第1話‐勇者召喚‐
「――――――――」
ここは、どこ……?
「――――――――」
……寒い……冷たい…………寒い、寒い…………。
「――――――――」
なに……? 何を言っているの……?
わからない、わからない……。――え? どうしてわからないんだ……? それもわからない……ただわからない……。意味のわからない言葉、言葉、言葉――
「――――――――を」
……え?
耳元で……囁く……声が。少しずつ、少しずつ……わかるように、なってきて……。
やがて。
「――――――契約を」
僕を。
光に。
引き上げていく――――
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
目を覚ますとメイドさんがいた。
「…………」
「おはようございます、勇者様」
ぱちりぱちり、と瞬きを二回。
そしてゆっくりと首を左右に回し、
(……ねむい)
寝た。
「おはようございまあ――――すっっっ!!」
「ふふぉああっ!?」
耳元で炸裂した大音声に睡魔を爆殺され、神無木裕は奇声を上げて起き上がった。
心臓がばくばくと鳴っている。朝に弱い裕だったが、頭は緊急地震速報に叩き起こされた時くらい澄み渡っていた。
(な、なに? なに?)
ついさっきまで確かに外にいたように思う。そう、高校へ行く途中だったのだ。朝食を食べ、着替え、歯を磨き、前日のことを思い出して気を重くしながら家を出た。そして……。
犬のように頭をシェイクし、今一度状況を確認する。
裕は今、三人くらいは余裕で横たわれそうなベッドの上で上体を起こしている。視線を上げてみれば、なんと天蓋だ。まさか現実に存在しようとは。
(いや、というか、さっき……)
目を覚ますと同時に、おかしなものが見えたような。
恐る恐る、顔を横に向ける。
「改めまして……おはようございます、勇者様」
艶やかな黒髪に純白のカチューシャを乗せたメイドさんが、綺麗にお辞儀をした。
そう、メイドさんだ。ただしコスプレでは絶対にない。スカート丈は足首まであり、ピンと背筋を伸ばしたままのお辞儀などもはや芸術の域だ。メイドさんはメイドさんでも、世界名作劇場から飛び出してきたような、やたら堂に入ったメイドさんだった。
(……なぜ?)
なぜメイド? なぜ天蓋? なぜお辞儀?
というか――ここはどこ?
思考力を鈍化させたまま、ぐるりと室内を見回す。
はて、我が部屋の机はあんなにシックな色だっただろうか。おや、我が部屋のカーペットはこんなに赤かっただろうか。あれ、そもそもこの部屋、我が家の土地面積と同じくらいあるのでは?
「うーん……」
裕は首を捻り…………とりあえず大人しくしておくことにした。
「……あの」
「え、あ、はい?」
なぜかメイドさんのほうが遠慮がちに話しかけてきた。当惑する裕。
「反応はそれだけですか? もっとこう、『ここはどこだ!』とか『お前は誰だ!』とか……」
「え、あ、じゃあ……ここはどこですか?」
メイドさんは綺麗な顔に困ったような表情を浮かべる。若い人だなあ、と思った。裕の一つか二つ年上だろうか。くっきりした目鼻立ちの美人で、黒色の睫毛が長く伸び、大きな鳶色の瞳を縁取っている。
「なんだか調子が狂いますが……とりあえず細かい説明は後に回しまして、まず現状をご理解いただければと存じます。どうぞお手を」
差し出された手を見て、次に顔を見る。が、即座に視線を手に戻した。神無木裕15歳、あいにく同年代の女の子と目を合わせる度胸には持ち合わせがない。
数秒逡巡し、手を取る。肌が絹みたいに滑らかで、ドキリを通り越してドッキン! と心臓が跳ねた。神無木裕15歳、あいにく同年代の女の子と手を繋いだ経験には持ち合わせがない。
「こちらへ」
介護でもされるかのように、カーテンの引かれた窓際まで手を引かれる。どうやらまだ昼間――いや、空気の感じから察するにまだ午前中のようで、柔らかな日差しが薄いカーテン越しに射していた。
「ご覧ください」
裕の手を離し、メイドさんはカーテンに手をかける。
「ここが――今、勇者様がおられる世界です」
カーテンが開かれ、瞬間、世界が広がった。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
「この世界は『ディオミール』と呼ばれています。勇者様から捉えると『異世界』ということになりますね」
長く幅広い廊下を歩きながら行なわれる説明に、裕は「はあ……」としか答えられなかった。
異世界に連れてこられた――つまり、そういうことらしい。
漫画か小説かあるいはゲームか――いずれにしろ、妄想癖をこじらせた中学生みたいな話である。しかしながら、廊下の隅に置かれた彫刻や壁に掛けられた絵画――それに時折すれ違ってはメイドさんと挨拶を交わす板金鎧の男達は、とても現代の存在とは思えなかった。
何より、窓の外に見た信じられない光景――
一体、世界のどこに岩の塊が浮遊する土地があると言うのだ?
裕の頭では、『地球ではないどこか』としか答えようがなかった。
「ここは天空都市ベルグダール――ベルグダール王国という国です。そのもっとも高い場所に存在する、ベルグダール王城の中になります」
メイドさんは歩きながら振り返り、裕に微笑みかける。
「私はヒルダと申します。このお城の、いちおう侍従長ということになっております」
(じじゅうちょう……じじゅう、自重……――侍従長!)
つまり一番えらいメイドさんだ。こんなRPGだったらダンジョン扱いであろう巨大なお城の侍従長だなんて、どうしてそんな人が自分ごときを起こしていたのだろう。
「勇者様がこの世界に召喚された理由など、細かい経緯は主が説明します。ですので、まずはそちらに」
「…………あの……」
「なんでしょう?」
足を止めないまま、笑顔がこちらに振り向く。
身長は裕よりもヒルダのほうが少しだけ高い。遺憾ながら、裕は身長がほんの少しだけ低い部類に入ると世間一般的には判断されると認めざるを得ないので、自分より身長の高い相手は輪をかけて苦手である。しかし、それでも訊いておきたいことがあった。
「あの……その『勇者様』って……僕のこと、ですか?」
普段、声をかけられることが少なすぎるせいで、話しかけられていること自体に気付けない裕だが、その言葉が自分を指していることは消去法的に明らかだった。
「ええ、その通りです、勇者様。その辺りのことも主から説明がありますので」
「は、はい……すみません」
言いながら、裕は心の裏で思う。
(……恥ずかしくて死にそうだ)
勇者なんて……そんな呼ばれ方をされて、嬉しいわけがない。
「色々と疑問がございましょうが、まずは主の元へ。勇者様をこの世界に呼び寄せたのはその御方ですので、勇者様の混乱もすぐに――」
「その必要はありません」
声があり、姿があった。
初めて見る人物が、裕達の行く手を阻むように立っていた。
「私から説明申し上げます。わざわざお姉様の手を煩わせることもないでしょう」
まず目を引いたのは、陽光を浴びて宝石のように煌めく銀髪だった。下ろせば長いのだろうそれを、頭の後ろで結ってシニヨンにしている。
そして――視線が髪から顔に移った時、裕が抱いた感想は次のようなものだった。
(……こんな綺麗な女の子が、いるんだな……)
裕と同い年くらいの少女だった。肌は絹みたいに白く、瞳はエメラルドを思わせる翠。銀糸を束ねたような髪と相まって身震いするほどの美貌を生んでいる。
絵画から出てきたのだと言われても信じるだろう。それくらい現実離れした女の子だった。
「エリカ様……! 陛下はお部屋にいるようにと――」
「私はもう15歳ですよ、ヒルダ。自分の行動は自分で決めます」
少女はヒルダを振り切り、裕の前まで来る。裕はその凛々しい表情をぼーっと見つめた。
「お初にお目にかかります、勇者様。私はエリカ・フロイデンベルグ。あなた様をこの世界に呼び寄せたのはこのベルグダール王国の女王ですが、私はその妹です」
「はあ……」
裕としてはそんな反応をするしかない。女王の妹と言うと、王女? それとも姫? 馴染みがなさすぎて驚きようがない。
エリカ王女はわずかに首を傾げる。
「それで、勇者様のお名前は……」
ああ、と裕は気付いた。そういえば目覚めてから一度も名乗っていない。
「……ええと……神無木裕、です――」
言ってから、『苗字と名前、逆にしたほうがよかったかな?』という疑問に囚われた。が、王女は「神無木裕様ですね」と流暢に繰り返した。
エリカはどこか挑戦的な輝きを瞳に宿し、言葉を続ける。
「それでは裕様、あなた様の現状と、我が国があなた様に求めることについて、姉に代わって私から説明させていただきます。ついてはお部屋を用意しましたので、そちらへ」
「あ、はい」
言われるがままである。裕はエリカの案内に従おうと――
「待てっ!!」
突如として怒号が響き渡った。
今度はなんだ、と若干うんざりしながら振り返ると、一人の子供がいた。騎士っぽい板金鎧を身に纏っているが、おそらくは12~3歳程度の男の子である。
「そこのヨソモン、エリカねーちゃんから離れろ!」
敵意に満ちた声を放ち、体格に不釣り合いな西洋剣を裕に突き付ける。
剣が本物であることに気付き、ぎょっとする裕を庇うようにして、ヒルダが前に出た。
「ヤンカー団長、剣を下ろしなさい。勇者様に失礼です」
「フン、勇者ぁ? ただの子供じゃねーかっ」
それは君だ、と言いたくなったが、言いたいことを飲み込むのには慣れている。
「ヨソから来ただけの子供が勇者だなんて、腹が痛くならぁ! 剣だったらこのベルグダール国軍魔導騎士団団長、レオンハルト・ヤンカー様がいんだっ! ヨソモンは怪我しねーうちに異世界でもどこへでも――いでっ!」
言い切る前に、ヒルダの拳骨が降った。
「何すんだよヒルダさん! 人は殴られたら痛てーんだぞ!?」
「痛いだけではありませんよ? 人は殴られると黙るのです」
「いでっ!」
ヒルダは笑顔のままさらに一発拳骨を見舞う。レオンハルトという名前らしい子供は涙目で恨めしそうにヒルダを見上げた。
ヒルダはその顔をがっしと掴み、強引に下げさせながら自分も頭を下げる。
「申し訳ありません、エリカ様、勇者様。お見苦しい所をお見せしました」
「い、いえ……」
むしろ『余所から来ただけの子供が勇者なんてちゃんちゃらおかしい』という点には全面的に同意するものである。
「あの……その子は?」
「本人が名乗りました通り、我が国の騎士団長を務めています、レオンハルト・ヤンカーです」
「騎士団長……?」
まだ涙目のままこちらを睨みつけてくる子供を見て、裕は思わず言ってしまった。
「――こんな子供が?」
「あっ」
「あら」
瞬間、エリカが『やっちゃった』という顔をし、ヒルダが困ったように微笑んだ。
ひやりとした感覚が走る。
(もしかして……まずいこと言った……?)
言うまでもなかった。
「……だ……」
レオンハルトの眼光がギラリと光る。
「だぁあああああああああああああああああぁれが子供だぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
最初のそれに倍する大音声が爆発し、裕は思わず耳を押さえる。
ああ……、と天を仰ぎたい気持ちになった。
たまにまともな言葉が出てきてくれたと思えばいつもこれだ。これだから喋りたくないのだ。
と、憂鬱になっている余裕はなかった。
「言っちゃあいけねーことをあっさりばっさりはっきり言ってくれやがってえっ! 絶対……絶対許さねーからな! このチビ勇者が!!」
「…………」
…………おっと。
誰が……チビだって……?
胸に灯った炎をすぐさま鎮火しようと試みた裕だったが、健闘むなしく視線に感情が滲んでしまった。無言のまま、頭ひとつ分以上も――頭ひとつ分以上も! 下にある顔に視線をぶつける。
「レオン! いい加減に――」
「ちょうどいいじゃない」
と、そう言ったのはエリカだった。
彼女は何か企んでいる顔を浮かべ、裕とレオンハルトの間に割り込む。
「レオン、そこまで言うなら試してみますか? 勇者様の力を」
「えっ? いいのか!?」
「ええ。第一王女の名において許可します」
「よっしゃあ!」とレオンハルトはガッツポーズする。
エリカは置いてけぼりの裕に振り返った。
「裕様。我が国ベルグダールがあなたに求めるのは、『我が国の勇者であること』です。強く、勇敢で、義に厚い――そんな勇者になっていただくことです」
「えっ……?」
勇者様、と呼ばれていたことから予想できてはいた。しかし、
「それは……無理ですよ……。僕は普通の人間で……むしろひ弱なほうですし――」
「いいえ、あなたは強い――なぜなら勇者だから」
「は……?」
勇者だから、強い? それは順序が逆じゃ――
「私の言葉が真実かどうか、これから証明します。そのために、そこのレオンハルトと決闘をしてください」
「決闘……?」
ヒルダが慌ててエリカに詰め寄った。
「エリカ様……! それは――」
「じゃあどうしますか? レオンはもうやる気ですが」
レオンハルトはフンフンと鼻息荒く腕を動かしている。
「しかし、こんなにいきなり……勇者様もお困りになって――」
「……いいですよ」
ヒルダが驚いた顔で振り向いた。
裕は苦笑のような愛想笑いのような曖昧な笑みを浮かべる。
「やらなきゃ、どうしようもないみたいですし……」
ヒルダは裕の度胸に驚いたような表情を、エリカは感心するような表情を浮かべていた。
しかし、これはそんなにいいものではない。
裕はただ、場の流れに逆らうことを恐れただけなのだから。
神無木裕。
世界一臆病な勇者が、この日、ディオミールで目覚めた。