第7話‐勇者になりたかったわけじゃない‐
――それは、ありし日の記憶。
――神無木裕が、まだ勇者ではなかった頃のこと。
――そう。あの時は、まだこう考えていた。
勇者になりたかったわけじゃない。
ただ僕は、嫌だっただけなんだ。
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小学五年生の頃だった。
当時、裕が所属するクラスでは、いじめが流行っていた。
そこに理由はなく、悪意はない。むしろ無邪気に、ある一人の女の子を仲間外れにし、悪口を囁き合い、競うように悪戯を繰り返すことが流行していたのだ。
いじめっ子たる子供達に自覚はなかった。実際にそのようなことはなかったが、もし大人に見咎められるようなことがあっても、きっと彼らはこう口を揃えただろう。
「イジメじゃありませーん! イジってるだけですぅーっ!」
子供は大人が思うよりも遥かに狡猾だ。彼らは読み書き計算を学ぶ間、同時に学習している。世間一般に大人と呼ばれる人種が、いたずらに事を荒立てたがらない習性を持つことを。
喧嘩があればとりあえず両成敗。
イジっているだけなら、とりあえず様子見。
そして気付いた時には、1人の不登校児ができあがっている。
そんな大きな――当時の彼にとっては――流れそのものが、裕は気に喰わなかった。
嫌だった。
我慢、ならなかった。
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登校すると上履きがなくなっていた。
教室に入ると机が落書きだらけだった。
授業が始まると消しゴムが飛んできた。
休み時間になると筆箱が宙を舞った。
体育で着替えようとするとパンツをずり下ろされた。
体育が終わると服がなくなっていた。
昼休みになると理由もなくキモいキモいと囃し立てられた。
帰りの会で濡れ衣を着せられた。
下校する時にカバンを幾つも運ばされた。
近付いただけで女子が悲鳴を上げた。
そこにいるだけで男子がげらげら笑った。
何かをするたびに物真似された。
何かをするたびにバカにされた。
何もせずともバカにされた。
何もせずとも笑われた。
笑われた。
笑われた。
笑われた。
なんだこれ。
僕はただ、我慢できなかっただけだ。目の前で日常的に繰り返されていることがとても残酷なことのように思えて、耐えられなかっただけだ。
だから言った。怖かったけど、勇気を振り絞って――いい加減にしろ、と。
そしたら、これだ。
僕は何も悪いことなんかしていない。あまりにも目に余ったからそう言っただけ。それの何が悪い? どこが悪い? 何も悪くない。だったらどうして僕はこんな目に遭ってるんだ。
わかっている。本当にわからないわけじゃない。理由は単純だ。水を差したからだ。みんなの楽しみを邪魔してしまったからだ。
今でも思う。ずっと思っている。
―― あの時、余計なことをしなければ ――
―― あの時、恐怖に屈していれば ――
―― あの時、勇気なんて出さなければ ――
―― こんなことになるなら、勇気なんて出さなければ良かった ――
僕が短い人生で学んだもっとも大切なこと。
勇気は、身を滅ぼす。
波風を立てない。感情を出さない。モブキャラに徹しろ。何が起きてもへらへら笑え。
何も面白くなくたって、心底ムカついていたって、笑っていたほうがずっと得だ。
世の中、笑った者勝ちなんだ――
◎◎◎――――――――――――――――――◎◎◎
西暦2014年5月2日、金曜日。
学校という場所が好きではない裕は、いつも始業時間ギリギリに登校する。それが災いして、昨日の場所を迂回することもできず、裕はいつも通りの通学路を歩いた。
清々しい朝の空気に反し、気分はどこまでも重い。
―― 柄の悪い男達に囲まれている女性 ――
―― 助けを求めるような視線 ――
―― そそくさと通り過ぎる自分 ――
人生におけるイベントが極端に少ない裕にとって、出来事ごとの重みは常人のそれに倍する。昨日のことは、一晩眠ってもいまだ胸の中で燻っていた。
もうすぐだ、という思考を何度も過ぎらせては、そのたびに奥へと封じ込める。
気にしなくていい。ただ通り過ぎただけだ。自分には何も関係ないのだ。だいたい、一晩も経ってから今更何があると言うのか――
栓ない思考をはべらせながら、件の場所まで後1分という所まで来た時、
異常は被害妄想を飛び越えた。
裕が通ったのは公園のそばだった。老朽化だのなんだので遊具がいくつも撤去されて、今や公衆トイレくらいしか残っていない、もはや公園というより広場と呼ぶべき空間だ。
子供が学校に行っているこの時間、当然公園は無人のはず――だった。
野次馬めいた人だかりが公園の周囲に集まっている。否、めいた、ではない。野次馬なのだ。近隣の住民なのだろう彼らから口々に噂する声が聞こえる。
「怖いわねぇ」
「こんな近くで……」
怖気がウジ虫のように背中を這い上った。
なのに、動けない。立ち去れない。目が自然と、公園の中に向いてしまう。
公衆トイレの周りに張られた――黄色いテープ。
その中で忙しなく動き回る――紺色の人影。
そして――この時ほど、自分の視力を呪ったことはない。
公衆トイレの中に、誰かが倒れている。
髪の長い――
見覚えのある服装の――
――女性が。
「リンチですって」
「まあ……こんな街中で……」
「犯人、まだ捕まってないんでしょ?」
「誰か見てなかったのかしらねぇ」
―― 助けを求める視線を ――
「…………ぁ」
掠れた声が出る。
頭の中がぐるぐると回る。
――あの時の――あの時の――あの時の――
迷惑そうな声が蘇る。
困り果てたように下がった眉が蘇る。
助けを求める瞳の輝きが蘇っ――――
(――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッ!!)
声なき叫びが頭の中で爆発した。
気付いた時、裕は踵を返し、走り出していた。
(――知らない)
繰り返す。
(知らない。知らない。知らない!)
繰り返す。繰り返す。繰り返す!
(知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らな――――――――――――――――)
――それが。
現代日本での、裕の最後の記憶だった。




