代弁者の聖域
標高千メートルを超える霊峰の頂、雲海を裂いて現れたのは、朱色の鳥居でも苔むした社殿でもなかった。それは、周囲の原生林を嘲笑うかのようにそびえ立つ、ガラスとコンクリートの寒々しい現代建築だった。
「ようこそ、先生。お待ちしておりました」
エントランスの自動ドアが開くと、無機質なロビーに一人の女性が立っていた。濃紺のスーツを完璧に着こなし、髪を一点の乱れもなく束ねた秘書だ。彼女は深々と頭を下げたが、その瞳は磨かれた義石のように光を通さない。
「宗主様の病を、どうか、治してください。あなた様が最後の希望なのです」
案内されたのは、千畳敷はあるかと思われる大広間だった。壁一面が強化ガラスになっており、外界の荒々しい山肌が借景として切り取られている。しかし、その絶景を愉しむ者は一人もいなかった。
広間には、何百という人間が折り重なり、静止していた。かつての信者だろうか、あるいは彼女が呼び寄せた「医者」の成れの果てか。腐敗臭はない。ただ、冬の廊下のような凍てついた死の匂いだけが充満している。
「これを見ろ。みんな死んでいるじゃないか」
私が声を荒らげると、秘書は困ったように小首をかしげ、機械的な笑みを浮かべた。
「いいえ。お医者様に診ていただければ、すぐに治るのです。ええ、診ていただければ、治るのです。先生、診ていただければ……」
彼女は壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返し始めた。次第に早口になり、声のトーンが不自然に上気していく。狂っている。そう確信した私は、彼女を置いて奥の私室へと向かった。「館内は好きに見て構わない」という彼女の許可を、逃走の口実に変えて。
廊下は迷宮のように入り組んでいた。壁にはル・コルビュジェを思わせる機能美が溢れているが、角を曲がるたびに空気の組成が変わるのを感じた。最奥、宗主が座しているはずの「聖域」の重厚な扉に手をかけた瞬間、背筋に冷たい刃を突きつけられたような戦慄が走った。
天井の監視カメラが不気味に首を振り、壁の隙間から細いワイヤーが射出された。防衛システムではない。それは明らかに、侵入者を「解体」するための意志を持った罠だった。
私は夢中で床を転がり、背後で大理石の床が鋭く削れる音を聞いた。何かに追われるように、私は来た道を必死に逆走した。あの秘書のいるロビーへ。
「おい、助けてくれ! 中に何があるんだ!」
叫びながらロビーへ飛び込んだが、返ってくる言葉はなかった。
受付デスクの裏で、彼女は倒れていた。
先ほどまであんなに饒舌に、美しく立っていた秘書は、もうどこにもいなかった。そこに横たわっていたのは、何年も前に生命活動を停止したかのような、ミイラ化した女の残骸だった。彼女の着ていたスーツだけが、今さっきまで誰かが入っていたかのように新しく、ふわりと形を保っている。
私は膝をつき、乾いた彼女の口元を見た。
さっきまで彼女が発していた「診て貰えば治る」という言葉が、まだ空気に溶け残っているような気がした。
この現代的な社は、もはや神を祀る場所ではない。ここは、何らかの理由で死ねなくなった「宗主」という名の怪物を、たった一つの欺瞞で繋ぎ止めるための巨大な装置だったのだ。
「……彼女は、これを言わされるためだけに生かされていたんだろう」
私が呟いた言葉は、高性能な空調の音に吸い込まれて消えた。
背後で、再び自動ドアが開く音がした。




