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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『断絶』 ~section5:老いた職人と、届かなかった指物~

 黒く錆びついた藤堂家本邸の巨大な鉄格子の門扉。

 その重苦しい威圧感を見上げながら、僕が門の横にある旧式のインターホン――もはや配線が生きているのかすら怪しい、黄ばんだプラスチックのボタン――に指を伸ばそうとした、まさにその時だった。


「待て、サクタロウ。まだその扉を叩く時ではない」


 背後から、如月さんの静かで、しかし絶対的な制止の声が飛んだ。

 僕はビクッと肩を震わせ、伸ばしかけた指を空中で止めて振り返った。


「え? どうしてですか。せっかくここまで来たのに。この中に、あの雛人形の首を切り落とした犯人……藤堂正和がいるんですよね?」


「物理的な現在地としては、十中八九この檻の中に引き篭もっておるじゃろう。だが、わしの脳内に構築された事象の計算式には、まだ一つだけ、どうしても埋まらない『空白の変数』が存在しておるのじゃ」


 如月さんは灰色のヴィクトリアン・ドレスの裾をわずかに持ち上げ、腐葉土でぬかるんだ地面を避けるようにして、黒田さんが開けたリムジンのドアの横に立ち尽くしていた。彼女のアメジストの瞳は、目の前の朽ちた屋敷ではなく、自身の脳内に展開された精緻な三次元の記憶データを虚空に見つめている。


「空白の変数、ですか?」


「先ほどの催事場で、わしはあの『お内裏様の首の切断面』をルーペで観測した。中心の髄の部分に円形の空洞があり、それが首を落とすための構造的な細工であると説明したな。そして、その空洞の奥には、百年前の新聞記事が詰め込まれていた」


「はい。見事な推理でした。百年前の職人が、藤堂家の血の偽装を記録として残すために仕込んだ……」


「そこじゃ」


 如月さんは、僕の言葉を冷ややかに遮った。


「百年前の職人が新聞紙を詰め込んだのは事実じゃ。だが、わしがルーペ越しに観測したあの『切断面の空洞の(ふち)』には、明らかに百年前の技術ではない、極めて現代的な工作の痕跡が残されていたのじゃよ」


「現代の工作の痕跡……?」


 僕は目を丸くした。


「あのお内裏様の首は、完全に本体と一体化していたわけではない。もし一体化していれば、いくら空洞があろうと、あのように一太刀で滑らかに切断することは不可能じゃ。首と胴体は、もともと別々のパーツとして作られ、ごく微量の接着剤によって『仮止め』されていた。問題は、その接着剤の成分と、接合部を削り出した刃物の痕じゃ」


 如月さんは純白の手袋に包まれた指先で、虚空に微小な円を描くように動かした。


「木材の繊維の潰れ方から逆算すると、接合部を微調整するために使われたのは、百年前の(かんな)ではない。高速度鋼(ハイス)を用いた現代の特殊な彫刻刀じゃ。そして、わずかに残留していた接着剤は、伝統的な動物性の(にかわ)に、微量の現代的な合成樹脂が混ざったものだった。これらの物理的痕跡が意味するのはただ一つ」


 如月さんは僕を見据え、氷のように冷たい声で断言した。


「あのお内裏様は、百年間ただ飾られていたわけではない。ごく最近――ここ数年以内に、あの首が『落ちやすいように』、何者かの手によって物理的なメンテナンスを受けていたということじゃ。そして、藤堂正和のような素人に、あそこまで完璧な木工の調整ができるはずがない。つまり、この月見坂市のどこかに、藤堂家から依頼を受け、あの呪いの人形の構造を長年維持し続けてきた『専属の職人』が確実に存在しておるのじゃ」


 僕は息を呑んだ。

 あの凄惨なパニックの最中、数分間ルーペを覗き込んだだけで、彼女はそこまでの物理的情報を引き出していたというのか。


「サクタロウ、タブレットを出せ。藤堂家が代々贔屓(ひいき)にしていた指物師(さしものし)、あるいは人形修復の工房を検索するのじゃ。おそらく、この旧市街の周辺にひっそりと残っているはずじゃ」


「わ、わかりました」


 僕は慌ててマウンテンパーカーのポケットからタブレットを取り出し、再び月見坂市のデータベースへとアクセスした。『藤堂家』『御用達』『指物師』『人形修復』『旧市街』。いくつかの検索ワードを掛け合わせ、過去の郷土史の記録から古い商工名鑑のデータまでを徹底的に浚っていく。

 スマートシティの洗練された検索アルゴリズムであっても、デジタル化されていない古い情報は網の目をすり抜けてしまう。しかし、僕はガジェット好きの意地にかけて、月見坂市の地下に眠るアナログな記録のアーカイヴへと深く潜行していった。


「……ありました」


 数分後、僕は一つの小さなデータを発見し、画面を如月さんに向けた。


「ここから車で十分ほど走った旧市街の入り組んだ路地裏に、『東雲指物(しののめさしもの)』という古い工房があります。ホームページはおろか、電話帳にも載っていませんが、五十年ほど前の市の文化財修復記録に、藤堂家の名前と共にこの工房の先代の名前が記載されていました。現在は、息子の『東雲(しののめ)源造(げんぞう)』という老職人が一人で細々と続けているようです」


「見事じゃ、サクタロウ。下僕としての情報検索能力だけは、随分と最適化されてきたようじゃな」


 如月さんはふんと鼻を鳴らすと、躊躇なく踵を返し、再び漆黒のリムジンへと乗り込んだ。


「黒田。藤堂家の当主を追い詰める前に、まずはその『東雲指物』へ向かう。真のルーツを解体するには、その人形を形作ってきた職人の物理的な癖を先に観測せねばならぬ」


 再び車に乗り込み、鬱蒼とした坂道を下る。

 藤堂家の敷地を離れると、リムジンは旧市街のさらに深く、迷路のように入り組んだ狭い路地へと進入していった。新市街では絶対にあり得ない、車幅ギリギリの歪な道。両側にはトタン屋根の古い家屋や、シャッターの閉まったままの商店がひしめき合っている。スマートシティのインフラから完全に見捨てられたこの地域は、まるで時間が昭和の時代で凍りついてしまったかのような錯覚を覚えさせた。

 やがて、車がすれ違うこともできないような細い路地のどん詰まりで、リムジンは静かに停車した。


「この先は車両の進入が不可能です。お待ち申し上げております」


 黒田さんの言葉に頷き、僕と如月さんは車を降りた。

 目の前にあったのは、黒ずんだ木造の古い平屋だった。傾いた引き戸の上には、辛うじて『東雲指物』と彫られた古びた木の看板が掲げられている。

 周囲の空気は、先ほどまでの藤堂家周辺の腐葉土の匂いとは明らかに異なっていた。

 濃厚な、そしてひどく懐かしいような、それでいて鼻の奥をツンと突く独特の匂い。

 木屑の乾いた匂いと、動物の骨や皮を煮詰めて作る天然の接着剤――(にかわ)の匂い。それに、古い(うるし)と刃物油の匂いが混ざり合い、この空間だけが周囲から完全に切り取られた『職人の領域』であることを主張していた。


「……行くぞ」


 如月さんは、そのアナログの極みのような空間の空気を肺に吸い込むと、灰色のドレスの裾を揺らし、遠慮のかけらもなく傾いた引き戸に手をかけた。

 ガラガラ、という重く鈍い音を立てて、戸が開く。


「ごめんください」


 僕が背後から声をかけるが、返事はない。

 薄暗い工房の中は、外観から想像するよりもはるかに整然としていた。壁一面には、大小様々な(かんな)(のみ)(のこぎり)といった手道具が、まるで手術室のメスのように完璧な秩序をもって壁に掛けられている。床には削り出されたばかりの真新しい桐の鉋屑(かんなくず)が、薄いリボンのように散らばっており、土間の隅では、小さな七輪の上に置かれた鉄鍋で、琥珀色の膠が静かに湯気を立てて煮詰まっていた。

 その土間の中央。

 巨大な木の作業台に向かい、背中を丸めて座っている一人の老人がいた。

 擦り切れた作務衣を着たその小さな背中は、僕たちの来訪に気づいていないのか、あるいは意図的に無視しているのか、一心不乱に手元の木片に紙やすりをかけ続けていた。シュッ、シュッという、木材の表面を均していく規則的な摩擦音だけが、静寂の工房に響いている。


「東雲源造じゃな」


 如月さんの透き通るような冷ややかな声が、木を削る摩擦音を完全に切り裂いた。

 老人の手が、ピタリと止まる。


「……ここは、一見さんのお客はお断りしとります。表に看板を出していないのは、そういうことですよ。お引き取りを」


 老職人――東雲源造は、こちらを振り返ることなく、しゃがれた声で短く答えた。その声には、部外者を自身の領域から徹底的に排除しようとする、職人特有の頑固さと警戒心が滲んでいた。

 しかし、如月瑠璃という特異点にとって、そのような社会的な拒絶など、自らの前進を阻む物理的障害にはなり得ない。

 彼女は土間の土埃を気にする素振りも見せず、カツン、カツンとヒールの音を響かせながら、老職人の背後、わずか一メートルの距離まで無遠慮に歩み寄った。


「一見の客ではない。わしは、お主の『仕事』のルーツを観測しに来ただけじゃ」


「……なんだと?」


 源造が怪訝そうに振り返る。その顔には、深い皺が網の目のように刻まれ、長年の木屑と漆の粉が染み付いたような浅黒い肌をしていた。しかし、その双眸だけは、鋭い刃物のようにギラギラと光っている。

 だが、振り返った彼の目に飛び込んできたのは、スマートシティの警察でも、無礼な若者でもなく、時代錯誤な灰色のヴィクトリアン・ドレスに身を包んだ、人間離れした美しさを持つ少女だった。源造は一瞬、本物のアンティークドールが動き出したのかと錯覚したように、目を見開いて硬直した。


「今朝、百貨店『聖羅』の催事場で、藤堂家のお内裏様の首が、見事に切り落とされた」


 如月さんは、挨拶も前置きも一切省き、最も鋭利な事実だけを老人の喉元に突きつけた。

 ガタンッ!

 源造の座っていた丸椅子が、激しい音を立てて後ろに倒れた。

 彼の手から紙やすりが滑り落ち、床に散らばった鉋屑の中に埋もれる。


「なっ……なん、だと……?」


「わしはその切断面を、この目で直接観測した」


 如月さんは純白の手袋を嵌めた手をゆっくりと持ち上げ、自身の瞳の横に添えた。


「見事な仕事じゃった。首の軸の中心に空洞を設け、刃が通りやすいように構造的欠陥を意図的に作り出している。そして、首と胴体を繋ぐ接合部には、(うさぎ)の皮から抽出した兎膠(うさぎにかわ)に、ごく微量の現代の合成樹脂を混ぜ合わせた特殊な接着剤を使用し、『日常の衝撃には耐え得るが、一方向からの強い圧力には脆く崩れる』という、完璧な仮止めを施しておった」


 源造の顔から、急速に血の気が引いていくのがわかった。

 彼の節くれだった太い指先が、空中で微かに、しかし確実に震え始めている。


「お、お前さん……一体、何者だ……」


「お主は、あの人形がいつか『首を切り落とされること』を前提として、物理的なメンテナンスを長年施し続けてきた。お主の刃物の入れ方、鉋の掛け方の癖が、あの切断面の白木のささくれに明確な物理的痕跡として残されておったのじゃ。ごまかしは利かぬぞ、東雲源造。お主は、藤堂家から依頼され、あの人形の『呪いの機能』を維持し続けてきた共犯者じゃな」


 如月さんの言葉は、一切の感情を交えない、純粋な論理の弾丸だった。

 木を削り、形を作ることに生涯を捧げてきた職人にとって、自分の残した『刃の痕跡』を完璧に読み解かれるということは、己の魂の内部まで裸にされることと同義だ。源造は、目の前に立つ少女が、ただの令嬢などではなく、あらゆる物質の嘘を見破る『特異な観測者』であることを本能で理解し、絶望的な表情を浮かべた。


「……共犯者。ふふ、共犯者か。確かに、そうかもしれねえな」


 源造は震える手で、自身の作業着の膝を強く握りしめた。


「あんたの言う通りだ、お嬢さん。俺は……いや、俺の親父の代からずっと、あの藤堂家の『お内裏様』の首を、落ちやすいように細工し続けてきた。だがな……」


 源造は、作業台の上に置かれた、まだ顔の描かれていない真っ白な木彫りの頭部へと視線を落とした。


「あの首が切り落とされたのは、何も今日が初めてじゃねえんだよ」


 その言葉の意味を理解するのに、僕は数秒の時間を要した。


「初めてじゃないって……どういうことですか?」


 僕が思わず尋ねると、源造は深く、絞り出すようなため息をついた。


「あのお内裏様はな、藤堂の血脈を守るための『身代わり』だ。だが、身代わりってのは、一度呪いを受け止めたら、それで終わりじゃねえんだよ。藤堂という家が続く限り、呪いは連鎖していく。だから……あのお内裏様は、代々、藤堂の当主が死ぬたびに、首を付け替えられてきたんだ」


 工房の空気が、さらに一段階重く、冷たく沈み込んだ。

 僕は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


「付け替えられてきた……? じゃあ、あの百貨店に飾られていたお内裏様の首は、百年前のオリジナルのものではなかったってことですか?」


「ああ、そうだ。着物や胴体は百年前のものだが、首から上は、俺の親父が、そして数年前には俺自身が、新しく彫り直して据え付けたものだ」


 源造は震える指先で、七輪の上で煮詰まっている膠の鍋を指差した。


「藤堂の当主が寿命であれ病気であれ、息を引き取ったその夜。藤堂家の人間は、秘密裏にあの人形の首を切り落とす。当主の死という『呪い』を、人形が身代わりとなって引き受けたという儀式を完了させるためにな。そして、首を失った人形は、夜明け前に俺の工房へと運び込まれてくる」


 老職人の目は、過去の忌まわしい記憶を見つめるように虚ろだった。


「俺たちは、すでに用意しておいた『新しい首』を、次にまたすぐ切り落とせるように、わずかな膠と特殊な細工で仮止めする。そうして、何事もなかったかのように、新しい首を持ったお内裏様が、次の当主の元へと返されていく。それが、俺たち東雲の指物師が、三代にわたって藤堂家から請け負ってきた『裏の仕事』だ」


 なんて、恐ろしい執着だろう。

 藤堂家の人々は、自分たちが『偽物の血』であるという事実を隠蔽するためだけに、百年間もの間、当主が死ぬたびに人形の首を切り落とし、新しい首にすげ替えるという異常な儀式を繰り返してきたのだ。そして、この東雲という職人の家系は、その血の嘘を物理的に隠蔽するための『替えの首』を作り続けるという、呪われた労働を強いられてきた。


「あんたら、モノには魂が宿るって言葉を信じるかい?」


 源造が、ぽつりと呟いた。


「俺は職人だ。木には命があり、形を与えられればそこに念が宿ると信じて仕事をしてきた。だが……あのお内裏様だけは違う。あれは、人間の恐ろしい執着と、血の嘘を守るためだけの『呪いの器』だ。俺は、あの人形に新しい首を据え付けたときに、自分が恐ろしい化け物に餌を与えているような、そんなおぞましい感覚に苛まれてきたんだ……」


 源造の目には、職人としての誇りではなく、モノに対する深い畏怖と、それを生み出してしまった後悔の色が濃く滲んでいた。彼は両手で顔を覆い、しゃくり上げるように肩を震わせた。

 彼のその姿は、藤堂家の血脈という『檻』に巻き込まれ、共に百年もの間、罪悪感に苦しみ続けてきた被害者の悲鳴そのものだった。僕は、かける言葉を見つけられず、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。


「……なるほど。物理的な構造の理由は、これで完全に証明された」


 だが、僕たちの間に沈殿するその重苦しい情動の空気を、如月さんの透き通るような冷ややかな声が、容赦なく、そして完璧に切断した。


「当主が死ぬたびに首をすげ替えるという物理的プロセス。それを可能にするための空洞と、特殊な接着剤の成分。お主の証言は、わしが算出した切断面の論理的変数と、一ミリの狂いもなく合致した」


 如月さんは、震える源造に同情の眼差しを向けることも、慰めの言葉をかけることも一切なかった。彼女の顔にあるのは、難解な数学の証明問題の最後のピースがピタリとはまった時の、冷徹な知的な満足感だけだ。


「待ってください、如月さん」


 僕はたまらず口を挟んだ。


「源造さんの話によれば、人形の首が落とされるのは『当主が死んだ時』の儀式のはずです。でも、今の当主である藤堂正和はまだ生きています。それなのに、なぜ昨夜、百貨店という公の場で、わざわざあんな目立つ形で首を切り落としたりしたんですか?」


「愚鈍な問いじゃな、サクタロウ」


 如月さんはアメジストの瞳を僕に向け、ふんと鼻を鳴らした。


「簡単なことじゃ。過去の儀式は『当主の死の身代わり』として秘密裏に行われていた。だが、昨夜の犯行は意味合いが全く違う。犯人は、今日から始まる催事場で、あの人形が専門家の詳細な鑑定の目に晒されることを恐れたのじゃ。人形の内部にある『血の嘘のルーツ』が公になれば、藤堂家は完全に終わる。だからこそ、儀式を装って『首の切断面』を物理的に破壊し、猟奇的事件の証拠品へと貶めることで、内部の精密な調査を不可能にしようとしたのじゃよ」


「それじゃあ、やっぱり犯人は……今の当主である、藤堂正和本人……」


「そうじゃ。彼は、先祖から受け継いだ身代わりの儀式を、己の保身のための『物理的隠蔽工作』として利用したに過ぎぬ」


 如月さんは再び源造へと向き直った。


「東雲源造。お主が百年間抱え込んできた職人としての呪いとやらは、これで終わりじゃ。あの人形の空洞の中に隠されていた『新聞紙』は、わしがすでに物理的な証拠として白日の下に引きずり出した。もう、お主が新しい首を彫る必要はない」


 それは、源造に対する『救済』の言葉のように聞こえたかもしれない。

 だが、僕は知っている。如月さんは、彼を救おうとしてそう言ったわけではない。ただ単に『対象の事象が完全に解体され、機能が停止した』という物理的な事実を伝えたに過ぎないのだ。彼がこの先、罪悪感から解放されようがされまいが、彼女にとっては全く興味のない事象の副産物でしかない。


「さあ、行くぞサクタロウ。職人のルーツは観測し終えた。残るは、あのお内裏様の首を断ち切った『刃物のルーツ』の確認と、藤堂正和という男が己の衣服に残したであろう、不可逆的な物理的痕跡の回収のみじゃ」


 如月さんは、背中を丸めて震え続ける老職人に二度と一瞥もくれることなく、灰色のドレスを翻して工房の引き戸へと向かった。

 僕は、作業台の上にポツンと残された、まだ顔のない真っ白な木彫りの頭部を一度だけ振り返ってから、深く一礼し、孤高の天才令嬢の背中を追って外の路地へと飛び出した。


 膠の匂いが染み付いた工房を後にし、僕たちは再び漆黒のリムジンへと乗り込む。

 次に向かうのは、いよいよ真の犯人が引き篭もる、あの崩れかけた巨大な檻――藤堂家本邸だ。



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