第8話‐失くしていたもの‐
朝。
朝日とベッドの暖かさに微睡みながら、裕は思考をはべらせていた。
昨夜見つけた、あの血文字。
恐ろしかったのは、血文字であることではない。ましてやその内容でもない。
日本語であったことだ。
この世界では日本語は使われていないはず――少なくとも裕は見たことがない。
ならば、もしかして。
裕と同じように日本から召喚された人間が、他にもいるのか。その人物が、あのメッセージを残したのか。なぜ。何のために。そしていつ――?
「失礼します、勇者様。……あら、起きていらっしゃいましたか」
ヒルダが部屋に入ってくる。起こしに来てくれたのだ。
「おはようございます、勇者様。お加減はいかがですか?」
「おはようございます……。ええと……」
少し考えて、ドラゴンのブレスにやられた左半身のことか、と思い当たる。
「大丈夫みたいです。痛くもないですし……」
「そうですか。一応診てみますので、脱いでくださいませ」
言う通りにしつつ、ふと思った。
(……異世界なのに、どうして言葉が通じているんだろう?)
あまりに自然に意思疎通できていたことと、言葉が通じないという経験がなかったことで、今の今まで気付かなかった。
考えてみればおかしい。どうしてこんなにも自然に会話できているのだ?
裕は診断されている間の手持ちぶさたな時間を使い、言葉が通じる理由について、いくつか仮説を立ててみた。
●仮説1:魔法的な何がしかの効果で言葉が自動翻訳されている
いかにもありそうだったが、すぐに否だと気付いた。
言語が違えば発音も違う。発音が違えば口の動きも違う。口の動きが違えば、いくら自然に翻訳されても吹き替えの洋画のようになってしまうはずだ。今、裕の身体を触りながら「痛みはありませんか?」などと聞いてくるヒルダに、そういった不自然さは見当たらない。
●仮説2:ヒルダ達も日本語を喋っている
考察するまでもなく、否だろう。ベルグダール王国と日本では文化も生活様式も違いすぎる。こんなにも違う世界同士でたまたま言語が同じになるなんて都合が良すぎる。
●仮説3:逆に裕のほうがディオミールの言語を喋っている
つまり、裕自身は今まで日本語を聞いているし使っているつもりだったが、それはあまりに自然にディオミール語を使いこなしていたために生じた錯覚だ、という説だ。
だがそんなことが起こり得るだろうか。普通なら日本語ではないのにすぐ気付くだろうし、聞き覚えのない言語を理解できることに驚くはずだ。裕は今まで、日本語以外の言語を日本語への翻訳なしに理解したことはないのだから――
――と、そこまで考えたその時。
「……っ」
恐るべき可能性が、頭の中を過ぎった。
普通なら日本語ではないのに気付く。聞き覚えのない言語を理解できることに驚く。日本語以外の言語を日本語への翻訳なしに理解したことはない――
これらはすべて、『日本語という言語を知っていれば』という前提の上にしか成り立たないのではないか?
気付くと、唇がひどく乾いていた。舌で湿らせ、診断を終えたヒルダに一言告げる。
「ヒルダさん……紙とペン、貸してくれませんか?」
幸い、声は震えていなかった。
ヒルダは首を傾げると、「少々お待ちください」と言い残して部屋を出ていった。程なく紙とペン、インク壷を手に戻ってきて、再び部屋を出ていく。
裕は昨日手紙があった執務机に筆記用具一式を置き、慣れないペンで文章を記した。
『この文章は日本語である』
――書けた。意味もわかる。
裕は息をついた。だがまだだ。問題は発音。もし裕の仮説が正しければ、裕は1週間以上もの間、一度たりとも日本語を口にしていないのだから――
息を吸い、ゆっくりと声を紡ぐ。
「……この、ブンショウは、ニホンゴ、で――」
言い切る前に声が詰まった。
ペンを放り出し、その場に膝をつく。
間違いない。
明白だ。
否定しようがない。
(……僕は、日本語を忘れかけている……)
この思考すらも、おそらくは日本語ではなくディオミール語――知らないうちに母語が塗り変えられていたのだ……。
なぜ?
いつの間にこんなことに?
前者はともかく、後者の疑問にはすぐ結論が出た。
この世界で目覚めた直後から、裕はすでにヒルダの言葉を理解できていた。すなわち、母語が塗り替えられたのはそれよりも前――
覚えている。
かすかにだが、覚えている。
この世界で目覚める直前――裕は確かに、意味のわからない言葉を聞いた……!
―― それでも嫌だと仰るのでしたら即座に元通りに ――
―― 必ず元の世界にお帰しします ――
―― 元の世界に送還する準備は整えて ――
元通りにする、元の世界に帰す――リーゼロッテは再三に渡って約束してくれた。
だが。
(本当に、元に戻れるのか……?)
胸中を渦巻く不安は、もはや無視できない規模になっていた。
遠くから響いた爆発音が、裕を現実に引き戻した。
「なに!?」
窓に駆け寄り、閉めっぱなしだったカーテンを開ける。
山の斜面に築かれた街から、茶色い煙が立ち上っていた。
緊急事態――尋常でない状況なのは明らかだった。
裕は先程の思考を胸の底に押し込み、手早く着替えるや部屋を飛び出した。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
城内はひっくり返ったような騒ぎだった。
普段は楚々として気品を失わない使用人達が、今はばたばたと走り回っている。やはり何か起こったのだ。
リーゼロッテの元か、騎士団か、どちらに行くべきか考えたが、騎士団に行くことにした。きっと今頃リーゼロッテは忙殺されているに違いない。裕の相手をする余裕はないだろう。
すっかり歩き慣れた道を小走りで踏破し、訓練場近くの詰め所へ。
騎士団は出撃準備中だった。
まさに厳戒態勢といった様子で、ピリピリした緊張感が騎士達の間に漂っている。
副団長に指示を任せ、騎士達に声をかけて回っていたレオンを見つける。
「何があったの?」
「ん? ……なんだ、おめーか」
レオンは余裕のない表情で振り返る。
「おれにもまだ正確な情報は伝わってねーが……どうも、街に魔物が侵入したらしい。それも大量にだ。いま陛下から指令が下って、騎士団総出で掃討することになった」
何分混乱しているので正確な所はわからないが、すでに被害者も出始めていると言う。一刻も早い対応が必要だった。
「なら僕も――」
「ダメだ」
レオンは断ち切るように言った。
「最初に陛下に言われたんだろうが。切り札は切っちまった時点で切り札じゃなくなんだよ。おめーを戦わせるわけにゃいかねー」
「でも――」
「それに」
あどけない顔にプロの表情を浮かべ、レオンは言う。
「邪魔なんだよ、おめーみたいなシロウトが混ざってっと。これから始まんのは昨日みたいな一騎打ちとは違う。どれだけ強かろうが、命令を聞く訓練をしてねーヤツは害でしかねー」
裕は言い返せなかった。
裕は素人だ。少し剣の振り方を覚えただけで、戦闘のことなど何も知らない。その道のプロであるレオンに、返す言葉などあるわけもなかった。
「いいから城ん中で大人しくしてろ。陛下からもそうさせるように言われてる」
「……そっか。……ごめん」
レオンは背を向け、再び騎士達のほうに戻っていった。
裕もまた、きびきびと動き回る騎士達に背を向け、詰め所を後にした。
(……何を調子に乗っていたんだろう)
自室へと向かいながら、裕は思う。
ドラゴン退治に成功して、色んな人に褒められて、感謝されて、勘違いしていたのだ。
勇者というのは、ただの肩書きでしかない。決して裕個人を表す言葉ではないのだ。
何度も戒めてきたはずなのに……また忘れようとしていた。
(分を弁えろ、器を知れ――お前は勇者なんかじゃない)
背景であれ。
その他であれ。
それが神無木裕が選んだ、生き方なのだから。
「――こんな所で何をしてるの?」
裕は足を止めた。
多くの人々が忙しそうに走り回る中、彼女だけが、隔絶されたように佇んでいる。なぜか鞘に納められた剣を持ち、裕の顔をまっすぐに見据えていた。
「あからさまにしょぼくれた顔して。慰めてほしいの?」
エリカは小馬鹿にするように言う。
裕は少しだけむっとして、反射的に言い返した。
「別に。ちょっと騒ぎに面食らってるだけだよ」
「そうかしら。私には、邪魔だから大人しくしてろって言われた勇者のように見えるけど」
一瞬、裕は口ごもる。
「……見てたの?」
「見てなくてもわかるわよ。顔に書いてあるもの。……ちなみに今は、プライドが傷ついたって書いてあるわ」
思わず、裕は自嘲的に笑った。
「それは、読み違えてるよ。……傷つくようなプライドなんて、元から持ち合わせてない」
「そう? てっきりあんたは興味ない振りして体面を気にするタイプだと思ってたわ」
裕はエリカの整った顔を見透かすように見つめた。
「……何よ?」
「いや。……まるで自分のことを喋ってるみたいだな、と思って」
今度はエリカが口ごもる番だった。
廊下の中央で2人は睨み合う。使用人や伝令係の兵士が、すぐ脇を幾度となく行き交った。
エリカは不意に視線を切り、混乱する城内を見やる。
「……行かないの?」
「え?」
「あんたは、行かないの? 状況は聞いてるんでしょ?」
裕は視線を俯け、首を左右に振った。
「僕が行ったって、邪魔になるだけだ」
「訊き方が悪かったわね」
エリカはため息をつき、続ける。
「行きたいの? 行きたくないの? 私は、あんたの意思を訊いてるのよ」
エリカの眼差しは、どこまでも真摯で――表情には、必死さにも似た真剣さがあった。
「……どうして、そんなことを……?」
「別に……大した意味はないわ。――ただ」
ただ、とエリカは繰り返す。
「あんたのしたいことって――聞いたこと、なかったから」
すとん、と腑に落ちた。
ああ――確かに。
問いに答えたことはあった。
意志を確かめられたことはあった。
でもそれは、首を縦に振るか横に振るかで事足りる程度のものであって。
裕が何をしたいのか――それを言葉にしたことは、一度もない。
――あの時から、もうずっと。
僕の意思は――どこに行ってしまったのだろう。
轟音が響き、城が激しく揺れた。
「近い……!?」
壁に手をついたエリカが窓の外を振り仰いだ。裏門がある方向だ。
「どうした!?」
「裏門のほうに魔物が来たらしい……! くそっ! 他は陽動か!」
「騎士団はどうしたんだ!」
「もう全員出ちまった! 弓兵や魔導士隊が何とか食い止めてるが――」
情報がそこかしこに氾濫する。はっきりわかるのは、このままでは危険だということだけ。
「どうするの?」
エリカはあくまで冷静に問いかける。
「あんたは兵士でも騎士でもない。命令系統に含めるわけにはいかないのは、確かにその通り。……でもそれは、あんたの行動はあんた自身が自由に決めていいってことじゃないの?」
エリカは右手に持っていた剣を、すっと裕に差し出した。
「何もしたくないならそれでもいい。でも、忘れないで――あんたには、あんた自身の行動を決める権利がある」
裕は差し出された剣を見た。
受け取るべきか、否か。
答えは悩むまでもなく出ていた。
だって、さっきからずっと、拳が硬く握られている。
心が奮い立つことは、なかった。
情熱が再燃することは、なかった。
ただ――ああ、結局か、と。
過ちを繰り返す愚かな自分に、諦めるだけ。
「ねえ」
「なに?」
「罵ってくれないかな」
エリカは本気で嫌そうな顔をして、一歩後ずさった。
「心の底から気持ち悪いわ」
「……ありがとう」
求めていたのとはちょっと違ったけれど。
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
剣を受け取った裕は、廊下の向こうに走り去っていった。
1人残されたエリカの背中に声がかかる。
「エリカ」
「……お姉様」
振り返った先にいたのは、実の姉であるリーゼロッテだった。
「勇者様と何を話していたのですか?」
「些細なことです。お姉様にお話しするほどではありません」
リーゼロッテは少し高い視点から、静かに妹の顔を見つめた。エリカの視線は姉には向いておらず、幾筋もの煙が棚引く空に向いている。
「……まあいいでしょう」
少しの沈黙の後、リーゼロッテは銀の長髪を翻した。
「くれぐれも余計なことはしないように。……勇者様は今、大切な時期なのですからね」
「わかっています」
宝石めいた銀光が消えるまで、エリカは微動だにしなかった。




