答えた。上手の歴男には下手に逆らわん方が良いだろう……。



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