ハローグッバイ
「おはようございます。良く寝ていましたね」
目を覚ます。俺の隣りに寝ていた少女が、無表情のまま言葉を綴る。
「ああ……そりゃあ、昨日は随分と飲んだからな。頭も痛くて仕方が無い……」
返事をしつつ起き上がる。隣りで寝ていた少女も、俺にあわせて身体を起こした。肩口で揺れる黒髪と、ぶかぶかのシャツからちらりと見える胸元とかが、何というか……こう、堪りません。
「何か?」
「あー、いえ……何でもないです。はい」
力の無い言葉を返しながら頭を押さえた。頭痛とか吐き気とかで、頭が上手く回らない。隣りの女は、首を傾げて俺の顔を除き込んでくる。良いから胸元を隠せ。
「本当に大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
「大丈夫だって……ちょっと、慣れてないのに飲みすぎただけだから……」
あー……よし。少し落ち着いてきた。昨日散々泣きはらしたせいか、ようやく気持ちにもケリが付いたらしい。うん。自棄酒って案外良い物だな。
「お酒は身体に悪いですよ」
「今更そんなことを気にするなよ……どうせ、もう」
健康に気を使う必要なんて、ないのだから。
ベッドに隣接する窓を開ける。アパートの三階。通りに面した窓からは、ちょっと前までは行き交う車や人ごみで溢れていた。それももう、一ヵ月も前の話だ。窓から見下ろす景色には、車も人も居ない。それどころか、道に添うように植えられた街路樹も全て枯れはてており、夏を彩る蝉時雨も、全く聞こえない。
――無音。
生きている人間は誰も居ない。
いや、人間どころか。
動物も。
植物も。
多分、細菌の類すら。
およそ、生命と呼ばれるもの全てが死んでしまっている、無音の世界。
こんな世界で、健康以上に無価値なものは、多分命くらいなものだ。
長生きする必要なんて無い。長生きするつもりも無い。最後に俺以外の人間に会ったのは、一ヶ月は前の話か。もちろん、広い世界だ。俺の他にも、何人か生き残ってる奴が居るかもしれない。ただ、連絡手段なんて存在しない為、結局俺は、世界に一人っきりみたいなものだった。
「……喉渇いたな」
首を振って立ち上がる。電源が生きていて助かった。冷蔵庫がつかえなかったら、この夏場に食えるものなんて存在しない。
「あんたも何か飲むかい?」
「いえ。私はいりませんので」
背中越しに少女の返答を聞きながら、ふと、脳裏に疑問が過ぎる。
「……そういや聞いてなかったんだけど……あんた――いったい誰?」
俺は、少女に振り返り、今更な事を口にした。
俺以外の生き残り?いや、この周辺で生きているものなんて、俺くらいしかいない筈だ。それじゃあ、目の前の少女はなんだろう。俺の素朴な疑問に、少女は「ああ」。と小さく頷き、口を開く。
「申しおくれました。……私、この星を滅ぼしに来たものです」
「…………」
呆気に取られる俺に対して、少女は胸元に手をやり、「そして――」と言葉を続け、
「――貴方を、殺しにやって来ました」
抑揚の無い声で、そう告げた。
♪
この星が滅びを迎えはじめたのは、二ヶ月も前の話だ。最初に発症が確認されたのは、アフリカ。人類史の出発点にある小さな村落が、僅か一夜で壊滅するという、とんでもない事態から始まる、
生存者は、ゼロ。
病を患っていたもの。
健康だったもの。
屈強だったもの。
貧弱だったもの。
男。
女。
老人。
子供。
それら全てが、一夜の内に死んでいた。
検死解剖しても、新種のウィルスを発見するどころか、死因すら理解不能。内的要因も、外的要因さえ見当たらない。
彼等は、何一つ異常を抱える事の無いまま、当たりまえのように死んでいた。
「私は……そうですね。分りやすく説明すると、宇宙人みたいなものだと思ってくだされば」
テーブルを挟み、俺と向かい合うように座る少女は、相変わらず淡々と、とんでもない話を始める。
「――もっとも、正確には宇宙『人』ではないのですけどね。この星の言葉では上手く説明できないのですが、まあ、ウィルスみたいなもんです」
そこで言葉を区切り、少女は俺に無機質な瞳を向ける。
シャギーを入れたセミロングの髪の毛の下には、十人の俺が居たら全員が認めるほどに可愛い顔が張り付いていて、その下には、何時の間に着替えたのやら、ラフなキャミソールにショートパンツを穿いている。その服装が、細く締まっているくせに出るとこは出ている少女のスタイルを強調させて、見事に俺の好みのツボを押さえている。もっとも、能面じみた表情のせいで、その魅力は台無しになっているが。こうして見ていると、まるで異常に作り込まれた人形のようだ。
「まあ、その辺の詳しい話は置いておいてですね。ようするに私というのは、この星に存在する全ての存在を強制的に死にたらしめる殺人ウィルス。ということです。それが動物だろうと、植物だろうと関係ありません。『生きているなら死ぬ』。この定義に当てはまるものであれば、例外なくさようなら。ってことですね」
少女の言葉の真偽はともかく、その謎の病気――といっていいのかわからないが――が、そういう性質を持っていたのは確かだった。
最初に発見されたのは、村の家畜だ。次に、動物。昆虫。そして植物。果ては、空気中に漂う雑菌や遺体から検出された細菌に至るまで。全てが、何一つ例外なく。やはり当たりまえのように、死んでいたのだ。
これは人類にとって、とんでもない恐怖だった。
なにしろ、対抗策がない。抗体どころか、死因すら定かでない病気に対して、一体どんな対策を取ればいいと言うのだろう。確かに不治の病と呼ばれるものは数多く存在する。だが、それらのメカニズムは大体判明している。当然だ。生命機能を停止させる以上、病気というものは肉体に働きかける確かなシステムを持っている。心不全だとか、脳梗塞だとか。そういった過程を経て、初めて人間は『死』という結果が訪れる。
だが、この病はそういう確かなメカニズムを持っていない。死因という『過程』を抜きに、死亡という『結果』のみを次々に突きつけて来る。心不全も、脳梗塞も、抗体機能の低下や、神経毒。肉体の物理的な破壊さえ無い。死ぬはずの無い人間が、理不尽に死んでいる。
――そうして、この世界はあっという間に終焉に向っていく。そいつは、恐ろしいまでの即効性と、対象を選ばない無差別性。そして、異常なまでの繁殖力で瞬く間に世界を覆い付くし、世界を滅ぼしていった。
僅か一ヵ月で、世界はこんなにも終ってしまった。お偉いさん方はあたふたしている間に。或いはそんな暇も無く死に。
どうする事も出来ない一般民衆は、結局当右往左往しながら生きて当たりまえのように死に。
そういった大局の事なんてこれっぽっちも関係の無い俺は、当たりまえのように生きていて……どうしてか、生き残った。
「そう。そうなんです。貴方が生き残ってるのが問題なんですよ」
と、少女は指先を俺に突きつける。
「私のシステムに狂いは無いのです。特に貴方なんて、生死の判別が付け易い動物さんじゃないですか。確かに死に至るまでの個人差はありますが、生き残るなんて事はあり得ないです」
「ありえない……なんて言われてもな。実際、こうして生き残っているわけだし」
俺も……それからこの少女もだ。
「そもそも、お前は何なんだ? いきなり目の前に現れたかと思ったら、わけ分からない事言いやがって。そりゃ、こんなご時世に生き残っちまったら頭がおかしくなりそうなのは分かるが、それにしたって電波が過ぎるだろ」
というより、人に死んで欲しいみたいなことを言わないで欲しい。生き残る気はさらさら無いが、それでも生き残ってしまったもの同士、どうにか助け合っていくのが得策なんじゃなかろうか。
「ですから、私は本当にこの星を滅ぼしに来たんですってば」
今まで抑揚の無かった少女の声が、ほんの少しだけ跳ね上がる。
「滅ぼしに来たって言われてもなあ。あんたみたいな少女が、一体どうやって星ひとつ滅ぼすって言うんだ。……というか、あんな意味不明の死因、人間の出来る事じゃないだろ」
「ですから、私は人間じゃないんです。この姿は擬態と言うか、貴方とコンタクトを取り易いように分り易い形にしているだけでなんです」
少女は一度言葉を切り、こほんとひとつため息を吐くと、改めて説明を続ける。
「いいですか、まず私は、今も言ったとおり人間ではありません。この星を滅ぼすためにやってきて、その目的のとおり、この星の大多数の生命を殺し尽くした、貴方たちからすれば最悪のウィルスです」
「はあ」
「私……と言うか私達はですね、本来なら実態どころか、知識も無ければ意志も自我も無い存在なんです。だけど、目的はあるんですね」
「ふうん。それが……」
「はい、『滅ぼす』ということです。そうして私たちはこの星で拡大して、拡散して、生命を屠っていきました。当たりまえですけど、上手くいきました。当然です。私たちはその為の存在なのですから。紙を切れない鋏は、鋏と呼べないでしょう?」
わかりやすいのかわかりづらいのか中途半端な例を上げると、「ところが」と、少女は指を一本立てる。
「ここでどうしてか、切れない紙が現れました。確かに紙のはずなのに、何故か私たちの鋏で切れないのです。私たちは困りました。……いえ、自我が無い以上『困る』なんて感情が存在する訳無いのですけれど。あの時の私たちは、確かに困っていたのだと思います」
「…………」
沈黙。切れない紙が何かなんて、今更口に出すまでも無い。
「困った末に私たちは、貴方とコンタクトを取ってみる事にしました。いわゆる直交渉ですね。それには、別に一人が選ばれたとか、そういうわけではないです。私たちは沢山居ますけど、基本的には一でしかないですし。私たちは私たちで私なんです。……ともあれ、そのままではコンタクトなんて無理です。そもそも私たちは実体が無く、意志や知識も無いのです。ただのベクトルでは、コンタクトなんて取れない。なので我々は、人の身体や知識を利用する事にしました」
人の身体や知識……死体かなんかにでも乗り移ったのか、それとも生きている肉体か。どちらにせよ、病気が人を支配するなんて、ホラーの領域だ。とてもじゃないが信じられない。
「その為に、貴方の脳を利用させて頂きました」
……ん?
「私たちは貴方の脳の使われていない領域を占領し、貴方の知識を拝借して、それを参考に意志や人格を持った私たちの『殻』を生み出したのです。それが、私です」
感情の篭らない声色のまま、とんでもない事を口走る少女。……いや、まてまて。俺の脳を利用だって?
「……じゃあ、今俺の目の前に見えているお前は何だよ」
「はい。私たちが生み出した人格のイメージを、貴方の視覚に中から投影しています。所詮感覚も認識次第ですから。実在なんてしなくても、認識さえ操れば視覚や聴覚……触覚だって感じることが出来ますよ?」
「…………」
……えっと。だ。
要するに、今俺が見ているのは。今、俺の目の目に居る少女は、ただ俺の脳が生み出した幻覚……って事か?
「要約するとそうなりますね。私たちのベクトルが根底にありますから、一概に貴方自身とは言えませんが。それでも、元となるものが無い私たちがこの擬態を作り上げる為には、随分と貴方の知識を使用させて頂きました。この容姿も、貴方の脳内に残っている人物イメージから作り上げたものです。どうでしょう?」
どうでしょうって……堪りませんけど。なるほど、だから俺の趣味ドストライクの容姿をしているのか。そりゃあ俺の中のイメージから作ればそうなるよな。それなら性格も俺好みにして欲しかった……とか思って、自分の脳内に思案を巡らせ、それは無理な相談かと断念する。
……ただまあ、とりあえず理解はいった。
「……あーあ。幻覚が見えるとか、流石に飲みすぎたかな、俺」
「ちょっと、ちょっと待ってください。貴方は先ほどまでの私の言葉の一体何を聞いていたのですか」
「だから、お前は俺の幻覚なんだろ? わかったよ。わかったから消えてくれ。確かに少し淋しいとか思ったけどさあ。その勢いで自棄酒とかしちゃったけどさあ。だからといって自分にしか見えない彼女とか作る気は無いんだよ、俺」
「いえ、確かに存在としての私はそういうものですけども……別に私は貴方の淋しさを紛らわすために現われた訳ではありません。色々勘違いしないで下さい。私はただ、貴方に死んでもらうために来たのですから」
物騒な話である。どうして自分の幻覚に殺されなければならないのだろうか。
「ですから、その辺りは先ほど説明したでしょう? もう忘れたのですか。それとも貴方は馬鹿なのですか」
「馬鹿かどうかって点は反論しかねるけどさ……それでもあんな話、普通に信じられないだろ。それなら未だ、生き残りか、ただの俺の幻覚って方が、よっぽど現実味があるよ」
「現実味。ですか。この状況で、一体どんなものが現実的なのか、教えて欲しいところですね」
「…………」
……確かにその通り、か。何しろ相手は原因不明の流行病だ。明確じゃないなら、あらゆる可能性を有している訳で……ふむ。
「……わかったよ。完全に信じたわけじゃないけれど、一応考慮に入れておく……。で? 俺を殺しに来たんですか」
こくりと頷く少女。
「というわけで、とりあえず死んでくださいな」
「嫌だよ……」
「痛くは無いみたいですよ?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ特典を付けますから」
「要らないし、どうせ死ぬなら意味無いだろ」
というか、何をつけるつもりなんだろうか。どうでもいいけど。
「良いじゃないですかー。だって、今更未練なんてないでしょう?」
「どうだか……」
椅子を引いて立ち上がると、俺を見つめる少女を尻目に、冷蔵庫へと足を向ける。
中には、コンビニ弁当が山のように。何しろ生ものがこぞって死んでいるので、こういった加工物しか食うことが出来ない。
「……いる?」
「いりません」
弁当をさしだしてみると、払い飛ばされた。無論、幻覚である彼女の手では、実物である弁当に触れる事は出来ない。むう。俺は小さく唸ると、電子レンジに弁当を入れる。
「………………」
「………………」
そして、無言で睨み合った。別に、素直にお喋りできないとか、そういうのじゃない。蛇に睨まれた蛙とか、山でばったり熊と遭遇したとか、これはそういう類だ。……さあ、どうしたもんか。
六十秒ほど気まずい沈黙が続いた後、助け舟を出すように、チーンという間抜けな音が部屋に響き渡る。
「さて……」
少女のジト目から視線を逸らし、やれやれと肩を竦めて弁当を取り出し、再び少女と対面した席に戻る。
「いただきますっと。……ん?」
「…………」
ふと顔を上げると、少女の視線が俺から弁当の方に移っていた。因みに俺の手元にあるのは焼肉弁当。肉の匂いが食欲をそそります。
「……いる?」
「……いえ。いりません。大体、私に食べることが出来るわけ無いじゃないですか」
「どうなんだろうな」
でもほら、この国にはお供えものっていう概念もある訳だし。何となく食えなくも無い気がするんだけれど。
「まあいいや。じゃあ遠慮無く」
少女の視線から目を反らして、弁当に口を付けた。
……美味い。美味いのだが、毎日コンビニ弁当だと、流石に飽きが来る。とはいえ、他に食うものもコンビニおにぎりやカップ麺といったジャンクフード程度しかなく。結局諦めて箸を進めるしかない。
「…………」
「…………」
……見てる。なんか凄く見てる。
他にする事も無いのだろうけど、それにしても見すぎだろう。主に弁当の方を。……しかも涎垂らしてるし……っていうか、おい。
「……食いたいんだろ」
「いえ……。そんな、だって私は、その……」
ごにょごにょと言葉尻をぼかす少女。それでも言いたい事は分かるのだが、涎垂らしながら言われても、説得力が皆無です。
「……まあ、幻だとか、人間じゃないとか、あんたにも色々思うところはあるんだろうけどさ」
口元を拭いながら、意地を張るようにそっぽを向く少女の様子が、あまりにも人間臭かったせいか。俺は思わず苦笑を漏らし。
「食いたいんなら、食えば良いじゃんか。ほれ」
なんて事を言いながら、箸で肉を摘んで、少女の口元に運んだ。
「……う」
少女は、目の前に突きつけられた焼肉を、興味深そうに見つめると、了承を得るかのように、上目遣いで俺を見上げてくる。俺が頷くと、少女は、恐る恐るといった様子で口をつけた。
「おいしい……」
「そいつは良かった」
租借しながら呟く少女。しかし、箸に摘んだ焼肉はまるで減っていない。感触はあるのに、つくづく目の前の少女は幻なんだと実感する。
「……もう少し欲しい?」
「…………」
残った焼肉を自分の口に放り込み、箸で具を指し示すと、少女はやはり興味深そうにそれを見つめる。しかし、どこかに躊躇いもあるらしい。
「いらないなら、俺が全部食うけど」
「うぅ……」
目を見開いた後、悲しそうに眉を顰める少女は、何と言うか……やっぱり可愛かった。
食事も終わり、少女は特にすることも無いのか、俺のベッドの上で寝そべっている。
「で、お前これからどうすんの」
「どうする。とは?」
はて。と、そこで首を傾げられても困る。
「まあ、お前が幻覚で、ここに居るってのは、一応分かった。……それで、これからどうするんだよ。俺を殺しにって言っても、お前、俺に手出しできないんじゃないの?」
「それが問題なんですよねぇ……」
少女は上半身を起こすと、腕を組んだ。……考えてなかったのか。
「とりあえず話してみよう。って感じのノリでしたからね。こちらとしても、これからどうしたら良いものか……」
「適当だな……」
「はい。ですけど、幻とはいえこうして人間の肉体を手に入れたのです。同じステージに立ったのですから、自ずと解決策は見つかるはずです」
……そうなのだろうか。俺としては、色々と墓穴ってる気がするのだが。
「無い頭でもこうしてふたつ揃えれば、きっと何か浮かぶはずです。これから頑張りましょう」
「……いや、待て待て待て」
小さく意気込む少女に、手を前に出して制すると、少女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「何か?」
「何かも何も、どうして俺が手伝うのが前提になってるんだ」
それと、その頭は俺の頭だ。無いって言うな。
「手伝ってくれないんですか?」
「当たりまえだ。……というか、自分が死ぬのを手伝う奴なんていないだろ」
別に、俺は死にたい訳でも無いし。
「良いじゃないですか。お願いしますよ」
「良くない。頼まれたって困る」
むう。と、少女は頬を膨らませる。随分と人間らしい仕草だなぁと、何となく思った。
「それじゃあどうしろと言うのですか」
「さあね。自分で考えろ」
折角、知識を得たんだからさ。
「むむ……この程度の知識では解決策は出ないようです」
「…………」
皮肉を言う知恵はあるのにな……。
♪
「結局夜になっちまった……」
日が暮れるまでこの女が何をしていたかというと、恐ろしいことに何もしていなかった。時々、思い出したように俺に頼む以外は、一日中ベッドの上でだらだらと過ごしていた。まさにニートまっしぐらな生活だが、まあ、大本の俺が似たような生活を送っているから仕方が無いのだろうか。
……それはともかく。夜、である。
「……なあ、寝たいんだが」
「あ、どうぞ」
どうぞ。と言いながらも、少女はベッドから離れようとしない。……憎たらしい。仕方が無いのでソファに横になると、少女が不思議そうな瞳でこちらを見つめてくる。
「ベッドで寝ないんですか?」
「寝たいけど、お前が居るから寝れないんだよ。そこをどいてくれるなら寝るけどさ」
「……なんで? 一緒に寝れば良いじゃないですか」
「…………」
……おっかしいなー。俺の知識を得たのなら、それくらい分かって欲しいんだけどなー。
「……あのですね、一応お前は女……いや、性別があるのかはわからないけど。外見的には女なんだよ。一緒に寝ると、色々問題があるだろうが」
「……ああ」
ようやく思い至ったように、少女が手を叩く。
「ですけど、それが問題がありますか?」
「……あ?」
何を言ってるんでしょうねこの子は。分からないような年齢でも無いだろうに。いや、年齢なんて無いのか。
「いえですね。だって私、幻なんですよ? 孕むわけでもありませんし。……それに、常識とか倫理とかを考えるなら、意味ありません。だってもう、貴方一人なんですから」
「…………」
……一瞬納得しかけるが、直ぐに思い直す。幻を抱いても虚しいだけだ。というか、そういう問題じゃない。
「む……。色仕掛け失敗ですか」
「お前はそれでどうしようと思ったんだ……」
小さくため息を漏らして、ソファの端に頭を下ろした。俺の幻覚さんの貞操は、命と引き換えらしい。重すぎる。
「仕方ありません……今日はこのくらいにして、明日からがんばることにします」
「もう電気切るぞー……」
一人頷く少女を無視して、リモコンで部屋の電気を切る。街灯の明かりも途絶えた今、唯一点いている家の明かりを消すと、何も見えないほど真っ暗になる。
「…………」
何となくベッドのほうに目をやるが、やはり真っ暗で、何も見ることは出来なかった。少女が幻だと言うなら、案外、暗闇でも浮かび上がるくらいはするかと思ったのだが、そんなことはないらしい。
「……にしても、妙なことになってきたな」
暗い天井を見つめながら、独り言を呟く。少女からの反応は無い。もう寝てしまったのか。それとも今は、存在していないのか。
「幻だとか、ウイルスだとか……なんというか」
つくづくうそ臭い話だと思う。しかし、それを確認する術は無い。
……とりあえず、確信を持って言えることは、ひとつだけ……。
「……話し相手は、出来るわけか」
そう思えば、少女の存在も、そう悪くは無いのかもしれない。
♪
少女が出現したからと言って、俺の生活の変化は、本当に微々たる物だった。考えて見れば当たり前だ。少女はただの幻で、生きているのは俺一人。1+0が1である以上、何かが変わるわけもない。
強いて言うなら、話し相手が出来た事で、起きている時間が増えた位か。テレビもネットも繋がらない。雑誌も音楽も、新しいものは生まれない。こんな世界じゃ、夢でも見ていたほうがよっぽど有意義だったりする。
……ずっと眠り続けることが出来たらいいのに。そう思っても、上手くいかないのが人間だ。腹が空けば、喉が渇けば、身体は勝手に目覚めてしまう。
長生きするつもりは無いけれど、死ぬ気にもなれないので、見たくも無い現実に吐き気を催しながらも、どうにか生き続けてきた。
だから、新鮮と言えば、新鮮だった。
誰かと言葉を交えることや、誰かの声を聞くこととか。
そうして、何日か経った、ある日のこと。
「何ですか?これ」
「うん?」
少女が指を指しているのは、箪笥の上に置かれたCDコンポ。音質にはあまりこだわらないので安物だが、それでもうちの家電製品の中では高価な部類に入るものだ。
「CDコンポって……なんですか?」
首を傾げる少女。……一般常識がどうのとか言っていたのは何処のどいつだろう。
「私にだって、分からないものはあるんです」
俺が呆れていると、少女は頬を膨らませて反論した。仕方が無いので、説明してやることにする。
「それは、音楽を流す機械だよ」
「音楽?」
さらに首を傾げる少女。……コンポはともかく、音楽は流石に一般常識だろうに。
「いえ、知識はあるんですけど……いまいち実感が沸かないんですよね。音って空気の振動ですよね?そんなものが、娯楽になるんですか?」
だそうだ。まあ……なんとなく分かる。音楽を解するのは、感情の機微なのだから。どれだけ人間を模していても、本質的には人間じゃない彼女には、唯の規則的な音波でしかないのかもしれない。
「うーん……説明するより聴かせたほうが分かりやすいよな」
そういって、俺はラックから一枚のCDを取り出した。掛けたのは、坂本龍一の『メリークリスマス ミスターローレンス』。静かな旋律は、何処か非現実的な世界観を映す。決して主張したりはしない、ただ其処に居るだけの孤独。昔からそれなりに好きな曲だったが、今、この時勢に改めて聴くと、少しまずい。感情が溢れ出しそうなのを堪えて、俺は隣の少女を覗き見た。
「…………」
少女は無言でスピーカーと対面して音楽を聴いている。口元に手を当てた少女の表情は真面目で、何処か儚く、この曲のイメージと合致していて、暫く見惚れてしまう。
数分の曲が終わり、俺はコンポの停止ボタンを押した。
「どうだった?」
振り返る。少女は相変わらず、口元に手を当てて眉を顰めている。
「どう……と言われても、変わりません。やっぱり、音は音です。音楽は、規則性のある空気の振動です」
ただ……と、少女は言葉を続けて、不思議そうに首をかしげた。
「なんというか……不思議な感じがしました。……それだけです。よく、わかりません」
「そっか」
一度頷いて、コンポからCDを取り出す。少女は未だ首を傾げて思い悩んでいるが、俺はそれで良いような気がした。
説明なんて、出来るものじゃない。
♪
「…………」
同居人がやけに静かだと思いきや、少女は何故かDVDラックと対面して固まっていた。数分程見つめていたが、まったく微動だにしない。
「……何やってんの、お前」
観察も飽きたので、頭を掻きながら尋ねると、少女は首だけで振り返って、ラックを指差して口を開く。
「これも『音楽』とやらが聴けるものですか?」
「いや。それはDVDの方だ。音楽じゃなくて映画とかだな。……映画、分かる?」
「失礼ですね。分かります。活動写真のことでしょう」
不満げに口を曲げる少女。……まあ、確かに正解なのだが、活動写真ってのはどうなのさ。
「でも……映画ですか……」
再びラックに目を向け、ケースの上を指でなぞる少女。どれを見ようかと選択しているようにも見えるが、少女の指がケースに触れることは無い。
「見たいの?」
「……良いんですか?」
俺を見つめる少女の瞳が、少しだけ輝いて見える。……まあ、他にすることも無いし、暇を潰すには良いだろう。
「どれ……」
腰を上げて、少女の隣に座る。見たいものはあるかと聞くと、少女は首を横に振った。そもそも内容がわからないか。ということで音楽の時とは違い、今自分が見たいものを優先して選んだ。プレイヤーが、音を立ててディスクを飲み込んでいく。
「にしても……」
立ち上がる画面を二人並んで見つめながら、俺は言った。
「お前がこんなのに興味を持つとは思わなかった」
「……まあ、単純な興味です」
少女は、画面から瞳を逸らさず答える。
「興味?」
「はい。私が滅ぼした相手は、結局どんなものだったのか。……私は結局、知識でしかそれを知りませんから。……知っておくのも、良いのかな。って」
だから、興味です。と、少女は呟いた。
「……ふうん」
「……なんですか、その反応は」
「いや、別に」
少女の視線を、肩を竦めて受け流した。それが例え、唯の退屈しのぎだったとしても。彼女が俺たち人間に興味を持ったのは、意味があることだと、思う。
「お前が、俺たちに興味を持ってくれて、嬉しいよ」
「……ふん」
小さく鼻を鳴らして目を背ける少女に、俺は苦笑する。
……しかし。そんな考えがあったのなら、もう少し内容は選ぶべきだったなと、始まる映画を見ながら、ほんの少しだけ後悔した。
「……お嬢さん。何時まで俺にくっ付いてるつもりですか」
「やめてくださいひっぺがさないでくださいお願いですこのままで居させてください」
小刻みに震える少女は、俺の腰に強く抱きついて離れようとしない。所詮幻なので重さは感じないのだが、触覚だけは働くようで、暑い。そしてキツイ。
「……はあ」
ため息を吐く。どうして俺は世界に誇るジャパニーズホラーなんて選んでしまったのだろう。これならまだ、夢物語なSFか、背中の痒くなるようなラブロマンスの方がマシだった様に思える。
「どうしましょうどうしましょうどうしましょう……。まさか人間にあんな力があったなんて」
「落ち着け。あれは映画だ。フィクションだ」
「だって一人の人間でも殺したらあんな化け物になるんですよ? 私なんて全人類皆殺しにしたんですよ? 駄目ですお仕舞いですもう駄目です。きっと世界中の怨霊が窓や押入れの陰から私を呪い殺しにくるに決まってますああもう形の無い相手なんてどうすればいいんですか……!」
「どうすればいいのかは俺のほうだよ……」
少女がここまで感情を露にするのは初めてで、それは驚くべきことの筈なのだが……何と言うか、呆れのほうが勝ってしまっている。
「良いから少し離れろ……。あんなのは唯の作り話だ。幽霊なんて居ないし、居たとしても俺やお前には見えない。少なくとも俺は人生で一度も見たことが無い。だから落ち着け」
「そ、そうですか……そうですよね」
自分を納得させるように数回頷くと、少女は手に掛ける力を弱める。身体に掛かる圧力が薄れ、俺は胸を撫で下ろした。
「…………っ!?」
「ぐえっ」
気を緩めたのも束の間、少女の腕が、再び俺を締め上げる。
「今っ。今、変な音がしましたよね? この家には私たち以外誰も住んでいないはずなのに……!」
「ああ……それは」
「ど、どうしましょう?どうしたらいいんですか? げ、幻聴ですよね?でもまだわかりませんし……確かめに? いやでもそれこそ怖いですっ! 本当に何か居たらどうするんですかっ!」
家や物が軋む音……そう説明しようにも、少女は俺の言葉に全く耳を傾けず、一人で勝手に盛り上がっていく。
「…………はあ」
……結局その日、俺は、少女を腰にぶら下げて一日を過ごした。
♪
とある日の、正午も過ぎた頃のこと。
「貴方の生活態度は、見ていて目に余ります」
「どういうことだ」
ソファに寝転がりながら、適当に言葉を返すと、少女は俺の顔を覗き込んで、小さく頬を膨らませた。
「日がな一日、部屋で食っちゃ寝食っちゃ寝。嘆かわしいです。外に出ましょう。外の空気を吸いましょう。ほら、今日はこんなに晴天ですよ?」
少女が指差す、閉め切ったカーテンの隙間から見える外は、雲ひとつない晴天で、ある意味お出かけ日和とも言える。
「このひきこもり。不健康です。たまには日焼けぐらいしてきたらどうですか」
「いや、それはそうだろうが……それをお前が言うのはどうなの……?」
お前は俺に死んでほしいんじゃないのかと。それに、毎日同じように、ベッドでごろごろしているコイツには言われたくは無い。
「……く」
返す言葉が無いのか、少女が小さく声を漏らす。それにしても、どうしていきなりそんなことを言い出したのか。
……ああ。
「……さてはお前、退屈なんだろ」
「……う」
図星らしい。最近、やけに人間の文化に興味を持ち始めたこいつは、ついに家の中だけでは満足できなくなってきた模様。
「……はあ、外に出たほうが、むしろ健康に悪そうなんだけどな」
ため息を吐きながら、身体を起こす。着替えは何処にやったか……とか思案して、そういや着替える必要もないかと思い直した。
「あ、お出かけですか? お出かけですか?」
ベッドの縁に座った少女が、ぴょこんと軽やかに立ち上がって矢継ぎ早に問う。いくらなんでも喜びすぎだろうこいつ。犬みたいだ。
「いや、喜んでるとか、そんなわけないじゃないですか。ただほら、私は貴方から離れられないわけでして。ですからまあ、一応確認は必要というか……準備は必要というか」
誰に対してか、何に対してかも分からない言い訳を呟く少女だが、そんなに目を輝かせて言われても説得力が無さ過ぎる。
「……ふう」
視線を逸らし、肩を竦める。
「まあ、たまには良いか。色々と確保も必要だしな……、でも、外に出ても何も無いぞ?」
「知ってますよ」
私が殺したんですから。と、少女は笑顔のまま答えた。
「…………それもそうか」
……動揺を、心の内で押さえ込む。どれだけ人間らしい仕草を見せようと、少女の本質は殺戮ウイルス。……それは、今更言及するまでも無いことだ。
「それじゃ、行くか」
「はいっ」
元気良く答える少女と共に、俺は部屋を出た。
「――帰りましょう」
「……まだアパートの敷地すら出ていないんだが」
外に出て、一分も立たないうちに、少女からリタイア宣言が下る。
「どうしてこんなに暑いんですかっ」
「そりゃお前、夏だから」
「夏ってこんなに暑いんですかっ!?」
「そうだよ。知らなかったのか?」
「だって今までは涼しかったじゃないですか!」
そう。蝉の鳴き声も聞こえてこないので、つい忘れそうになるが、暦の上では夏真っ盛りであり、冷房が常に利いているあの部屋から出れば、肌を焼く熱気が充満しているわけだ。この少女、どうやらそれを知らなかったらしい。いや、知識としては知っていたけど、体験するのは初めて。……って感じか。
「暑い! 暑いです! くそう、誰だ外に出ようなんて言った奴!」
「お前だ」
「貴方が出たがらない理由が分かりました……」
「……それだけじゃないんだけどな」
肩を落とす少女に苦笑しながら、俺は足を進める。
「……思ったほど、荒らされてないよな」
陽光が照り付ける町並みを眺めながら、思わず呟く。実際、町並みは綺麗なもんだった。時々、事故を起こした車や、襲われたらしく窓ガラスの全て割られたコンビニもあったが、基本的に街は形を残している。
……街は残っているのに、住む人間は居ない。という、異常。
異常な状況は、異常な物体に対する違和感を無くす。形を残した街に転がる、形を無くした死体がその類だ。状態は多種多様で、とっくに干からびて腐っているモノもあれば、未だに原型を留めていて、今にも起き出しそうな奴だっている。
「……プロテアーゼってのがあってさ」
「はい」
「人間が作り出す酵素の一つで、たんぱく質を分解するんもんでさ。……うじや細菌が絶滅してるのに、どうして死体が腐るのかって言うと、これが原因らしい」
目の前に転がる、腐り半ばといった女性の死体を見下ろしながら、呟いた。生前はそれなりに美人だったろうに、今じゃ見る影もない。
「はあ、まあ、私も知ってますけど」
「それも知ってる」
そりゃあ、お前の知識は俺の知識なのだから。俺の無駄知識なんて、当然知ってることだろう。
……ただ、こいつが夏の暑さを初めて感じたときのように、知識としては知っていてることと、実際に体験することは、やっぱり違うもので。
……だから、外には出たくなかったんだ。見たくもない現実が、そこら中に転がってるから。
「そういえば私、初めて見ました」
路面に転がる女性のミイラを観察しながら、少女が呟いた。
「何を?」
「死体です。私の戦果……ですね。やったっていう事実は知ってたんですが、実際に見るのは、初めてです」
少女はミイラから視線を上げると、街の方に視線を向ける。
「感想は?」
「……凄惨です」
少女の台詞に感情は込められていない……いや、感情を無理やり押し込めたような声色に、俺は眉を顰める。
「どうした……?」
「いえ、街を見ていました。……凄いですよね、高層ビルとか」
「ああ……」
頷いて、俺も瞳を向けた。天を貫くビル群が、視線の先に乱立している。
「……こんなに小さな人が集まって、あれだけのものを作り出したんですよね。……本当に、凄い」
その言葉に偽りは無い、少女は心から感心している。……しかし。
「……でも」
「……でも?」
「皆、私が、殺してしまった……んですよね」
事実として、それを再認するように、少女が呟いた。顔は街の方へと向けたままで、俺のほうからその表情を窺い知る事は出来ない。
「…………」
「……帰りましょうか」
振り向いた少女の顔は、笑顔だった。何か声を掛けようにも、そんな表情をされては、何も言えなくなってしまう。
「ね。帰りましょう」
「……ああ」
結局、何も言えないまま、家路に着いた。
アスファルトを焼く暑さに身を任せながら、俺はふと、隣に居る少女について思考を巡らせる。……どれだけ人間らしい仕草を見せようと、少女の本質は殺戮ウイルスだと、俺は思っていた。……でも、それは違うのかも知れない。
少女とウイルスは、別物だ。元は同じなのかもしれないが、意識無く人を殺すウイルスと、人間の知識と意識をもった少女では、違いすぎる。
自分が起こした悲劇を、少女は『初めて見た』と言った。つまり、少女にウイルスの時の記憶は無いのだ。いや、ウイルスなんてのは、自動的な、機械みたいなものだろう。認識なんてあるはずが無い。
ところが、殺戮ウイルスが自動的にやってきたことを、少女は人の知識を手に入れることで、理解してしまった。
つまり、それは……。
「…………」
世界を滅ぼした少女は……誰も居なくなってしまった街を見て、一体何を思ったのだろうか。
♪
「暇です」
「…………」
少女の要求は、とても率直で簡潔だった。
「聞こえませんでしたか? 私は暇だといったんですよ?」
「聞こえてるよ……」
本から視線を上げて、少女に向ける。
「聞こえてるけど……それで俺に何をしろと」
「何でも良いです。退屈しのぎをください」
無邪気な子供のように瞳を輝かせて微笑む少女に、俺は読みかけの本を伏せて苦笑いを返した。
「そんなに期待されてもな……本でも読むか?」
伏せた本を指差すと、少女は露骨に顔を顰める。
「そういう面倒くさそうなのはパスです」
「面倒くさそうって……酷いな、お前」
「大体、私は本を持てないんですよ?読むとしたら、貴方に捲ってもらうことになりますけど、それでも良いんですか」
「……それは面倒くさそうだな」
「パスですよね」
「パスだよな」
示し合わせたように頷く二人。ところが、状況は何も変わっていないから不思議だ。
「……じゃあ、映画」
「駄目ですパスですお願いしますやめてください」
首をぶるぶると震わせ頑なに拒む少女。先日の一件が完全にトラウマと化したようだ。責任の一端を担ってる故に、微妙に罪悪感。
「となると……むう……」
腕を組んで思考する。もともと趣味が多いほうではないので、そう言われると、どうしたものやら。
「……あ、そうだ。それじゃあさ、漫画だったらどうだろう」
「漫画……ですか?」
首を傾げる少女。
「うん。漫画なら、本ほど時間も掛からないしさ。俺も読んでて楽しいし。どうだろう」
「まあ……良いです」
曖昧に頷く少女。さして興味も無さそうだが、とりあえず暇が潰せればそれで良い。
「よし……じゃあ、何を読もうかね……」
選んだのは、マイナーというほどマイナーでもなければ、有名というほど有名でもない、そこそこの漫画。少女は、初めこそ興味の無さそうな表情で頁を追っていたが、徐々にその瞳に輝きが宿り、途中から先を促すようになり始め、結局、うちにあった単行本を全て読み終えてしまった。
「……面白かったです」
最後の本を閉じると同時に、少女は笑顔で感想を漏らした。
「絵と文字の羅列が、こんなに面白いものとは思いませんでした。こういう物が楽しめるのは、知的生物の特権ですね」
胸に手を当てて呟く少女に苦笑する。
「お前が言うのか、それを」
「ふふ……確かにおかしいですね。だけど、私は嬉しいです。『面白い』なんて感情、あのままだったら、きっと知ることは無かったから」
そう言って笑う少女の瞳は、何処か寂しげに淀んでいる。
「……でも、どうしてでしょう。良く分からないのですけど、気持ちが、落ち着かないんです。この辺が、もやもやするんです。揺らいでるんです。……私は、その為に来たのに」
少女の本体は、この星を滅ぼすウイルスであり、それには意識も知識も無い。唯『滅ぼす』という行為だけを行うもので。
「人類は絶滅したから、もう、新しいものは見れないんだなと思うと……」
なのに――
「……少しだけ、残念に思ってしまいます」
――どうしてか知恵を手に入れた少女は、そこに思考を入れてしまった。
「…………」
無言で、ぽんと少女の頭に手を置く。伏せがちな瞳が、俺を見つめる。
「……なんでしょう」
「なんでもない」
考えてした行動じゃない。寂しそうだったから、どうにかしたいと思っただけだ。
「……変な人」
「なんだよ」
「いえ、貴方はどうして、こんな私に良くしてくれるのかな。と思いまして」
どうしてと言われても、困る。
目の前で人が泣いているなら、笑って欲しい。
困っているなら、助けたい。
それくらいの思いは、誰でも当たり前に持ち合わせているものだろう。
「……変な人」
少女がもう一度、噛み締めるように呟いた。呆れたような声色でも、表情が少し緩んでいるのは、隠しようが無い。
「そりゃあ、幻と会話するような男だからな」
少女の頭に置いた手を離し、俺は肩を竦める。
「……ありがとう、ございます」
小さな、消え入りそうな声で呟いて、少女はもう一度微笑んだ。
♪
目覚めと共に、異常なまでの倦怠感に包まれた身体を起こすと、すぐに視界が暗くなり、平衡感覚が維持できなくなる。
「…………?」
疑問に思いながらも再び起き上がる。脳からすっと熱が引いていく感覚に、なんとも言えない不快感を感じながら、回らない頭で、一人呟く。
「……なんだこれ。低血圧……みたいな」
みたい。では無く、そのものだ。寝起きの不良。倦怠感。めまい。動機。……体温の低下もそうか?……それにしても、おかしな話だ。低血圧なんて、昨日今日で変わるようなもんじゃない。少なくとも、俺は血圧については問題ない筈なのに……何だか、急に心肺機能が低下したかのような――
「……あー」
――そっか。動いてるほうが異常だったんだ。と、今更ながらに納得した。
「なるほど……結局俺も、これで死ぬのか」
そりゃあそうだ。六十億人殺したウィルスに、俺だけが無事なんてこと、ありえない。結局俺は、ほんの少し発症が遅れただけの、何てことは無い一般人だったってわけだ。
「……ふふっ……はぁ」
ふと、今日まで過ごしてきた同居人の顔を思い出す。無邪気に笑うあいつは、この結末を喜んでくれるだろうか。俺の一人の為に、わざわざ知識まで得て出張ってくれた少女は、今頃どう思っているだろう。
「……そういや、あいつ何処だ」
普段なら、呼ばなくても出てくるあいつが、今日に限って姿を現そうとしない。探しに行こうか。という思いが頭を過ぎるが、あいつは俺の頭の中に居るんであって、探しても無意味である。
というわけで。
「……まあ、そういうことだけど。出て来いよ。お前なら、どうなってるのか分かるんだろ?……一応、当事者だしさ」
「…………」
突然背後に気配がする。振り返ると、少女が体育座りをして俯いていた。少女の雰囲気は気になったが、それよりもまず確認しなければならないことがあるので、一応聞いてみる。
「……で、どうなの」
「……真に残念ながら、陽性です」
力の無い声で呟く少女。
「陽性……」
死亡確定……か。長生きできるとは思っていなかったし、それなりに覚悟もしていたけれど……他人に言われると、流石に……なあ。
……まあ、それはそれとして。俺は、どうにか唇を歪めて、俯く少女に向けて笑顔を作った。
「……良かったな。お前の望み、叶ったぞ」
「…………」
待ち望んでいた結末の筈なのに、少女は何故か、より顔を俯ける。
「あー……悪い。少し皮肉っぽかったか。別にそんなつもりは無かったんだけどさ……その、俺としてはどう言ったら良いのか、分からなくて」
「……そんなこと、どうでもいいです」
呟く声に抑揚は無い。出会った当時に戻ったかのような錯覚を受けるが、何ていうことは無い。少女は唯、落ち込んでいるだけだ。
「いや、待て待て。どうしてお前が落ち込んでるんだよ」
落ち込みたいのはこっちだ。という台詞は、どうにか飲み込む。少女の反応は不可解だ。……だって、コイツの正体はウイルスで、目的は、俺を殺すこと。だったのに。
「……そうですよ。私は所詮ウイルスです。この姿は借り物です。貴方が死ねば、ようやく解放、されるんです」
「……だったら」
「でも……私は、すごく、悲しいです。……悲しいと、思います。……私は、その為に来たのに」
少女は、顔を膝の間に埋めながら、言葉を続ける。
「貴方が死んでしまうことを、悲しいと……思ってしまうのです」
「…………」
俺が言葉を返せないで居ると、少女は顔を上げて苦笑を見せた。
「おかしいですよね。……自分でも、そう思います」
「…………」
「分かってるんです……所詮、仮初の身体と、仮初の意識ですから。……この気持ちは全て偽物って、分かってるんです。私は殺人ウイルスで、その事実は、変えようが無くて」
力なく笑いながら、言葉を続ける少女。
「……なのに。ここに居る私は、どうしてかそれが、凄く嫌で。その感情も、偽物だって分かってるのに。幻だって、分かってるのに。……やっぱりそれも、認めたくなくて」
少女が顔を伏せると、声は徐々に小さくなっていき。
「この気持ちが……本物だったら、良かったのに」
「…………」
「……と、思ってしまうのです」
最後には、聞き取れるかどうかも分からないような声で、呟いた。
「お前……」
「聞いてください」
少女は、伏せた顔を上げると、真面目な顔をして俺に向き直る。
「貴方には、両親は居ましたか」
「ああ」
頷く。少女の固い口調からは、質問の思惑が見て取れない。
「兄弟は居ましたか」
「ああ」
頷く。未だ分からない。質問の内容より、寂しげな少女の表情の方に目がいってしまう。
「友人は居ましたか」
「ああ」
頷く。……何が言いたいのか、何となく理解できてきた。要するに、コイツは。
「……大切な人は、居ましたか」
「……ああ」
少女は一度、言葉を切ると、やがて、覚悟を決めたように口を開いた。
「全部、私が殺しました」
…………。
「今の私が、何を思おうと……元の私は、結局、そういうものなんです。……ここの暮らしが、楽しくて、つい忘れてしまいそうになるけれど。……やっぱり私は、感情を持たない、唯のウイルスなんです。……こんなの、全部嘘なんです」
「……お前さ」
……何かを言い返そうと口を開くが、結局、上手い言葉が見当たらない。こんな時、不器用な自分に腹が立つ。
「……っ」
「……良いんですよ、気を使わなくても。私は、どうせ――」
……ああ、ついでに、同じくらい不器用な、こいつにもだ。
「……ふゃっ?」
ムカついたので、無言で頬をつねってやった。
「……何してるんですか」
「触れるじゃんか」
俺の指先に、柔らかい感触が残る。
「はい」
「声も聞こえる。瞳にも見える」
「なんでしょう……」
困惑しているのか、頬に当てた手を払おうともしない。
……困惑しているという感情も、分かる。
だから――
「――これでもお前は、存在しない。何て言えるのか?」
「――――」
ぽかんと、少女は呆気に取られたように、口を開けたまま固まった。
「え……だって……だって私は幻なんですよ?」
目を見開く少女に、俺は言葉を続ける。
「どうして? 見えて、触れて、聞こえるのに、それでもお前は実在しないって?」
「だから、そうだって言ってるじゃないですか」
「馬鹿いうな。そんなこと言ったらさ、現実なんて幻覚だらけだ。今見てるものが現実かも分からない。なあ?見えて触れて聞こえるなら、それは十分実在する証明になるんじゃないのか?」
俺の台詞に、少女は首を振って否定した。
「そんなの……そんなの、結局貴方一人にしか見えてないものです! 他人に見えていないなら、それはやっぱり、唯の幻じゃないですか……!」
「……他人なんて、もう居ない」
「……っ!」
少女が、小さく息を呑んだ。勢いが弱まったのを見て、俺は更に言葉を続ける。
「……だから、俺が見ているものが、現実だ。偽物だろうとなんだろうと、お前はここに居るって、俺が認める。ウイルスとか、関係無いよ。あんたの想いは――確かにここに、あるんだから」
「…………………………………………」
長い沈黙の末に、少女が口を開く。
「…………私は」
「うん」
「……私は、ここに居ますか?」
「……うん」
俺が頷くと、少女はもう一度俯いて……あろうことか、涙なんて流し始めた。
「え、ちょっと……っ!?」
「……酷い人です」
「いや待て、意味が分からないんだが……」
泣かれると、困る。……理由は無いが、なんとなく困る。どうしたらいいのか分からず、俺が慌てふためいていると、少女は涙を拭って、俺に向き直った。
「……私をどうした所で、貴方が死ぬことに変わりは無いんですよ? それでも良いんですか?」
「え……? ああ。別にそんなこと考えて無いよ」
というより、そんなこと思ってもいなかった。何となく、自分の死に付いては、受け入れるのは未だしも、諦めは付いていたように思える。
当たり前のように生きていたから。
当たり前のように死んでいく。
この世界も同じだ。滅びを迎えたのは、誰のせいでも……こいつのせいでもない。唯、その時が、来ただけなのだ。
「……実を言うとさ、少しだけ感謝してるんだ」
本当なら、死ぬまで孤独で。『この星の終わり』なんて、一人で持つには重過ぎるものを、一緒に抱えてくれる奴が居てくれた。本当に本当の終わりまで、一緒に居てくれる奴と、出会えた。
「楽しかったって言ったろ。俺も同じだ。……例え全部偽物でも、これだけは変わらない。……俺は、あんたに出会えて、良かったと思ってる」
「……やっぱり、貴方は酷い人です」
目に涙を浮かべながら、少女はもう一度言った。
「何でだよ」
「だって、貴方は私に、悲しめと言っているんですから」
微笑を浮かべる少女に、俺は肩を竦める。
「一人で死ぬのは寂しいからな。ご不満だったら、見捨てていけよ」
「見捨てませんよ」
「だって私は――貴方を殺しに来たんですから」