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第13巻:如月令嬢は『無頭の雛を飾らない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『断絶』 ~section2:純白の手袋と、不協和音の秒針~

 如月さんの透き通るような、しかし絶対的な零度を持った宣告が、狂騒に陥る催事場の空気を一瞬だけ凍てつかせた。

 だが、その静寂は長くは続かなかった。スマートシティの洗練された住人たちは、自分たちが安全な透明ガラスの向こう側から歴史的遺物を鑑賞する優位な立場にあると信じていた。その前提が『無残に首を切り落とされた人形』という圧倒的な暴力の痕跡によって物理的に破壊されたことで、彼らの脳は一時的なエラーを起こし、次いでオカルト的な嫌悪と野次馬根性という、極めて現代的な情動を爆発させていた。


 僕はその無秩序なざわめきの中で、押し寄せる人波をやり過ごしながら、如月さんの背後へと回り込んだ。

 如月さんだけが、この狂騒の中心にあって絶対的な零度の空間を保っていた。彼女は灰色のヴィクトリアン・ドレスの裾をわずかに引きずりながら、防弾ガラスケースの真正面に立ち尽くしている。周囲の人間が発する気味悪さや好奇心という『情動』を、文字通り視界から完全に排除していた。


「そこ! 何をしている、現場から離れなさい!」


 フロアの奥から、数名の警察官が駆けつけてきた。月見坂市の治安維持を担う、ウェアラブル端末を組み込んだ最新の制服に身を包んだスマートシティ管轄部隊だ。通報からわずか数分での到着である。彼らは躊躇なく規制用のスマートテープを引き出し、スマートフォンを構える客たちをフロアの外へと押しやろうとする。

 先頭を走ってきた若い制服警官が、ケースの前に陣取る如月さんに向かって鋭い声を上げた。


「君、聞こえないのか。ここはすでに事件現場だ。一般人は速やかに……」


 警官の手が、如月さんの肩に触れようとした、まさにその瞬間だった。


「お待ちください! その方に無礼な振る舞いは……っ!」


 群衆を掻き分けて飛び出してきたのは、顔面を蒼白にさせた初老の男性だった。胸元のネームプレートには『聖羅 支配人・結城(ゆうき)』とある。

 結城支配人は、警官の前に身を呈して立ち塞がり、両手を広げた。


「その方は、如月コンツェルンのご令嬢、如月瑠璃様です! 当百貨店の最重要VIPであると同時に……あらゆる事象のルーツを物理的に解き明かす、天才的な鑑定眼を持ったお方なのです!」


 支配人の声は、絶望と懇願で震えていた。彼にとって、藤堂家の国宝級の人形が自らの管理下で破壊されたという事実は、百貨店の威信の完全なる失墜を意味する。スマートシティの最新鋭のセキュリティを突破された以上、警察の形式的な現場検証などに期待してはいられない。彼は一部の富裕層の間で密かに囁かれている『如月家の令嬢は、どんな不可解な謎でも物質の痕跡から完璧に解体してしまう』という噂を知っていたのだ。


「瑠璃様……どうか、どうかお助けください! このままでは当百貨店は終わりです。あなたのその素晴らしいお力で、この不可解な事件の真相を……」


 結城支配人は、ほとんど縋り付くような勢いで如月さんに頭を下げた。警察官は『如月』という名を聞いた瞬間、伸ばしかけた手を空中で硬直させ、明らかな動揺を見せた。月見坂市において、如月の名が持つ質量は時に法すらも凌駕する。


「……ふん」


 如月さんは振り返ることなく、短い鼻息と共に支配人の言葉を切り捨てた。


「わしはお主の保身や、この百貨店の名誉などという無価値な概念には一切の関心がない。わしが興味があるのは、この美しい切断面を残した『刃物のルーツ』と、この場に及んで己のシステムの欠陥に気づいていない貴様らの構造的な欠陥だけじゃ。わしの思考の邪魔をするでない」


 その言葉は、誰かを救済するためではなく、純粋な『知的好奇心』のみで事象を解体するという彼女の絶対的なスタンスの表明だった。


 如月さんはドレスの隠しポケットから、一つのアイテムをゆっくりと取り出した。

 鈍い銀色の輝きを放つ、分厚いアンティークの懐中時計。

 彼女はそれを右の手のひらに乗せると、親指で静かに蓋を弾き開けた。


 チク、タク、チク、タク。


 現代のデジタルデバイスからは決して発せられることのない、ゼンマイと歯車が物理的に噛み合うことで生じる、重厚で正確な機械音が空間に響く。


「なんだ、あの時計?」


「今の時代にわざわざゼンマイ式? 一体何をしてるの、あの子……」


「探偵ごっこのつもりかしら、場違いにも程があるわ」


 背後の野次馬やマダムたちから、戸惑いと好奇、そして微かな嘲笑の混じった囁きが漏れる。警察官たちも、彼女の突飛な行動に顔を見合わせ、踏み込むタイミングを完全に失っていた。

 だが、如月さんは周囲のノイズなど存在しないかのように目を閉じ、その不協和音のような秒針の刻みに、自身の脈拍と呼吸を完全に同期させていく。

『調律』だ。

 人間の脳は、他者の感情や環境のノイズによって常にバイアスをかけられている。結城支配人の絶望、警察官の戸惑い、群衆の好奇心。それらすべての『情動』は、事象のありのままの姿を観測する上では、視界を歪める不純物でしかない。如月さんは、この懐中時計の純粋な物理的駆動音をメトロノームとして用いることで、自身の精神から一切の情動と先入観を削ぎ落とし、世界を純粋な『質量、構造、運動』の集合体として再定義するのだ。

 十秒、二十秒。催事場という巨大な空間が、彼女の持つ絶対的な静寂の重力に呑み込まれていく。

 やがて、チク、という一際澄んだ音と共に、彼女はゆっくりとアメジストの瞳を開いた。

 その瞳からは人間らしい温度が完全に失われ、すべてを論理のメスで切り裂く、冷徹な鑑定士のそれへと変貌していた。


「サクタロウ、よく見るのじゃ」


 如月さんは懐中時計をしまい込むと、代わりに純白の綿手袋を取り出し、両手にゆっくりと嵌めていった。指の関節にシワ一つ残さない完璧な所作だ。


「このケースの構造を。防弾ガラスそのものには一切の破壊痕がない。電子ロックのシリンダーにも、物理的なこじ開けの痕跡はない。そして、警備記録によれば、昨夜の閉館時から今朝の十時三十分のアンベールまで、この展示スペースには何者も侵入していないことになっているはずじゃな?」


「はい」


 僕は如月さんの問いに頷いた。


「この百貨店のセキュリティは、月見坂市でもトップクラスだと聞いています。赤外線センサー、重量センサー、監視カメラ……物理的な侵入は不可能です」


「スマートシティの住人は、みな一様にデジタルデータを信仰しすぎる。システムの出力結果が『異常なし』であれば、目の前の現実のほうを疑うという悪癖じゃ。結城、お前たちは今朝の開店前、この藤堂家のお内裏様の『状態』をどうやって確認した?」


「ど、どうやってと申されましても……」


 結城支配人は額の汗をハンカチで拭いながら答えた。


「このケースの内部には、一グラムの変動も感知する高精度の重量センサーが設置されております。今朝の点検時、スタッフがタブレット端末で全ケースのセンサー値を確認しましたが、昨夜と一ミリグラムの狂いもなく『オールグリーン』でした。電子ロックの信号も正常。それに、このケースの調光ガラスはアンベールの時間まで不透明のままですから、目視での確認は……」


「行わなかった、というわけじゃな」


 如月さんの冷たい指摘に、支配人はハッとして言葉を詰まらせた。


「犯人は、お内裏様の首を『持ち去ってはいない』のじゃ。切断した首を、そのままケース内の緋色の毛氈の上に転がしておいた。それが何を意味するかわかるか? ケース内の『総重量』は、切断の前後で全く変化していないということじゃ。お前たちの盲信する重量センサーは、人形が破壊されたという事実を『質量の移動がない』という理由で異常なしと判定した。犯人はその構造を完全に理解し、利用したのじゃ」


 その解説を聞いた警察官たちが、信じられないものを見るような目でケースの台座を見つめた。最新鋭のシステムと、人間のデジタルへの過信。その二つが組み合わさった結果生み出された『完璧な死角』。

 それはつまり、犯行が行われたのは今朝の開店後ではなく、昨夜の閉館から今朝までの『誰もいなかった夜の時間帯』であることを意味していた。


 如月さんはそれ以上システムへの言及はせず、ドレスのポケットからもう一つの鑑定道具を取り出した。

 繊細な銀の装飾が施された、折りたたみ式のルーペ。

 彼女は防弾ガラスの表面に純白の手袋を添え、顔を極限まで近づけると、銀のルーペのレンズ越しに、お内裏様の首の『切断面』を凝視し始めた。ここからが、彼女の真骨頂であるミクロの物理的観察眼の領域だ。


「……見事なものじゃ」


 背後のざわめきを完全に遮断した彼女の口から、微かな感嘆の吐息が漏れた。それは凄惨な破壊現場には到底そぐわない、精巧な機械式時計の内部構造を愛でるような、純粋な響きを持っていた。


「サクタロウ、お前もレンズの軌道に合わせて視線を寄せるのじゃ」


 言われるがまま、僕は如月さんの横に並び、ガラス越しに転がった首の断面と、胴体側に残された断面を注視した。


「犯人は、糸鋸やカッター、あるいは一般的なサバイバルナイフのような現代の刃物を使ったのではない。それらを用いた場合、切断面には往復運動による『摩擦熱の焦げ』や、細かい木屑の無秩序な散乱が生じる。だが、この断面は違う。極めて一方向からの、圧倒的な圧力と鋭利さによって、一息に『断ち切られて』おる」


 僕の目にも、その異常性は明らかだった。古い桐材の断面は、ノコギリで挽いたようなザラザラとしたものではなく、まるで大根を包丁でスパンと切り落としたかのように、一部が滑らかに光を反射している。


「衣装の絹糸の『潰れ方』を見るのじゃ」


 如月さんの純白の指先が、ガラス越しに人形の襟元をなぞる。


「幾重にも重なった分厚い紫の絹を、刃が一切の引っ掛かりもなく通過している。布を『切る』というよりは、極限まで薄い質量で『押し潰して分断した』痕跡じゃ。そして、木材の中心部に到達した瞬間、わずかに刃が抵抗を受けた痕跡……白木のささくれが、左下から右上に向かって斜めに残っておる」


 彼女はルーペの角度を微調整し、さらに奥のミクロの世界へと潜っていく。


「……ビンゴじゃな。切断面の絹の繊維の隙間に、わずかに付着しているものがある」


「付着しているもの? 木屑ですか?」


「否。これは『微細な金属粉』じゃ」


 如月さんの断言に、僕は息を呑んだ。


「現代のステンレスや合金製のナイフでは、木や布を一度切った程度で刃こぼれや金属粉が落ちることはない。これが意味するのは、凶器が『極めて硬度が高いが、同時に粘り気と脆さを併せ持つ古い鋼』であるということじゃ。幾重にも折り返して鍛造された玉鋼(たまはがね)特有の、微細な炭素の剥離痕。つまり……」


 如月さんはルーペを折りたたみ、ゆっくりと顔を上げた。


「刃渡りは短いが、恐ろしく質量の詰まった鋼。片刃で、わずかな『反り』を持つ構造。これは日本刀……それも狭い室内で振るうための『小太刀(こだち)』の類いじゃ。それを、右利きの人間の膂力(りょりょく)のみで、上段から一気に押し切っておる」


 日本刀。

 その単語の響きが、スマートシティの最先端の百貨店という空間において、ひどく現実離れしたノイズとして響いた。警察官の一人が、たまらず口を挟む。


「待ってください。いくら名刀でも、数百年経った乾燥した太い木材を、一刀両断にできるものですか? まるで時代劇の達人じゃないか」


 その問いに、如月さんはアメジストの瞳を細め、フッと冷たく笑った。


「その通りじゃ。いくら業物(わざもの)であろうと、これほど分厚い首を人間の力だけで抵抗なく断ち切ることは物理的に極めて困難じゃ」


「じゃあ、どうやって……」


「簡単なことじゃ。このお内裏様は、最初から『首が落ちやすく』作られていたのじゃよ」


 如月さんの言葉が、催事場の空気をさらに一段階凍てつかせた。


「首の断面の中心部をルーペで拡大してみろ。古い木材の髄の部分に、円形の『空洞』の痕跡があるじゃろ。犯人はその空洞を利用して刃を滑らせたからこそ、一太刀で首を落とすことができたのじゃ。これは、展示用の美しい美術品などではない」


 如月さんはケースから離れ、結城支配人と警察官たちを冷酷に見下ろした。


「この人形は、作られた時から『首を断ち切られること』を前提とした構造を持っておる。これは子供の成長を祝う品ではない。藤堂という血族が、何らかの呪わしい理由をもって生み出した、実在する怨念の器……『身代わり』の装置に他ならぬ」


 彼女の宣言は、スマートシティの合理性を打ち砕き、隠されていた百年前の呪術的なルーツを現代の物理空間へと引きずり出した。



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