白い水槽
この作品はraki&竜司さんのオムニバス企画「クラムボンの多い料理店」参加作品です。
宮沢賢治『やまなし』に登場する謎の存在「クラムボン」への自己解釈を元に、執筆されています。
自分の知り合いに、変な男がいる。正確に言えば、変なところに住む変わった男だ。住宅街にポツンとある小さな林の、その中に立つ大きな白い屋敷がその男の居城。いつ尋ねても居て、いつ尋ねても一人だった。
どうやって出会ったのか、招かれたのか。どうしてこうして訪れるのか。今思えばそれすらよくわからない。
その部屋にはたくさんの水槽。それが四方中央問わず、所狭しと並べられたそこは、まるで部屋そのものが水中であるかのような場所だった。
北の棟の西、隅の部屋。ドアを開ける音がして、待っている間にと渡された本から顔を上げる。しっかりと遮光カーテンの引かれた窓際の、小さなテーブルにコーヒーを置いて、奴はこちらの手から本を取り上げた。容易く奪われはしたが、もっともこちらもしっかりと読んでいたわけでもない。『さかなの飼い方』など読まされても、奴はこちらを水槽に触らせもしないのだから意味がないのだ。
コーヒーに口をつけていると、横からの視線に気づく。大きな水槽に一匹だけいる大きな魚が、奇妙なものを見るかのようにこちらを見ているのだった。同じような好奇の視線が魚と自分とを行き交う。こちらが視線を外すと同時に、その魚もふい、と向こうへと親指の爪くらいの鱗を光らせて、水槽の向こうへと泳いで行ってしまった。
「……変な奴だな」
「ジョバンニ」
呟くとそれに応えるように、奴はそう言った。何のことかと、そちらに目をやると、奴は餌のケースを手にこちらへ来た。
「こいつの名前」
奴はパラパラと“ジョバンニ”の水槽に餌を振りいれた。水面を波立たせ、空ごと食みながら巨魚は餌を食べる。えらから溢れた空気が、水銀の粒のように水面へと上ってはぜた。奴はまた別の餌を持って、今度はちらちらと光る熱帯魚の水槽の方へ行く。
奴の水槽には、河海の区別は無い。海はそう近くもないと言うのに、海の魚もまるで初めからここにいたような顔をしている。
「それにも名前があるのか」
尋ねると振り返りもせず、奴は応えた。
「全部についてるわけじゃない」
尾にとりどりの色を纏う小魚が、鮮やかなそれを映しながら、銀盆のような水面をつつく。花を撒いたような光景。それが終わると、奴はまた別の方へとすいと歩いて行ってしまう。水槽に囲まれた僅かな空間を、滑らかに泳ぐように。
「これにはある。シグナルとシグナレス」
奴が示す水槽は小さく、薄青い色の魚が二匹入っていた。ぴんと張った尾を揺らし、身体に沿って輝く蛍光をちかちかと瞬かせながら。片方が動けば、もう片方がそれを追い、広い水槽を二匹揃って、散歩している。
「つがいなのか」
尋ねてみたけれど、奴はさぁと首を傾げて、それらに餌をやる。
「子が出来たためしがないから」
こちらも、ふぅん、と答えたきり、しばらく会話は無かった。奴は変わらず、水槽の間を回遊している。ぐるりと餌をやって回ればいいのに、あっちに行ってはこちらへ戻り、ふと立ち止まって見ては、ついと動き出す。
「これだけ水槽があったら、電源が大変だろう。火事になったりしないか」
ふと思い立って尋ねてみると、何を馬鹿なことを言うのかと言わんばかりに、眉も動かさず奴は言う。
「火が出ても、消すための水がいくらでもあるじゃないか」
それだけの話では済まないだろうに、奴にとってはそれだけの話でしかないのだ。静かな波の音と魚と水槽の息の音、それだけがこの天色の部屋の全てで、奴がそれを当たり前に思っている間は、この部屋は当たり前のように存在しつづけるのだろう。
奴はこちらに歩いてくると、コーヒーをどかし、一番小さな水槽をテーブルの上に置いた。部屋の隅の引き出しから取り出されたのは、理科の実験のような細々とした道具。乳鉢の中に、小さな粒とそれを潰すための乳棒があって、向かいの椅子に腰を下ろした奴は陶器の音をさせながらそれを動かしていた。
小さな水槽に魚はいなかった。ただ、雪の降るように白いものが水の中で揺れている。時々、跳ねるように中を動いては、ゆっくりと底へ沈む。細かくその小さなものが動く水槽は、薄い窓の光に照らされて白い。奴は乳鉢の中身に水を足すと、赤いゴムのついたスポイトでそれを水槽に落とした。緑に濁るその液は煙のように沈んでいく。水面に映る雲のように、下に下にと湧きながら。
「こいつらに、名前があるのか」
思い立って問うて、向かいの奴の顔をじっと見る。無いとも有るともいえない表情。水槽の照り返す、光の網を顔に受けながら、奴は呟くように答えた。
「クラムボンたち」
「たち、か。いっぱいいるし、見分けがつかないもんな」
そう言うと、今度は奴がこちらをじっと見る。魚の目に似て、真昼の夢を見るような。
「こいつらは、全部がクラムボン。この水槽が、全部だ」
こちらが黙っていると、奴はめずらしく続けて口を開いた。
「こいつらは、笑うんだ」
餌をやったスポイトの口を、白い水槽の中に付ける。赤い頭を押すと、銀の泡が出て、口に“クラムボン”が数匹吸い込まれていった。奴はそれを隣にあった、小魚の水槽に垂らしてやる。そして、振り返る。
「ほら、笑ってるだろう」
水槽は変わらず、中のものはゆらゆらと揺れているだけだ。
「おれにはわからん」
そう答えると、奴は、そうか、と言って座り直した。
「別の水槽に運ばれてったものは、食べられる。殺される。傍から見れば、悪いことだ。怖いことだ。でも、こいつらは笑う。食べられた奴を祝福して、食べる奴に微笑む。その中で、自分が生きていくことを知っているから」
奴は、微かに微笑んだ。滅多になく饒舌に、白いものを見つめながら。向かいの男はこの部屋という水槽の主。大きな魚のようで、この白いものたちのようで。そこにただ、底石のように座る自分は、ただ首を傾げて答えるしかなかった。
「やっぱりおれにはわからんよ」
応えてやると、奴は少し笑みを深めた。もしかしたら、クラムボンの笑みは、これによく似ているのかもしれない。
近くの窓からさらさらと白い光が入る。水槽を照らし、きらきらと輝くこの部屋は、さながら青い幻燈だった。