第18話‐敗残者達‐
妙におどおどした頼りない奴――
それが、神無木裕に対する第一印象だった。
その印象が変わり始めたのは、いつの頃からだっただろう?
最初はやはり、演技を見抜かれた時だったように思う。彼以外の――助けられなかった――勇者達は、男であれ女であれ、エリカの態度を『王女だしこんなものか』というような様子で見逃していた。
それが正常だと思う。彼らは世界間渡航という非常識な出来事を体験している最中なのだ。そんな時に、見ず知らずの他人の微細な違和感を見抜けるはずもない。
しかし彼だけは――裕だけは、見抜いていた。
エリカが内に秘めた苦悩を、決意を――一目見た瞬間に。
似ていたからだと、彼は言った。
自分とエリカには、似ている所があると。
そう言われた瞬間――エリカは、心臓を突き刺されたような思いになった。
理由はわからない。
ただ、彼の言うことは間違っていないと、理由もなしに感じていた。
彼にドラゴンから助けられて、直感は理解に変わった。
彼の激怒と涙を見て、理解は確信に変わった。
似ている――どころではない。
同じなのだ、と。
エリカと裕は、同じ失敗をし、同じ痛みを抱えた、同じ穴の狢。
納得できない現実に反旗を翻し、無様に敗北した――――敗残者同士だ。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
10年以上暮らしてきた部屋なのに、心はちっとも安まらなかった。
むしろ、覚えるのは疎外感。座敷牢にでも閉じこめられているかのような心細さ。
この感覚に、何度も思い知らされてきた。
自分は、異物なのだと。
思いは決して理解されない。
訴えは誰にも聞き届けられない。
被害妄想ではないか、不幸に陶酔しているだけではないかと何度も疑った。けれど……現実は、一度として……エリカの認識を、裏切らなかった。
(……どうして私は、この世界に生まれちゃったんだろう……)
せめて勇者であれば、異物であることを素直に受け入れられたのかもしれない。しかし現実にはエリカはディオミール人であり――しかも王族だった。
時々、思うことがある。
――『あの人』にさえ出会わなければ、こんな思いはせずに済んだのかもしれない、と。
勇者のことを知らず、知ろうとせず、盲目的に嫌い、生理的に憎み、反射的に疎んじ、本能的に唾を吐き――
「――ッう、ぇ……」
けれど、そのたびに思い直すのだ。
そんなのいやだ、と。
正しいとか、間違いとか、そんなことはわからない。
ただ……そんなのは、いやだ。
結局、エリカが勇者の差別を嫌うのは、彼らが勇者を差別するのと似ているのかもしれない。
ただ、そういう価値観を作ってしまったから。正義も倫理も中身は虚構。けれど一度作ってしまったら、想像の中でさえ逃れられない……。
やがては自分も、この感覚に折り合いを付けるのだろうか。
折れて、諦めて、妥協して。
なんとなくわかったフリをして、『普通』になるのだろうか。
それが成長するということか?
それが大人になるということか?
だとしたら――
「――生きてて、何が楽しいの……?」
エリカには、まるでわからない。
もし逃げてしまえたらどんなに楽だろう。
考えたことは、正直、ある。
何度も、何度も、何度もある。
しかし、それは許されないのだ。
この国が――この城が――この部屋が、それを決して許さない。エリカ・フロイデンベルグという人間は、そういう星の下に生まれてしまった。
もし、勇者くらいの力があったら、それも可能だったのだろうか。
……意味のない想定だ。
今ここにいるエリカは、何の力もない、お飾りの王女に過ぎないのだから……。
エリカは、ふと窓を見た。
天井から床まである掃き出し窓だ。カーテン越しに淡い月光を取り込んでいて、ベランダの柵が影となって薄く浮かび上がっていた。
直後のことだ。
まったくの偶然と言うしかない。エリカが何気なく目を向けたタイミングで、ベランダに人影が降り立った。
そのシルエットには、見覚えがある。
(まさか……!)
二度、窓がノックされた。
「中、いる?」
エリカは答えなかった。ベッドの上に留まり、膝を抱える。
「……いるみたいだね。シーツがこすれる音がした」
「っ!」
失敗した。なぜか妙に能力が低いが、彼も勇者なのだ。そのくらいは簡単に聞き取れる。
「鍵、開けて。開けてくれないなら、悪いけど無理矢理入る」
エリカは仕方なくベッドから降り、カーテンを開けた。
ベランダには、予想通り裕がいた。
鍵を開けると、裕は「ありがとう」と言って室内に入ってくる。窓を閉めるなり、エリカは裕を睨みつけた。
「どうして帰ってきたのよ……!」
本当は怒鳴りつけたかったが、誰かに聞かれるのを危惧して大きな声は出せなかった。
「ごめん。ベルグダールを出る前に、どうしても君と話がしたかったんだ」
そう言って取りなすような笑みを浮かべる裕を、エリカは不思議に思う。
(こいつ……こんな感じだったっけ……?)
雰囲気が違うような気がした。もちろん、始めの頃と比べれば口数は段違いなのだが、それは結構前からだったように思うし……もっと根本的に……。
そうか、とエリカは気付いた。
おどおどした感じが、なくなっている。
迷子の子供みたいにびくびくおどおどしていたのに、それが消えている――いったい何が彼をそうさせていたのかは知らないが、この少しの間にその何かが解消されたというのか。
「……何よ、話って。あんた、自分の立場わかってるの? もしお姉様に見つかったら――」
「見過ごしたくなかったんだ」
裕は言った。
瞳に真摯な輝きを宿し、声に真剣な響きを乗せて。
「君は、ずっとつらそうにしてた。ずっと無理をしてるように見えた。……わかってるのに、気付いてるのに……見て見ぬフリをしてこの国を出ていくなんて、僕にはできなかったんだ」
「ど……どうしてよ……?」
嘘をついているようには見えなかった。どこまでも真剣で、素直で、純粋ですらある。
なのに――否、だからこそ、わからない。
「私なんか、赤の他人じゃない……。もう二度と会わないかもしれないのに、どうして……」
「……嫌だったんだ」
絞り出すように、裕は言う。
「どうしても、イライラして、モヤモヤして、嫌だったんだ……」
瞬間、エリカは理解した。
きっと、それが彼の本来の生理的な性質なのだ。理由なんてない。ただ、嫌だ。そう思ってしまうのが、神無木裕という人間なのだ。
「どうしても理由が必要なら、恩返しってことにしといてくれないかな。僕は君に助けられた。だから君の力になりたい。そのために君のことを知りたい。……一応、筋は通ってると思うんだけど……ダメかな……?」
自信なさげに言う裕に、エリカはそっと溜め息をつく。
「……必要ないわよ、そんなの」
「え?」
「話してあげる、ってこと。……でも、条件がひとつだけあるわ」
「うん。なに?」
「あんたのことも話して」
エリカは微笑んだ。
「あんたの一番弱いところ、全部。……私も、私の一番弱いところを話すから」
そうして。
二人は、お互いのことを語り始めた。
傷を舐め合うように、身を寄せ合うように。
お互いの弱さを、見つめ合うために。
――かつてエリカには、兄と慕った勇者がいた。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
使用人、騎士、大臣、召喚者たるエリカの父――彼を知る者は、誰もが彼をこう評した。
――薄気味悪い。
普通、勇者は時を重ねるごとに雰囲気が暗くなっていく。当然だろう。日常的に蔑まれて心が荒まない人間などいない。だから往々にしてディオミール人は、勇者に対して『暗くて無口』というイメージを持っている。
しかし彼の人格はそのイメージに反していた。明るく、よく笑い、よく喋る――何度理不尽な目に遭っても、何度命の危機に瀕しても、彼は晴れた空のような人格を暗く曇らせることはなかった。心配するエリカに、彼はよく言ったものだ――
―― 大丈夫だ。俺は強いからな ――
そう、彼は強かった。肉体的な意味ではもちろん、精神的にも。
当時、極度の人見知りだった幼いエリカも、彼のそんな強さに心を開いていった。そしていつしか『お兄ちゃん』と呼ぶようになり、兄妹同然の関係を築いていったのだ。
勇者が契約国に滞在するのは、契約者に呼び出され、任務を完遂するまでの短い時間である。それは勇者にとって家畜の出荷に等しかったが、まだ何も知らない幼いエリカは、お兄ちゃんに会える貴重な時間の到来を無邪気に喜んだ。
任務に向かう前と帰った後。少ない時間を、彼はエリカに使ってくれた。彼の勇者としての能力は魔導士方面に適性があり、エリカは彼から魔技を学んだ。失敗すれば優しく教え、成功すれば我が事のように喜んでくれる――彼との時間は飛ぶように過ぎた。
任務に赴く彼は、いつも笑顔だった。恐怖も緊張も、何も感じていないように。帰ってくる時も、やはり笑顔だった。エリカが出迎えると、頭を優しく撫でるのだ。少し汚れ、あるいは傷ついた手で――
―― よお、エリカ。少し見ないうちに可愛くなったなぁ! ――
その手の汚れが、傷が、一体何を意味しているか、エリカは考えすらしなかった。幼かったから。そう言い訳することもできるだろう。しかし、エリカは悔いる。何度でも悔いる。あの時、自分に少しでも考える頭があったなら、結果は変わったかもしれなかったのに、と……。
無駄な仮定だと、わかってはいる。
エリカが多少賢くなったところで、リーゼロッテが考えを変えることはなかっただろう。
そう――彼が召喚されてから、3年ほどが経った頃のことだ。
王であった、エリカ達の父が崩御した。
跡目は長女であるリーゼロッテが継ぎ。
彼の契約もまた、彼女に引き継がれた。
それが――崩壊の始まりだった。
なんとなく、気付いてはいた。
任務から帰った彼の笑顔が、以前に比べて陰っていることに。
回を重ねるごとに彼は憔悴していった。リーゼロッテが契約を継いで以来、任務がより過酷で危険なものになっていることは、さしものエリカにも明らかだった。
そして――あの時、エリカは偶然にも真実を知ったのだ。
今でも鮮明に思い出せる。何気なく廊下を歩いていたら、近くの部屋から声が聞こえてきたのだ。女王となった姉の声が――
―― 卑しくもしぶとさだけは人間並ですわね、あの殺人道具 ――
そう。
彼女は、自分の勇者が死ぬことを期待していた。
リーゼロッテは、任務にかこつけて彼を処分しようとしていたのだ。
エリカはすぐに彼に伝えた。このままでは殺されてしまうと。
しかし彼は、ふっと淡く微笑むと、エリカの頭を撫でて――言った。
―― 俺は殺しても死なない男だ。エリカは何も心配しなくていい ――
……ああ、なんて愚か。
どうして、あんな言葉で引き下がってしまったのか。
彼は、悲鳴を上げていたのだ――声を出さず、涙も流さず。
どんな扱いを受けようと、彼はリーゼロッテを恨むことはなかった。きっとできなかったのだろう。彼にはそもそも『人を恨む』という機能が備わっていなかった――その明らかな欠陥を、エリカが『強さ』だと勘違いしていただけなのだ。
この時になれば、エリカ自身も、それをなんとなく察していた。
なのに。
もうすぐ18歳で引退だからと、おめでたい楽観をして見逃してしまった……。
それから、しばらく経って。
今から2年前、召喚されて4年が経った頃のことだった。
任務に出かける前、彼はエリカに1個のペンダントを渡した。
青い魔導石がはめ込まれた上等なものだった。どうしたのかと聞くと、彼はいつものように笑って言った。
―― やるよ。それでいつでも魔技の練習ができるだろ? ――
……これ以上、語る必要があるだろうか?
お察しの通りだ。ご明察の通りだ。
それが――彼の最後の笑顔だった。
鉱山の調査だったと言う。
大規模な崩落に巻き込まれ、押し潰されたのだと言う。
ペンダントの魔導石越しに太陽を眺めていた時、エリカはそれらの報告を耳にした。
考えた。
何かできることはなかったのかと。
考えた。
どうすればお兄ちゃんを助けられたのかと。
考えた。
私は、お兄ちゃんの強さに甘えていたのではないかと。
性格を変えた。
弱い自分を捨てたかったから。
勉強をした。
無力な自分が疎ましかったから。
機会を待った。
助ける方法はあったのだと証明したかったから。
やがて機は訪れ、失敗した。
次いで機は訪れ、失敗した。
さらに機は訪れ、失敗した。
やはり機は訪れ、失敗した。
弱さと、無力さと、無価値さと。
様々なものを突きつけられ――それでも顔を上げた時。
神無木裕が、そこにいた。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
「……私にとって、あんたは代わりだったの」
暗く沈んだ部屋の中。
柔らかなベッドに裕と並んで腰掛け、エリカは膝の間に顔を埋めた。
「あの時をやり直すための、お兄ちゃんの代わり――だからさっき、別れを告げる代わりに、言ったのよ」
――勝手に代わりを押しつけて、ごめんなさい。
――私の過去に付き合ってくれて、ありがとう。
「おかげで、よくわかったわ」
自嘲的な笑みが、口元に滲む。
「私には、何もできない――私じゃ、お兄ちゃんは助けられなかったんだって……」
痛々しい沈黙が、2人の間に降りた。
裕は、きっと慰めるだろう。そんなことはないと、エリカの言葉を否定するはずだ。
それを遠慮するのに、必要以上に自虐的にならずにいられるだろうか――沈黙の中、エリカはそんなことが気になった。
しかし。
「……そうだろうね」
裕は、肯定した。
「何も、できなかったんだろうね……。僕も昔のことを思い返して妄想に耽ることはあるけど……もしあの時期をやり直せたとして、それを実行できたかって言うと……とてもできたとは思えない」
彼の過去の話はすでに聞いている。やはり、彼も考えたのだ。どうすれば、自分が納得いくように現実を動かせたか……。
親近感を覚え、エリカが頬を緩ませたその時、
「――でも」
静かな、しかし力強い逆説の言葉が、耳朶を打った。
「昔は、何もできなかったんだとしても――今もそうだとは、限らないよ」
「え? ……話、聞いてたの? 結局、私は何もできなくて――」
「僕は生きてるじゃないか」
遮って放たれた言葉に、エリカの胸がドキリと鳴った。
裕が身を乗り出し、ベッドが軋む。エリカは間近から裕の目を見た。いつか見た覚えのある、しかし似て非なる輝きを秘めた、目を。
「確かに君は、大切な人を助けられなかった――それは事実だ。取り返しのつかない事実だ。……でも、僕のことは助けてくれた。そうだよね?」
「そ……それは、セリアが……」
「もちろん、セリアさんにも助けてもらったよ。でも、僕は言ったはずだよね。セリアさんが来る前に、『君のおかげだ』って」
―― 君のおかげ、だったんだ…… ――
絞り出すように紡がれた言葉を、覚えている。
己の在処を見失いながら、それでも紡がれた言葉を、覚えている。
私はそれに、なんて答えたんだっけ……?
伸ばされてきた手を、そっと握って――
―― ……やっと、気付いてくれた ――
そうだ――そう答えたのだ。
やっと。それはいつからいつまでのことを指していたのだろう。リーゼロッテの勇者選別が始まった時から? あるいは――2年前、彼の訃報を聞いた時から?
だとしたら――私は、あの時、決着をつけていたのか。
2年に及ぶ試行錯誤に――ようやく助けられた、と。
「……私は……あんたを、助けたの……?」
「そうだよ」
裕は安心させるように微笑んだ。
「頑張ってくれて、ありがとう」
その微笑みが――確かに。
ありし日に見た笑顔と、重なって。
こみ上げる涙を、留めることはできなかった。
大粒の雫をこぼし続けるエリカを、裕はじっと静かに見守ってくれていた……。
「君の願いを言ってくれ」
立ち上がり、裕は言った。
「今度こそ、恩返しだ。君が一番望んでいることに、僕は全力で力を貸す」
エリカはくすりと微笑んだ。
「そうしないと、気持ち悪いの?」
「うん。そういうこと」
勝手な奴だ、と思う。恩返しと言いながら、結局は自分の意思だ。
けれど――悪くない。
(……私が、一番望むこと……)
一体なんだろう。
たったいま果たされてしまったような気もする。だがそれは、エリカ自ら恩返しのカウントから外してしまった。
望むこと……望むこと……。
(……あ……)
ふと、思い出してしまった。
ここに裕が来る直前、つらつらと考えていたことを。
「ん?」
いつの間にか裕を見ていた。女の子みたいなあどけない顔が、不思議そうな表情をこちらに向けていた。
いい、のだろうか。
大丈夫、なのだろうか。
こんなことを、望んでしまっても。
いいわけがない。大丈夫なわけがない。
でも――
「……裕」
エリカは、決心した。
顔を上げ、言葉を待つ裕を見据え――
「連れ出して」
――告げる。
「私を、ここから、連れ出して――」
裕は、微笑んだ。
「わかった」
エリカの前に出て、夜空を背負い、手を差し伸べた。
「逃げよう。一緒に」
もはや、迷うことはない。
エリカは立ち上がり、裕の手を取る。裕はエリカの手を引き、ベランダへ続く掃き出し窓を開け放った。冷たい夜風が吹き込み、カーテンが柔らかに舞う。エリカは裕と共にベランダに出て、広い広い夜空を臨んだ。
直後。
部屋の外からどたどたと騒がしい音が迫り、扉が勢い良く開いた。
「エリカ!」
現れたのはヒルダと兵士を伴ったリーゼロッテだ。今更裕の侵入に気がついたのだ。
彼女はベランダにいる2人に気付くと、裕に怒りの視線を注いだ。
「【エリカを連れてこちらに――】」
すかさず口を開いた瞬間、ナイフがその口に飛来した。ヒルダが電撃的な反応を見せて叩き落とすが、驚きから命令は中断される。
否、驚きではない。
絶句しているのだ。
エリカの胸のペンダントが輝きを放っている。
今のナイフは、エリカが放ったのだ――実の妹である彼女が、実の姉に向かって。
「ごめんなさい、お姉様」
表情に衒いのない悲しみを湛え、エリカは告げた。
「さよなら」
柵を飛び越え、2人は宙へと身を躍らせる。
全身を包む浮遊感は、重力という枷が外されたことを喜ぶかのようだった。
「――――ッエ、リっ……カぁあぁあああぁぁアああああァああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
背に追いついた咆哮は、しかし何ら力を持たず。
歓迎するように口を開けた夜の中に、2人は飛び込んでいった。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
街が流れていく。
光が流れていく。
闇を貫き、夜気を斬り裂いた。何もかもを捨て去り、何もかもを置き去りにした。
夜の彼方だけを見据えて街を駆け下る2人は、吹き下ろす山風とも滑り落ちる雪崩とも言えた。共通するのはたったひとつ。
止まらないということ。
止められないということ。
夜空に光を棚引かせて矢が降り注ぐ。屋根伝いに追いかけてくる騎士達が炎弾や雷を迸らせる。時には頭上から騎士が降ってきて、裕達の行く手を阻んだ。
だがそのどれもが無意味。当然だ。どこの誰が山風を阻めようか。どこの誰が雪崩を止められようか。もはや不可能なのだ、覚悟を決めた二人の歩みを遮ることなど。
降り注ぐ矢を裕が避け、エリカが魔技で弾き返した。追いすがる騎士達は裕の脚力に及ばず、1人また1人と消えていく。行く手を阻んだ騎士はエリカの魔技に出鼻を挫かれ、裕の怪力に薙ぎ払われた。
彼らはきっと思い知っているだろう。どれだけ蔑んだところで、どれだけ貶めたところで、自分も他者も、何も変えられないのだということを。
彼らは見くびっていた。己の中の価値観にしか目を向けなかったせいで、敵の本当の力量を見誤っていた。当然の話だ。世界は残酷で理不尽だ。どうして思い通りになどなろうか。裕が散々舐めた苦渋を、今度は彼らが舐めるのだ。
彼らは知らなかった。知ろうともしなかった。だから今、最悪の形で思い知る――覚悟と勇気を得た人間ほど怖いものはない、と。
覚悟は意志を揺るがさない。地面に深々と突き刺さった、1本の棒のように。
勇気は意志を遂行する。どこまでも突き抜けていく、1本の矢のように。
もはや定まってしまった軌道を、今更ねじ曲げることなど不可能。標的を射抜くまで決して止まることはない――2人の逃走を今、誰もが止められないでいるように!
「――っあは! あっははははははははっ!!」
エリカが笑う。裕に手を引かれながら笑う。
「こんなに――こんなに気持ちいいことだったなんて!」
自由を、彼女は謳歌する。
解放を、彼女は謳歌する。
枷を捨て去るこの快感よ。重石を蹴散らすこの快感よ! 自由とは、それだけで幸福なのだ。解放とは、それだけで悦楽なのだ。自分で自分を責め、自分で自分を縛っていた今までが馬鹿らしくなるほどに!
「どう? 気分は!」
裕が問う。彼も浮かべている。愛想笑いでは決してない、晴れやかな笑みを。
「最高よ! 最っ高! このままどこまでも行けたらって、そうしたらどんなに素敵かって、そんなことばかり思いつくの!」
「行けるさ、どこまでも! 君を邪魔するものは、全部――」
立ち塞がる誰かがいた。数は5人。甲冑が月の光に輝いていた。
関係ない。誰であろうと、何人いようと――
「――僕が、ぶっ飛ばしてやる!!」
蹴散らした。薙ぎ払った。宙を舞う彼らを一顧だにせず、裕とエリカは駆け下っていく。
そう、関係ないのだ、相手が誰であろうとも。己が誰か、ただそれだけを知ればいい。ここには裕がいる。そしてエリカがいる。その事実だけで充分なのだ。
相手を選ぶのはなるほど聡明だ。敵を避けるのはなるほど賢明だ。だがそれがなんだ?
得をするだろう。損をしないだろう。だがそれがなんだ!?
納得できなければ意味などない。納得できる生き方でなければ、それは生きているとは言えない!
答えろ、神無木裕――と自問する。
お前は納得できているか――お前は生きているか!
――ああ、答えるとも。
僕は今――最高に、生きている!
「見えた!」
更けた夜に煌々と輝きを纏う建物がある。魔導機関車の駅だ。
階段はすでに終わり、2人は高原に作られた広場に踏み入る。広場の中央には噴水があった。月明かりの中、神秘的な水流を泉に注いでいた。
そこに。
人影が降ってくる。
「「!?」」
裕達には噴水が爆発したように感じられた。たまらず立ち止まり、広がる粉塵から目を庇う。
突如として風が渦を巻き、茶色い粉塵を吹き散らした。
噴水があった場所に、小柄な人影が佇んでいる。
裕とエリカは、揃って息を呑んだ。
やはり、と。
彼の目を盗むことはできないのか、と。
ベルグダール王国軍魔導騎士団団長。
最強の騎士、レオンハルト・ヤンカー。
彼は、冷たく怒りに燃えた眼光を、裕とエリカに差し向けた。




