第1話『断絶』 ~section4:助手の困惑と、血筋の影~
明治初期のゴシップ紙という、百年間隠蔽され続けてきた『致命的なルーツ』が純白の手袋によって暴かれた瞬間、催事場を支配していたオカルトめいた恐怖と無秩序な狂騒は、まったく別の熱量へと変質した。
水を打ったような数秒の静寂の後、フロアを震わせたのは、圧倒的な論理を前にした群衆の畏怖と、称賛のどよめきだった。
「す、素晴らしい……! 瑠璃様、なんという神業……!」
結城支配人は、顔を覆っていた絶望の汗を拭うことも忘れ、両手を震わせながら如月さんに拝むように頭を下げた。
「あの紙切れ一枚で、百年前の細工から昨夜の犯人の動機まで、すべてを物理的に証明なさるとは……! これで当百貨店の過失ではないことが証明されます。なんとお礼を申し上げればよいか……!」
規制線を張ろうとしていた警察官たちも、完全に呆然と立ち尽くしていた。彼らが頼りとするスマートシティの防犯カメラ映像や、デジタルな重量センサーの記録が一切役立たない完全な密室空間。そこで起きた猟奇的な事象を、灰色のドレスを着た少女が、古い懐中時計と銀のルーペ、そして一本のピンセットだけで、ものの数分で解体してしまったのだ。
「まさか……本当にあんな空洞の中に、百年前の新聞が……」
「鑑識を呼ぶまでもないじゃないか。あの令嬢の眼は、電子顕微鏡か何かなのか……?」
警官たちが信じられないものを見る目で囁き合う。
そして、その空気を最も敏感に察知したのは、先ほどまで『藤堂家の呪い』だの『SNSでバズる』だのと無責任に騒いでいた野次馬たちだった。彼らの興味の矛先は、もはや首のない不気味な人形から、それを完璧な論理で切り伏せた『圧倒的に美しく、ミステリアスな天才令嬢』へと完全にシフトしていた。
「おい、あのゴスロリっぽい子、やばくね!? 天才じゃん!」
「しかも超絶美少女……! なあ、あの子撮ろうぜ。絶対バズる!」
若者たちが、スマートフォンのレンズを一斉に如月さんへと向け直した。マダムたちも「如月コンツェルンのお嬢様ですって」「なんて理知的で恐ろしい方なのかしら」と、扇子の陰から熱を帯びた視線を送っている。
カシャッ、というシャッター音が鳴った瞬間、僕は咄嗟に如月さんの前へと飛び出した。
「ちょ、ちょっと! 一般の方の撮影は禁止です! プライバシーの侵害ですよ!」
僕は両手を広げ、彼らのスマートフォンの射線を必死に遮った。如月さんは他者の視線など路傍の石ころ程度にしか思っていないだろうが、助手としては、彼女の姿が不用意にデジタルデータとしてネットの海に放流されるのは防がなければならない。
「なんだよ、マネージャーか? どけよ、お前撮ってもバズんねえんだよ!」
「うるさいな、とにかく撮影は……うわっ!」
ピカッ、と強烈なフラッシュが焚かれた。僕は思わず目を細める。僕のマウンテンパーカーの隙間から覗く、『魚魚ラブ』のセンター・箱崎彩香ちゃんのデフォルメされた深海魚Tシャツが、無情にも高画質で記録されてしまったかもしれない。
「もう、警備員さん! こっち止めてください!」
僕がインカムを押さえて呆然としている警備員たちに声をかけ、ようやく彼らが若者たちを制止に入った。
「ふう……危ないところでしたね、如月さ……」
僕が安堵の息をついて後ろを振り返った、その時だった。
ポーン、という上品な電子音と共に、フロアの端にあるエレベーターの真鍮製の扉が、静かに閉まりかけているところだった。
そして、その扉の向こう、少しだけ開いた隙間から見えたのは。
灰色のヴィクトリアン・ドレスの裾を優雅に翻し、僕や群衆になど一瞥もくれることなく、一人でさっさと下降を始めようとしている、孤高の天才令嬢の冷ややかなアメジストの瞳だった。
「えっ」
僕が間の抜けた声を出した瞬間、扉は無情にも完全に閉ざされ、下向きの矢印が点灯した。
「……嘘でしょ!?」
事象の解体という目的を果たした彼女にとって、その後の支配人からの感謝も、警察の調書作成も、群衆からの称賛も、すべては自身の論理回路を無駄に消費するだけの『不要なノイズ』でしかないのだ。彼女は僕が盾になっている隙に、一秒の無駄もなく次の行動へと移っていたのである。
「ちょ、待ってください如月さん! 下僕を置いていかないで!」
僕はエレベーターの下降ランプを見た後、隣にある非常階段の重い扉を蹴り開けた。
ここは八階だ。マウンテンパーカーを翻し、機能性重視のカーゴパンツの恩恵を最大限に活かして、僕は大理石の階段を一段飛ばしで転がり下りる羽目になった。スマートシティの洗練された百貨店に、僕の乱れた足音と悲鳴のような息遣いが無様に響き渡る。
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「……はぁっ、はぁっ、如月、さん……!」
一階のエントランス前の車寄せに転がり出た時、僕は太腿の筋肉が燃えるように熱を放ち、肺が酸素を求めて悲鳴を上げているのを感じていた。
「遅いぞ、サクタロウ。階段の段数と重力加速度、そしてお主の筋力を計算に入れれば、あと十二秒は早く到着できたはずじゃ」
漆黒のリムジンの後部座席で、すでに完璧な姿勢で寛いでいた如月さんが、懐中時計の蓋をパチンと閉じながら冷たく言い放った。
「無茶、言わないで、ください……。置いていくなんて、ひどいですよ……」
「黒田、目的地が確定した。ナビゲーションの座標をセットせよ。向かうのは新市街の外縁、第三地区と旧市街の境界線上に位置する、旧・藤堂家本邸じゃ」
「畏まりました」
僕の抗議を完全に無視し、如月さんが指示を出すと、運転席に座る屈強な黒田さんが短く応じた。僕が這うようにして対面のシートに腰を下ろすと同時に、分厚い防音ガラスと装甲板に守られたドアが静かに閉ざされた。
外界の環境音が完全に遮断され、車内は絶対的な静寂に包まれる。最高級の革張りシートが僕の沈み込む体重を優しく受け止めた。黒田さんが静かにアクセルを踏み込むと、リムジンは微かなモーター音だけを響かせ、大理石の車寄せから滑るように新市街のメインストリートへと合流していった。
息を整えた僕は、マウンテンパーカーのポケットから、薄型のタブレット端末を取り出した。指紋と虹彩のデュアル認証でロックを解除し、月見坂市の郷土史データベースとニュースアーカイブの統合検索ツールを起動する。
「如月さん。本気で、今の藤堂家の当主のところへ行くつもりですか」
僕は仮想キーボードに『藤堂家』『月見坂市』『家系』という検索ワードを打ち込みながら尋ねた。
「愚鈍な確認じゃな。先ほどの推理で述べた通りじゃ。あの首のない雛人形の空洞の中に、何者かが百年前の新聞記事を『奥へと押し込んだ』という物理的な痕跡があった。それはすなわち、犯人がその新聞記事の存在、つまり『藤堂家の血脈の嘘』を事前に知っていたという証明じゃ。外部の愉快犯が知り得るはずがない」
如月さんは、窓の外を流れるスマートシティの無機質な景観に視線を向けたまま、氷のように冷たい声で答える。
「であれば、ルーツの終着点は自ずと確定する。あの人形の首を断ち切り、己の血の偽装を永遠に闇に葬ろうとしたのは、藤堂家の内部の人間……それも、その事実が公になれば最も社会的・物理的な損失を被る立場の人間じゃ」
「つまり、今の藤堂家を継いでいる人間、ということですね」
僕はタブレットの画面に表示された検索結果のリストに目を落とした。
月見坂市のデータベースに記録されている藤堂家の歴史は、まさに栄枯盛衰を体現するものだった。明治から昭和の初期にかけて、藤堂家はこの地域の広大な土地を所有する大地主であり、絶対的な権力を持っていた。しかし、時代の変遷とともにその力は衰退し、特にここ数十年の月見坂市の『スマートシティ化』という急激な都市再開発の波に完全に乗り遅れた。
如月コンツェルンをはじめとする新興企業群が、土地を物理的な資産としてではなく情報インフラの基盤として再定義していく中、古い血筋と過去の栄光にしがみついた藤堂家は、次々と資産を手放すことを余儀なくされた。
「……出ました。藤堂家の現在の当主は、『藤堂正和』という人物です。年齢は六十五歳。かつては市議会議員も務めていたようですが、落選が続き、現在は公的な役職には就いていません。所有していた新市街のビルや土地も大半が売却され、残っているのは、これから向かう外縁部の古い本邸の敷地だけのようです」
僕は画面をスクロールさせながら、藤堂正和の顔写真を確認した。神経質そうに釣り上がった眉、深く刻まれた眉間の皺、そして他者を見下すような傲慢さが染み付いた薄い唇。かつての権力者の面影を残しながらも、どこか焦燥感に駆られているような、ひどくアンバランスな顔立ちだった。
「なるほど。没落しつつある旧家の当主、か」
如月さんは興味なさそうに鼻を鳴らした。
「だが、どれほど資産が目減りしようとも、『藤堂』という名前が持つ歴史的ブランドと、一部の特権階級の間に残るコネクションは、彼にとって手放すことのできない最後の命綱じゃろう。もし、自分が藤堂の血を引いていない『偽物』であるというルーツが白日の下に晒されれば、その命綱すらも断ち切られ、彼は社会的のみならず、物理的にも完全に崩壊する」
「でも、血の繋がりなんて。今の時代、そこまで絶対的なものなんでしょうか」
僕はタブレットから顔を上げ、如月さんの完璧な横顔を見つめた。
「百年前の先祖がすり替えられていたとして、今の当主である藤堂正和自身が何か罪を犯したわけじゃない。DNAの配列が違うというだけで、築き上げてきたものすべてが崩れるなんて」
僕の率直な疑問に対し、如月さんはゆっくりとこちらへ顔を向けた。アメジストの瞳が、僕の思考の形を正確にトレースするように光る。
「血脈とは、ただの生物学的なDNAの連続性に過ぎぬ。タンパク質と塩基配列の物理的なコピー作業じゃ。しかし、人間という不完全な生き物は、その目に見えない微小な配列に対して、『権威』『伝統』『正統性』といった無数の無価値な概念を紐付けし、巨大な幻想の建築物を造り上げる。それが『家』であり、『血筋』じゃ」
彼女の視線が、僕の持つタブレットの画面へと注がれる。
「生物学的な事実がどうであれ、彼らが生きている社会というシステムの中では、『本物の血を引いている』という前提条件こそが、彼らの存在を許容するための物理的なパスポートとして機能している。百年間、彼らはその『血脈という名の檻』の中で、周囲からの重圧と、己の内部にある疑念という摩擦熱に耐えながら生きてきた。血脈とは、彼らを守る城であると同時に、彼らを内側から縛り付ける冷酷な物理的拘束具なんじゃよ」
血脈という名の、檻。
その言葉の響きに、僕は思わず小さく息を吐いた。
如月さんの言う通りだ。藤堂正和にとって、雛人形の首を切り落とすという行為は、単なる証拠隠滅ではない。それは、自分を縛り付けてきた百年前の呪縛、偽物の血というルーツを、物理的な暴力によって強制的に『断ち切る』ための、彼なりの悲痛な自己防衛の儀式だったのだろう。
そう考えると、あの無残に切り落とされたお内裏様の首の断面が、ただの破壊の痕跡ではなく、一人の人間の精神が限界を超えて破裂した、悲鳴の形そのもののように思えてきた。彼もまた、百年前の先祖が犯した嘘の被害者なのだ。ずっと自分が偽物かもしれないという恐怖に怯え、ついに耐えきれなくなって凶行に走った。その感情の重さを想像すると、胸の奥がチクりと痛む。彼の絶望が僕の心に流れ込んでくるようだった。
「……だとしたら、なんだかやりきれないですね」
僕はポツリと呟いた。
「僕たちがそこへ行って、彼の嘘を完全に暴いてしまえば……彼は、すべてを失うことになります」
犯した罪は償わなければならない。だが、彼の抱えていた苦悩を思うと、単純な正義感だけで彼を断罪することに、僕は少なからず抵抗を感じていた。
しかし。
僕の前に座るこの孤高の天才令嬢は、僕のそんな感傷を、微風ほどにも気に留めていなかった。
「やりきれない? お主はまた、無意味な情動のノイズに計算式を狂わされておるな、サクタロウ」
如月さんは、灰色のシルクのドレスの膝の上で、純白の手袋に包まれた両手を静かに組んだ。その声には、怒りも、憐憫も、一切の温度が含まれていない。
「わしがいつ、藤堂正和という人間に『救済』や『裁き』を与えに行くと言った? わしは警察でもなければ、迷える羊を導く神父でもない。あの男が過去の因習に苦しんでいようが、血脈の檻に絶望していようが、すべてを失って破滅しようが、そんな人間の情動の結末など、わしにとっては事象のルーツを解明する上で生じる『単なる副産物』に過ぎぬ」
「……ええ、わかっていますよ」
僕は小さく、苦笑混じりのため息をついた。
以前の僕なら、彼女のあまりにも冷徹な言い草に反発を覚え、背筋に悪寒を走らせていたかもしれない。他者の痛みを何とも思わないその態度を、恐ろしいと感じていただろう。
だが、僕はもう、彼女の思考回路を嫌というほど理解してしまっている。
彼女は、他者の悲しみや絶望がどのようなメカニズムで発生するかを、誰よりも正確に解析している。藤堂正和の苦悩も、彼女の頭脳は完璧に理解しているはずだ。ただ、そこに一切の『共感』を持たないだけなのだ。
「あの完璧な切断面を生み出した、極めて特殊な『小太刀』。それがどのような物理的質量を持ち、どのような反りの角度で木材の繊維を断ち切ったのか。そして、犯人である彼が、その刃を振るった直後に、どのような『物理的な痕跡』を己の身体や衣服に残したのか。わしはただ、それをこの目で直接観測し、事象の計算式を最後まで完成させたいだけじゃ」
「本当に、如月さんはブレないですね」
僕はタブレットを持つ手に力を込めながら、呆れたように、けれどどこか納得したように呟いた。
彼女の純粋すぎる観察欲。それは時に残酷だが、同時に一切の嘘がない。感情というバイアスに振り回されない彼女の目だからこそ、たどり着ける真実がある。
僕は藤堂正和に同情する。他者の痛みに共感する僕自身のアイデンティティは、決して捨てられない。けれど同時に、『もし前提となる血のルーツが崩壊すれば、彼を取り巻く社会的構造はすべて瓦解する』という、如月さんと同じ物理的な論理思考で事象を俯瞰しようとしている自分にも気づいていた。
知らず知らずのうちに、僕の思考は彼女の持つ強力な重力に引っ張られ、影響を受け始めているらしい。それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。ただ、彼女の横顔を見つめていると、どんな複雑な謎も最後には一本の明確な線として繋がるのだという、不思議な安心感を覚えてしまうのだ。
「……景色が変わってきたな」
如月さんの呟きにハッとして、僕は窓の外へと視線を向けた。
いつの間にか、リムジンは新市街の中心部を抜け、都市の外縁部……旧市街との境界線へと差し掛かっていた。
先ほどまで窓の外に広がっていた、塵一つ落ちていない完璧なスマートシティの景観は、音もなく崩れ始めていた。
どこまでも平坦に舗装されていた環境適応型の道路には無数のひび割れが走り、その隙間から雑草が暴力的な生命力で顔を出している。等間隔で並んでいた自己診断機能付きのスマート街灯は、ここへ来ていくつかが機能不全に陥り、明滅を繰り返すか、完全に沈黙して黒い柱と化していた。
自動運転の電気自動車が規則正しく行き交う光景は消え失せ、代わりに、錆びついた旧式のガソリン車が路肩に放置されている。ガラス張りの洗練されたビル群は、巨大なコンクリートの残骸のような、塗装の剥がれ落ちた古びた雑居ビルやトタン屋根の工場へと姿を変えていた。
これが、月見坂市のもう一つの顔だ。
再開発という名の下に、すべての資源と情報インフラが新市街の中心部へと吸い上げられた結果、物理的な恩恵から切り離された『取り残された街』。スマートシティという巨大なシステムが、自身の最適化のために意図的に切り捨てた領域である。
リムジンの静かなモーター音が、ひび割れたアスファルトの凹凸を拾い、微かな振動として車内に伝わってくる。黒田さんが巧みなハンドル捌きで路面の窪みを避けていくが、それでも完全なフラットは保てない。
「環境ノイズの制御が完全に破綻しておるな。センサー網もまばらじゃ。この辺りは、システムによる監視よりも、人間の網膜による物理的な監視の方が有効に機能する領域じゃな」
如月さんは窓ガラスに顔を近づけ、外の歪んだ風景をアメジストの瞳でスキャンするように観察している。
やがて、リムジンは鬱蒼と茂る木々に囲まれた、緩やかな坂道へと差し掛かった。道の両側には、朽ち果てた大谷石の古い塀が延々と続いている。かつてはこの一帯すべてが、藤堂家の敷地だったのだろう。しかし現在では、その塀のあちこちが崩落し、ツタが血脈のように這い回り、修復される気配すらない。
坂を登り切った先、どん詰まりの場所に、巨大な鉄格子の門扉が現れた。
リムジンが静かに停車する。
僕たちは窓越しに、その目的地を見上げた。
黒く錆びつき、本来の装飾の意匠すら判別できなくなった巨大な門扉。その奥には、手入れのされていない無秩序な庭木がジャングルのように生い茂り、さらにその奥に、かつての栄華の残骸である和洋折衷の巨大な木造建築が、押し潰されそうな重苦しい影を落として座していた。
それはまさに、百年間という血の嘘の重さに耐えきれず、自らの重力で内部から崩壊しつつある『檻』の姿そのものだった。
「到着しました。藤堂家、本邸でございます」
黒田さんの静かな声が、車内に響く。
「行くぞ、サクタロウ」
如月さんは懐中時計を取り出し、一度だけチク、という音を確認してから、ドレスの裾を払って立ち上がった。
「この崩れかけた檻の奥底に、事象の最後のピースが隠されておる。わしの論理の刃で、すべてを解体してやろう」
彼女の冷徹な声と共に、黒田さんが後部座席のドアを開け放つ。
流れ込んできたのは、スマートシティの清浄な空気ではなく、カビと腐葉土、そして古い木材が発する、濃密な『過去の匂い』だった。




