第6話‐勇気の報酬‐
「避けてっ!!」
直後、開かれたドラゴンのアギトから冷気が迸った。
熱湯すら冷凍する息吹は、ギリギリ身をよじった裕の左半身を瞬く間に凍りつかせた。
「……っ、…………っ!?」
痛みに悶えない。絶叫などしない。
なぜなら、痛くないからだ。掠り傷ほどにも痛まないからだ。
なのに。
「……ぅ、ぁああっ……!」
涙が止まらない。とめどなく流れ出す。
ない――ないのだ。ないのが怖いのだ。感覚がないのが怖い。左半身の感覚が! ……いや、感覚だけか? ないのは本当に感覚だけか? 右手で確かめる――――ある。あった。ある。ある。ある……。胸の中が安堵で満たされる。よかった。本当によかった。ある。ある――
「何ボケっとしてんだ! 喰われんぞッ!!」
恐慌に占められていた頭がようやく正気になる。
真っ先に認識したのは雪に射すドラゴンの影だった。粘着質な唾液が顔のすぐ横に落ち、見る見る雪を溶かす。反射的に地面を押すのと派手に雪が舞い上がったのは同時だった。
裕は柔らかな雪の上を転がり、立ち上がる。左半身は動いている。冷たい氷に肌が覆われたせいで感覚が麻痺しているだけだ。
恐怖をどうにか意識の底に押し込め、裕はドラゴンを見た。口の端から雪をこぼしながら首を持ち上げる所だった。
喰おうとしたのだ、裕を。
生きながら、殺しながら。
あんなに走っても切れなかった息が、肩が上下するほどになっている。足、手、歯――震えていない所はない。恐怖が手足の先まで貫いている。
しかし。
―― もしおめーが失敗しておれらがドラゴンと戦う羽目になったら ――
―― ひとりふたりの犠牲は覚悟の上 ――
裕は大きく息を吐き、震える右手をぐっと握り締めた。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫……)
自分はもう非力な人間じゃない。リーゼロッテも保証してくれた。今の裕ならば勝てると。
恐れるな。恐怖を振り払え。難しいことじゃないんだ。
あんな図体だけの怪物、大した獲物じゃない――!
裕は長剣を鋭く抜き放った。氷の欠片がきらきらと空気に散る。
レオンとの決闘を思い出せ。彼に比べればドラゴンの動きはずっとのろい。落ち着きさえすればその攻撃をかわすのは簡単だ。図体に怯えるな。あんなのは――ただのでかいトカゲだ!
「――――っ!!」
声なき気勢を発し、裕は雪を跳ね上げて純白のドラゴンに躍りかかった。
あまりの速度にドラゴンはついていけない。長剣の白刃が長い首に吸い込まれる。
だが。
(硬いっ……!)
硬質な音を響かせ、鱗が刃を跳ね返した。
鎧のようだ。とても鱗と呼んでいい硬さではない。
一度退いて前足の反撃をかわし、裕は今一度怪物と向き合った。
全身が鱗に覆われているわけではない。お腹に当たる部分は比較的柔そうな表皮が剥き出しになっている。あそこを狙えばダメージを与えられるに違いない。だが果たしてそこまで入り込めるか……。
凍てつく息吹を回避し、側面から接近を試みる。が、積雪を抉りながら長い尾が振るわれ、下がらざるを得なかった。
知能が高いというのは本当だ。自分の弱点を正確に把握し、カバーしている。こんな図体で頭までいいなんて、ほとんど反則みたいな存在だ。
頭の端でそう毒づいた裕だったが、次の瞬間、知ることになる――自分の考えの甘さを。
唐突に暴風が渦巻き、雪が白く舞い上がる。顔を庇った裕は、愕然として空を見上げた。
「まずい……!」
レオンの焦りを帯びた声が届く。
ドラゴンが飛び上がったのだ。翼を大きく羽ばたいて。しかし飛び去る気配はなく、敵意の視線で地上の裕を見下ろしている。
ドラゴンの知能が把握していたのは自分の弱点だけではない。敵である裕の弱点もだ。
裕の武器は長剣のみ。刃の届かない空に逃げられてはどうすることもできない。
そして――
滞空したまま、ドラゴンがアギトを開けた。
上空から冷気のブレスが降ってくる。
裕は慌てて回避するが、地上に衝突した冷気は雪の上を舐めるように拡散し、近場の木々をたちまち氷結させた。
裕には攻撃手段がないが、ドラゴンにはこのブレスがある。単純な射程距離の差が、厳然と戦況を決定していた。
(どうすれば……っ!)
状況を覆す一手を思いつかないまま、裕は雪の上を逃げ回る。ブレスは何とか避けられるが、問題は凍り付いた左半身だった。
感覚は徐々に戻りつつある。しかし、それが新たな恐怖を生んでいた。
冷たい、痛い――身体が叫ぶそうした危険信号は、『放っておくと腐り落ちてしまうのではないか』という想像を否応なく呼び起こす。すると動かすことにどうしても躊躇いが生まれてしまうのだ。裕には自分の左半身が繊細な爆弾のように思われた。
早く終わらせたい。
その思いが裕の中で膨らむのは当然の成り行きだった。
ブレスを回避し、裕は1本の木に目を付ける。枝先まで凍り付いて松のようになったそれに飛びつき、枝を足場に駆け上がった。頂上に達し、ずいぶん近くなった怪物の姿を見上げる。
(――届く)
この1週間、自分の力を把握することに努めてきた裕は、確信をもってその判断を下した。
凍った木を蹴り砕き、裕は空へと跳び上がる。羽ばたくドラゴンがぐんぐん近づき、ついに長剣の間合いに入った。
狙いは――
(そこだ!)
皮膜状の翼を1枚、長剣が斬り裂いた。
絶叫が空を震わせ、純白の竜はきりもみしながら落下する。ほぼ同時に着地し、裕は天高く舞い上がった雪柱を見上げた。
「やっ……たっ!」
きっと無事ではいまい。まだ死にはしていないだろうが、しばらくは――
――と、そう思ったその時だった。
立ちこめる雪の中に、巨大な影が立ち上がる。
「ぁ……っ!」
油断――それを明確に自覚し、裕は一旦下がろうとした。
だが。
一度抜いた気は、凍り付いた左半身を動かすには力不足だった。
「あっ――」
雪柱の中から長い首が飛び出す。裕を狙うのは、鋭く獰猛な牙が生え並んだアギト。
裕にできたのは、右手の長剣を盾にすることだけだった。
ドラゴンの鼻先が刃の腹に激突する。
衝撃は思ったより軽い。押し返せる――そう思った瞬間だった。
ばきん。
滑稽なほど軽々しい音を立てて――刃が根本から断ち折れた。
刃の欠片がきらきらと舞い、鋭い牙と細長い舌がぬらぬらと光る。
もはや、遮るものは何もない――
身体が後ろに引っ張られた。
「……え?」
裕は視線を下ろして知る。いつの間にか、腰に鎖が巻き付いていた。
アギトは紙一重の虚空を噛み砕き、裕はレオン達の所まで滑っていく。入れ替わりに、
「エリカ様っ!」
エリカがドラゴンに向かって走り出ていった。
防寒具の下から光が漏れ出ている。魔導石の輝きだ。ということは、この鎖は彼女が……。
「お戻りください、エリカ様っ!!」
「さっさとそいつの左半身を何とかしなさい!!」
ヒルダに叫び返し、エリカはさらに魔技を発動した。
雪の下から何条も鎖が飛び出し、ドラゴンの体に絡みついた。竜は振りほどこうと暴れるが、鎖が1本千切れるたびに新たな鎖が絡み、呪縛から逃れることができない。
ヒルダが走ってきて、仰向けの裕の横にしゃがみ込んだ。
「ヒルダさん、彼女を――」
「じっとしていてください」
有無を言わせず、ヒルダは懐から取り出した魔導石を裕の左半身にかざした。
石が輝きを放ち、冷たかった左半身が熱を持つ。こびりついていた氷が見る見る溶けていき、同時に痛みも引いていった。
指先を動かしてみる。痺れは特になく、あの崩れ落ちそうな不安感も消え去っていた。
「応急処置ですが、多少動く分には問題ないはずです。……しかし、勇者様――戦えますか?」
その問いに、裕は息を詰めた。
身体が止まったあの瞬間、裕は紛れもなく死の淵に立った。左半身が凍り付いた時に倍する恐怖が今も心に根付いている。
さっきまでの裕は、一種の狂気に操られていた。だから巨大な怪物への恐怖も忘れることができた。だが――『死』を明確に捉えたあの瞬間、正気に戻ってしまった。
あんな怪物を相手に戦っていた自分が信じられない。完全にどうかしていた。頭がおかしくなっていた。
もう一度、あれを……できるのか?
(できない――)
確信した。
止まっていた震えが戻ってきている。歯の根が噛み合わず不快な音を発している。剣はいつの間にか遠くに転がり、足は凍ったように固まっている。愛想笑いして謝れば全部なしにしてもらえないだろうか――そんなことを考えている自分がいる。
ああ、やっぱり――と裕は思った。
やっぱり向いていないのだ、勇者なんて。今に始まったことじゃない――あの時だって、僕は勇者にはなれなかった。
確認し直しただけのことだ。失望し直しただけのことだ。今更、なんてことはない。
せめて、撤退の手伝いはしよう。
不向きな勇者のために死んでしまう、不幸な人が生まれないように――
「ねーちゃんっ!!」
レオンの叫びが自虐に溺れかけた裕を覚醒させた。
レオンが雪を蹴り上げて走り出す。裕は急いで起き上がり、エリカのほうを見た。
縛鎖を逃れたドラゴンの前足が、高く高く振り上げられている。
戦いの中でリズムを学習した裕は知っている。
その前足が地面を叩くまでは瞬きほどの時間しかかからない。距離を見るに――レオンも、もちろん裕も、間に合わない。
――いつか、似た光景を見た。
あの時も、女の人だった。1人の人間を脅かす、裕にとっては圧倒的な脅威。
あの時も、裕は外野から傍観していて。
あの時も、裕は見て見ぬ振りをした。
そして、その後――
その瞬間の神無木裕を、その場の誰もが意識から外していた。
レオン、ヒルダ、騎士達――その誰もが危機に陥った主君に注意を奪われ、裕を意識の外に置いていた。
だから、裕に起こったその変化を見た者は、この時点では誰もいなかった。
裕の瞳が、澄み渡る蒼色に燃え上がったのだ。
次の瞬間に起こったことは、その場の誰もが目撃した。
一陣の風が吹き抜け。
ドラゴンがピタリと止まり。
動物とは違う真っ青な血潮が長い首から噴き出し。
首だけが先に落ちて。
続いて巨体が、力なく倒れ伏した。
唖然と動きを止めたレオンは、まさかという表情で背後を振り返る。
ついさっきまでそこに寝転がっていた裕は、跡形もなく消えていた。
他方、エリカだけが正面を――骸と化したドラゴンの向こう側を見つめている。
裕の姿はそこにあった。
右手には小柄な彼の1.5倍はあろうという大剣。騎士の1人が持っていたそれを奪い取り、レオンを後ろから追い抜いて、一刀の下にドラゴンの首を斬り落としたのだ。訓練された騎士達ですら視認できないほどの速度で。
裕は青い血の付いた大剣を見て、ドラゴンの亡骸を見て、立ちつくすエリカ達を見て――
不思議そうに、首を傾げた。
「……あれ?」
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
ドラゴンの亡骸を持ち帰った裕達を、集落の人々は歓声をもって迎えた。
「ありがとうございます、勇者様……! これでようやく安心して暮らせます……」
そんなようなことを老若男女問わずいろんな人に言われた。
裕はただ必死だっただけだ。人を助けようなんて意識はまったくなかった。一度は諦めようとしたくらいである。
しかし彼らにとっては、裕は紛れもなく勇者なのだろう。勇気をもって脅威に立ち向かい、そして打倒した英雄なのだ。
「ドラゴンの死体は皆さんの自由にしていいと姉から言付かっています。どうぞご活用下さい」
「何から何まで……ありがたやありがたや……」
ドラゴンの肉体は極めて高価なものであるらしい。肉も骨も皮も、市場で売りさばけば1年遊んで暮らせるほどになると言う。
それを全部あげてしまうなんて豪気なことだ、と思ったが、よくよく考えてみると向天船にドラゴンの巨体を積載するスペースはなかった。
名残惜しまれながら集落を後にし、王城に帰り着いた裕達は、本日二度目の歓迎を受けた。
「よくぞやり遂げてくれました、勇者様。連絡を聞いた時、どれだけ胸を撫で下ろしたか……」
「僕なら勝てるって言ったのはリーゼロッテさんじゃないですか」
豊かな銀髪を揺らし、くすくすとリーゼロッテは笑う。
「勇者様の労をねぎらうため、ささやかですが宴の席を設けさせて戴きました。今宵は大いに疲れを癒してください」
そうして始まった宴には、ベルグダール流の豪勢な料理がずらりと並んだ。本来、こうした催し物の主賓には貴族の挨拶攻勢が付き物らしいが、リーゼロッテが気を利かせてくれたのか、今回はある程度気の知れた騎士団の面々のみが参席していた。
「よお、勇者殿! すげえじゃねえか!」
「大したもんだぜ、ドラゴンを一人で倒しちまうなんてなあ」
「こんなにちっちぇえのにな! はっはははは!!」
普段ならチビだのちっちゃいだのと言われると機嫌が悪くなる裕だが、今だけはそんな気分にはならなかった。
騎士団の豪傑達に乱暴な賞賛を受けていると、薄青いドレスのエリカがやってきた。
騎士達が引いていき、なぜか2人だけ取り残される。
「……まだ、言ってなかったから」
「……?」
何をだろう、と裕が首を傾げていると、エリカは恥ずかしそうに言った。
「…………助けてくれて、ありがとう」
ああ、と裕は納得し、返すべき言葉を自然に思いつく。
「こちらこそ、助けてくれてありがとう」
あの時、エリカが助けてくれなければ、今頃裕はここにはいない。
エリカは驚いたように裕を見て、
「……バカね。恩を着せておくチャンスだったのに」
そう言い残し、去っていった。なぜか騎士達にばしばし背中を叩かれる。
こうして喧噪の中にいると、いまいちはっきりしなかった実感が徐々に湧いてきた。
自分は、やったのだ。
ちゃんと『勇者』で在れたのだ。
裕の口元には、本当に久しぶりに、愛想笑いでも苦笑いでもない笑みが滲んでいた。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
お腹いっぱいになった裕は、ひとり自室に戻ってきた。
あんなに賑やかだった宴に比べると、ひとりきりの部屋はどうしても寂しく感じてしまう。ひとりに慣れている裕も、こればかりはどうしようもなかった。
けれど、ひとりになると腰を落ち着けて自分を見直すことができる。
今日は、悪くない日だったように思う。これまでの人生すべてを振り返ってみても、トップクラスに悪くない日のように思う。
途中、何度も心が折れかけたが……それすらも、結果オーライとして受け入れられている。今までならば考えられなかったことだ。
歓喜に湧く村民達。ねぎらいの言葉を口にするリーゼロッテ。手荒く称えてくれる騎士達。そして『ありがとう』と言ってくれたエリカ。
今更否定はすまい。……そうだ、ずいぶんと長い間忘れていた。
今この胸にある熱さこそが、『嬉しい』という感情なのだ。
これだけでどんな苦労も忘れてしまえる気がする。何もかもが報われた気分になる。
ああ、本当に、こんな気持ちになったのはいつぶりだろう――
「……ん?」
久方ぶりの感情に耽っている時、あまり使っていない執務机に見覚えのない物を見つけた。
封筒だ。
手に取ってみる。と、封がされていなかったらしく、中身が机の上に滑り落ちた。
中に入っていたのは2枚の便箋だった。
重なって折られたそれを何気なく開く。
1枚目は地図だった。どうやら王城の地図のようだ。ある部屋にマークが付いている。
2枚目を検めた瞬間、裕は息を止めた。
2枚目は手紙だった――と言っても大したことはない。たった一文だけの、何の変哲もない簡素な手紙だ。
――まるで筆跡を消すかのように、文字が角張っていなければ。
『お前は真実を知らない』
心臓が大きく跳ねる。浮かれていた頭が一気に冷やされた。
マーク付きの地図にこの手紙――マークの場所に行けば『真実』を教えると、そういうことなのだろうか。
怪しい。あからさまに怪しい。
……だが……。
なぜだろう。
どうしてこんなにも心惹かれるのだろう。
『真実』――その一語から、目を離せない。
(……よし……)
差出人の意図はわからない。
だが、裕に何か伝えたいことがあるのは間違いない。もし罠だったとしても、今の裕ならば問題なく対処できるはずだ。
……怖がる必要は、ない。
裕はマークの場所に向かうことにした。
マークにあったのは、どうやら倉庫のようだった。
裕は埃を吸わないよう口を押さえながら、そろりと足を踏み入れる。
灯りはなく、埃を被った木箱が乱雑に積まれている。相当に古い倉庫であるようだ。それも、今はほとんど使われていないに違いない。
ゆっくりと進みながら足元を見下ろすと、裕はあることに気付いた。
物にはしっかり埃が積もっているのに、床はそうではないのだ。箒で掃いたように埃が取り除かれている。
床だけ掃除したのだろうか……。いや、この城の使用人がそんな中途半端なことをするはずがない。
おそらくは……最近、ここに入った何者かが、自分の足跡を消すために掃除したのではないだろうか?
裕のその推測を裏付けるように、倉庫には掃除されている床とそうでない床があった。
迷路と化しているこの倉庫で、埃のない床は道標の役割を果たしている。この先に『真実』があるに違いないと思って、裕は綺麗な床に沿って進んだ。
埃が闇の中にきらきら光っている。虫でも出てくるのではと気が気ではなくて、足元ばかり見て歩いた。すると服の端が箱の角に引っ掛かり、物音に肩を跳ねさせた。
暗い上にごみごみした倉庫は死角だらけだ。何が出てきても――何が起こっても――不思議ではない雰囲気がある。
――今、あそこの……左奥の箱の向こうに、さっ――と、目玉が隠れたような……。
――天井の、あの隙間……今、誰かが覗いていたような……。
そんな風にして、ありもしない気配を作ってしまう。
真夜中にトイレに立ち、洗面所を――つまり鏡の前を――通る時に似ていた。鏡に映った風呂場の擦りガラスに、ふとありもしない人影を想像してしまう、あの感覚だ。
次から次へと湧いてくる不穏な妄想を振り払い――やがて、道は奥まった場所に突き当たる。
そこには木箱がいくつか置かれていた。裕はしゃがみ込み、そのひとつを持ち上げてみる。
決して軽くはない。中身が詰まっている。
しかし、問題はそこではなかった。
物を長い間同じ場所に置いておくと、その下には跡がくっきりと残るものだ。物の下に埃は積もらないのだから。
……しかし、この木箱の下にはそれがなかった。
この箱は、つい最近ここに置かれたのだ。こんな半ば忘れ去られた倉庫に。
一体、何のために……?
決まっている。
――その奥の壁を、隠すためだ……。
裕は唾を飲み込み、木箱をどけ始めた。勇者の力を持つ裕にとっては大した仕事ではない。木箱はすぐになくなった。
そして――奥の壁が露わになる。
そこには――――
「――――え」
――真実は、確かに忍び寄る。
挿絵の血文字には暗黒工房(http://www.ankokukoubou.com/)様の『怨霊』フォントを使わせていただきました。お礼申し上げます。




