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第47話‐勇者と呼ばれる彼ら‐

 全校生徒約400人を難なく収容できる広大な空間が、形の溶けたざわめきに充たされていた。

 その言葉の一つ一つを切り分けるのは難しい。

 しかし、彼らの話題は明白だ。


 本日、第9(アトムス)の月第7日目。

 予告されたベルグダールの『粛清日』は明日に迫っていた。


 だというのに、一体誰が兵士としてベルグダールに赴くのか、当の勇者達ですら知らなかったのである。

 そんな状況の中、学園上層部が初めて見せた動きが、この緊急全校集会なのであった。


 講堂に充ちるざわめきは困惑と不安の表れ。

 彼らのほとんどは実戦経験がない。

 今まで壁の向こうの出来事でしかなかった『戦』が直近に迫っているという状況は、10代の少年少女でしかない彼らにとって大きなストレスの元だった。


 不意に、ざわめきが凪いでいく。

 喧騒は沈黙に。

 壇上に白装束の少女―――第四代勇者長セリア・マークイラが現れた。


 長い黒髪を揺らし、彼女は堂々たる歩みで演台の前に立つ。

 ディオミールにも拡声器の類は存在するが、彼女の手元には何もない。

 セリアは講堂に集った生徒達にゆっくりと視線を巡らせた後、朗々と己が声を渡らせる。


「みんな、もうわかってると思うけど―――明日の戦いに参加してくれる兵士を、募集するわ」


 反応はない。

 ただ、沈黙が下りるばかり。


「定員は10名。ハーフ勇者は不可。

 契約勇者は、契約国の許可が取れなければ不可よ。他に条件はないわ」


 説明は淡々と。

 しかし、誰しもが理解する。

 その平静さは、激情を隠すための仮面なのだと。


「それだけわかってくれていれば、誰でも構わない。

 ……ただ、注意点をいくつか」


 一つ目、とセリアは告げた。


「敵国ベルグダールの予想兵力は、およそ30000人。

 もし参戦すれば、一人で約3000人を受け持つ計算になる」


 非現実的ですらある、その差。

 勇者ならば覆し得ると知ってはいても、圧倒的であることに変わりはない。


 沈黙の中、二つ目、とセリアは続ける。


「私はこの戦いにおいて、死者を一人も出さないつもりでいる。

 味方はもちろん、敵からもよ。

 ……でも、いざとなったらどうなるかはわからない。戦場に絶対なんてことはないから」


 戦うつもりなら、殺す覚悟を。

 これから始まるのは、れっきとした殺し合いだ。

 そんな当たり前のことを、セリアは静かながらも強く、言い含めた。


 しかし―――

 三つ目、と告げた後に、彼女はこう続ける。


「これから始まるのは、戦争じゃない」


 自分自身を否定するように、より強く。


「私達は、侵略しに行くわけでも殺しに行くわけでもない。

 ―――仲間を、取り戻しに行くの」


 それは気休めなどではない。

 紛れもない彼女の祈りが、込められていた。


「無理強いはしないわ。敵は充分に強い。命を落とす可能性だって、ちゃんとある。

 でも、もし。

 もし、力を貸してくれるのなら―――明日の朝4時半までに、正門まで来て」


 依然、沈黙に包まれた講堂を、セリアは今一度見渡す。


「私からは、これだけ。

 ……静かに聞いてくれてありがとう」


 ほのかに微笑んで、勇者長は壇上から姿を消した。

 400人近くも人間が集まった講堂は、それからもずっと、沈黙が下りたままだった。




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 演説というには淡白すぎ、講演というには空虚すぎた集会を終え、セリアは学園長室に帰ってくる。

 パタン、と扉を閉め、ふう、と息をついた途端、男の声がかかった。


「もっと煽らなくてよかったのか」


 視線を振り向けると、窓際に松ヶ崎黒也が立っていた。

 セリアより少し年上のその男は、いつも通り、何を見ているとも知れない瞳をこちらに向けている。


「……無意味よ、激情で戦いに駆り立てるなんて」

「無意味か。確かにそうかもな。……その代わり、残酷ではあるだろうが」


 窓の外に目を向ける黒也。

 今頃は、講堂から出てきた生徒達がそこらを歩き回っているだろう。


 セリアは応接用のソファーに座り、黒也の佇まいを眺めた。

 その立ち姿はどこか張り詰めていて、ついこの間までのくたびれたそれとはまるで雰囲気が違う。


「……思いとどまるつもりはないの?」


 すでに幾度も繰り返した質問。

 いつも通り、黒也は鼻を鳴らして答える。


「ねえな。あいつとは俺がケリをつける」

「でも、あなたはリサのために―――」

「―――俺はな、逃げたんだ」


 セリアが二の句を呑み込んだ隙に、黒也は独白する。


「あの荒野でリサを拾った時、リズが俺をどう思ってるかなんて、わかりゃしなかった。

 もしかしたらすぐにあいつの所へ行って、何もかもをちゃんと説明すれば、もう少し違う結末があったのかもしれなかった。

 ……くだらねえ妄想だってのはわかってるよ。

 だが、あの時の俺はそれを試そうともしなかった。

 リズが俺をどんな目で見るか……そう思うと怖くて仕方なかったんだ。

 その事実が、ずっとある。

 ずっとずっと、頭の中に残ってるんだ……」


 悔悟の中に、熾き火のようにくすぶる、小さな小さな勇気。

 彼は、乗り越えようとしている。勇気を出すことのできなかったかつての自分を。


 過去は覆せない。

 黒也とリーゼロッテは、もはや他人同士を装わなければ言葉すら交わせない。


 だから、終わらせる。

 はっきりと、きちんと、終わらせる。

 そうして―――今度こそ、帰ってくるのだ。愛すべき人(むすめ)が待つこの街に。


 そのために、彼は戦場へと舞い戻ろうとしている。

 それがどんなに危険で、どんなに苦しいことが、理解した上で。


「……そこまで言うなら止めないわ。定員は有効勇者のものだから、あなたは数に含まれないし」

「定員、10人か。……どのくらい集まるかね」


 少しだけ、セリアは黙った。


 正直、わからない。

 いざという時、彼らを奪われるばかりの存在にしないため、セリアは彼らに戦う術を教えてきた。

 だが、そこに兵士としての心得は含まれていない。

 あえて含めなかった。含めることはできなかった。

 甘えた現実逃避だとわかっていながら―――


「……いざとなったら、私がどうにかするわよ」

「そうだな。お前はずっとそうしてきた。

 ……結局このまま、お前が全部変えちまうんだろうな」


 ……私が、全部変える?

 唇が、自嘲の形に歪む。


(それができなかったから、私が今ここにいるのよ―――)




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 潔癖に漂白された部屋には、拒絶されているかのような圧力がある。

 ベッドに横たわる少女のか細い呼吸がなければ、ここには一秒といられなかっただろう。

 神無木裕は、保健室のベッドの傍に座っていた。


 眠る少女の名は上賀茂桂花。

 規則的に上下する胸が示す通り、彼女は一命を取り留めていた。


 だが、命に関わる傷であったのも、また確かだ。

 ヒルダの刺突には何か仕掛けがあったらしく、桂花の体内はずたずたに破壊されていた。

 勇者ならではの回復力と懸命な治療が功を奏し、こうして命を拾うことができたが、目を覚ます気配はいまだない。


 うなだれるような姿勢で桂花の寝息を聞きながら、以前もこんなことがあった、と裕は思い出す。

 あの時は強迫観念に衝き動かされるようにしてここにいた。

 だが今、裕をこの場所に縫い付けているのは、救いを求めるような気持ちだった。


 彼女に返すべき答えは、きっと手を伸ばせば届く距離にある。

 だがもう少しが足りない。

 彼女が目を覚ませばそれが埋まるのではないかと、どこかで期待をしている……。


「おう、またここにおったんか」


 そう声をかけながら入ってきたのは、天宮斐那斗だった。

 裕は顔を向けることもせず、呻くようにして返事だけをする。


 斐那斗は裕の隣に立ち、眠り続ける桂花を見下ろした。

 ややあって、彼は問いかける。


「神無木は、やっぱり行くんか」

「……どうしようかな」


 斐那斗は驚いたような顔をした。


「なんや、意外やな。神無木なら一も二もなく行くー言うと思とったわ」

「僕にそんな決断力ないよ」

「まあ、確かに普段は優柔不断ゆうか、事なかれ主義ゆうか……。そんでも、やる時はやる奴やゆうことはみんな知っとんで」

(……やる時はやる、か)


 自然と、自嘲の笑みが浮かぶ。

 それでも、桂花やエリカを守ることは、できなかったのだ。


「いずれにせよ、僕じゃ力不足だよ。

 定員は10人しかないんだ。他の人に譲ったほうがきっといい」

「ま、そらそやろな。

 けど、そらまた別の話やろ? お前が行きたいかどうかっちゅうんとは」

「……そうだね。

 結局、怖いだけなんだよ。セリアさんはああ言ってたけど―――明日起こるのは、戦争だから」

「……せやな。戦争は、そら怖いわ。

 っちゅうか……嫌いや、オレは」


 口調は努めて明るく。

 だが、隠しきれない暗さが、声の端に滲んでいた。


「なんちゅうても、人が人を殺しよる。当たり前みたいにや。

 そういうんがやな……なんちゅうか、アカンわ」

「……何か、あったの?」


 訊かなければならない気がして、裕は訊いた。

 斐那斗は、薄く笑う。


「10年前の戦争でな、オカンと妹が死んでもうたんや」

「…………」

「まあ、ゆうたらそれだけの話なんやけどな。なんも珍しない。

 特にオレらは、ちょうどギリギリ覚えてるくらいの頃に戦争があった世代やし。他の連中も似たような話をぎょうさん持っとる」


 学園生のほとんどは遺伝勇者―――地球ではなくディオミールで生まれている。

 平和な時代に生まれた裕達とは違い、戦争を経験しているのだ。

 あんなに明るい彼らがそんな過去を抱えているなんて、裕には想像できなかった。


 斐那斗はひときわ大きく笑った。


「アカンな。いらんこと喋りすぎや。構ってちゃんやわ、今のオレ」

「いいよ。……ありがとう、話してくれて」

「さよか。せやったらええんやけどな。

 まあ要するにやな、怖いんは誰かて同じやっちゅうことや。それ自体は卑下せんでもええと思うで。

 やけど……行きたないんやったら、そのほうがええ」

「……うん」


 行きたくないのだったら、そのほうがいい。

 ああ……まさに、その通りだ。

 殺したり殺されたり……そんなことはしないほうがいいし、したいと思わないほうがいい。

 あんな怖さは、知らないほうがいいのだ。


 斐那斗は去り、裕は再び桂花を見る。


 あんな怖さは、知らないほうがいい。

 なのに―――彼女は。


「……どうすれば」


 どうすれば、彼女の勇気に報いることができるのだろう―――




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 赤々と染め上げられた教室に、二人分の影がある。


 一つは背中に長い竹刀袋を背負った少女。一本のお下げにまとめられた長髪は、夕映えに依らずとも赤味を帯びている。

 もう一つは、猫の耳と尻尾を備えた半獣の少女だ。小さな顔にかけた眼鏡が夕日を映している。


 咲耶=ミリアム・コントレーラスと永宮十六夜。

 二人の視線の先、教室前の廊下には、柔らかな笑顔とアプリコットの髪が印象的な美少女がいる。九十九黄泉だ。


 他の女子と話している黄泉を、二人はひと気のない教室から眺めている。

 ずいぶんと長い間、彼女達はそうしていた。

 それに区切りをつけるように、ふと、咲耶が口を開く。


「出会った時のことを覚えているか、十六夜ちゃん」

「はい」


 二人と黄泉は同郷だ。

 彼女らが生まれ育ったその国の名を『撫子皇国(なでしここうこく)』と言う。


 『撫子』の最たる特徴は『女性しか存在しない』ということだ。

 生物学的にメスでなければ入国することはできないし、国内で生まれる生物はすべからくメスになる。


 ただし、裏を返せば女性でさえあればいいということでもあり、皇国内にはエルフやドワーフなどの異種族も少なくない。

 勇者蔑視の風潮も他に比べれば薄く、まさに女性至上国家だ。


 そんな国で、九十九黄泉という『男』が生まれてしまったのは、何かの間違いだったとしか言いようがない。


 咲耶と十六夜が出会ったのは、撫子皇国唯一の男として生まれた黄泉を中心として起こった、『とある事件』の渦中でのことだった。


「あの時、私達は黄泉を助けるために戦った。

 いろいろ知って……いろいろ失くした」

「……はい」

「すべて終わって、黄泉の笑顔を見た時、私は心の底から嬉しかったよ。

 ……でも、失くしたものはそのままだ。何があった所で、空いた穴は埋まりやしない」

「……はい」


 すかすかと、風通りのいい胸を埋めるように、咲耶は独白を続ける。


 得るために戦い、望み通りに得た。

 だが代償もあった。


 空いた穴を埋めることなどできない。

 蜂の巣のようになった己を引きずりながら、それでも人生は続いていく。


 何を得ようと、失ったものの代わりにはならない。

 だが、だからこそ、大切なのだ。

 穴だらけの身は、今あるもので支えなければ、すぐにも崩れてしまうから。


「私は、黄泉の笑顔を守るために戦う。そのためなら命の一つや二つ、安いものだ。

 ……でも、困ったな、十六夜ちゃん。私は今、ちょっと惜しんでいるんだ」

「惜しむ……ですか?」

「もう少し平和なまま、この学園での生活を送りたかったな、って」


 十六夜は押し黙った。

 口元に浮かんだほのかな笑みをそのままに、咲耶は続ける。


「もしかしたら、黄泉のことは守れても、ここでの生活は失ってしまうかもしれない。

 ……そう思うと、ちょっとだけ……ちょっとだけだぞ?

 ほんのちょっと、怖くなってくるんだよ……」

「大丈夫です」


 と。

 力強く、十六夜は断言した。


「咲耶さんは安心して黄泉さんを守ってください。

 あなたのことは、わたしが守ります」


 咲耶は十六夜に向き直る。

 眼鏡の奥の瞳は、純粋で、鮮烈で。確固たる決意に充ちている。


「おいおい、よしてくれよ十六夜ちゃん」


 咲耶は微笑んだ。

 照れたように、呆れたように。


「……そんなことを言われたら、惚れてしまうじゃないか」




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 いつもより閑散とした校舎に、夜の帳が迫りつつあった。

 ルナ・レーンは、紫に滲んだ昼夜の境界から、眼下の中庭に視線を下ろす。


 そこにある簡素な四角いステージは、決闘場と呼ばれている。

 人並み外れた能力を持つ勇者達のために設けられた、喧嘩広場だ。


 ルナにとってそこは、この学園でもっとも縁の深い場所だった。


 何度も、何度も何度も、ここで魔技をぶつけ合った。

 腐れ縁としか言いようのない、あのたった一人のライバルと―――


「なんですの、人恋しそうな目をして」


 青髪を揺らし、ルナは声の方角を見た。

 渡り廊下の中ほどにいるルナのもとに、金色の輝きを振り撒きながらサンドラ・ソーニエールが歩み寄ってくる。


 ルナが返事をせずに決闘場に目を戻すと、サンドラも隣で同じようにした。


「浮かない顔ですわね。今日のことは、あなたには関係ないはずですけど?」

「……ま、そうだな。関係ないさ、ハーフのあたしには」


 いつも通り、投げやりな調子で答えると、サンドラがくすくすと笑った。


「おい、何がおかしい?」

「いえ。……なんだか懐かしいな、と思いまして」


 口元に微笑を湛え、サンドラは決闘場を見下ろす。


「昔のあなたと言ったら、まるで拗ねた子供のようでしたもの。

 天性の才能を持っているくせに何をそんなに拗ねることがあるのかと、腹を立てたものですわ」

「……それで突っかかってきてたのかよ」

「ええ。そんなに自分を卑下したいなら、本当に無力を思い知らせてやろうと。

 ……わたくしにとって、あなたは敵であり、目標でもありました」


 ルナは皮肉げに口を歪めた。


「いきなりどうした? いつになくセンチじゃねーか」

「そうですわね。あなたに対抗心を燃やしていられるのも今の内だと思うと、つい」


 皮肉めいた笑みが引っ込む。

 ……永遠に思える日々も、いつかは終わる。

 18歳になれば否応なく勇者の力は消えるし、そうでなくとも……何かに遮られて、終わらされてしまう。


「今回のことで思い知りました。

 逃げても隠れても……世界は、わたくし達を放っておいてはくれませんのね」

「そうだな。お前があたしを放っておかなかったのと同じだよ」

「大人しくしているつもりでも、何が誰の気に障っているかわかったものではありませんものね」


 くすくす、と、サンドラはまた笑った。


「どうすれば良いのでしょうね。逃げてもダメなら、どうすれば……」

「そんなもん、3択だろ」

 ルナは投げやりな調子で言った。

「さらに逃げるか、追い出すか、向き合うか、だ」

「あなたはどれを?」

「さあな。自分で考えてみろ」


 ―――夜が『神の傘』を塗り替えていく。

 サンドラは無言で、無人の決闘場を見下ろしていた。




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 高等部男子寮のエントランスは、いつになく静かだ。

 ヨン・チャンスは独りラウンジに陣取り、本のページをめくっていた。


 読書と言えば静かな場所でするのが定番だが、彼は賑やかな喧騒をBGMにするのも好きだった。

 だから今は、少しだけ物足りない。


 そんな折だ。

 廊下の奥から、食べ物をいっぱいに抱えたダレル・ディーンがやってきた。

 チャンスはページを開けたまま、眼鏡の位置を直す。


「どうしたんだい、一体」

「いやー、小腹が空きましてな。

 食糧庫を物色していた所、バラティエ氏に見つかってしまいました」


 ダレルは許可も取らずチャンスの前にどさりと食糧の山を置き、もぐもぐと食べ始めた。

 ラウンジはチャンスの私有地ではないので、特に文句は言わない。


 読書に戻ると、ダレルが干物を一つ差し出してきた。


「おひとついかがですかな?」

「もらおう」


 盗品を何のためらいもなく受け取り、口に運びながらページを進めるチャンス。


「珍しいですな、ヨン氏。いつもは『本が汚れる』とか『性と食は両立しない』などと言って断るでしょう」

「気分の問題さ。……こうして穏やかに本を読んでいられるのも、好きに物を食べられるのも、当たり前のことじゃあない」


 読書は、贅沢だ。……いや、文字を読むことすら、幸福者の特権。

 読み書きも計算も、その概念すら知らなかった頃のことを、ときどき思い出す。

 あの頃は生きるために生きていた。幸福のために生きる、という観念そのものを知らなかった。


 怖気が走る。無知とはなんと恐ろしいものなのかと。

 同時に、深く感謝もする。勇者特区という街が生まれてくれたことに。


「まったくそのとおりですな。

 好きな時に好きなだけ食事ができる―――これほど幸せなことはありませんぞ」


 チャンスは、ダレルがこの街に来た時のことを思い出した。


「君は食べすぎだ。体重、一体何倍になったんだ?」

「数えたこともありませんな!」


 快活に笑い、出っ張ったお腹がぷよんぷよんと揺れる。

 今はこの通り肉ダルマなダレルだが、以前は骸骨のように痩せさらばえていたのだ。

 満腹になった経験すらなかっただろう。そのくらい、彼の生まれた環境は過酷だった。

 だから彼はこの街を愛しているし、だから彼はいつも笑っている。


 チャンスはぽつりと呟く。


「……失いたくないな」

「ええ、もちろん」


 動機はきっと単純だ。

 だが、だからこそ強力だった。




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 月が、天からこちらを見下ろしている。

 降り注ぐ月光は、斜めに傾いだ校舎の屋根に薄い影を落としていた。

 光を一身に浴びるのは、現実感を喪失するほどの美少女。


「……美しい」


 瑠璃宮美貌は、見上げた月を賛辞する。


 どんな世界でも、こんな世界でも、美しいものは美しい。

 どれだけ否定しようと、厳然と。


 だからこそ、美しいものはその美しさを誇らねばならない。

 汚れることがないからこそ、汚されることがないからこそ、それは己をこの世に繋ぎ止める命綱になる。

 ゆえに、苦しい時こそ口にすべきなのだ。

 ――美しい、と。


「君もそう思わないかね?」


 声を投げたのは、背後。

 そこに、もう一つの人影があった。


 ディミトリアス・エルフィンストーン。

 瑠璃宮美貌に負けず劣らずの美青年―――そう、その佇まいはすでに少年の域を脱していた。


 煌びやかな金髪にすらりとした長身という、絵に描いたような美青年は、屋根の上を危なげなく歩いてくる。


「こんな所で何をしている」

「何というほどのことではないとも。

 月が美しかったのでな、近くで見たくなった」

「……あれは神の傘が映す虚像だ。本物ではないぞ」

「それでも、美しいものは美しい」


 ふん、と鼻を鳴らし、月を見上げるディム。

 美貌は振り返り、その姿を見た。


「君には、柱が通っているな」

「なに?」

「私にとっての美しさと同じものが、君にはある。

 一体それがなんなのかは―――まあわからんでもないが、言わぬが華というものだろうな」


 くすくす、という笑い声が、夜気に溶けていく。


 ディムにとっての柱とは、すなわち誇り。気高さだ。

 彼は異常なほどそれに固執する。それが単なる傲慢ではないことを、美貌は知っていた。


「ただ、ひとつだけ教えてほしいな。

 君、それを誰に教わったんだ?」

「聞いてどうする。

 そもそも、どうして誰かに教わったのだと言える?」

「さあな。

 強いて言うなら、君の中にはいつも誰かがいるような気がするからだ。

 何せ月下美人の生き見本たるこの瑠璃宮美貌を前にして、小揺るぎもしていない」


 ディムはつまらなそうな顔で、再び夜空を見上げた。

 そこには月以外にも、砂金のように瞬く星々がある。


「……ここに来る前に出会った女性だ。

 その人に、誇りを捨てるなと言われた。

 誇りさえ捨てなければ、自分を殺さなくても済むからと」

「そうか。

 ……その人はきっと、とても美しかったのだろうな」

「無論だ。彼女は、誰よりも美しかった」


 美し()()()……か。


 新入生が来た際、恒例となっている『歓迎会』という行事がある。

 決闘を通じ、大概の勇者がディオミールに対して抱いている恐怖(トラウマ)を克服させてしまおうという、一種の荒療治だ。


 ディムの『歓迎会』において、決闘の相手を務めたのは美貌だった。

 美貌は彼を追い詰めた後、自分を斬れと煽った。

 そうして過去を乗り越えろ、恐怖を斬り捨てろと。


 だが―――ディムは斬らなかった。

 確固たる己の意思で、斬らないと誓ったのだ。


 過去も恐怖も、すべてを背負い込んで生きていく。

 それが彼が示した、勇気だったのだ。




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 慣れ親しんだ私室は、暗い闇に沈んでいた。

 勉強机の上で、金色の蛇が丸まっている。

 聖坂美零は三年も連れ添ってきたその相棒に向けて、そっと話しかけた。


「来たるべき時が来たよ、ルン」


 蛇の小さな顔が持ち上がり、こちらを見てチロチロと舌を出す。


「あの暗い洞窟の中でキミと出会って以来、私はぬるま湯に浸かりっ放しだった。

 でも、ついに、抜け出す時が来たんだ。

 ……付き合ってくれるかい?」


 金色の蛇は、伸ばした美零の指先に、鼻先をちょこんとつけた。




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 かすかな寝息だけをそのままに、保健室は夜闇で黒く染まっていた。

 裕は桂花の安らかな寝顔を見つめる。


 彼女は自分の想いと矛盾してでも、エリカを助けようとした。

 何のために?

 決まっている。裕のためだ。


 そんな彼女に対して、誠実であれていただろうか?

 また性懲りもなく、逃げてはいなかっただろうか?


 手のひらに温もりが残っている。

 それは二種類が重なったものだった。


 一つは、血を流す桂花のもの。

 もう一つは―――


「…………」


 ぎゅっと、手を握り締める。


 ―――今度こそ。

 今度こそ、その中には、求めたものが掴まれていた。




◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎




 翌朝―――第9(アトムス)の月第8日目。

 勇者学園、正門。

 剣を天に掲げる少年の像―――聖使徒像が、薄闇の中に佇んでいる。


 もうすぐ刻限。午前四時半は間近に迫っていた。

 しかし、ここにいるのはたった二人。

 セリア・マークイラと松ヶ崎黒也のみだ。


「……やっぱり、これだけか」

「仕方ないわ。元々そのつもりだったしね」


 募兵の布告がギリギリになったのは、セリアが生徒の徴用を渋っていたからである。

 彼女は一人きりですべて片付けるつもりだったのだ。


 だが、『最強』と『万能』はイコールでは結べない。

 どう作戦を立てても、セリア一人では虐殺にしかならなかった。

 ……もはや、セリア・マークイラはそういう存在に成り果てているのだ。

 それ以外の結果を望むのなら、彼女以外の力を求めるしかない。


 しかし、彼ら自身が望まないのなら、仕方のないことだ。


「時間よ。出発しましょう」


 セリアは校舎に背を向ける。

 今日という日は、歴史に深く刻まれるだろう。

 ただし、忌むべき日として。


 しかし、考えようによっては悪くはない。

 純粋な『力』だけでは、守りたいものを真に守ることはできないのだと、子供達に教えることができるのならば。


「―――待て、セリア」


 踏み出そうとした足を、黒也の声が止めた。


「何よ、黒也。こちとら気合い入れたところだってのに―――」


 文句を言いながら振り向いて、瞬間、口を噤む。

 校舎のほうから、人影が近付いてくる。

 その数、10。

 ―――募集した人数と、ちょうど同じ数。


「せっかちやなあ、セリアはんは」

「少し遅刻しただけだというのに。もう少し待ってくれてもいいじゃないか」

「どなたかが少し遅れたほうが驚かせるなどと言い出したせいです」


 天宮斐那斗。

 咲耶=ミリアム・コントレーラス。

 永宮十六夜。


「咲耶だと思うよ、それ。ミヤモトなんとかがどうとか言って」

「まったく。おかげで置いてけぼりを喰らうところでしたわ」

「我としてはしっかり朝食を摂る時間ができてありがたかったですな!」


 九十九黄泉。

 サンドラ・ソーニエール。

 ダレル・ディーン。


「ともあれ、後から追いかけるような間抜けなことにはならなくてよかった」

「冗談ではない! 追いつく前にすべて終わらせてしまうぞ、学園長殿は!」

「それはいかん! セリアちゃんの美しい戦いぶりを見られる千載一遇のチャンスが!!」

「どうでもいいけど、学園長さんまでちゃん付けで呼ぶのやめなよ、瑠璃宮さん。

 というか参戦動機それなの?」


 ヨン・チャンス。

 ディミトリアス・エルフィンストーン。

 瑠璃宮美貌。

 聖坂美零。


 姿を現した10人の教え子たちを、セリアは丸くした目で見回す。


「あなた達…………来たの?」


 あんまりと言えばあんまりなセリアの反応に、斐那斗があきれ顔になった。


「来い言うたのはセリアはんですやん。まるで来てほしなかったみたいな顔してからに」

「一応それなりに覚悟を固めてきたので、喜んでほしかったんですがね」


 肩を竦める美零。

 ああそうか、そういうシーンか、とセリアは間抜けな納得をして、


「……美零、あなた契約勇者でしょう?」

「許可を取ればOKなんでしょう? 取りましたよ、許可。

 オリビオが例外なのは学園長さんも知っているでしょう」


 確かに通信魔技を使える美零なら個人的に契約国と連絡を取ることができる。

 それに彼女の契約国オリビオは、珍しいことに勇者である美零を崇め奉っているので、彼女の決定には基本的に逆らわない。


 セリアは集まった子供達の顔を見る。

 仲間を取り戻すという目的のために、これだけの子達が命を賭けると言ってくれた。


 やはり、心配は払えない。

 だが同時に―――こんなに嬉しいことはない。


「……みんな、ありがとう」


 集まった顔ぶれに、彼はいなかった。

 そのことを少しだけ残念に思っている自分がいる。

 出所のわからない気持ちだったが、思索にふける時ではない。すぐに振り払った。


「これで10人が集まった! 武器は外に用意してるから、そっちに寄ってから出ぱ―――」

「待て!」


 今一度呼び止める、黒也の声。

 まさか――と根拠のない予感に駆られて、校舎のほうを見やった。


 一人。

 こちらにやってくる、人影がある。


 男としてはあまりに小柄で、遠目にもわかるほど線が細い。

 頼り甲斐があるとはお世辞にも言えない、その容姿。


 だが、今。

 その歩みには、その姿には、震えるほどの力強さがあった。


「僕も……連れていってください」


 神無木裕が、闇の中から姿を現す。

 瞳に強靱な輝きを宿し、両の拳を握り締めて。


「足手まといになるかもしれないけど、それでも―――僕が、エリカを助けたいんです」


 僕が、と。

 他の誰でもなく、自分が――と。

 その、たった一文字の違いに込められた想いを、誰もが理解し、


「遅いよ、神無木くん」


 黄泉が、一歩前に進み出た。


「え……?」

「君の枠は最初から空けてある。行こう、一緒に!」


 裕の後ろに回った黄泉が、どんっ、とその背中を押す。

 押し出された裕はたたらを踏んで、クラスメイト達の顔を見た。


 黄泉が抜け、裕が入り―――これで10人。


「……本当に、行くのね?」


 セリアの問い。

 裕は間髪いれず、


「―――はい」


 確然と、頷いてみせた。


「それでは黄泉さん、後は頼みます」

「うん、任せて。

 ……でも、ちゃんと帰ってきてね」

「当たり前だ。帰ってこないと黄泉をすりすりできないじゃないか!」

「い、いや、それはしなくていいから……」


 この場で唯一学園に残る黄泉と、戦地に赴く十六夜と咲耶。

 三人のやり取りはあまりにもいつも通りで、毒気を抜かれてしまう。


 ……いや、これでいいのだ。

 セリア自身が言ったことだ。これから向かうのは戦地ではなく、これから始めるのは戦争ではない。

 仲間を迎えに行く。たったそれだけなのだから。


「―――聞きなさい、勇者達」


 改めて告げられるセリアの声に、勇者達は静まり返る。


「これからあなた達は、勇者学園の生徒ではなく、一人の『勇者』になる。

 それがどんなに険しい道か、誰よりもこの私が知っている。

 だから、一つだけあなた達に問うわ」


 置かれたひと呼吸は、泥よりも濃く。


「―――地獄についてくる勇気はある?」


 放たれた問いかけは、鉛よりも重かった。


 一瞬。

 沈黙が漂う。


 ―――その一瞬の内だった。



「せーのっ……」


「「「「「「「「「「行ってこォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおいッッッ!!」」」」」」」」」」



 大量の声が、校舎から湧き上がる。

 振り向けば、理由は簡単に知れた。

 さっきまで無人だった、不気味な雰囲気すら醸し出していた校舎に、人が溢れ返っている。


 迸る声、声、声。

 年齢、性別、人種―――異種様々な彼らは、しかし、この学園で同じ時間を過ごしたという、ただそれだけの共通点をもって声を重ねる。


 必ずエリカを取り戻せ、と一様に。


 屋根の上に青髪の少女が現れた。

 彼女が手に握ったステッキを頭上に向けると、直後、先端から閃光が迸る。

 光線は紫色の空に立ち昇り、花火のごとく弾けて勇者達を照らした。


 照らされた勇者達は、いつの間にか振り返っている。

 一律に、同じ表情を浮かべて。

 表情(それ)は、言葉にするまでもなく、彼らの答えを告げていた。


「……おっけ。資格は充分よ」


 降参するように、セリアは笑う。

 そして反転させるように表情を引き締め―――朗々と声を張り上げた。


「第四代勇者長セリア・マークイラの名において、あなた達に『勇者』である事を命ずる!!

 力に呑まれるな!!

 恐怖に挫けるな!!

 勇気を忘れるな!!

 私達は兵器ではない―――人殺しになりたくなければ、剣と共に勇気を握れ!!

 いざ――――――出陣!!」



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