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第12話‐だれもしんじるな‐

「逃げてっ!!」


 どこからともなくその声が聞こえたのは、ナイフが裕の頸動脈に接する直前だった。


「ッ!!」


 血飛沫が宙に舞う。

 しかし裕の瞳が光を失うことはなかった。勇者ゆえの超反応で首を引き、薄皮1枚に留めたのだ。


 首を押さえ、裕は目の前にいる見知った女性を見上げる。

 その顔に表情はなく、まるで虫けらを見るような冷徹な眼差しが、闇の中で光っていた。


「やっぱり……ヒルダさんが、僕を……?」

「…………」


 答えはなかった。

 明らかに戦闘用とわかる武骨で大きなナイフが鈍く輝く。同時に裕は転がり、直後に虚空が斬り裂かれた。

 一切の手心が伺えない一撃。たとえ今の裕でも、あれを喰らえば絶命は避け得ない。


 ――逃げろ!

 あの声を思い出す。裕は両手両足を使い、半ば這いずるようにして仮眠室から転げ出た。

 耳の横を風切り音が通り過ぎる。目の前の壁にナイフが突き立つのを見て、喉が干上がった。


(投げっ……!?)


 背筋に迫る死の感覚に震え、裕は何も考えず走り出す。

 扉を破るようにして廊下に出ると、また走った。

 振り返る勇気はない……だが、気配はある。

 ……ひたひたと、……じわじわと、……確実に迫る、死神の気配が…………。



 なぜ? なぜ? なぜ!?



 正気を失いそうなほどの疑問の嵐。

 なぜこんなことになっているのだ。

 なぜ殺されなければならないのだ。

 なぜヒルダが自分を狙うのだ!


 そもそもこれは現実なのか? 夢じゃないのか、悪い夢じゃないのか! 夢であってほしい、そうじゃなくちゃ困る! ……だけど……。

 全身に滲んだ嫌な汗も、うるさいほどの動悸も、今にもヘたりこんでしまいそうな恐怖も、後ろから迫る気配も――何もかもが、こんなにもリアル。

 もしこれが夢なのだとしたら、自分の脳を褒めてやりたいくらいだ……。


 どうする、と生存本能が囁く。

 どうする? どうすればいい? 迎え撃つという選択肢は裕の頭にはなかった。誰に助けてもらえばいい。誰なら助けてくれる? 誰なら――


 ―― わたくしの勇者は、あなただけです ――


 真っ先に浮かんだのが、その声だった。

 まるで天啓のように再生されたその声に、裕は考えるまでもなく従った。






「リーゼロッテさん……!」


 彼女は予想通りの場所にいた。

 少なくとも日没までは、リーゼロッテが自分の執務室にいることを、裕は知っていた。

 窓の外は紫色に変わりつつある。ギリギリのタイミングだった。


「どうしたのですか、勇者様。血相を変えて……」


 リーゼロッテはペンを置いて立ち上がる。資料棚に大半を占められた執務室には、彼女の他には誰もいなかった。


 裕は極度の緊張から乱れた息を整えながら、


「ヒルダ、さんが……!」

「ヒルダが? ヒルダがどうしたと言うのです?」

「ヒルダ、さんが、僕を……」


 唾を飲み込み、一息に言う。


「――ヒルダさんが、僕を殺そうとしてるんです!!」


 言ってから、なんて怪しい台詞だろう、と思った。

 自分ならこんな台詞は信じない。事実、リーゼロッテは当惑の表情を浮かべた。


「まさか、ヒルダが……」

「ほ、本当です……! この……ここの、首に! ナイフの傷が――」



「――まさか、ヒルダが仕留め損なうなんて」



「…………え…………?」


 思考が消し飛んだ。


 裕の視界の中央で、リーゼロッテは、その美貌を憮然と曇らせ――裕ではなく、裕の背後に視線を向けていた。


「失点ですよ、ヒルダ。わたくしの目の届かない所で始末なさいと命じたはずです」

「申し訳ありません、陛下」


 無機質な声がすぐ後ろからして、裕は振り向きながら尻餅をついた。

 普段の気さくな態度からは想像もつかない、ロボットのような無表情を浮かべたヒルダが、そこに立っていた……。


「仕方ありません……」リーゼロッテが小さく嘆息する。「できる限り綺麗に済ませなさい。間違ってもその勇者の穢れた匂いが残らないように」

「承知致しました」


 プログラムのような返事があり、ナイフが閃いた。

 這いずって逃げるが、太股が浅く切られる。鮮烈な痛みが走り抜けて、自分でも聞いたことのない、ぐぐもった声が喉の奥から漏れた。


「どうして……!?」


 ぬめる血液に手を濡らしながら、縋るように裕は言い募る。


「どうして……? リーゼロッテさん、どうして……!?」


 リーゼロッテは答えない。ヒルダと同じだった。害虫を見るような目で裕を見下ろしていた。


 わけがわからない。わけがわからないっ! でも逃げなきゃいけない。とにかく逃げなきゃ、逃げなきゃ死ぬっ殺されるッ……!!


 身をよじった直後、脇腹が裂かれる。内蔵がこぼれ出たかと錯覚した。床を引っかきながら立ち上がり、必死に逃げ道を探す。

 扉は無理だ。ヒルダがいる。力勝負に持ち込めば勝てるか? ……いやいや無理だ無理だ、理屈抜きに勝てる気がしない、無理に決まってる……! であれば、もう一方――


 裕はリーゼロッテのほうに走り出した。

 目的はリーゼロッテではない。その向こうにある窓――!


 リーゼロッテの横を走り抜けた。彼女は身じろぎどころか、眉一つ動かさなかった。


 肩を浅く切る投げナイフに首を竦ませながら、裕は映画の見よう見まねで窓をぶち破る。


 ガラスの破片や窓枠の木片と共に、薄闇の底へと落ちていった――





◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎





 これが、真実だと言うのか。


 慌ただしい足音がそこら中から響いている。すべて追っ手だ。使用人も、騎士達も、もはや城中の誰もが裕の命を狙う死神だった。


 これが、真実だと言うのか。


 全身の痛みに小さく呻く。裕はすでに満身創痍だった。致命傷はないものの、鋭い傷口から血がだらだらと流れ、服を真っ赤に染めている。まるで雨漏りをバケツで受けるかのように手で傷を抑え、血痕を残すことだけは防いでいた。


 これが、真実だと言うのか――


 受け入れられない。信じられない。こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、まだ夢だ夢だと叫ぶ自分がいる。


(……どうして……)


 どうして。

 どうして。

 どうして。

 心に渦巻くのはそればかりだった。


 毎朝、最初に見るのはヒルダの顔だった。彼女はいつも可憐な唇を意地悪に曲げて、蠱惑的に裕をからかうのだ。からかわれるのが好きだったわけではないけれど、ヒルダのそんな態度が慣れない生活で固くなりがちだった心をほぐしてくれていたのは事実だった。


 心が押し潰されそうになった時、リーゼロッテは母親のような慈愛で包んでくれた。彼女の優しい言葉がなければ、裕の心はとっくに折れてしまっていただろう。


 なのに。

 なのに。

 なのに。


 ―― 間違ってもその勇者の穢れた匂いが残らないように ――

 ―― 承知致しました ――


 あの侮蔑に満ちた言葉はなんだ。

 あの無機質な声はなんだ。

 まるで別人だ。決して、裕の知っている2人ではない。

 2人とも、よく似た偽物に入れ替わってしまったのか――あるいは。


(……今までの2人が、偽物だったのか……)


 涙腺からぼろぼろと滴がこぼれるのを、止めることはできなかった。

 ああ――今こそ理解する。



 ―― だれもしんじるな ――



 あの血文字は、こういう意味だったのだ……。

 あの文字を遺した誰かや、あの手紙の差出人は、あんなにも直接的に危険を報せてくれたのに……僕は、何も気付けなかった……。


 けたたましい甲冑の音が前方から迫ってくる。剣や槍、メイスなど、様々な武器を手にした騎士達だ。

 右端に剣の振り方を教えてくれた男がいる。

 真ん中辺りに頭を撫でてくれた男がいる。

 他にも、他にも、他にも――見知った男達が、使命感か、責任感か、はたまた嫌悪か……色んな表情で、裕に武器を向けていた。


 泣きたくなった。

 その余裕すらなかった。

 裕は死にたくない一心で踵を返す。今、裕がいるのは城館の裏庭辺りで、まともに隠れる場所もない。


 殺意の視線にこれ以上晒されたくなくて、城館の角を曲がる。一時的に騎士達の視界からは逃れるが、甲冑の音はいまだ近い。こんなのは時間稼ぎにもならないだろう。


「こっち!」


 そんな時、裕を呼ぶ声があった。

 聞き覚えのあるその声に振り向くと、少し離れた所に建物があった。白を基調とした格式高い雰囲気の建物だ。観音開きの扉が片方だけ開け放たれていた。


 選択肢はない――裕は持てる脚力の限りを尽くし、開いた扉の中に飛び込んだ。






 硬い床に倒れ込んだ瞬間、誰かが扉を閉めた。

 間を置き、甲冑の音や騎士達の声――「どこに行った?」「あの脚力だ、もう他の場所に逃げたのかもしれん」「探せ!」――が扉越しに聞こえ、徐々に遠ざかっていく……。


「はあ……」


 裕は息をつき、その場に座り込んだ。

 どうやらここは礼拝堂らしい。木製の長椅子が何列も並び、奥には大きなステンドグラスがある。まさかキリスト教ではなかろうが、とてもよく似た雰囲気だった。ステンドグラスには、幾本もの剣とたくさんの怪物を引き連れた男とも女ともつかない人(神様?)の絵が描かれている。


「危ないところだった……」


 裕は振り向いた。扉に、裕を呼んだ声の主が寄りかかっていた。

 いつもの高貴なドレスではない。真っ黒なローブで全身を隠している。髪型もシニヨンではなく、後ろで簡単に縛っただけのポニーテールになっていた。だが、その銀糸を編んだような髪、人形めいた美貌――見間違えようもない。

 エリカ・フロイデンベルグだ。

 彼女は扉を塞ぐようにして背を預け、こちらを見ていて――


「――……ぁ、あぁ……っ!」


 その姿が――ヒルダと重なった。

 情けない声を漏らし、裕は身体を反転させる。逃げようと立ち上がりかけ、


「待って! 私が手紙の差出人よ!」


 動きを止めた。

 ゆっくりと振り向き、彼女の顔を見る。

 そのエメラルドの瞳には、ロボットのような無機質さも、虫けらを見るような無感動も、悪意も、敵意も、嫌悪も――嫌と言うほど見てきた輝きは、ひとつもなかった。


「君、が……?」

「そう。血文字を見せたのも、枕を見つけさせたのも、私。……だから、一度落ち着いて」


 裕は恐る恐る、その場に座り込んだ。

 ……彼女の口から出た手紙の差出人でしか知り得ない情報が、ようやく、裕の心にわずかばかりの余裕を与えてくれた……。


 エリカは戸締まりを確認すると、裕と向き合うようにして座る。長椅子が有り余っていると言うのに、2人とも、腰の下にあるのは冷たい床だった。


「……ごめんなさい」


 やがて、ぽつりとした呟きが礼拝堂に反響する。


「誰もいない時間を狙ったはずだったのに……まさか、ヒルダが帰ってくるなんて」

「……僕には……」


 裕は久しぶりに、まともな言葉をこぼす。それは、もはや一滴とこぼれることのない、涙の代わりだった。


「僕には、なにがなんだか、わからない……。何が真実なんだ……どこまでが現実なんだ……。……いったい……これは…………なんなんだよ…………」


 頭を抱える裕を、エリカは痛ましげな表情を浮かべて見つめた。


「今の状況……そのままが、真実よ」


 エリカは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「教えてあげる、何もかも――ディオミールという世界が、勇者という存在が、本当はどんなものなのか。……あんたは、真実を知らなきゃいけない」


 そうして彼女が語り出したのは。

 裕にとって――極めて残酷で理不尽な、現実だった。


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