最後の帳簿
アルベルト・ラウレンツは、自信があった。
根拠はなかった。
だが、疑ったこともなかった。
自分はどんな難局でも乗り越えられる。失敗することはない。すべては自分の思い通りに進む――そう信じていた。
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子供の頃から、なんでも出来ていた。
家庭教師の出す課題は簡単で、考えるより先に答えが浮かぶ。歴史も、経済も、一度読めば理解できた。紙の上の数字はただの記号ではなく、流れとして頭の中に入ってくる。
退屈だった。
護身術だけは少し難しかったが、それも深刻に考えるほどではない。そもそも自分が剣を振るう必要などないのだから。
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アルベルトは、国一番の豪商の家に生まれていた。
欲しいものは手に入る。
不快なものは遠ざけられる。
金があれば、大抵の問題は解決できる。
そういう環境で育った。
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父はアルベルトに期待していた。
「この子は商人になるために生まれてきた」
そう言われるたび、アルベルトは誇らしかった。
「僕がこの家を継いだら、もっと大きくします。国を跨いで、もっと広げてみせます」
父は満足そうに頷いた。
「楽しみだ」
その未来を、疑ったことはなかった。
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だが、一つだけ。
どうしようもない現実があった。
身分。
男爵。
どれだけ金があっても、それは覆らない。
領地もなければ、国を動かす武力もない。傭兵は雇えるが、それは所詮護衛でしかない。国家の力とは別物だった。
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だからこそ、婚約した。
宮仕えの子爵家令嬢。
情報を得るための、合理的な選択だった。
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「格下の男爵との結婚なんて、本当は嫌なのよ」
初対面でそう言われた。
「でも、お金持ちっていうから我慢してあげる」
アルベルトは微笑んだ。
「光栄です。子爵家のお嬢様」
だが、内心では完全に見下していた。
この縁談の価値を理解していない。
商人との繋がりがどれほどの意味を持つのか、何も分かっていない。
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「このジュエリーが欲しいわ。耳飾りも、髪飾りも、全部揃えて」
「特別な日でもないのに高すぎる。冗談だろう?」
「何よ。お金しか価値がないくせに」
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アルベルトは笑った。
表面上は穏やかに。
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(つまらない女だ)
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それ以上の感情はなかった。
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やがて学院に入る。
そこで、一人の少女と出会った。
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希少な光魔法。
高い魔力量。
だが、それ以上に――
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「あなた、笑ってるけど本当は笑ってない。怖い人」
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その言葉に、アルベルトは初めて引っかかった。
商売でも、損得でもない。
純粋な興味。
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「初対面でそれを言うのか」
少し考えてから、笑う。
「面白いね、君は」
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それから、少しずつ変わっていった。
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「商人は利益で動く」
「私は利益にならないわ。でも、愛してる」
「話にならない」
「なら、どうして会いにくるの?」
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答えが出ない。
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時間は有限だと知っている。
無駄にしていいものではない。
それでも。
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「……わからない」
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気付けば、会いに行っていた。
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「分単位でお金がかかる人と話せて幸せ」
「君だけ、無料だ」
「愛してるわ、アルベルト」
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その言葉に、違和感はなかった。
むしろ、納得していた。
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やがて、父に知られる。
それは突然だった。
呼び出された部屋で、父は感情を交えずに言った。
「別れろ」
短い言葉だったが、そこに迷いはなかった。
「貴族ですらない女にかまけている時間はない」
アルベルトは一瞬だけ沈黙した。
頭の中で、いくつもの計算が走る。
だが、そのどれもが意味を持たなかった。
「……嫌だと言ったら?」
そう聞き返した時点で、答えは分かっていた。
「後継から外す」
淡々とした声だった。
だが、それがどれほど重い意味を持つのか、アルベルトは理解していた。
ラウレンツ家の後継であることは、単なる地位ではない。
それは、この世界で生きるための基盤そのものだった。
財、信用、取引、人脈――すべてがそこに紐づいている。
それを失うということは、何も持たない自分になるということだった。
父はさらに言葉を重ねる。
「つまらない女とはすぐ別れろ。お前なら分かるだろう」
分かっていた。
合理的に考えれば、答えは一つしかない。
だが、その答えを選ぶことができなかった。
少女と過ごした時間は、利益にはならない。
むしろ損失だ。
それでも、切り捨てるという選択が、どうしてもできなかった。
頭では理解しているのに、身体が従わない。
アルベルトはその事実に、初めて戸惑っていた。
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少女のもとへ向かう。
いつもと同じ場所。
同じ時間。
それなのに、世界が少しだけ違って見えた。
「後継から外された僕に興味はあるかい?」
自分でも驚くほど静かな声だった。
少女は少しも考えずに答える。
「アルベルトはアルベルトよ」
その言葉には、何の揺らぎもなかった。
「愛してるわ」
その瞬間、逃げ場が完全に消えた。
どちらかを選ぶという選択肢そのものが、崩れ落ちた。
「……僕と死んでくれる?」
問いかけた声は、かすかに震えていた。
だが少女は、嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しい」
その一言で、すべてが決まった。
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ラウレンツ家の金庫。
分厚い扉の向こうに広がるのは、積み上げられた金貨の山だった。
鈍く光るそれは、これまで積み上げてきたすべての象徴だった。
アルベルトはしばらくそれを見つめていた。
本来なら、これらはすべて自分のものになるはずだった。
時間をかけてさらに増やし、国を跨いで広げていくはずだった。
そういう未来しか想像していなかった。
だが、その未来の中に、少女の姿はなかった。
そして今、少女を選ぶなら、その未来は消える。
逆に、未来を選ぶなら、少女を失う。
どちらも手放せない。
だからこそ、どちらも選ばないという結論に辿り着いていた。
アルベルトは少女に向き直る。
「本当に、一緒に死んでくれるのか」
少女は変わらず穏やかに答えた。
「一緒になりたいの。今世が無理なら、来世で」
アルベルトは、ゆっくりと笑った。
そしてロープを手に取る。
少女の首にかける手は、驚くほど震えていなかった。
自分の首にも同じようにかける。
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手を繋ぐ。
温かさが、確かにそこにあった。
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足場の上に立つ。
ほんの一瞬だけ、思考がよぎる。
本当にこれでいいのか。
まだ別の選択肢があったのではないか。
だが、その考えはすぐに消えた。
ここまで来て、引き返す理由はもう残っていなかった。
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アルベルトは静かに足場を蹴った。
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その後、二人が動くことはなかった。
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アルベルトの最後の帳簿には、こう書かれていた。
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愛は金で買えない。
だから、命で買った。
この短編は、乙女ゲームのバッドエンド絵師、ゲーム世界に転生する 〜バッドエンドしかない世界で、運命を捨てる〜の中に出てくるゲームの内容です。




