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第17話‐覚醒の刻‐

 思えば、ベルグダールの街に出るのは初めてだった。


 歩道代わりの階段と踊り場代わりの枝道が延々繰り返される街は、勇者でなければただ移動するのにも苦労しただろう。すでに夜更けと呼べる時間だが、家々からは光が漏れ出ていて、皆が寝静まっているわけではなさそうだ。

 ロープウェーが動いている気配はなく、空にも向天船の影はない。城の窓から見た時には人で満ちていた通りも今は静けさばかりで、ときおり人影が見えても、裕とセリアを見るやそそくさと消えてしまう。勇者がどんな見方をされているか、自分がどれだけ閉鎖的で欺瞞だらけの環境にいたか、そのたびに思い知らされた。


「嫌なら、目を瞑っててもいいのよ」


 目の前に、セリアの手が差し伸べられた。もう片方の手にはカンテラのような道具があり、足元の石段を照らしている。


「私が手を引いてあげる。次に目を開けた時には、あなたの敵はどこにもいないわ」

「……いえ」


 裕は、はっきりと首を横に振った。


「そうやって、見るべきもの見なかったせいで、痛い目に遭いました、から……」


 セリアの口元が微笑ましそうに緩んだ。


「あなたは、賢いのね」

「えっ? 僕が……?」


 そうだっただろうか、と首を捻る。学校の成績はせいぜい中の上くらいで……。


「あなたには、一度の失敗から教訓を学び取る力がある。賢くなければできないことよ。……でも、だからなのか、一度の失敗を引きずる癖があるみたいね」

「……!」


 裕は息を呑んだ。すべてを見透かされた気がした。


「治せとは言わないわ。欠点というよりは性格だもの。……ただ、折り合いの付け方を覚えたほうがいい、とは言っておくわ」

「折り合い……」

「何か行動すれば、必ず何か取り返しのつかないことが生じるものよ。期待して買ったお菓子がまずくても、使ったお金は絶対に戻ってこない。勿体ないとか元を取るとか、そんなことを考えて無理に全部食べても、お金を取り返せるわけじゃない。後に残るのは苦い経験だけ」


 お菓子だけに、とくだらない冗談を言って、セリアは笑った。


「どうやったって取り返せないもののことを考え続けても意味はないわ。後悔したくなるのはどうしようもないけど、人間には感情の他に理性ってものがあるから、理屈を付けてあげると開き直りやすくなるのよ。少しだけね」

「開き直り……ですか」

「大事よ? 開き直り。私なんて開き直りっぱなしだもの」


 冗談めかしてそう言うセリアのことを、裕は羨ましく思った。


「多くの人は、開き直るのを悪いことだと思ってるみたいだけどね――使い方なのよ、要は。どんなものも、使い方次第で毒にも薬にもなる。あなたの賢さがあまり良くない方向に働いているようにね」

「…………」


 セリアの物言いは直接的で、遠慮がない。しかしそれゆえに、抵抗なく裕の心に刺さった。


 喋っているうちに、山の中腹に差し掛かりつつあった。機関車の駅は麓ではなく、もう少し下ったところの高原にあるらしい。

 ふと振り向くと、火口の縁からかろうじて王城の先端が見えた。


「この世界では……」

「ん?」

「この世界では、僕達を道具として扱うのが、当たり前なんですよね……」

「そうね。残念なことに」


 セリアの声音には憂いがあった。


「でも、それは誰が悪いってわけじゃないわ。それが世界の認識であり、時代の認識なのよ。……地球にも人種差別はあったでしょう? 裕は日本人だから、あまり実感がないかもしれないけど」

「……はい」

「自分とは違う人間を虐げる彼らは、それを悪いことだとは思っていない――そういう倫理、そういう常識ってだけなのよ。今はただ、勇者が差別されている時代、というだけ。……それにしたって長すぎるけどね」


 リーゼロッテは、おかしいのは世界ではなくエリカだと断じた。

 裕からすれば、それこそおかしいと感じるが……彼女の主張は、正しいのだ。

 このディオミールという世界において、エリカの考えは非常識なのだ。この世界の形によりそぐった思想を持っているのはリーゼロッテ達のほうであり、異常なのはエリカのほうなのだ。

 なのに……。


「セリアさんは……知ってるんですか?」

「何を?」

「彼女が――エリカが、どうして勇者のことを理解してくれているのか」


 セリアのブラックオパールを思わせる瞳が裕を見やる。


「気になる?」


 裕は、頷いた。

 セリアは目を前に戻し、しばらくの間、無言で階段を下りた。王城ではだいぶ近くに見えた月が今ではとても遠くに見え、その光の恩恵も、距離と無数の橋に遮られて弱くなっていた。


 左右に揺れるセリアの黒髪を見つめて数十秒――ようやく彼女は口を開く。


「……エリカはね、不器用なのよ」

「不器用……?」

「そう、不器用。そこは適当にやっとけよって部分をね、おざなりにできないのよ。不器用で、真面目なのね」


 何か疼くものがあった。刺激が、心をつついた気がした。


「エリカが勇者を差別しない理由については、私から詳しいことを話すわけにはいかないわ。あの子の過去のことだもの。……ただ、事実として今、あの子はマイノリティの立場にあって――その事実と、折り合いを付けられていない」


 ――折り合い。

 開き直り。


「適当に周囲に合わせておけば楽なはずなのにね。それができないのは、本当に不憫――」

「――楽じゃないですよ」


 裕は言った。

 言葉が、勝手に飛び出していた。


「自分を殺して、人の顔色を伺って、空気を呼んで周りに合わせて……そういうのって、全然、楽じゃない」


 ふっと、セリアは笑った。


「……そうね」


 夜の彼方に霞む地平線を見ながら、彼女は言う。


「世界を敵に回すほうが、楽かもしれないわね」






 魔導機関車の駅は、夜闇の中で煌々と輝いていた。

 人の姿も多い。いかにも成功者風の紳士や労働者っぽい男、家族連れやカップルの姿もある。どうやらディオミールにおいても、鉄道は交通手段としてすっかり馴染んでいるようだ。


 少しだけ周囲の視線を気にしながら、裕はセリアと共に構内に入った。


「つっかまっえたっ!」

「うわっ!」


 瞬間、後ろから誰かが抱きついてきた。

 何とか踏みとどまるが、何者かはいまだ背中にへばりついている。


「えい。つんつん」

「ひあんっ!」


 脇腹をつつかれ、思わず女の子みたいな声が出てしまう裕。……恥ずかしい……。


「あっははは! 『ひあんっ!』だってー! あははははっ!」

「こら。やめなさい、オーエン」


 セリアが裕の背中にいる何者かをひっぺがす。


 それは、メイド服を着た少女だった。


 空色のショートカットが似合う12、3歳くらいの快活そうな少女だ。メイド服を着ているから少女だとわかるが、そうではなかったら少年だと思ったかもしれない。

 メイド服とは言うが、ヒルダのようなクラシカルなものではない。スカートが膝くらいまでしかない、なんというか軽薄なタイプである。


「悪かったわね、裕。この子はオーエン。私の傍付き侍女――ま、雑用係ね」

「よろしくねー、おにーちゃん」

「う、うん……よろし――」

「あ、おねーちゃんのほうがいい?」

「おにーちゃんでいい!」


 あっははは! とオーエンははしゃぐように笑う。こんな人を喰ったような子供がメイドでいいのか。


「オーエン。頼んどいた切符は?」

「ばっちり。ボックス席確保。あ、でもこれ逃したら今日はもうないから気を付けてねー」

「そう。じゃあもうさっさと乗り込んでしまったほうがいいわね」


 歩き始めたセリア達を追いかける前に、裕は再び影の塊となったベルグダールを見上げた。てっぺんは雲の向こうに隠れ、王城も、王城が建つ火口も、もはや見ることは叶わなかった。


「裕」


 セリアの声に振り返る。


「言ったでしょう。どうやっても取り返しのつかないことは、考えても仕方がないわ」


 裕は心臓を跳ねさせ、目を伏せた。

 石のタイルの上に視線を彷徨わせ――再びセリアを見る。


「……折り合いなんて、付けられません」


 弱々しく笑い、裕は言った。


「僕も一緒で、不器用なんです。……どうして彼女は、あんなに必死だったのか……どうして彼女は、僕を助けてくれたのか……気になって気になって、しょうがないんです。考えたってどうしようもないことなのは、わかってるんですけど――」

「勘違いしているようだけど」


 セリアは悪戯っけのある笑みを浮かべる。


「考えなくてもいいのは、『どうやっても取り返しのつかないこと』だけよ?」

「……!」


 裕が驚きの表情を浮かべた瞬間、セリアはくるりと背を向けた。


「さあーって! さっさとこの国とおさらばするとしましょうか! 勇者はそうそう旅なんてできないから二度と来られないかもしれないけどね! あ、でも出発までもう少し時間あるか。最近仕事続きだし、一眠りしようかしら。その間何があっても私は気付けないけど、ちょっとくらいいいわよね!」


 大仰に、わざとらしく、彼女はそう言って。

 楽しそうな笑顔を、裕に向けた。


「――裕、あなたはどうする?」



 裕は。

 裕は。

 裕は――――――






◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎






 あるいは、この瞬間こそが、勇者・神無木裕の覚醒の刻だったのかもしれない。

 巨悪と対峙したわけではなく、命の危機に瀕したわけでもなく――



 ――ひとりの女の子のことを、真剣に考えた。



 たったそれだけの、この瞬間こそが。



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